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へっつい考7:馬琴と薪 [暮らしの手帖]

kazaminenryouten1_1.jpg 次は『曲亭馬琴日記』第一巻より「薪」の記述を拾う。

<文政十年正月五日> 野田や又兵衛より薪差越候へ共(さしこしそうらえども=送ってよこしたけれども)、旧冬よりいたし方甚不宜(はなはだよろしからず)ニ付、返シ遣(つかわ)す。依之(これによって)、予、白川やへ罷越(まかりこし)、堅木若干可差越(さしこすべく=送らせるべく)旨、申付おく。其後、野田やより、勧解(和解の意)いひ訳ニ来ル。来客中ニ付、此旨承り置、後刻、告之。其後、予、白川やに罷越、薪注文申付。昼頃、堅木八足持来。今日わり人不来ニ付、八足ハわり候て、明日昼前迄二差越候様、申付遣ス。

 

 …野田屋又兵衛より薪が送られてきたが、昨年の薪も良くなかったので送り返した。白川屋に薪の注文をした。野田屋が言い訳にきたが、来客中だったのでその旨を聞いておいた。その後、白川屋が八束持って来た。薪割り人足がいないので、明日昼までにすべてを届けるように言ったと記してある。当時は薪割り人足がいたらしい。あたしも薪割り二十年のキャリア。江戸時代に戻れば薪割職人で食ってゆけそう。次にこんな記述をひろう。

 

<文政十年六月十一日> 清右衛門来ル。火地炉三百五十銅ニてかひ取よし。申之。しつくいつけさせ、上張候様申付。<文政十年六月十五日> 夕方、清右衛門方より、火地炉出来、人足ニもたせ来ル。…おぉ、馬琴さん火地炉を350銅(朱と同じ)で買ったらしい。「地炉」は地上または床に作った炉、囲炉裏か竈か。どんな物を拵えてもらったのだろうか。興味湧きます。

 

 何で読んだか、江戸には1200軒ほどの炭薪問屋があったそうな。今ではホームセンターでバーベキュー用の薪・炭を売っているが、どっこい日本橋浜町「明治座」前に戦前からの薪炭問屋「風見燃料店」が頑張っている。時にマスコミ登場で、昨年1125日の「東京新聞」にも5段記事で紹介されていた。同記事によると昭和9年に三ノ輪で創業。その後、現在地の隣に移転。戦災で現在地に移ったとか。終戦後は薪や炭は生活必需品。復興と共の大繁盛。ガスや灯油が安く出回って同業者は次々廃業。薪や炭を買うのはせんべえ屋、煮豆など。

1970年代に暖炉付き住宅が登場して、薪が少し売れ出した。そして今は都内に彼方此方に出来た石窯を置いたビザ屋出現で、一手に需要を担っているそうな。年商三億円のうち、薪は一億円とか。あたしも大島ロッジの薪がなくなった時などは、ここで買って宅急便で島に送ろうかとさえ思ってしまう。

  

 子規句「薪をわるいもうと一人冬籠」。芭蕉句「消炭に薪割る音がをのの奥」。おまけに拙句「薪作り巡る季節に想い馳せ」。それにしても、あの裏長屋の竃で薪を燃やすに、火事の怖さがヒシと伝わる。(続く)


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