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海越えの姿は見えぬ富士の笠 [週末大島暮し]

kasagumo2_1.jpg 大島ロッジから磯に出ると正面に富士山が見える。海越え、伊豆半島越えの富士。写真を撮った日は、富士の姿はなく「笠雲」だけがあった。これまた趣なり。

 島暮しでは夕方に「浜の湯」からサンセットを愉しむ。秋・冬の夕陽、富士山のシルエットの美しいことよ。先日、ハワイ観光のテレビを観ていたら〝夕陽ポイント〟に人々が集い賑わう映像があった。大島では至る所〝夕陽ポイント〟だが、秋・冬は冷たく強い西風でジックリと愉しむこと叶わず。その意では温泉に浸りつつの夕陽鑑賞は別格、至福なり。

 ハワイがハイビスカスなら、大島はツバキだろう。陽光に育まれたハイビスカスに比し、寒さに育まれて咲き誇るのがツバキ。「藪椿門はむぐらの若葉哉」は芭蕉句。むぐら=葎。蔓草の総称。庵に藪椿が咲き、門に繁った蔦には若葉が芽吹いているよ。

yuhi1_1.jpg 大島で自生しているのは「藪椿」。椿を季語分類すれば「藪椿・玉椿・赤椿・落椿・散椿・花椿・八重椿」などが春。「寒椿=山茶花と藪椿の交配種」は秋。「雪椿=藪椿の変種」「冬椿」は冬。

 ハイビスカスと藪椿の違いは大きい。大島にハワイのような開放的・陽気なリゾート感を求めるのは無理だろう。

 笠雲だけで姿を現さぬ富士山をみつつ、大島の魅力とは何なのだろうと改めて考えた。来春の大島「椿まつり」は1月25日~3月22日とか。


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西風(にし)備えこれも必需の高梯子 [週末大島暮し]

hasigo_1.jpg 都会の隠居暮しはシンプルライフ。使わぬ物は捨てる。だが島暮しはそうも参らぬ。各種大工道具(電動)、チェーンソー、草刈機、斧、鉈、熊手箒、シャベル、鍬、煙突掃除用具、釣り道具、ダイビング用品、コンクリ仕事のとろ舟、鏝、刷毛、七輪、BBQ、そして車~。東京暮しには不必要な物で溢れている。(しかも車は5代目、錆朽ちた物置も2代目をはじめ多くが買い替え)

 で、今度は念願の「梯子」を購った。何年か前に吹き抜けの照明が切れ、テーブルの上に椅子また椅子のサーカス技で電球交換をした。ペンキ塗りにも梯子は欠かせぬだろうが、急を要したのが吹き抜けの窓の鍵。内鍵で手が届かない。

 これから厳しい西風の季節です。ロッジが吹き飛ばされるかの恐怖。相当な重しを入れた物置も、西風にズルズルと動きだす。鍵かからぬ窓も隙間をジワジワと広げてゆく。防風林が伐採されて、冬は恐くて暮らせぬようになったが、冬の留守備えに窓鍵はシッカリと絞めておきたかった。島(田舎)暮らしに〝シンプルライフ〟は通じない。


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鵜渡根島波浮の鵜の鳥ゃ帰る島  [週末大島暮し]

tosima_1.jpg 大島で撮った南の島々の写真をモニターで見てい、ハタと頭を抱えた。島の名が言えぬ。島の小学生でも知っていることで「あぁ、恥ずかしや」と焦って調べた。まず手前の三角形が利島(4㎢・人口約300人)とは知っている。写真の濃淡順に利島隣の小島。その奥の台地状の島、そして利島右奥の島。

 利島隣の小島がわからない。観光地図になし。Googl地図で見れば点のような島があった。拡大してゆくと「鵜渡根島(うどねじま・無人島)」とあった。ネット検索すれが磯釣りポイントで、デーモン小暮らしきメイク人間が釣った魚を誇らしげに持った写真がアップされていた。♪波浮の鵜の鳥ゃ日暮れにゃかえる~。波浮の鵜の鳥が帰る島なのかしら。

 次に台地型が新島(23㎢・人口3千人)で、利島右奥が神津島(19㎢・人口2千人)。式根島(約4㎢・人口600人)は利島の裏側か。これら島々は流紋岩系で白い砂浜。黒砂の大島に比して南国リゾート感があって人気があるそうな。新島と式根島の間にもう一つ無人島「地内島(じないじま)」あり。両無人島はかつてカンムリウミスズメが繁殖していたそうだが、今は繁殖確認がないとか。

 その他の伊豆諸島(三宅島・御蔵島・八丈島)は、さらに南で大島からは見えない。三宅島には仕事で行ったことがあるも、他の島には「いつかきっと」と思って、今度もまた「いつかきっと」と思った。


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職を辞し浮沈もなしぞ酉の市 [暮らしの手帖]

toronoiti_1.jpg 小春日和の昨日「久しぶりに新宿御苑をお散歩しましょ」ってことで、まずは明治通りを歩いた。途中の「花園神社」が「酉の市(今年は二の酉まで)」で賑わっていた。「イヨォ~、シャンシャンシャン~」。あちこちで三本締め手拍子の盛り上がり。

 「酉の市」は商売繁盛を願う熊手を売る露天商が軒を連ねる。あたしは数年前に会社をたたんだ。イヤでしょうがなかった経理~確定申告、税務署通いからの解放。今は売上に心煩うこともなく、つくづくと「隠居っていいなぁ」。

 現役中は忙しさに読書もままならず。今は読めば読むほどに己の無知を恥じ、新たな興味が湧く。本は新宿の図書館九館。それに疲れたら自転車散歩。貧しく慎ましく、それでヨシと「シャンシャンシャン~」。御苑のベンチで紅葉を愉しみつつ、伊勢丹地下で購ったお弁当をいただいた。


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啼き猛る百舌鳥の地となり島暮し [週末大島暮し]

mozu1_1.jpg 今回の島暮しは、百舌鳥の猛々しい高啼きに迎えられた。歯ぎしりのような「キチキチキチッ」の啼き声は幾度も聴いていたが、今秋(十月下旬)の百舌鳥の高啼きの凄まじいことよ。文字通り「百舌鳥」の名を遺憾なく発揮してさまざまに啼くが、その甲高さ・鋭さは変わらず。

 ヤツ(百舌鳥)は、この防風林伐採の一画をナワバリに定めたことを高らかに主張している。「庭の管理もできねぇ爺さん婆さんには、この地は渡せねぇゼ」と啼いているような。

「おまいさん、百舌鳥がバッタを捕まえたよぅ」。かかぁが窓の外を指さす。電線に止まった百舌鳥の嘴で大きなバッタが暴れていた。どこかの枝に突き刺すのだろう。早贄。小さな猛禽の猛々しさに、生命力も枯れ始めた我らは、この地で肩身狭く暮らす他はない。情けなくも「一眼レフ+望遠レンズの重さ」にも負けて、島に持参はコンデジ。シャープにはとても写せない。

 島のTさんは同世代だが、何と!突きん棒で50㎏のクロマグロを仕留めたばかり。弱気のあたしに「ダメ・ダメヨ。人生これからじゃないか」と言う。クソッ、「空元気」で生きてみようかと思った。


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蜘蛛の巣をかき分け入るる庵かな [週末大島暮し]

jyorougumi2_1.jpg かつては週末通いだった伊豆大島だが、次第に億劫になった。昨年は春秋の二回。今年は秋だけ。庭は薮と化し、ロッジは蜘蛛の巣が被う。拾った小枝で、幾つもの女郎蜘蛛の巣を払い払って、やっとロッジの鍵を開ける。

 久しぶりゆえ車も草刈機もチェーンソーもエンジン始動せぬ。老朽化するロッジはメンテナンスが欠かせない。あれもこれも軟な都会老人の手には負いかねて人頼り。せめて自分でと、朽ち行く壁のペンキ(オイルスティン)塗りくらいは頑張ってみる。

 東京での隠居暮らしはシンプルライフ。ロッジ所有が重荷になってきた。同世代の島移住者T氏が「おめぇは贅沢だよ」。然り。ロッジを手放そうか。いや、新宿のマンションを賃貸に出して〝島定住暮らし〟と参ろうか。

 腹が赤く熟した産卵前の女郎蜘蛛に問えば「おいらぁ~、廃屋の方が棲み易いぜ」とぬかしやがった。


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湾岸12)メモ「江川坦庵」とは [新宿発ポタリング]

daiba_1.jpg 東京湾史を私流に200字でまとめる。~明治まで霊岸島の河岸が荷揚場だった。浅い東京湾の浚渫土で「佃島・石川島」地続きに「月島埠頭」ができた。同じく浚渫土で「晴海埠頭」が昭和4年に誕生。大正から明治の帝都発展で「日の出桟橋・芝浦埠頭・竹芝桟橋」ができ、戦後の高度成長に電力の地として「豊洲埠頭」ができた。

 一方、都民のゴミは「夢の島」へ。第二夢の島=若洲、第三夢の島=中央防波堤内側埋立地、第四夢の島=同外側埋立地、第五夢の島=新海面処理場と海は次々にゴミで埋立てられた。物流拡充で青海コンテナ埠頭(第一~四)、大井埠頭(一~五)も完成。ゴミ埋立地と埠頭群に抱かれるようにして、嘉永6年築造の「台場」を軸に「臨海副都心(台場・青海)」が開発された。

 湾岸史をかく振り返ると、そのルーツに「台場」あり。ならば台場を企画・設計・施行監督した江川坦庵を知りたい。仲田正之著「江川坦庵」から〝坦庵像〟を短くまとめてみた。江川家は26代より太郎左衛門を名乗り、33代から韮山代官。支配管轄地は「武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐」で、坦庵は36代目。

 享和元年(1801)、伊豆・韮山屋敷で江川英毅の次男・英龍として誕生。文政1年より神田・撃剣館で剣術修行。2年後の二十歳で免許皆伝。撃剣館四天王の一人。館主没後に兄弟子・斉藤弥九郎に撃剣館を経営させ、俎橋・練兵館の師範代にもした。

 34歳で太郎左衛門の名と韮山代官を継ぐ。詩文・書画にも優れ、号は坦庵。江戸屋敷は本所(おや、勝海舟生誕地と同じだ)。生活は質実・倹約。弥九郎を共に行商人姿で支配地を巡回し「世直し江川大明神」の異名。天然痘種痘を我が子に施し普及させた。当時の進歩派知識人は蘭学に惹かれた。父は杉田玄白、伊能忠敬、間宮林蔵と交際。坦庵もシーボルト付きボーイからオランダ語習得の幡崎鼎に学ぶ。

 天保8年に洋式軍船、大砲製造などの海防を建議。だが幡崎は蘭書購入で軽追放。次に渡辺崋山と交際。老中・水野忠邦は江戸湾防備の備場(そなえば)見分を目付・鳥居燿蔵と韮山代官・坦庵に命じた。坦庵はこの見分で猿島~富津の浦賀水道に海防線を設けることを建議。しかし西洋知識派・坦庵と国学派・鳥居はことごとく対立。

 鳥居は南町奉行になって〝マムシの燿蔵〟になる。高野長英、渡辺崋山を捕らえた〝蛮社の獄〟。馬琴は息子の友・崋山と交友を深めていたが、崋山の蟄居・自害に手を差し伸べられなかったことを悔やむ。水野~鳥居による「天保の改革」は奢侈禁止も厳しく為永春水が手鎖50日、柳亭種彦が版木取り上げ、市川團十郎は江戸払い。芝居小屋は郊外(浅草)に追いやられた。

 坦庵は高島秋帆の洋式砲術の免許皆伝になると、鳥居は高島も捕まえるが、ややして水野は改革挫折で老中退陣。〝マムシの鳥居〟も町奉行罷免。老中は安倍正弘に代わる。坦庵の尽力で高島秋帆は放免。幕府買上げの高島の大砲演習の四門、小銃取り寄せを願い出て砲術習得の韮山塾を開設。ここで学んだ家臣・塾生約300名。坦庵没後の修練場門弟は4000名余。

 オランダ語は使えぬゆえ「担え銃(ツツ)」「気を付け」「前へ習へ」などの「鋭音号令」は坦庵発案とか。この時期に坦庵は兵糧としてパンも作って「パン祖」にもなる。ジョン万次郎も坦庵の専属通訳・翻訳官として相次ぐ異国船との交渉に活躍。韮山塾や没後の修練場から育った多くの人々が感臨丸で渡米したり、幕末・維新に活躍している。

 坦庵の海防論は軍船製造、農兵論、浦賀水道の防衛築造。だが幕府の腰は重い。ペルーが浦賀を去った2ヶ月後に、慌てて坦庵企画の台場築造を決意。坦庵の設計・監督でまずは第一~第三台場に着工。八ヶ月で竣工。その後に第五~第六台場を十ヶ月で完成も、後は予算不足で断念。

daibamegami_1.jpg 坦庵建議の浦賀水道防衛線は、明治に入ってやっと実現で猿島・第一。第二海堡築造。洋船製造の願いは、座礁したロシア船ディアナ号代わりに戸田号を製造。また韮山に鋳造溶解の反射炉を完成させて鋳鉄銃を生産。安政2年(1855)55歳没。彼の建議はかく明治に実現・発展され、韮山塾や修練場の門弟らの多くが後に大活躍。坦庵、偉人なり。幕末・維新は薩長ばかりではなく「坦庵、勝海舟あり」ってことで締めくくりたい。

 墨田川沿いに立派な勝海舟像が建ってい、東京湾を指さしている。台場に立派な坦庵像を建てたいところだが、なぜか台場に「自由の女神」が建ってい、それを見るとあたしはちょっと恥ずかしく哀しい。(なお新宿図書館で江川太郎左衛門で検索すれば12冊がヒット。概ね各書共に幕末の偉人的扱い。少しづつ読んでいきましょう)


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湾岸11)東京オリンピックへ [新宿発ポタリング]

tunamifui2_1.jpg 2020年の東京オリンピックは、臨海副都心に選手村や競技場が集中するらしい。前述「東京みなと館」にも、そのプランが誇らしげに表示されていた。ざっと紹介すると選手村が晴海埠頭(昭和4年に東京湾浚渫土で埋立)に建設で、後に5千戸・1万2千人ほどが住める中層住宅に転用らしい。

 競技場は「臨海副都心・有明地区」でバレーボール、自転車(BMX、トラック)、体操、新体操、トランポリン、テニス、トライアスロン、ビーチバレー、レスリング、フェンシング、コテンドーなど。「夢の島周辺」で水泳、水球、馬術、アーチェリー、バスケット、バトミントンなど。「中央防波堤内側埋立地」が〝海の森ナントカ〟になって馬術(クロスカントリー)、自転車(マウンテンバイク)、カヌー、ボートなど。「若洲」でセーリングが行われるらしい。(変更多多。最新情報はオフィシャル広報をどうぞ)。

kaibatu_1.jpg 振り返れば、オリンピック招致活動はちょっと変だった。どこか感覚が変な?総理は、東京電力・福島第一原子力発電所事故による放射能汚染を「完全にコントロールされている」(そういう嘘をシラッと言える理解しがたい感覚)と言い、これまた当時の変な都知事の言動もおかしかった。

 物議収まらぬ国立競技場はどうなるのだろうか。後で厄介物遺物にならなければいいのが。幸いにも葛西臨海公園(野鳥が多い)のカヌー競技場は撤回された。まぁ、そういうワケで湾岸埋立地区はオリンピックに向けてさらに開発が進むだろう。

wangan5_1.jpg「おまいさん、あたしらはオリンピックまで生きているでしょうかねぇ」とかかぁが言う。えぇ、見届けられたら〝長寿まっとう〟でございます。

 ここで「湾岸」シリーズを一応締めくくるが、自転車に跨れば新宿からはほぼ下り坂で行ける下町、湾岸へと足が向きがちゆえ、今後も「湾岸行」は続くだろう。加えて〝江戸好き〟ながら、新しいもんにも胸がワクワクする性分。その湾岸について、余りに無知だったゆえの「湾岸」お勉強シリーズでした。次は晴れた日の自転車散歩で「芝浦アイランド」からお台場へおしゃれなアーバンランチ(Urban Launch、600円+自転車300円)に乗ってみたいと思っている。写真は上から「大島ロッジ前の津波注意看板(標高周知標識)」「お台場の海抜表示」「湾岸の全景」「津波警報が変わります」のポスター。

tunamip_1.jpg<湾岸シリーズ参考資料> 三浦昇「江戸湾物語」、石田進「東京湾・台場」、高橋在久「東京湾の歴史」、芳賀ひらく「江戸東京地形の謎」、東亜建設工事㈱「東京湾埋立物語」、武藤吉夫「お台場物語」、淺川道夫「お台場 品川台場の設計・構造・機能」、東京みなと館「明治四十年代前期・東京の河岸図」、仲田正之「江川坦庵」、「ペリー艦隊日本遠征記」など。参考させていただいたサイトは「東京都港湾局」、「東京都環境局」、東京みなと館「東京湾埋立のあゆみ」、国土交通省関東地方整備局・東京湾航路事務局」など多数。


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湾岸10)「東京みなと館」で湾岸史を [新宿発ポタリング]

kasimokei_1.jpg 過日にレインボーブリッジを歩き、第三台場を散策した。その後に向かったのは「デックス東京ビーチ」「アクアシティお台場」「パレットタウン」「大江戸温泉物語」、むろん「フジテレビ」のイベントでもない。「お台場海浜公園」駅から再び「ゆりかもめ」に乗って「テレコムセンター」駅下車。同センターとは逆側「青海フロンティアビル」20階へのエレベーターに乗った。そこは東京都港湾振興協会「東京みなと館」。

 入館料200円。まず眼前に展示されていたのは江戸時代の新酒番船(新酒初出荷の樽廻船)入津風景再現のミニチュア模型。大坂から届いた樽廻船が新川河岸(霊岸島)に到着の賑わいが再現されていた。そして幕末の台場造築から、高度成長期に次々と拡充整備されていった埠頭群。産業面からみた東京湾史が様々な資料で説明されていた。

yurikamome_1.jpg 入館者、我ひとり。東京湾発展の様子がまとめられた全十編のビデオも、ひとりでじっくり・ゆっくり閲覧させていただいた。眼と頭が疲れて窓の外を見れば、新宿の都庁展望室からも見えた青海埠頭のキリン型のガントリークレーン(gantry crane)群が眼下に広がっていた。帰りに「明治四十年代前期・東京の河岸図」(四六全版だろう古地図)を購った。

 「東京みなと館」を出ると並びのビルが「日本科学未来館」で、アッと思った。3.11東日本大震災時の同館内で激しい揺れに恐怖する人々と天井一部落下の映像(YouTube)を観たことを思い出した。東京湾の埋立・発展の裏側には、常に大地震・大津波の恐怖が秘められていると。

 ちなみにあたしの大島ロッジは海ッぺリに建ってい、3.11後にロッジ前磯に津波注意の「海抜5㍍」表示の大看板が建った。それを見る度に、どう逃げたらいいかを考えてしまう。老妻の手を引き沢沿いの脆い道を山側に走るか、はたまた車で勇気を出して海沿い道を走ってから高台方向へ曲がるか。いや、どうも助かりそうもない。

yurikamomerosen_1.jpg 帰京する大島・岡田港で、目立たぬように張られていた小さな紙を見た。「南海トラフの巨大地震では大島の最大津波は約16㍍、到達時間は約20分。元禄型関東地震(元禄16年。大正12年の関東大震災と同じ海溝型地震のことだろう)では最大津波高は約8㍍、到達時間は数分」と記されていた。そして船客待合所も平成28年3月30日完成予定で地上5階建て(20.60㍍)の「兼・津波避難施設」になる旨の建築計画標識もあった。

 ★追記:12月21日の新聞に「岡田港に造られる津波避難タワー」のイメージ図が載っていた。なんと予定も早まって2015年度に完成。待合所の立て替えとセットで近隣地に5階建て、最大1600人が避難できると施設とか。1~3階が待合室、土産店、飲食店。4・5階が備蓄倉庫、飲料水貯蓄槽。都は他にも津波避難タワーの建設を進める方針とあった。

 伊豆大島が噴火で全島民島外避難したのは38年前の昭和51年。三宅島の島外避難が14年前の平成12年。大島で39名の死者・行方不明者を出した土石流災害は昨年のこと。災害はいつ襲ってくるかわからない。今回の島滞在中もドンッという数度の地震があった。あとで聞けば7月下旬から眼前の沖を震源地とする群発地震が続いていたそうな。

 そう、台場海浜公園では観光客には気付かぬ場所に「海抜5.5㍍」表示があった。2020年に東京オリンピック開催。湾岸地区は、そこに向けて更なる開発が急ピッチで進んでいるようだが、オリンピックまでは大地震・大津波が襲って来ないということだろうか。世界の温暖化阻止(気候変動)議論も、大国の勝手我儘で埒あかず。海面上昇にも備えなくばいけないだろうに~。 


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湾岸9)大島と台場と海堡 [新宿発ポタリング]

jethasi_1.jpg 伊豆大島の車の按配、藪と化したロッジの庭、その他諸々で急きょ大島へ行くことになった。竹芝桟橋からジェットフォイル艇で1時間45分。レインボーブリッジ下を通過し、右に大井埠頭、左に台場・中央防波堤埋立地・新海面埋立地。そして富津側に「第二海堡」を見ると東京湾から大洋に出る。

 ここで改めて「台場・海堡」について。これらは韮山代官・江川太郎左衛門(江川英龍=ひでたつ、坦庵)によって、ペルー艦隊来航前から日本の「海防構想」として建議されていたもの。幕府はペルー艦隊来航に慌てて同建議より泥縄的に造ったのが「お台場」。なお同見分には坦庵の従者として桂小五郎が付いていた。そして明治になって江川代官建議の自然島・猿島を含めた「観音崎~富津岬」間に要塞島=海堡を築造にやっと着手。横須賀側から「猿島・第三海堡・第二海堡・第一海堡」の順で旅順攻略などに使用の要塞砲が配備された。

dai2kaiho_1.jpg 目下「猿島」は観光島で、「第三海堡」は浦賀水道航路拡充のために平成12~19年の7年間を要して撤去。そして今、船から見る「第二海堡」は地震崩壊で浦賀水道に土砂が流れ込まぬように護岸整備中。

 かく東京湾を脱すれば、伊豆大島は近い。老夫婦のあたしらの島暮らしは、おおむね夕刻になれば「浜の湯」(水着の露天風呂)に浸かりつつ夕陽を愉しむ。夕陽が伊豆半島先端に沈む光景の素晴らしいことよ。陽が沈めば島は〝夜〟。海沿いの我がロッジは文字通り漆黒の闇。降るような星、月明かりに照る海、風に騒ぐ木々と波の音。そう、この地は昔むかし弥生遺跡の地で、さながら悠久の時代に戻ったような島暮らし。

simayuhi1_1.jpg そう云えば東京湾だって12~13万年前は間氷期(氷河と氷河の間)で、上昇した海面で関東地方の大半は海だった。約2万年前に海面が下がって陸地が広がり、そこをナウマン象が歩いていた。唯一の川が古東京川=利根川系で、やがて旧石器時代人=古東京人が住み着いた。縄文・弥生時代に従って再び海面上昇で東京湾ができて平将門、太田道灌、徳川家康へ。江戸後期に百万都市〝大江戸〟の誕生。現在の東京人口は1335万人で、臨海副都心の就業人口は5万5千人、居住人口1万4千人。ちなみに伊豆大島は年々減少で現在は8284人。

kikyou1_1.jpg さて〝温泉と薪ストーブ〟堪能の10日後に帰京しようとすれば台風接近でジェット艇が走らず、久しぶりに大型船「さるびあ丸」で竹芝桟橋へ。浜松町や汐留は今や高層ビル群のビジネス街で〝夜〟だというのにスーツ姿の雑踏。人々をかき分けつつ大江戸線に乗り込んだ。

 夕陽が沈めば漆黒の闇と化す島から、眠らぬ街へのギャップに頭がシビレる。次は過日にレインボーブリッジを歩いて渡った、その後をレポート。


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