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馬琴住居巡り(3)神田明神下同朋町 [新宿発ポタリング]

bakinkannda1_1.jpg 馬琴住居巡りは「深川の生誕地」から「九段下の元飯田町」、そして「神田明神下同朋町」(現:千代田区外神田三丁目)へ。馬琴は文政七年(1824)から天保七年(1836)までの十二年間をここで暮らした

 新宿から自転車で外堀通りを昌平橋へ。ここで左折して現・昌平小学校と芳林公園(写真左)の間を右折。公園柵前に「滝沢馬琴住居跡」の史跡看板あり。

西は神田明神。東は秋葉原・中央通り。史跡看板前から東を見れば「アキバ」に群れる若者たちが溢れんばかり。公園内には散策・買物疲れのオタク系青年らが座り込んでいるも、ここが「馬琴住居跡」とは興味もなく、気付きもせぬ。史跡看板にはこう書かれていた。

 

 …文政元年(1818)になると、息子宗伯が母と妹を連れて、当時、神田明神石坂下の同朋町東新道と呼ばれていた地に移転してきます。ここは西丸書院番士を勤めていた旗本橋本喜八郎の所有する五十坪の土地で、十六坪の家屋が建っており、そこで暮しました。

 補足する。馬琴は病弱ながら医を学ぶ息子に夢を賭けてい、息子「宗伯」の開業地として、また自らも隠居地のつもりで同家を文政元年(1818)に購入。文政三年に宗伯はめでたく松前志摩守の抱医師となって滝沢家は士族に復帰した。

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…文政七年。馬琴は元飯田町の家を婿養子に継がせ、馬琴もここに引っ越してきた。隣家を買収して八十坪の敷地に拡げ、書斎や庭園を設けた。

ここでの生活は『曲亭馬琴日記』(中央公論社2009年刊。一巻から四巻までが文政九年十一年~嘉永二年五月までの日記。第五巻が詳細索引)に詳しい。膨大ゆえまずは第一巻より「へっつい考」調べで薪・炭事情を調べ、また江戸の火事記録に注目した。

同日記を読む前に、同日記の小鳥飼育記録を軸に細川博昭著『大江戸飼い鳥草紙』、同じく高牧實著『馬琴一家の江戸暮らし』、森田誠吾著『江戸の明け暮れ』も読んでいて、それら引用元を改めて読んだことになる。

さて、同朋町の馬琴宅はいかなる造りだったか。ネット検索すれば丸山宏(教授?)の『滝沢馬琴の庭造りと家相』がヒット。「孫つぎ女」より取材して眞山青果作成の馬琴宅の見取り図が掲っていた。そこで今度は『眞山青果全集・第十七巻』をひもとく。同書には『随筆瀧澤馬琴』をメインに『馬琴とその下女』『滝澤馬琴住居考』『曲亭馬琴年譜』を収録。

長くなるので、それら内容は省略。天保6年、息子「宗伯」が病死。宗伯が大名抱医師となって滝沢家は士分復帰を果たしたが、これは一代限りゆえに馬琴家は再び町民。そんな折に御持筒組の四谷信濃町組屋敷住同心に御家人株を売りたい人がいると知る。百三十両也。七、八千冊の蔵書家・馬琴はそれらを売り、家を売り、書画会(即売)も開催して百三十両をどうにか工面した。


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