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湾岸8)レインボーブリッジを歩く [新宿発ポタリング]

loop_1.jpg 台場に行ったのは18年前の二度だけ。改めて「ゆりかもめ」に乗り、「レインボーブリッジ」を歩いてみた。振り返れば平成3年に伊豆大島にロッジを建て、当初は毎週のように通ってい、船ならレインボーブリッジ下を通過し、飛行機なら羽田「YS-11」か調布発「アイランダー機(セスナ風の11人乗り)」上空から湾岸の開発を見てきた。「レインボーブリッジ」開通前のこと。

 「おめぇ、ちょっと臨海副都心へ散歩に行ってくらぁ」とかかぁに言えば「あらぁ、〝海向こう〟まで行くのかえ」。あたしらの両親は大川(隅田川)の向こうを〝川向こう〟と言い、それをもじっての〝海向こう〟らしい。「臨海副都心」とは「晴海・豊洲」と「ゴミの島々」に抱かれた「台場・青海・有明北・有明南」地区のことらしい。

dairokudaiba_1.jpg 今回の湾岸行は電車利用。自宅近くの大江戸線「東新宿」から「汐留」へ。無人自動運転「ゆりかもめ」へ乗り換えて「芝浦ふ頭」駅。徒歩5分で「レインボーブリッジ」西詰。自宅から約50分。「おやっ」ここは昨秋に自転車で来た所じゃないか。ここに橋歩道へのエレベーターがあったとは知らなかった。入口には自転車を押し歩くための〝後輪固定台〟あり。南側と北側の歩道が選べてサウスコースを歩いた。歩道は「ゆりかもめ+車」疾駆脇で絶えず小刻みに揺れているも絶景なり。橋の揺れと絶景で胸はドキドキ・ワクワク。

 しばらく歩いて振り返ればループ状の橋詰、芝浦埠頭、大井埠頭を俯瞰。橋の真ん中辺りで眼下に「第六台場」。続いて「第三台場」が見えてきた。この「台場」の企画・設計・大砲製作は江川坦庵が担当。嘉永6年(1853)のペルー艦隊が去った8月21日のニケ月後に起工で、八ヶ月後の安政元年(1854)4月に竣工。品川御殿山下の砲台と五・六番台場は同年1月起工で11月に竣工。幕府が慌てて泥縄的に築造。当初は12基計画も、資金難で完成は6基だけ。土は御殿山、泉岳寺境内、高輪や品川方面の諸侯邸宅の高地を崩したとか。そして今は第三・第六台場だけ遺されている。砲台威力はどれほどだったか。仲田正之「江川坦庵」に門弟が試射会で十町(約1㎞)沖の的を粉砕~との記述あり。

daisandaiba_1.jpg 1.7㎞で約30分行程の「レインボーブリッジ」歩道を下りれば、第三台場へ続く堤防あり。そこにひっそりと石碑がひとつ。回り込むと以下文言が刻まれていた。「東京は関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲により甚大なる被害を被った。二度の被災により隅田川河口近くに位置したここ旧防波堤にも、漂着した犠牲者が数多くみられたという~」。以下省略すると、その諸霊を長年供養してきたが、お台場海浜公園が再整備されるのを最後の供養とし、以後は都の慰霊に引き継ぐ~という内容。

 「第三台場」へ上陸。石垣と土塁で囲まれた台場。凹部には休憩所跡の土台、カマド、石垣で囲まれた火薬庫、土塁上に砲台などあり。台場波止場近くに細長い碑あり。大正15年に史蹟指定され、昭和2年に史蹟碑建立と刻まれていた。その時に休憩所、カマド、砲台がつくられたのだろう。これらは史的考証に基づかぬもので撤去し、正しく復元すべしの声あり。また淺川道夫著『お台場』では、「第六台場」も遺構の崩壊と汚染をそのままにせず管理すべしと指摘していた。ここは東京都港湾局・臨界開発部・海上公園課の担当だろうか。

daisandaiba1_1.jpg 東京都港湾振興協会・東京みなと館のサイト「東京湾アーカイブ」を拝見すると、昭和31年の航空写真には第三台場は海にポツンとあるだけ。昭和39年の航空写真では埋立が始まっていた。台場と埋立の間=現・台場の海は「台場貯木場」で、同サイトには「原木の水おろし作業」の写真も紹介されていた。

 台場・青海・有明は、主に高度成長期の公共工事で発生した土などで埋立てられたとか。同地区が「臨海副都心」として整備されるのは平成に入ってからだろう。ゆりかもめ開通が平成7年で、フジテレビ移転や複合商業施設、高層住宅、小・中学が出来たのは翌8年。

 埋立地「湾岸副都心」には歴史的由緒のない街と思っていたが、「幕末のお台場」と「大震災・大空襲の御霊」と意外な史実を踏まえた街と認識した。追記:芝浦アイランド~お台場海浜公園~豊洲ららぽーとを結ぶアーバンランチ(Urban Launch)なるおしゃれな渡船(600円)もあって、ペットや自転車(300円追加)も乗船可。約1時間毎に出航している。


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湾岸7)都庁からの〝鳥瞰〟 [新宿発ポタリング]

tocyo_1.jpg 東京湾「ゴミの島」を知るために東京都環境局サイトを見たゆえ、今度は都庁展望室に上がってみた。江戸・明治の「鳥瞰図」のように、また当時の神田明神、九段坂から見たように東京湾が見えましょうか。まずは「南展望室」へ。当日はモヤってい、ポケットカメラで撮った〝東京鳥瞰図〟は曖昧模糊。日を改めて再び上った。今度は双眼鏡、一眼レフに400㎜レンズも持参した。

 すると〝何と言うことでしょうか〟 遥か南房総の「東京湾観音」までが見えるじゃないですか。「横浜ベイブリッジ」の手前を見れば、羽田空港の飛行機発着までが見えた。東京湾俯瞰をレポートしよう。

 目前にNTTドコモ代々木ビル(240㍍)右下に聖火台が外された国立競技場。その奥に東京タワー(333㍍)と右隣接して東京ミッドタウンタワー(248㍍)。その右奥に「東京ゲートブリッジ」が見えた。橋を降りた所が「中央防波堤埋立地」だろう。手前に台場の33階高層高級マンション「ダ・タワーズダイバ」や「台場海浜の高層住宅棟」。東京湾対岸は袖ヶ浦辺りのコンビナートか。さらに右に眼を向ければNECスーパータワーの左に「台場パレットタウンの大観覧車」。六本木ヒルズ森タワーの奥に「レインボーブリッジと球体を抱えたフジテレビ」が見えた。

tgb1_1.jpg フジテレビの新宿・河田町から台場移転は平成8年(1996)。フジサンケイグループのフジテレビ、ニッポン放送、ポニーキャニオンは軽佻浮薄系で、産経新聞は右寄りか。小生はPC社の急成長期から凋落し始めるまでの約20年の間、同社の仕事をさせていただいた。社屋で云えば最初は浜松町の世界貿易センタービル(見えるはずだがどこでしょう)から市ヶ谷・一口坂ビル、九段NPビル、そして八丁掘へ。

 アーティストは勢いのある社に集まり、力を失えば次々に他社に去って行く。現・虎ノ門に移る前あたりから急失速し、あたしの仕事もなくなった。その時期にフジテレビも台場移転で「〝海向こう〟なんかに行って大丈夫かしら」と心配した。案の定、今ネットを見ると同社評判に〝凋落〟の文字が躍っている。

fujitv2_1.jpg 話を都庁からの鳥瞰に戻そう。六本木ヒルズの右に元麻布ヒルズ。その左奥に青海の「船の科学館」が見え、その右は「芝浦アイランドタワー」か。その左奥に「青海埠頭のクレーン群」。その奥は「中央防波堤・新海面埋立地」か。

 次に都庁「南展望室」から「北展望室」へ。ちなみに両方共に外国人客が8割。「北」は「南」の眺望と同じだがグッズ売場が大きく、ここで「江戸鳥瞰図」ならぬ「東京俯瞰イラスト地図」を見つけた。一番安いのを買って家で開封すれば、それは地図を印刷したクリアファイルで、あたしは見開きにして机敷きにした。

funenokagaku_1.jpg 同イラスト地図を見れば「ゴミの島々」に抱かれるように「豊洲・晴海・台場・有明・青海」がある。それら地がオリンピックに向けてさらに発展するとか。だが用がなければ行かぬ地で、次々に展開される集客イベントにも同地でのショッピングにも興味まったくなし。逆に云えばワザワザ行かねば知らぬままの街。そう思って自転車で「晴海大橋」を渡ったのが、この「湾岸シリーズ」のそもそも。それが思いもかけず東京のゴミ問題、放射能汚染問題などを考える機会を与えてくれた。さて、次は「レインボ-ブリッジ」を歩いてみましょうか。


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湾岸6)東京湾の放射能汚染 [新宿発ポタリング]

arakawakakou1_1.jpg 3年前の2011年3月11日、東日本大震災。地震と大津波。翌12日、東京電力・福島第一原子力発電所が水素爆発。以後のベント・破損で福島はもとより全国に放射能物質が拡散した。静岡のお茶、伊豆大島の明日葉からもセシウム検出で驚いた。

 放射能物質は雨が降るたびに田畑・野山から川へ集まり、下流へ流れ行く。湖は沈殿するのみ。ワカサギ釣りはもう出来まい。そして翌12年12月15日、NHK「知られざる放射能の汚染~海からの緊急報告~」を見て震えた。

 放射能物質は次第に東京湾に蓄積し、やがては福島原発20㎞圏内の海と同じになるだろうとデータを挙げてのレポート。すでに荒川河口(写真上)では872ベクレル/㎏、河口から8㎞上流で1623ベクレルが検出。京大シミュレーションでは2014年に汚染がピークとなり4000ベクレルになろうとも予測。

kasai1_1.jpg 小生は当時、鳥撮りに凝っていて「3.11」後も「葛西臨海公園」や「三番瀬」に行った。「三番瀬」では地震の亀裂段差に自転車もろとも前方一回転した。しかし同番組を観て、鳥撮りをやめた。愛おしく撮っている海辺の野鳥らが、放射能で汚染された土の微生物、虫、貝を食っているかと思えば楽しいワケがない。

 以来、東京湾の汚染が気になっていた。2014年になって再びNHKのレポートがあるかと思っていたがなし。原発事故に対する姿勢が変わったか。テレビで知らされるのは長閑な潮干狩り風景だったりする。オリンピックのカヌー競技を荒川河口脇の葛西臨海公園で行う(後に中止)、ちょっと変なところがある総理が「福島は完全にコントロールされている」とまで言い出した。原発関係者で責任をとった人もいない。原発事故はなかったことにしたのか~。

wakasudaiba_1.jpg そして先日(2014年10月13日)、NHKに代わって?東京新聞がほぼ全段で、東京湾上空から撮った写真に各ポイントの海底土、水の放射能汚染(セシウム)濃度をグラフ表示した記事を掲載した。千葉県の花見川河口で局地的に1189ベクレル、荒川河口では167~398ベクトル、多摩川河口は80~135ベクレル、沖合は不検出~41ベクレル。葛西臨海公園と夢の島の間に流れる荒川河口の4地点調査では上流が167ベクレル、河口に架かる橋の上下流が325,398ベクレル。若狭海浜公園脇辺りが209ベクレル。

 文章には「土採取中に葛西臨海公園の波打ち際を見れば幼児が水に手をつけ、海上では多くのヨットが走るのどかな海辺の景色があった」とも記していた。(潮干狩りシーズンだったら海辺は人で埋まっていただろう)。同紙ではまた「水産庁データではシジミ、アサリ、ウロハゼなど食品基準から考えると心配ない状況といえそうだ」ともあった。(本当だろうか? 写真は東京ゲートブリッジから見たお台場風景)

 ちなみに榛名湖のワカサギ釣りをネットで見れば「解禁」とあって、これまた驚いた。あれほど絶望的レポートがあったのだが~。日本という国はイヤなことはすぐ忘れる素晴らしい特性を有しているらしい。釣った魚を食う食わぬは知らぬが、台場でも東京ゲートブリッジでも釣りに興じる人の多いこと。

 あたしの釣り初体験は、子供時分に父に連れられた「東雲のハゼ釣り」だった。あのビリビリ来る竿の感触、さらに天麩羅の旨さを今でも覚えている。あたしも釣りたい、食いたい。いつ死んでもいい老人ゆえ、多少の放射能汚染はどうでもいいのだが、ここを〝なし崩し〟にしたら、次世代の子らにダメージを与えることになろう。ここは警告を発し続けなければとも思う。

 追記:2014年12月19日の東京新聞が、東京を流れる隅田川と荒川の流域セシウム調査を発表していた。流れの早い荒川は河口付近で濃度が濃く(398ベクレル/㎏)、満潮で流れが逆流する(流れが緩い)隅田川は中流域が高濃度(378ベクレル)と発表した。これは東京新聞の調査・発表だが、政府はどうしてこうした調査・発表をしないのだろう。※ベクトル=大きさと向きの量。ベクレル=放射能の量(Bq)。間違いをご指摘され、訂正しました。)


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湾岸5)ゴミの島々から恐竜橋へ [新宿発ポタリング]

yumemarina2_1.jpg 「ゴミの島々」について記したからには、現場にも行かねばなるまい。新宿から大手門より永代通りへ。門前仲町を過ぎ、木場手前で三ッ目通りを右折。見知らぬ街に驚きつつもひたすら走る。枝川を左折すると明治通りにぶつかって南下。「夢の島大橋」を渡った。

 左に「夢の島マリーナ」(写真上)。江の島や佐島より広大なマリーナ。係留キャパは660隻で、最短艇長19ftが年間40万円ほどらしい。園内に入る道がわからぬゆえ自転車を小脇に抱え(小径自転車の良いところ)歩道橋を渡って入った。

daigofukuryu_1.jpg まず眼に飛び込んできたのがマリーナ前の「第五福竜丸展示館」だった。15号埋立地(若洲)に破棄されていたのを保存とか。「第五福竜丸」が米国水爆実験の「死の灰」を浴びたのは昭和29年(1954)。これを機に反核運動が始まり、水爆実験で眼を覚ました「ゴジラ」(同年製作)が動き出した。

 「築地市場」では同船のマグロがガイガーカウンターで高濃度反応し、こっそり市場内に埋めたとか。だがビキニ海域で漁をしていた遠洋漁業船は多く、すでに胃に収まったビキニマグロで日本中が大騒動。市場はセリもできぬ事態に陥った。築地市場にはビキニマグロを記憶するプレートがあるそうな。石碑を作ろうの運動で完成した「マグロ塚」は、築地に置けず同館外に展示。

 「夢の島」は荒川河口に接している。対岸は葛西臨海公園で、隣が旧江戸川を挿んでディズニーランド。先日(2014年10月13日)の東京新聞に福島原発による東京湾のセシウム蓄積データが発表されてい、最も高濃度だったのが荒川河口だった。昭和29年の「第五福竜丸」と共に、ここは放射能問題に欠かせぬ地になってしまった。(この問題は改めて次回で)

wgl2_1.jpg 同施設の近くに「夢の島熱帯植物園」と「東京スポーツ文化館」、緑の広場。他に競技場が二つ、多数野球場があった。さて「夢の島公園」を抜けると「新木場駅」で、さらに南下して左に「東京ヘリポート」を見れば、その先に「新・夢の島=若洲」が広がっていた。右側が工場・倉庫地帯らしく、左側が「若洲ゴルフリンクス」中心の若洲海浜公園。ゴルフコース海側沿いのサイクリングコースを南に走った。

 走リ疲れた頃に「アッ」という突然の感じで眼前に「東京ゲートブリッジ」が現れた。羽田を飛び立った飛行機が次々に橋上空で機体を斜めに旋回して行き、巨大タンカーが橋をくぐって行く。そんな光景を楽しみつつコンビニの握り飯を二つ食った。振り返るとエレベーター塔(無料)あり。最上階が展望台で、下の階が橋の歩道に繋がっていた。橋向岸の右側が「三代目夢の島=中央防波堤内側埋立地」で、左が「四代目夢の島=同外側埋立地」。さらに左沖が「五代目・夢の島=新海面処理場」。

tgb7_1.jpg 「東京ゲートブリッジ」からの景色を眺めながら、ここには東京のゴミ問題、東京電力・福島第一原子力発電所によるセシウム蓄積問題、原発・エネルギー問題、核実験、さらには埋立地にとって気になる海面上昇(温暖化)、津波、液状化~と問題山積み、その縮図だなぁと考え込んでしまった。

 自宅・新宿から若洲まで約19㎞だが、寄り道しつつの自転車往復で50㎞は走っただろうか。クタクタになって家に辿り着いた。次は東京湾の放射能汚染について考えてみる。


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湾岸4)文京区役所展望台から海を~ [新宿発ポタリング]

sinjyukufukutosin_1.jpg〝小径自転車〟が気に入った理由の一つが、路地裏まで気軽に入って行きやすいところ。だがチマチマ走っていると「地を這う虫」のような気がしないでもない。江戸時代はちょっとした高台に上れば眼下に海が見て、富士山も見えた。今の東京は走れどもビルまたビルで閉塞感がある。

 某日、そう感じて自宅7階窓から東に見える文京区役所の展望台へ走った。まず新宿副都心の高層ビル群を見た。ビル群の右端(写真中央右端)辺りにあたしの住むマンションあり。そこから右(北)を向けば池袋。サンシャインシティ(226.3㍍)と豊島清掃工場の煙突(210㍍)。さらに右(東)を見れば平さが際立つ下町で、地中から棒が突き出ているような東京スカイツリー(634㍍)。下に金色ウンコマークも見えた。

 次に東南へ眼を移して東京湾を探す。海は見えず。だが、ムムッ。ビルの狭間に見えるのは「東京ゲートブリッジ」ではないか。「夢の島公園」から「若洲海浜公園」を経て「中央防波堤外側埋立地」を結ぶ巨大橋、恐竜橋ぞ。

skytree2_1.jpg 僅かに見える「東京ゲートブリッジ」を見つつ、あぁ、これは〝ゴミの島々〟を結ぶ橋だと気が付いた。そこで東京都の環境局サイトを見た。『夢の島の歴史』が紹介されていた。私流解釈を加えて簡単にまとめてみた。

 「夢の島」埋立は、昭和32年12月から昭和42年。昭和40年6月、江東区南砂町に蠅の大群が襲った。口を開ければ蠅が飛び込む。「夢の島」から飛んで来る。東京23区の7割、毎日5~9千トンのゴミがそのまま「夢の島」に捨てられていた。都は各地に清掃工場(焼却工場)建設を決めたが、杉並区だけが地元住民の反対で建設決まらず。これに怒った江東区民が杉並区のゴミ搬入阻止。これが「ゴミ戦争」。

tgb2_1.jpg そんなゴミ戦争も忘れかけた昭和53年、緑も美しい「夢の島公園」開園。ゴミは「新・夢の島=若洲」埋立へ移った。約10年間の埋立を経た平成2年(1990)に「若洲ゴルフリンクス」オープン。当初はメタンガスが噴き出るゆえに禁煙だったとか。今は人気コースで、バーベキュー広場も出来ている。

 「三代目・夢の島=東京湾中央防波堤内側埋立地」は昭和48(1973)から昭和62年(1987)、「四代目・夢の島=中央外側埋立地」は昭和52年(1979)から。「五代目・夢の島=新海面処理場」が平成11年(1999)からの埋立。サイトには昭和49年から平成13年までの次々に埋立てられてゆく様子が航空写真で紹介されていた。なお焼却ゴミは生ゴミの20/1になり、建設資材スラグにしてさらに2/1。捨てるのはその残りだけになっている。

 「東京ゲートブリッジ」は〝ゴミの島々〟を結んで「臨海トンネル(海底)」で大田区城南島(大田市場)へ繋がっている。築地市場も間もなく豊洲に移ろう。ここには都民が食う野菜と魚、それらが生ゴミの焼却灰になって再びここに戻って来る図がある。そう思って文京区役所展望台を後にした。今度は自転車で「夢の島」まで走りましょうか。 


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湾岸3)江戸の海、東々へ [新宿発ポタリング]

masakadokubizuka_1.jpg 「勝鬨橋」「佃大橋」を渡って東京湾埋立地を自転車で散策した帰りに、大手壕前の「将門首塚」を参ることがある。将門は平安中期・天慶3年(940)没。〝弱きを助け強気を挫く〟坂東武士として関東を収めるも〝朝敵〟となって命を落とした。「築土神社」「神田明神」他に祀られて大田道灌、徳川家康の武運神となり江戸の総鎮守になった。

 大手町のビル群に囲まれた「将門首塚」に参りつつ、この地の昔々を想った。家康が入府したのが天正18年(1590)。大田道灌没後に荒廃していた江戸城再築と江戸の町作りに着手。まずは江戸城と隅田川を結ぶ「道三濠」(後の日本橋川)を開削して物資搬入水路とした。

kudanzakatoudai_1.jpg 家康入府から12年後の慶長7年(1602)の地図を見ると、遠浅の日比谷入江がここまで伸びていた。慶長5年「関ヶ原の戦い」2年後に征夷大将軍。「大阪の陣」後に全国の大名を動員した「天下普請」を展開。上水、物流水路を整備し、水路を掘った土、神田山を崩した土で低湿地帯を埋めた。日比谷入江が現・東京駅、有楽町、新橋に。日本橋川と八丁堀沿いの町々も整った。外濠内は大名上屋敷で、将門首塚の地は酒井家上屋敷となり、神田明神は駿河台に移転。その神田明神に漁民らが大燈籠を建てた。明治4年建立の九段坂・常燈明台も灯台の役目を果たしていた。明治になっても、ちょっとした高台に上れば眼下に海が広がっていた。

 東京湾浚渫の土で「石川島・佃島」の南に「月島」が出来たのが明治。しかし両島に渡るのは未だ渡し船で、明治36年に相生橋架橋。勝鬨橋開通が昭和4年(1929)だった。一方、江戸のゴミは明暦1年(1655)に船に積んで永代島(現・富岡八幡辺り)に捨てられ始めたが、元禄9年(1696)から東京湾奥の低湿地帯に指定場所を定め、満杯になればさらに海側へ捨てられるようになった。

 長くなったので「将門の首塚」参りでの<東京湾の歴史のおさらい>をここまでにする。次は江戸・東京のゴミについて勉強することになりそう。(参考書は後で一覧)


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古文書も自転車遊びも台場がらみ~ [くずし字入門]

komonjyo11_1.jpg 十月八日の続きで、左記筆写の解読文+読み下し文。

 御用向之儀ニ付(ご用向の儀につき)昼夜不限(かぎらず)何時被 仰付(おおせつけられ)次第、刻限等聊遅滞不仕(こくげんなどいささかも遅滞つかまらず)、無御差支(おさしつかえなく)右馬不残(のこらず)引連罷出可申候(引き連れ罷り出で申すべく候)、万一差懸り川支(川づかえ=川止めに差しかかり)、其外(そのほか)差支筋(さしつかえすじ)有之歟(これあるか)、又ハ病馬有之候ハゝ、是又(これまた)刻限遅滞不仕(つかまらず)、無御差支(おさしつかえなく)代り馬差し出し候様、当人方并(ならびに)私共取計置可申候(取り計らい置き申すべく候)、尤(もっとも)右足留金受取候ニ付、御用相済候迄ハ、何様の義(なにようのぎ)御座候共、代り馬差替無之内ハ(代わり馬差し替えこれ無きうちは)為引取(ひきとらせ)申間敷候(申すまじく候)、後日毛頭御差支無之様(これなきよう)、当人共銘々証人有之候、別紙帳面此度差上(このたび差し上げ)、私共連印一札(れんいんいっさつ)差出申候処、仍て如件(よってくだんのごとし)

 一字ずつ「くずし字」を字典で確認して筆写する。それを改めて解読し、読み下す。繰り返しやってはいるが、十をやって覚えられるのは一つだろうか。だが十回やれば十を覚えられる。そうやって一歩一歩古文書に慣れ覚えて行く。古文書が読めてから、何かの役に立つかと言えば立たず。

 江戸時代の農家名主が遺した文書を、現代人のあたしが一字一字読めつつあって「あぁ、やっと江戸人に追いつけたかなぁ」とただ謙虚になって行く。謙虚になってそっと静かに死んで行く準備かも。あたしにとって筆写=写経みたいなものです。

 最近、自転車で東京湾埋立地に走るのに凝っている。同地成り立ちの書を読めば、この古文書が書かれた嘉永七年のペルー艦隊再来に備えた台場(砲台)築造の記述が欠かせぬ。妙に江戸趣味と自転車趣味がクロスしている。


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皇居前つらなり走る野分かな [新宿発ポタリング]

runner_1.jpg 自転車散歩に快適な秋です。あたしは懲りずに下町や東京湾埋立地へ走る。まずは外濠から内濠へ。半蔵門に至れば〝皇居ランナー〟らに出逢う。自転車を片隅に寄せると、脇を老若男女のランナー群が反時計回り、つまり日比谷への坂を嵐(野分)のように走り下って行く。

 昨今のランナーウエァはファッショナブルで、その躍動する姿を見るのは楽しいが、よくよく観察すれば脚の筋肉は悲鳴をあげ、呼吸も荒い。おそらく仕事も頑張ってい、その上なお、苦に耐え走っているのだろう。

 山の手から下り坂で日比谷へ至れば〝皇居ランナー〟とはお別れ。あたしはさらに東へ(臨海埋立地)、北へ(下町)、南へ(芝・品川方面)と走り続ける。だが「行きは良い良い帰りは恐い」で、山の手への帰路は概ね上り坂になる。まずは内濠・外濠の上部へ、さらに武蔵野台地(淀橋台や豊島台)への上りになる。

 帰路が辛いのを知っていながら、自転車に跨れば性懲りもなくまた坂を下って下町、埋立地へ走りたくなってくる。帰路の辛さは鍛錬次第で、そのためにも小径自転車(20㌅)で大腿筋パワーアップが必要。かくしてまた走る。辛さに耐え走るランナーらと同じだなと思う。昨日10日は「体育の日」。そう、東京オリンピックの時は、騒がしい東京を脱して友と伊豆で遊んだことを思い出した。


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名も知らぬ婆と見上げる欠けた月 [暮らしの手帖]

gessyoku2_1.jpg 昨日の皆既月蝕。近所の道路っぺたで見知らぬ婆さんと世間話をしながら月蝕を楽しんだ。皆既に至る直前に南からの雲で覆われ、乱反射で「赤銅色」に照る月蝕は見られず。

 自分のブログ・アクセスを見たら、2011年12月10日の月蝕を記した頁が閲覧されていた。「冴える月欠ける節理の寒さ哉」なる駄句を添え「次の皆既月蝕は2014年10月8日、それまで生きているだろうか」と記していた。

 特別な写真が撮れたワケでもなく、今日はブログをお休みと思っていたが「2014年10月8日まで生きているかどうか」と記していたので、「大病もせず、無事に生きてい、名も知らぬ婆さんと月蝕を楽しんだ」ことをアップしておくことにした。次の皆既月蝕は2015年4月4日。


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異国船来航時の荷馬・口取りのギャラ [くずし字入門]

komonjyo10_1.jpg 以下、左筆写の解読文(読み下し文) 

 差入申一札之事 尾州様御用御小荷駄馬之儀(おこにだうまのぎ)、今般異国船渡来ニ付、急御用向之節、老馬并(ならびに)聊(いささか)たり共御用相立兼(あいたちかね)候馬ハ相除(あいのぞ)キ、全(すべて)御用相成候(ご用あいなり候)馬壱疋ニ付口取共、御用之節一日銀拾四匁ツゝ、御渡可被下(おわたし下さるべく)候、夜中御用之節ハ右同断(どうだん)、可被下筈取極(下さるべきはず取りきめ)、尤(もっとも)御用被 仰候迄(ご用おおせられ候まで)、足留金(あしどめきん)之内三十日金壱分ツゝ之割合を以(もって)、此度(このたび)私共御受負仕度(下おんうけ負いつかまつりたく)、右ニ付馬弐拾五疋分足留金六両壱分御渡し被下(くだされ)、慥(たしかに)受取申処実正(じっしょう)御座候、然上者(しかるうえは)兼て急御~(つづく)

 当時の相場を現代換算すると銀壱匁=ニ千円。馬と口取りで銀拾四匁=二万八千円になる。当時の大工日給は銀五匁四分ゆえ、大工日給より少し安い。馬二十五疋で六両壱分(壱両=十二万八千円×六=七十六万八千円と壱分=三万二千円で計八十万円)ということか。

 この古文書は嘉永七年二月六日のこと。一月十六日にペリーが軍艦七隻で再来日して江戸湾に停泊。三月三日に軍事的威圧に屈して「日米和親条約」を締結。その最中に取り交わされた尾張藩江戸屋敷と農家名主の覚書。同年十一月に東海・南海地震。翌安政二年に直下型の安政江戸大地震。この古文書はよくもまぁ、焼けずに残っていたなぁとも感心する。


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湾岸2)造船場跡「ららぽーと豊洲」 [新宿発ポタリング]

harumibasi_1.jpg 23年前のこと。伊豆大島に小さなロッジを建てた際に「豊洲埠頭の七島海運」に幾度か通って荷物を送った。晴海で左折し、道なりに右へ右へ曲がって荒涼とした「豊洲埠頭」に入った。思い出すのはそこまでで、現地図を見ても、そこが何処だったかおぼつかぬ。ボケたし、景色が余りに変わってしまった。

 先日、自転車で「晴海大橋」を渡った。地図を見ればその一帯が「豊洲埠頭」。「晴海大橋」に並んで東京湾寄りに「豊洲大橋」もあり。架橋済だが築地市場に代わる「豊洲市場」が完成してからの開通だろうか。

isikawadock_1.jpg 知らないことばかりの臨海埋立地区が気になって、再び自転車を駆った。今度は「馬場先門」から「南高橋」手前をちょっと戻って「佃大橋」で隅田川を渡った。「月島」を突っ切って「朝潮大橋」~「春海橋」から豊洲に入った。同橋に平行して赤錆アーチ鉄橋(単線)があり。新しい街に異彩を放つ景色なり。これは東京港湾局による臨海鉄道の廃線(平成元年)らしい。

 橋を渡って右側が「三井ショッピング・アーバンドックららぽーと豊洲」なる複合商業施設。豊洲が変わった!と話題になったことがあるも、わざわざ足を運ぶまでもなく、かくして初めて観る街が広がっていた。そこは石川島播磨重工業(現IHI)跡地で、当時の修理ドック一部とクレーンが遺され、そこが水上バス乗り場と跳ね橋で公園化されていた。当初は40分かけて跳ね橋を開閉していたそうだが、水上バス便増加で目下は開きっぱなし。

 この複合商業施設に隣接して超高層マンション(約千五百戸)がある。元は何もなかった豊洲ゆえ、住居者は地元民であるはずもなく、いったいどんな方々がここで暮らしているのだろうか。この辺、豊洲と晴海を併せて「東京インナーハーバー」というそうな。ヘェ~。「台場・有明」地区と共にオリンピックに向けてさらに発展するらしい。

 結局、23年前に幾度か通った「七島海運の豊洲埠頭」の面影を探せぬまま、また「晴海大橋」を渡って新宿に帰ってきた。東京湾埋立地の見知らぬ街「豊洲、晴海、台場、有明」になんだか魅せられつつある。家に戻ったらかかぁが「おまいさんは江戸好きのくせに、新しい処も好きなんだねぇ」と呆れていた。


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異体字の字典ひもとく夜長かな [くずし字入門]

itaiji_1.jpg 「異体字解読字典」(柏書房、二千円)を購った。巻頭に「異体字とは」が記されていた、~現在正しい楷書とされているのは「康熙字典」(中国の漢字字典で日本でいう旧字体が載っている)や「常用漢字」に載っている字体で、それ以外の古字、本字、俗字、略字、通用字、さらには草体のくずし字もすべて異体字といえる。

 ということで、私たちのまわりには「異体字」が溢れているのだが、隠居してから「異体字字典」を初めて手にするは、遅きに失する感が否めない。先日受講した古文書講座に「鹿浜町」(筆写参照)が出てきた。「鹿」はパソコンでは出てこない略字で、「浜」は新字体ゆえに当然ながら「濱・濵」のくずし字。こうなると「異体字」の字典なしでは、くずし字の元の字もわからん。

 秋の火を嫌って穐と本字記し

sikahama_1.jpg 写真の開いた頁に「秋」がある。旧字・本字は「穐」。この字は二十年も前から知っていた。某歌手の名古屋の劇場公演をレポートした際に「千秋楽」は「千穐楽」と記しなさい。「秋」には「火」があって劇場は嫌いますゆえ~と指摘された。芸処・尾張のこだわりだ。

 目下、尾張藩がらみ古文書の復習中。一方読書中は尾張藩御用人から隠棲した横井也有の『鶉衣』。也有隠棲の裏には、徳川吉宗に反抗した当時の藩主・吉春によって翻弄された御用人の日々があったに違いないと睨んだので、徳川吉春関連本も読んでいる。妙に尾張づいてしまった。その辺を勉強しつつ字典をひもといていると秋の夜長も短いこと。


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小荷駄馬三十七疋の代金は? [くずし字入門]

komonjyo9_1.jpg 左記古文書筆写の解読文と読み下し文。題字は「奉差上御受書之事」(以下棒組)

一 小荷駄馬 三拾七疋 前日朝被 仰付候ハゝ、壱疋ニ付 但 代銀拾三匁五分 夜中右同断  一 右当日出被 仰付候ハゝ、壱疋ニ付、此分ハ前々ゟ家業差留置候ニ付、今般被 仰付候日ゟ御用被 仰付候前日迄、足留銀日々銀四匁ツツ、御渡し被下置候様奉願上候 但 御用被 仰付日よりハ壱疋ニ付、代銀拾三匁五分 夜中右同断  右者今般前書奉申上候通り、御用向被 仰付被下置候ハゝ、聊無御差支大切ニ相勤可仕候、依之御受書奉差上候処、如件

 古文書は漢字羅列で漢文風だが、漢文とは似て非なのだろう。だが古文書を読んでいると、漢文もちょっと身近に感じられてくる。さて、この文の読み下しは~

 「差し上げたてまつり御受書(おうけしょ)の事」 ひとつ 小荷駄馬(こにだうま)三十七疋、前日朝おおせつけられ候わば、一疋につき ただし 代金十三匁五分、夜中右同断。 ひとつ 右当日出をおおせつけそうらえばは、一疋につき、この分ハ前々より家業さしとどめ置き候につき、こんぱん、おおせつけられ候日より、御用おおせつけられ候前日迄、足どめ銀日々銀四匁づつ、御渡しくだしおかれ候よう願い上げたてまつり候。但し、御用おおせつけられる日よりハ一疋につき、代銀十匁五分 夜中右同断。右はこんぱん、前書申し上げたてまつり候通り、御用向きおおせつけくだしおかれ候はば、いささかおさしつかえなく、大切ニあい勤めべくたてまつり候。これにより御受書差し上げたてまつり候ところ、くだんのごとし。

 お経のように何度も声に出して繰り返し読めば「候文」が頭に入って来るかも。「同断=同じことわり、同様」。※初心者の読み下しゆえ、参考にしないように。


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