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十五夜も灼くる陽を借りなほ妖し [暮らしの手帖]

supermoon_1.jpg 九月も最後です。昨日、秋の蝉が悲しく数回啼いた。幾羽ものヒヨドリがやって来た。都会の僅かな緑で夏から秋への交代シーン。それにしても日本の夏は亜熱帯化した。熱中症の危険、熱帯系毒蜘蛛、デング熱媒体の蚊、予想外の自然災害多発。加えて犯罪の凶悪化、あたしは老人貧困破綻か。まさにサバイバルのこの頃です。

 パソコン「ピクチャー」に、まだ暑かった九月九日の満月写真が残っていた。当日は月の楕円軌道が地球に最も接近する満月「スーパームーン」。その前日が中秋の名月・十五夜だった。夜の「スーパームーン」は白く大きく輝いていたが、六時頃に昇り始めた月は、妙に赤く妖しかった。

 その満月写真に駄句を添え、パソコン内保存の夏の写真を削除して、気分も生活も秋モードに切り替える。月写真右下部に横切ったジェット機後部が写っていた。シャッターチャンスに遅いのは歳のせいだろうか。


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御入国お小荷駄曳いて伊勢参り [くずし字入門]

komonjyo8_1.jpg 左記古文書筆写の<解読文+(読み下し文)>棒組

乍恐奉願上候事(おそれながらねがいあげたてまつり候こと) 今度 御入国之節御供相勤候御小荷駄(おこにだ)右口附之者(くちつきのもの)四人、御着城之上、中三日休息仕(つかまつり)罷帰り候筈(まかりかえり候はず)被 仰渡(おおせわたされ)、有難仕合ニ奉存候、付而者(ついては)来ル八日爰元発足罷帰り可申筈(ここもとはつそくまかりかえりもうすべくはず)御座候処、御用済之儀ニ付、右口附之者共 勢州参宮仕(せいしゅうさんぐうつかまつり)、帰着之上人馬共罷帰り候様 仕度奉願候(つかまつりたくねがいたてまつり候)、就夫(それにつき)恐多キ願 品ニ御座候得共(しなにござそうらえども)、馬之儀者(は)口附之者共勢州ゟ(より)帰着迄、此表ニ(このおもてに)差置申度候間(さしおきもうすべく候あいだ)、休息中之御振合ヲ以(おふりあいヲもって)馬宿・飼料代等 被下置候仕度奉願上候(おきくだされ候つかまつりたくねがいあげたてまつり候)、以上

 ここは下世話は現代文訳で。~今度のお国入りで、御小荷駄(荷を運ぶ馬)の口取り(馬子)の者四名、お城に着いて、中三日のお休みをいただき帰るよう仰せつけられ有難き仕合せです。つきましては、来る八日にここを立つ筈でしたが、御用が終わったゆえ、せっかくですから伊勢神社を参拝したく、戻った上で人馬共に帰りたくお願い申し上げます。つきましては恐れ多き願いながら、伊勢神社から戻るまでの間、馬は休息の状態のお振り合い(その場の状況)をもって、馬宿・飼料代などはよろしくお願い申し上げます。まぁ、こんな意だろう。


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湾岸1)橋つらなりて台場まで [新宿発ポタリング]

katidokikaryu_1.jpg 秋分の日、爽やかな風に誘われて自転車を駆った。灼熱の夏は遠出ができなかったゆえ、二ヶ月ぶりのポタリング。日比谷~銀座から「勝鬨橋」を南下してお台場へ向かった。

 「勝鬨橋」から下流に架橋中の橋(写真上)があった。南詰めが未だ繋がっていない。同橋は新橋~虎ノ門の「新虎通り(マッカーサー通り)」から現・築地市場を突っ切って月島へ渡る。橋名は募集中で目下は名無橋。(追記:10月1日の新聞に「築地大橋」と命名されたと報じられていた。ここから朝潮運河に架かるのが「黎明大橋」。そして「豊洲大橋」へつながるらしい。以下の文もそのように訂正する)。「勝鬨橋」から晴海通りを南下して「黎明橋」を越え、8年前に開通の「晴海大橋」が現れた。下り車線側の歩道から下流眼前に架橋中の「豊洲大橋」があった。「新虎通り」~「築地大橋」~「黎明大橋」~「豊洲大橋」と繋がるらしい。「豊洲大橋」は何年も前に架橋済だが、築地市場や「築地大橋」辺りの道路が未完成ゆえに開通しないまま。

tukijikoujicyu_1.jpg 「晴海大橋」を渡って右折すると、「豊洲大橋」南詰めに出る。ここは広大な工事現場で、築地市場改め「豊洲市場」になるらしい。写真の工事現場奥のブルーの橋がいま渡ってきた「晴海大橋」で、手前の工事現場に至る橋が「豊洲大橋」。ここからお台場方面に向かえば、この3月に開通したばかりの「富士見橋」。ここからは東京湾横断のレインボーブリッジ全貌が見える。天候次第でその向こうに富士山も見えるらしい。絶景也。「レインボーブリッジ」の向こう側のループ下も妙なる港風景だったが、こちら側はリゾート風景色で、同橋の両詰を見たことになる。

daiba_1.jpg 「富士見橋」を渡れば、目の前がお台場海浜公園。かつて新宿西口の高層ビル群が新しい街の代表だったが、オリンピックに向けて豊洲~お台場辺り、東京湾埋立地域が新しい街を代表することになるのだろう。しかし見渡せば同一帯は海抜数㍍。「3.11東日本大震災(大津波)」後に、各地に海抜表示が整備された。ウチから数分の「東新宿駅」にも海抜表示があり、大島のロッジ前には「海抜5㍍」の大看板が立った。この一帯には「海抜数㍍」の看板がズラッと立つのだろうか。

 ビル群は充分な耐震・液状化対策がなされようが、東京湾に津波が襲えば一瞬に海ん中になる。新しい街を見渡しながら、数㍍の津波で街が水没する光景が浮かんできた。なんだかちょっと脆い海浜副都心です。久しぶりの自転車遠出で、帰路の日比谷から山の手への坂道で太もも筋肉がビリビリと痛くなった。


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街んなか島の青唐のたわわ也 [週末大島暮し]

simatougarasi1_1.jpg 大島がすっかり遠くなってしまった。昨年は土石流災害後に行った一度のみ。その時に「島唐辛子の乾いた実」を購った。それを東京でほぐし蒔き、六つの苗鉢を作った。四つを近所に配り、残ったニ鉢が一カ月前に初収穫で、そして今再び写真の通りたわわに実っている。

 この島の青唐をひとつ刻んで醤油に入れ、刺身をいただく。飛び上るほどに辛い。その辛さは独特で、鼻に抜ける小気味良さとでも表現しようか。青唐の醤油漬けも作る。

 島唐辛子は40㎝ほどの丈だが、通説通り内地で育てると大きく伸びる。家のも1㍍も丈が伸び、辛味も少々弱い。潮風に当たらぬせいだろうか。(追記:島の方に伺ったら、それはきっと手のかけ過ぎ。肥料をやったり、毎日水やりをしたりがいけない。手をかけずに苛めてやると辛くなるとか。大事に育て過ぎて辛さが抜けたらしい)

 昨年は江戸は「内藤新宿」で栽培されていた「内藤唐辛子」を種から育て、今年は「島唐辛子」です。特別に唐辛子好きではないが、まぁ、実のなるのは楽しい。猫の額の7Fベランダだが、かかぁは青唐の小さな実と、昨日買った「オジギソウ」の触れれば茎も葉も縮まる様子を交互に見て「可愛い・可愛い」と言っている。

 島唐辛子の苗を分けた近所でも、たくさんの実がなったそうで「大島に行ってみたいわぁ」などと言ってくれる。十月が来れば災害から一年になる。伊豆大島は元気を取り戻しているだろうか。


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御払不足御渡下置(お金かえしてぇ) [くずし字入門]

komonjyo7_1.jpg左記古文書筆写の<解読文+(読み下し文)棒組 前回の続き

 奉願上(ねがいあげたてまつり)候得共(そうらえども)御下ケ金(おさげきん)無之(これなく)、御役所様ゟ(より)御談(ごだん)ニハ私ゟ(より)芝山様江可掛合旨(かけあうべくむね)被 仰聞候間(おおせきかされ候あいだ)、無余義(よぎなく)奉承伏(しょうふくたてまつり)、御同人様江 罷越候処(まかりこし候ところ)、御同人様仰聞ニハ(おおせきくには)御払金之事故(ことゆえ)、兎も角も伊藤様江 可願旨(ねがうべくむね)被 仰聞(おおせきかされ)、彼是(かれこれ)御双方様突掛物ニ相成(つっかけものにあいなり)、事柄(ことがら)聊不相分(いささかもあいわからず)、連々(れんれん)御引延ニ相成(おひきのばしにあいなり)、只々私方計り(ばかり)無謂事(いわれなきこと)ニて極実難渋仕候(ごくじつなんじゅうつかまつり候)、乍恐(おそれながら)元々ハ御同役様方御咄し合(おはなしあい)に而(て)御取引被成候義ニ(なされ候ぎに)御座候間(ござそうろうあいだ)、何様二も早々御調之上、早速私江御払不足御渡被下置様願上候(おわたしくだしおかれるようねがいあげ候)、以上、嘉永五子年二月 御厩御役所様 戸塚村 甚右衛門

 まぁ、お役人が名主農家に五両詐欺? 時代小説でも読んでいるような古文書です。遣われなくなった多くの言葉があって楽しい。「御下ケ金(おさげきん)」「承伏(しょうふく)」「罷越(まかりこし)」「彼是(かれこれ)」「突掛物(つっかけもの)」「聊不相分(いささかもあいかわらず)」「連々(れんれん)」「計り(ばかり)」「無謂事(いわれなきこと)」「極実難渋(ごくじつなんじゅう)」。

 「突掛物」は広辞苑だと「突っ掛けること、突掛草履」だが、ネットの日中辞典で「他人を頼みにして物事をほおっておくこと」。名詞では「ほっておかれて顧みられない物」とあった。古文書解読には「日中辞典」も必要かしら。

 「罷る・罷り」は古文書に頻繁に出てくるのでメモ。「罷る」は去る、退出する、来る、行くの謙譲語。死ぬ。みまかう。「罷越」は参上する、まいる。「連々」はひき続くさま。「極実難渋=ごくじつなんじゅう」はたまた「難渋のきわみ」かしら。「承伏=承服」。


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蚊を詠ひ風流ならぬ都かな [永井荷風関連]

noiebai1,jpg_1.jpg 昨日の新聞が、代々木公園のデング熱ウィルス媒体のヒトスジシマカはまだ生息中と報じていた。柵で仕切られただけで、かつ湿地も多い明治神宮にもいるだろうし、新宿中央公園にもいたから新宿御苑(19日夕の報道で検出確認)にもいそうだ。

 荷風さんの句には「蚊」が多い。ざっと拾ってみた。「蚊ばしらのくづるゝかたや路地の口」。玉ノ井の情景だろう。「蚊ばしら」でもう一句。「蚊ばしらを見てゐる中に月夜哉」。これまた玉ノ井をさまよっていた時の句か、霊岸島への月夜散歩でか。「路地の蚊に慣れて裸の涼かな」。馴染の女の許に通った宵に詠んだやら。

 『墨東奇談』に出て来るのは「残る蚊をかぞへる壁や雨のしみ」。大岡信が解説している。秋の蚊は弱々しく壁にはりつき、わびしい長屋の壁(亡友・唖々が親の許さぬ恋人と隠れ住んでいた長屋の壁)には、雨のシミがにじんで、古色蒼然となっている。荷風が好んで描いた市井隠逸の情景だと。

 次に自宅で詠んだと思われる「屑籠の中からも出て鳴く蚊かな」「蚊帳の穴むすびむすんで九月哉」「蚊帳つりて一人一ぷく煙草かな」。独り暮らしの寂しさで、蚊はお友達である。

 他に「昼の蚊や石灯籠の笠の下」「世を忍ぶ身にも是非なき蚊遣哉」「世をしのぶ乳母が在所の蚊遣かな」。今は「蚊」を詠めば、情緒どころかデング熱の恐怖が迫る。亜熱帯になった日本に、早く秋が訪れますように。写真は蚊が撮れなかったので蠅にした。荷風さんの〝冬の蠅〟は有名だ。


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芝山様 五両返して下さい  [くずし字入門]

komonjyo6_1.jpg 左記古文書筆写の<解読文+(読み下し文)棒組

 乍恐以書付奉願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう) 一(ひとつ)御役所様御馬御飼料御用数年来被 仰付(おおせつけられ)冥賀至極(みょうがしごく)有難仕合奉存候、然(しか)る所、御調役(おしらべやく)芝山様御勤役中(ごきんやくちゅう)、去夷(さるい)五月廿日、御同人様御取扱ヲ以(もって)私江金五両借渡(かしわたし)有之趣にて(これあるおもむきにて)、同年十二月御払代金之内、元利金共五両弐分御引去ニ相成(おひきさりにあいなり)、此段私方ニてハ(このだんわたくしかたにては)其せつ何方様ゟ(いずれかたさまより)も一言之御断(いちごんのおことわり)も無之(これなく)毛頭存不申候義(もうとうぞんじもうさずそうろうぎ)ニ付、何(いず)れニも御払頂戴仕度(つかまりたく)、是迄種々相嘆(これまでしゅしゅあいなげき) ~長いので後半は後日~

 「借渡」は「かりわたし」ではなく「かしわたし」。ここがミソですね。広辞苑や古語辞典にも載っていなかったが、「日中辞典」に~中国語の「借」は「借りる」と「貸す」の両方に使われる~とあった。ここでの「借渡=貸し渡し」。要するに貸したんである。貸した金と利子をオンして払ってもらうはずが、払ってもらえなかったと言っている。「仕度」は「したく」ではなく「仕=つかまつる」+「度=だし・たく・たき等の活用」=「つかまつりたく」。

 余談だが目下、横井也有翁『鶉衣』の原文を読んでいる。大田南畝(四方山人)が「序」を記している。也有翁の「借物の弁」を読んだら面白く、調べれば翁はすでに亡くなってい、『鶉衣』を遺していた。これを世上にしたく出版したと書いていた。「借物の弁」を読めば、物や金の貸し借りについて記した後で、かり親・かり養子も勝手次第なのに、なぜに女房ばかりはかりひきのならぬ世のおきてよ~と〆ていた。そんな貸し借りもしてみたいもんです。


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ペリー艦隊来訪で飼葉が急騰 [くずし字入門]

komonjyo5_1_1.jpg 左記古文書筆写の<解読文+(読み下し文)>(棒組)

 乍恐以書付奉申上候(おそれながらかきつけをもってもうしあげたてまつりそうろう) 一(ひとつ) 御役所様御馬(おうま)御飼料(ごしりょう)御用之儀、此度(このたび)異国船渡来ニ付、飼葉御手当被遊候ニ付(かいばおてあてあそばされそうろうにつき)、今般御直段書(こんぱんおねだんがき)御調被仰付(おしらべおおせつけられ)有難仕合奉存候(ありがたきしあわせぞんじたまつりそうろう) 然ル処(しかるところ)異国船風聞ニて(ふうぶんにて)飼葉干草(かいばほしくさ)元相場此節 格外不同ニ(かくがいふどうに)御座候間、差掛り(さしかかり)取留候(とりとめそうろう)相場之儀 難申上候間(もうしあげがたくそうろうあいだ)、此段以書付奉申上候 以上  戸塚村 甚右衛門 嘉永七寅年正月十七日 御厩(おんうまや)御役所様

 異国船来航で、馬の飼料・干し草の値が変動ゆえ調べるよう仰せられて有難仕合。異国船風聞で、馬の飼葉・干し草は「格外不同=規格外で定まらず」。相場は申し上げ難いという内容。

 ペリーの黒船が浦賀に来航し、東京湾内を威嚇航海したのが前年六月のこと。八月に防衛強化で多数台場が築造された(荷を曳く牛馬も駆り出されただろう)。尾張藩も防衛任務で馬の出動頻繁だったか。翌嘉永七年一月十六日にはペリー七艦隊が再び来航。江戸はひっくり返るほどの大騒動。その最中の古文書。(新宿歴史博物館の古文書講座。主催者と久保貴子講師の熱意で、毎回素晴らしい資料を教材にして下さっている。感謝)


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騒がしきテレビを消して秋茜 [花と昆虫]

nosimetonbo_1.jpg テレビについて記します。まず観ない筆頭が「テレビドラマ」。これは子供時分から大嫌いで、この歳までずっと観ていない。泣く・怒鳴る・叫ぶ・惚れた腫れたなどを大声で演じるシーンに虫唾が走るんです。ゆえに泣いたり怒鳴ったりを演じる「役者」ってぇのも、どうも好きになれないんです。役者かぶれ、役者臭い俳優は特にダメ。いきおい映画もあまり好きじゃないような。

 ひょんなことで音楽業界で飯を食ってきましたが、「歌」も余り好きじゃありません。カラオケもしたことがない。「歌」の多くは惚れた腫れた、頑張って生きよう、仕合せかい~みたいな詞が多く、そんなのは聴くも唄うも恥ずかしい。仕事がらみじゃないと「歌番組」も観ません。

 お笑芸人も好きじゃない。子供時分の東京のテレビは、東京の芸人が主だったんですが、いつの間に関西系お笑芸人で溢れています。そんな芸人同士がゲラゲラ笑い合っている番組もありますが、あれは何なのでしょうか。観る気もせん。でも亡くなった古今亭志ん朝は大好きで、CD全集を持っています。

akiakanemesu_1.jpg こう記せば、テレビは役者・お笑い・歌手ら芸人で成り立っているワケで、裏から言えばテレビは芸能プロダクションとずぼずぼ関係で成り立っている媒体なんですね。CMだって芸人の出ぬのは稀で「おぉ、なかなか頑張っているわい」とCFながら喝采を送ってしまう。

 ってことで観るのはニュース、野球以外のスポーツ中継、ドキュメンタリー、ネイチャー、健康系の番組。でも、そこにも居なくてもいい芸人が必ず紛れ込んでいるワケで、ブツブツ文句を言いつつも観ています。

 豪雨災害、デング熱の蚊、朝日新聞の両吉田がらみ誤報、覚せい剤のアスカ~ ここ最近は何かと騒がしいテレビを消してベランダに出れば、アカトンボが止まっていたんです。ノシメトンボ(熨斗目蜻蛉、写真上)とアキアカネ(秋茜、写真下)らしい。いよいよ秋です。


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差上申一札之事 [くずし字入門]

komonjyo4_1.jpg 左記の古文書筆写の<解読文+(読み下し文)>棒組

差上申一札之事(さしあげもうすいっさつのこと) 一(ひとつ) 御家中様 御馬飼葉相納候儀(おんうまかいばあいおさめそうろうぎ)私共三人江被為仰付(おおせつけなされ)有難仕合奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)、金壱両を以(きんいちりょうをもって)日数六十日之間御請負(おうけおい)飼葉相納(かいばあいおさめ)可申上候(もうしあげべくそうろう)、当時切飼葉相場両ニ正味百貫目替之積を以(かえるのつもりをもって)随分宜敷品(ずいぶんよろしきしな)入念相納(にゅうねんあいおさめ)可申上候(もうしあげるべくそうろう)、尤(もっとも)相場両ニ拾貫目之高下(りょうにじゅっかんめのこうげ)直段(ねだん)違ひ御座候ハゝ(わば)其節々早速(そのせつせつさっそく)奉申上(もうしあげたてまつり)、相場立替(そうばたてかえ)可申候(もうすべくそうろう)、仍(よって)御請証文(おうけしょうもん)、如件(くだんのごとし)

 各漢字のくずし方は、一字につき何通りもの書き方があり、この古文書はどのくずし字を使っているのだろうと辞書で調べるんだが、これが大変なんだ。一方、これを筆写すれば、スラスラと筆が流れて「くずし字」の味が楽しめる。

 内容は三つの村の三人が、飼葉の納品を請け負い、一両で日数六十日の間に納めてきた。当時の切飼葉は、一両百貫目でいい品を納めてきたが、相場が一両で拾貫目の高下があり、その都度申し上げるのでよろしく、というもの。

 ちなみにあたしが小学生時分は、体重は「貫」を使っていた記憶がある。今あたしは十八貫で、あと一貫はダイエットしたい。(一貫=3.75㎏)

 この文書には異体字が多い。旧字は辞書で簡単に探せるが、異体字はわからん字も多い。三人著名の「鹿浜村」の「濵」は旧字で、「鹿」の異体字が六種ほどあって、ここではブログで変換できぬ字が使われている。「時」も異体字で偏が日で、旁が寸。これまたブログで変換できぬ。日本語の伝統を捨てたデジタルのブログで、わざわざ筆写して江戸末期の古文書で遊んでいる。(amazonで調べたら『異体字解読字典』が2160円で売っていた。購いましょう)


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老いの秋手を描きみて神と知り [スケッチ・美術系]

tesketrh_1.jpg 隠居の身となって、初めて「手」を描いてみた。「ハハァ~ン、手はこう動いて、こういう形になるんだ」。そう思い、己の手もしげしげと見れば、改めて、その微細で自在な動きに感心する。これは〝神の領域〟だろうと。

 すれ違う他人の一瞬の手の形にも眼が行ったりする。同じく歩く、走る、投げる。物を食い、消化し、エネルギーを得て、生きる、働く、考える。いい奴も悪い奴も〝聖なる〟手、肉体を持っている。

 そこに気付いただけでも、下手なりに手を描いてみた価値はありそう。


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メス入れて老の眼が見る秋の街 [暮らしの手帖]

IMG_5952_1.JPG 八年前に右目の白内障手術を受けたが、左眼も次第に悪化した。夜になると、街のネオンや車のヘッドライトが眩しく拡散する。かくして八月末に左眼も白内障手術に相成った。

 最寄りの眼科の紹介状を携え、新宿は歌舞伎町とラブホテル街の狭間に建つ「大久保病院」へ通った。執刀は青年医師。手術室に約二十分間。術後は一泊ながら初入院で、病院で一夜を過ごした。

 片目眼帯のまま、病室備えの文庫本より、藤原伊織『テロリストのパラソル』を読んだ。新宿中央公園の爆弾爆破事件に、東大全共闘出身のアル中バーテンダーが挑む。小説に「大久保病院」も出てきた。主人公が働いていたバーも、若き日に事務所を設けた辺り。新宿舞台の小説は、新宿在住者には妙に身近な感がする。

 翌朝の検診後、眼帯を外して人工レンズになった眼で初めて観るは、十五階病室から眼下に広がるラブホテル街と歓楽の歌舞伎町だった。

 長らへてクリアーな視力を復活させてくれた眼科手術。八年前の右目白内障手術に当たっての不安は、曽野綾子の手術記を読んだりしたものだが、今は同世代の老人の誰もがと云うほどに、同手術を気軽に受けている。

 『馬琴日記』には、眼鏡誂えの苦労、失明後の苦労が記されている。江戸時代の長生き老人らを描いた絵を見ると、丸く太く黒い枠の眼鏡が描かれていたりする。昔の老人らの眼の苦しみ・辛さに、思いを馳せた。


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被為遊候、被為仰付、被下置候 [くずし字入門]

komonjyo3_1.jpg 左記の古文書筆写の<解読文+(読み下し文>を以下に棒組で記す。

 乍恐以書付奉願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう)

 一(ひとつ) 私議 御屋形様御掃除御用向(おやかたさまおそうじごようむき)、数年相勤(あいつとめ)冥賀至極(みょうがしごく)有難仕合奉存候(ありがたきしあわせぞんいたてまるりそうろう)、然所(しかるところ)此度御代替(このたびごだいかわり)被為遊(あそばせられ)候ニ付(そうろうにつき)何卒乍恐(なにとぞおそれながら)御目見之儀(おめみえのぎ)、父甚右衛門(ちちじんえもん)通り、被為仰付(おおせつけさせられ・オオセツケナサレ)被下置候様(くだされおきそうろうよう)仕度(つかまりたく)奉存候、此段御聞済之程 偏ニ(ひとえに)奉願上候 以上 文政十夷年九月 戸塚村 甚右衛門

 御屋形様の代が替わって、挨拶を願い上げる文なり。「奉願上候=ねがいあげたてまつりそうろう」。「奉存候=ぞんじたてまつりそうろう」。「奉=たてまつる」は、自分をどこまで卑下するんだって感じで、どうも性に合わぬ言葉です。「被(られ)為(せ)遊=あそばせられ)」。「被(られ・レ)為(させ・ナサ)仰付=おおせつけさせられ、オオセツケナサレ。どちらでも可らしい。「被下置候=くだされおきそうろう」。「仕度=つかまつりたく」。封建制ならではの言葉。この辺は丸覚えがいいようで。嫌いな言葉たちです。

 「御屋形様」は時代小説にもよく出てくる。武家主人への称号。ここでは尾張藩主に尊敬をこめて「御屋形様」。当時の藩主は十一代将軍・徳川家斉(いえなり)の弟、徳川治国(はるくに)の長男で徳川斉朝(なりとも)。そして家斉の十九男・斉温(なりはる・九歳)に藩主が替わっての御代替。家温は一度も尾張入りしなかったそうで、無類の鳩好き。数百羽もの鳩を藩邸で飼っていたとか。二十一歳で死去。なお尾張藩をも君臨の徳川家斉は田沼意次を罷免し、松平定信を老中にして例の「寛政の改革」を行った将軍。(間違っていたら後で訂正)。かく復習して次回を受講です。


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野球熱すべてが消えて秋の虫 [スケッチ・美術系]

kousiensketch2_1.jpg 甲子園と軟式高校野球をテレビで観つつの「奇妙な喪失感」は、母校を無くした他にもあった。戦後少年の誰もがそうだったように、あたしも野球少年だった。

 1920年代後半。買ってもらったグローブはズック製で、掌部分にだけ豚皮が付いていた。最初は近所の年長組に混じっての草野球。小五になるとクラスチームが結成され、ユニフォームを揃えて日々の放課後練習が始まった。

 あたしはサードだった。小六になるとワケなくレギュラーを外され、関君がサードの座に収まった。小六にして人生ままならぬと知った。これで野球熱が一気に醒めた。どこか斜めに生きるようにもなった。

 五十過ぎに小学校のクラス会があった。関君と教師が、野球名門中学進学への経緯と入学後の厳しさを懐かしそうに語り合っていた。それを横で聞いて「あぁ、俺は彼の野球進学のためにサードを追われたんだ」と知った。

 少年には、熱中したものとの決別があろう。やり抜いた充実感は少なく、途中で飽きたり諦めたり、挫折したり不条理を体験したりて大人になって行く。そんな苦さを想いつつ、もう少し野球スケッチを続けてみた。タッチを少なくサッと描けたらいい絵になるのに・・・。隠居遊びもままならない。


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乍恐以書付奉願上候 [くずし字入門]

komonjyo2.jpg左記古文書筆写の<解読文&(読み下し文)>

乍恐以書付奉願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげたまわりそうろう)

一(ひとつ) 前々ゟ(より)杣御用(そまごよう)被〇(欠字) 仰付(おおせつけられ)有難相勤来リ(ありがたくあいつとめきたり)候処(そうろうところ)

古来之御直段ニテ(こらいのおねだんにて)壱人ニ付(ひとりにつき)代銀三匁宛(だいぎんさんもんめずつ)被下置候得共(くだしおかれそうらえども)

当時者(は)諸色ニ順シ(しょしきにじゅんじ)高直ニ相成(たかねにあいなり)難相勤(あいつとめがたく)候得共(そうらえども)

是迠者請負等(これまではうけおいとう) 又ハ少分之儀故(またハしょうぶんのぎゆえ) 御願不申上(おねがいもうしあげず)候得共(そうらえども)

此度ハ余程之御用ニテ足シ銀(たしぎん)仕候儀(つかまつりそうろうぎ)難儀仕候(なんぎにつかまつりそうろう)

何卒御慈悲を以(もって) 壱人ニ付(ひとりにつき)銀三匁五分ニ 被成(なされ)被下置候(くだしおかれそうろう)

様奉願上候(ようねがいあげたてまつりそうろう) 右願之通リ(みぎねがいのとおり)御聞済(おききずみ)被成下置候ハゝ(なしくだされおきそうらえわば)

有難仕合ニ(ありがたきしあわせに)奉存候(たてまつりぞんじそうろう) 以上

文化八末年十一月     戸塚村 甚右衛門

 

 江戸の戯作者好きから「くずし字」を勉強で版木文字に少し慣れたが、同じ「くずし字」でも古文書は苦手だ。封建制ゆえの仰々しい敬語綴り。直筆だから筆の流れのままのくずし字で癖も多い。字を見ていると、甚右衛門さんの筆持つ姿が浮かんでくる。あたしは寺子屋の小僧よろしく、一字ずつの筆写お勉強です。また漢文風読み下しにも慣れなければいけない。

まずは、わからぬ言葉をネットや辞書調べ。「杣」=木を植え育てて木材をとる山。木材を切り出す人。きこり。杣人、杣夫、杣木、杣板、杣入り、杣角、杣方、杣川、杣下し、杣小屋、杣道~。ここでは「杣御用」。知らぬ言葉に出会えば、己の無知を知る。江戸は麹町(現・四谷駅前)の尾張藩中屋敷での仕事だから、木こり仕事ではなく「雑草刈り+掘り起し」の野良仕事を「杣御用」と言っているのだろう。

人偏なしの「御直段」。「諸色・諸式」=よろずの品。品々。転じて物価。「足シ銀」も当時は使われていた言葉なのだろう。

 一人三匁から三匁五分に引き上げの要求文だが、「付札」が付いて「賃金三匁二分五厘」の回答あり。尾張藩渋いぜ。文化八年当時の相場は1匁=100文。三匁五分=三百五十文を要求で、回答が三百二十五文。畳職人の日給が三百文ほどで、それよりちょっと多い金額の攻防。数字音痴ゆえ不確か解釈なり。「付札」=公文書に貼付された付箋の一種で指令、意見、返答などがj記された。付紙、張札とも称する。


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白球や母校求めて千切れ雲 [スケッチ・美術系]

kousiensketch1_1.jpg 夏の甲子園が終わった。軟式高校野球では延長50回。球児らの熱戦をテレビで観ていると、何やら「喪失感」あり。なんだろう。そう、母校が無い。

 高校は小田急線「代々木八幡」下車の大学付属高。卒業後に同大付属高の全国展開が始まった。社会人になった頃に突然「あなたの母校が甲子園へ。寄付金を」なる便り。差出元は場所も校舎も知らん千葉県の某高で、そこが母校になったとか。なんじゃこりゃ。要は母校が無くなっているらしい。

 そういえば小・中学も建物は残っているが別施設になっている。隠居爺の小・中・高校がそんな有様ゆえ、昨今の少子化による統廃合で母校を無くした方も多かろう。先日のテレビニュースが「年間400校が廃校」と言っていた。

 そんな「喪失感」を覚えつつ、高校野球のテレビ観戦からスケッチをしてみた。黄表紙や洒落本のくずし字筆写に併せて、筆ペンで浮世絵模写もしてきた。この機会にスケッチも描けるようになりたい、と隠居の新たな手習い。

 子供時分の夢は絵描きや先生に憧れていた。夢はことごとく崩れた。二つの会社を二年ずつで、以後はフリーのはみ出し人生だった。絵を描きつつ、子供時分の夢を取り戻そうとしているのかもしれない。


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尾張藩中屋敷を中村家が開墾? [くずし字入門]



IMG_5943_1.JPG左記古文書の<解読文&(読み下し文)>


  覚(おぼえ)

御殿跡荒地(あれち)起返(おこしかえし)

一(ひとつ) 金拾両

右被下置候ハゝ(くだしおかれそうろうハバ)當辰ゟ来ル(とうたつよりきたル)

牛年迠(うしどしまで)三ケ年相除キ(あいのぞキ)未年ゟ(ひつじどしより)

金弐両壱分宛(ずつ)御上納(ごじょうのう)可仕候(つかまつるべくそうそう)

辰二月  戸塚村 甚右衛門

御作事方(おさくじかた) 御役所様


 「荒地起返」=荒廃田畑を再開発して生産力を回復すること。「被(され)下(くだ)置(おき)」=くだされおき。「ゟ」=より。「宛」=ずつ。「可(べく)仕(つかまつり)候」=つかまつりべくそうろう。 


 この辺の歴史は自分でも調べてみる。尾張藩の主な江戸屋敷は市ヶ谷の上屋敷、麹町の中屋敷、戸山の下屋敷。現在は上屋敷が防衛省、下屋敷が箱根山中心の戸山公園で、ウチ(7Fの部屋)の西窓眼下に広がっている。そして麹町の中屋敷跡は現・四谷駅前の上智大になっている。


 当古文書「覚え」の歴史背景を、サイト「徳川黎明会」と新宿歴史博物館刊『尾張家への誘い』を参考に簡単にまとめてみる。麹町の中屋敷は総坪数1万7870坪。市ヶ谷屋敷の「西御殿」が中屋敷的に機能し始めて、こちらの御殿は老朽化と同時に取り壊し。文化5年(1808)、その跡地2000坪が尾張家御用の中村家に貸し付けられた。中村家は戸塚村と大久保新田(現・高田馬場34丁目、西早稲田3丁目と百人町4丁目)の名主。同家は金20両を投資して畑地とし、作柄もまあまあ也。同12年(1815)に貸付を中止され尾張藩は家臣の手作り地として「年貢米」を上納されることになった。とあった。


 この古文書「覚」では、中村家が金10両で開拓を請け負い、3年開けた4年目から年2両1分ずつ上納すると記されている。「10両と20両の違い」「貸付中止」から勝手解釈してみる。ここには坪数の記述がない。1000坪の起返を10両で請け負い、さらに1000坪を請け負って計20両かもと推測される。そうなら4年目から1000坪につき年2両1分上納で、2000坪で4両2分上納か。それでも充分に採算(利益)が上がった。それを知った尾張藩は「中村甚右衛門はうまいことをやりぁがって」と、文化12年に貸付を止め、家臣に与えて「年貢米」を上納させることにしたと推測遊び也。★somiさん、ご指摘ありがとうございます。「来年ゟ」を「未年ゟ」に訂正させていただきます。


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