SSブログ

営みを天地に広げ都市の暮れ [暮らしの手帖]

parktower_1_1.jpg 未だ見ぬものは見たい。東京タワー、東京スカイツリーにも上っていないが、高層ビルから年末の東京夜景を見たくなった。近くの都庁展望室に再び上った。

 夕陽が沈んだ西に丹沢山系、その奥に富士山。そこからやや南、南西方向は手前から都庁第二庁舎、新宿パークタワー、東京オペラシティ(写真上)。さらに南東方向は東京ミッドタウンタワー、東京タワー、湾岸地区まで高層ビルがひしめいていた(写真下)。北東を向けば下町に東京スカイツリー。

 東京は天へ、地へ伸びている。この展望室は45階で202㍍。遥か下、コンクリートで固められた地底深くには幾重にも入り組んだ地下鉄が走っている。戸建て住宅が次々に消滅し、超高層ビルが増えて人々が呑み込まれて行く。

yakei1_1.jpg 小生の子供時分は小さいながら庭のある戸建て住宅だったが、いつの間にビル、マンション住まい(今は7階在住)。息子や孫らは12階在住で端から〝中空生活者〟でデジタル世代。

 来年の東京はどう変貌して行くのだろうか。また日本はどうなってしまうのだろうか。皆さま、良いお年をお迎え下さい。


コメント(0) 

田沼意次VS松平定信 [くずし字入門]

sadaroucyu.jpg松平越中守(定信)儀、弥(いよいよ)老中上座被仰付(仰せ付けられ)候、御治定(ごちじょう=落着すること)ニ而、来ル十九日比可被仰付(仰せ付けられる)御沙汰ニ付、一両日之内掃部頭(かもんのかみ=大老・井伊掃部菜雄幸)方迄、被仰出(仰せ出され)御達之筈ニ候段、委細被仰越(仰せ越され)承知致候、誠ニ御丹誠ヲ以無滞(とどこおりなく)愚願も相届致満足候、且(かつ)土佐守事も被仰付候、以後世上共ニ評判宜(よろしき)趣ニ及承(承り及び)、別而(別して)至大慶候

 これは十代将軍・家治没後の将軍・家斉(いえなり)の実父「一橋治斉(はるさだ)」が、中奥の小笠原信喜に宛てた秘密書簡の一部。治斉は〝江戸打ちこわし〟の情報を小笠原から将軍に報告させ、同情報を将軍に隠蔽していた田沼派の横田準松(のりとし)を罷免させ、定信の入閣を図ってい、その工作の成功報だろう。文中「土佐守」とあるのは、北町奉行所・曲淵甲斐守が田沼派ということで石河土佐守正民に代わるという事。

 唐突になんでこんな古文書をアップかと云えば、江戸戯作・浮世絵などの盛り上がりを弾圧した「寛政の改革」(恋川春町を死に追い込み、朋誠堂喜三の筆を折り、山東京伝は手鎖五十日の刑、蔦重の財産半分没収、大田南畝の学問吟味への転向など)の時代を理解すべく田沼意次~松平定信の時代をお勉強中ゆえ。

 かかぁが大好きな「鬼平」こと長谷川平蔵が火付盗賊改方長官になったのは定信の老中就任の年で、一方「剣客商売」の秋山小兵衛は田沼意次と親しい間柄。やはりこの辺の時代はしっかり押さえておきたい。

tanuma_1.jpg ってことで目下、村上元三『田沼意次』(昭和63年刊)の読書中だが、だらだらと続く超長編で手こずっている。倦んできたので長風呂やトイレ読書を経て、やっと意次が御三家・御三卿の台頭で「家治」没を機に幕政を追われる終盤に辿り着いたところ。

 そんな折、図書館で財団法人徳川黎明会による『江戸時代古文書を読む/寛政の改革』なる書に出逢って、そこで紹介の古文書一部を筆写してみた。ふ~ん、この長編の裏にこんなリアルな書付があったんだと感心した次第。古文書の勉強としては「弥=いよいよ」の読みを知った。 さて村上元三『田沼意次』を年内に読了できますか。お正月は松平定信関連書に入ります。


コメント(0) 

蓮朽ちて荷風の背中遠くなり [永井荷風関連]

IMG_5145_1.JPG 上野・不忍池の蓮の葉が枯れ朽ち、北風に揺れていた。荷風句に「枯蓮にちなむ男の散歩かな」あり。男はむろん荷風自身。

 永井壯吉は十六歳の時に下谷の帝国大学第二病院に入院し、付き添いの看護婦に初恋。彼女の名が「お蓮」さんで「蓮=荷」で「荷風」と号したは定説。しかし本人は随筆「十六七のころ」に ~東京で治療を受けてゐた医者は神田神保町に暢春医院の札を出してゐた馬島永徳という学士であった。暢春医院の庭には池があって、夏の末には紅白の蓮の花がさいてゐた~ とだけ書いている。

 永井壯吉が「荷風」と号したのは、広津柳浪の門人となり「文芸倶楽部」に『薄衣』を発表の際に「荷風・柳浪」合作名義としたのが最初らしい。(以上参考:秋庭太郎「考証永井荷風」、荷風全集(岩波書店)「第十一巻」「第十七巻」、中央公論「日本の文学/永井荷風」)

 先日、小冊子編集のお譲さん方の原稿が余りにお粗末で、かつ文末に絵文字があったりするので「せめて新聞を読んで見出し、リード文、本文の構成、原稿の書き方、4W1 Hくらいは勉強しろよ」と言えば、「新聞購読はしていません」。あぁ、迂闊なり。今の若い方々が文章に接するのは主にインターネットやメールらしいのだ。あたしも古い人間になってしまった。「荷風さん、日本はすっかり変わってしまったよ」。揺れる枯蓮に向かってつぶやいた。


コメント(0) 

アメ横の師走を知るや都鳥 [暮らしの手帖]

yurikamome1_1.jpg 野暮用で「田端」へ。するってぇと、かかぁが「おまいさん、ちょいと足を伸ばしてアメ横で〝ホタテの干物〟を買ってきておくれよぅ」。用事を終え、新宿とは逆方向の山手線で「上野」下車。アメ横へ行く前に上野公園~不忍池を歩いた。多くの冬鳥が群れていた。

 アメ横へ足を踏み込むってぇと、そこは歩くも難儀な師走の大賑わい。雑踏をかき分けつつ、不忍池で優雅に飛び交っていたユリカモメらは、この大混雑は知らねぇだろうなぁと「アメ横の師走を知るや都鳥」とつぶやいた。

 在原業平はユリカモメをミヤコドリと詠んだ。鳥類学上の和名「ミヤコドリ」はモダンな黒白ツートンで、赤い眼・脚・長ぁ~い嘴を持って干潟(三番瀬など)で群れている。

 「嘴と足と赤きといひし業平の昔おもほゆる都鳥かも」。子規はこう詠ったが、さてどちらの都鳥を詠ったのだろうか。大岡信監修の歳時記には元禄八年刊の「頭書増補訓蒙図彙(かしらがきぞうほきんもうづゐ)」に描かれた鳥類学上のミヤコドリを載せているが、紹介される俳句・短歌の都鳥は、すべてがユリカモメを詠っていた。


コメント(0) 

年の瀬に墨跡ならんペンで書き [くずし字入門]

peniroiro_1.jpg 年末になると新春を祝う墨跡鮮やかな書に出逢う。それらを見つつ、逆に万年筆が欲しくなった。パーカーかモンブランか。昔はどちらかの万年筆で、インクボトル持参で喫茶店ハシゴをしつつ原稿を書いていた。数行が液晶画面に表示されるワープロが出回った頃に、ワープロに切り替えた。以来、机のワープロ相手。富士通・親指シフトのワープロ最上機(レイアウトまで出来た)まで使って、それからパソコンになった。

 今では万年筆でどんな字を書いていたかも思い出せぬが、中指のペンダコが残っている。当時はペンダコに万年筆のインクが染み込んでいた。また万年筆を使ってみようかしらと「パーカー」のサイトを見たら、万年筆でもボールペンでもない「アーバンプレミアム」が人気とあった。

hufr2_1.jpg 高級万年筆を求める前に、それを使ってみようか。東急ハンズ(新宿)で試し書きをすれば、店員の熱心な説明につい買ってしまった。(替え芯付きで¥11,880)。スラスラ書けるんだが、やはりボールペン感覚で数度手にしただけで放置したまま。

 次にネット検索でパイロット「カスタム823WA」なる大田区久が原「アサヒヤ紙文具店」限定(¥32,400)が、筆跡動画付説明で「おぉ、求めるはコレだ」と思った。五反田駅から東急池上線に乗り換えて~まで調べた。そうこうしている間も横井也有『鶉衣』の筆写・解読遊びをしてい、この筆ペンで万年筆インクのブルーで書いてみたら面白いかもと思い付いた。

 筆写はゼブラ毛筆(¥500)で穂先乱れで使い捨て。筆の走り按配を小皿の墨汁と水で調整しつつ使っているが、これを万年筆インクのブルーでやってみる。着想なかなか良しと新宿・世界堂へ走った。パイロットインク・ブルーの会計を待つ間、カウンターに「ラミーのサファリ」なる万年筆があって、気軽に試し書きが出来る感だったので手に取った。まぁ、よく書けること。しかも安い。

 FE(極細)、F(細字)、M(中字)の中からMに決め、インク吸入コンバーターを付けてもらって¥4,147。自宅に戻ってネット調べをすればドイツ製で「カジュアル万年筆、万年筆初心者向け、サファリでも使える頑丈さ」の惹句。ペン先は鉄だが、高級万年筆よりこれを数本持って、さまざまなインクを使い分けるのも面白いかなと思い始めている。

 写真は駄句を右より「ゼブラ筆ペン、ラミー・サファリ、パーカーのアーバンプレミアム」で書いてみた。


コメント(0) 

めらめらと燃へ行く後の我が身かな [週末大島暮し]

honoo1_1.jpg 台風で落ちた煙突を直していただいた。直し方が良かったのだろう、その後の幾度もの台風にも耐え、しっかり立っていた。昨年に伐採木をいただき、チェーンソーと斧で薪を拵えておいた。それで薪ストーブを存分に愉しませていただいた。芋もいただいた。アルミホイルで包んで放り込み、幾本もいただいた。

 「いただく、戴く」と謙譲語。かくも島の方々の助けをいただいて「薪ストーブ」を愉しみ、「島暮し」をさせていただいている。燃える木々も伐採されるまでは自然の摂理を果たしていたのだろう。それをいただき暖をとる。

 ロッジを建てた20数年前は血気盛んだった。ストーブの中で元気よく燃え上がる炎を見つつ昔を振り返る。炎はやがて熾火になり灰になる。さて、心静かで穏やかな隠居暮しが送れるだろうか。

 ストーブの暖に包まれながら横井也有「鶉衣」を読んだ。こんな文があった。~官路の(小生は場合は生涯フリー)険難をしのぎ尽し、功こそならぬ、名こそとげね、ほまれのなきは恥なきにかへて(小生は誉もなく恥は多く)、今此の老の身しりぞき、浮世の塵を剃りすつべきは、いかでうれしとおぼさざるや。

 これは也有翁が隠居して髪を剃る辨だが、あたしはすでに40代で長髪を切って坊主頭なり。さて隠居して浮世のどんな塵を払うべきかと考えてみた。<秋の大島暮しシリーズ>これにて終わり。


コメント(0) 

マメガキとメジロとローズマリー [週末大島暮し]

kakine_1.jpg 島滞在中のこと。某氏がミニ柿の鈴なりの小枝を持ってきた。「メジロが群がっていた。食ったらちゃんと柿の味がした。食ってみろよ」。甘い柿。調子にのって食えば、渋いのに当たった。口を濯ぐなどエラい目にあった。「リュウキュウマメガキ」らしい。

 ガーデニングに凝った時期がある。某年、台風の塩害で全滅した。ロッジ前の三峰山も一夜にして枯れ山。この地でガーデニングは無理と諦めた。今秋はグミもクチナシも朽ちていた。

 先日、テレビで瀬戸内・離島のミカン農家を紹介していた。南斜面に見事に実ったミカン。塩害とは無縁の地と思いきや、塩害で全滅してゼロからやり直した当時の辛さを思い出して涙ぐんでいた。そうか、〝諦めちゃダメ〟ってことか。

 いまロッジの庭に残るのは垣根化したローズマリー、ソテツ2本、新宿の近所のオバさん連を招いた時に誰かが〝引き出物の苗〟を植え、今では6㍍を越える杉だけ。味気ない庭を見つつ「また庭作りを頑張ってみようか」とも思うが、西(季節風)の強いこの地ではやはり無理だろう。

 いま新宿の自宅ベランダに、大島のあの「マメガキ」が挿し木されている。根付くか、朽ちた実から芽が出るか。ひょっとしてうまく育って秋に柿が実れば大島のようにメジロが集うかもしれない。

jitakumejiro_1.jpg 新宿にメジロ? 意外に多いんです。7Fベランダで早春に咲くローズマリーにメジロが遊びに来る。それでは蜜が足りなかろうと、半切りミカンを串刺しすれば幾羽も遊びに来る。窓越しだが2㍍先で戯れるメジロを日々愉しんで4年。メジロらがパタッと姿を消すと辺りは春爛漫。新宿御苑の寒桜にメジロが群れる。

 昨年、新宿西口の雑踏の歩道にメジロの死骸があった。都市にメジロが殖えている証拠だろう。島のメジロは「シチトウメジロ」。新宿メジロとは種が違うが、大島ロッジと自宅のローズマリーは同じ挿し木で殖えたもの。ベランダには明日葉も育っている。「マメガキ」も根付いてくれたら島と新宿の絆がまたひとつ増えるのだが~。


コメント(0) 

サンセットパームライン史 [週末大島暮し]

palmline1_1.jpg ロッジ前の大島西海岸「元町・長根浜~乳ヶ崎下・野田浜」にサンセットパームラインが走っている。片側が磯、反対側が防風林。海側にサイクリングロード併設。人家なく生活感のない美しい海岸ロード。

 同道の歴史を探った。まず昭和12年の「島の新聞」。~府は世界第二の人口を誇る大東京の六百万人の健康と行楽のため、昨年来六十八路線八百五十七粁(㎞)のハイキング道路の建設に着手中であったが、大島にも元町から乳ヶ崎に至る延長十粁のハイキング道路の工事に着手し、今秋までに完成の見込み。幅員二米乃至二米半、勾配は十分の一以内とし移動パノラマ式に雄大な自然美が眼前に展開するやう苦心が払はれている。ハイキングファンは勿論一般大衆にとっても好適の行楽地となる事が充分に期待し得られ、観光大島に又一つ名所が増えたわけである。

koujitocyu_1.jpg 大島循環道路開通が昭和38年。なんと、その26年前に開通。昭和初期のハイキングブームの反映、軍部による体力増進の意図もあったか。次に昭和60年刊の「航空写真で見る伊豆七島の海釣り」。詳細な航空海岸写真で釣りポイントを紹介。その写真集を元町から見てゆく。元町港待合室は屋根の連なりで、長根浜公園は出来たばかりで「浜の湯」は未だなく、御神火温泉の地は林。泉浜は垂直護岸だけでスロープ状護岸もトイレもない。アカッパゲは展望台なし。万立もスロープ護岸なし。ケイカイの我がロッジ辺りは防風林で四角く囲まれた畑(アヤメ科ワットソニアの栽培畑と聞いたことがある)。野田浜は駐車場が出来ているも護岸工事前。

 次に「大島町史」。~昭和62年に自転車専用帯も設けて拡幅整備。名称は公募で「サンセットパームライン」と名付けられた。(この時にヤシが植えられたのだろうか)夕日の眺望が素晴らしく、サイクリング利用者や観光客に親しまれている。

koujitocyu2_1.jpg 生活道路ではないから人家なく、交通車両も僅少。あたしが島通いを始めてからのロッジ辺りの同ラインの変化は~ 「ハマユウの丘」が出来たが、すぐに手入れなく藪と化した。その近くの防風林が大伐採されて塩工場ができた。「ケイカイ」も某年にコンクリ坂道+階段が出来ていた。そこから野田浜寄り絶壁が目下護岸工事中(写真上の坂道先が未完成。ここはどんな風になるのだろうか?)。その海は珍しく砂地。海まで下りられるように造られれば、秘密の海水浴ポイントになり、投げ釣りも釣果が期待できそう。

 一方、ロッジ前の防風林を山側に歩けば、当初はテニス民宿があってコートを拝借していたが、今はない。近くまで舗装路が伸びてきて人家も増えた。突き当り右側に新しいダイビングショップも出来ていた。忘れられたような地だったが、それなりに開発の手が忍び寄り、サンセットパームラインの自転車道もかなり老朽化した。


コメント(0) 

伊豆大島で店・家を建てる [週末大島暮し]

osimaie_1.jpg 大島に通い出した平成3年頃の、伊豆大島の人口は1万2千人ほどで、今は8千3百人ほど。人口も観光客も減少中だが、今回の島暮しでは、三人の新たな島移住者にお会いした。島に新現象がおきているのかもしれない。それはさておき、移住に〝家〟は欠かせない。

 「伊豆大島ハワイ熱帯植物園」調べなどネット巡りをしていたら、伊豆大島に店・家を建てた手記本の新刊が二冊あった。まず最初に紹介は、今年10月刊の馬場仁氏による「自分の手で店をつくる」。同氏による「馬場自然農園」だったかのサイトは何度か拝見したことがある。氏はフジテレビ(河田町)の取材カメラマン8年を経て、36歳で大島移住。農業(養鶏)を生業にしつつ自宅をはじめ大小の家を作ってきて、今回は差木地の自宅脇に15坪のセルフビルドのカフェを240万円で作った。

 資材は主にヤフオクで調達。古民家の梁18本45,500円で落札し、落札額以上の輸送費。中古電柱は運賃込みで7万円。内装、厨房、オーディオ機器、テーブルなど次々にヤフオクで落札し、基礎工事から完成までの苦労が書かれていた。無事開店でハッピーエンドと思えば、2年を経て体調不良(腰痛)で休業。再開店に臨んで床下腐食でまた大工事。今は隔月営業とか。お洒落なカフェ「スペイキャスト」にぜひ訪ねてみたい。

 次は平成24年刊の奥井正雄氏の「終の棲家を建てる~伊豆大島、一七〇〇日の闘い」。58歳、貯蓄と年金を計算すれば78歳でホームレスになるの結果で、賃貸生活から〝終の棲家〟を建てると決意。予算2千万。房総、伊豆、九州、四国を調べて伊豆大島へ。最初は「岡田新開」で220坪600万円が決まりかけるも、他の人に渡ってしまう。差木地で329坪800万円で購入。

 ミサワホーム坪25万円の家が気に入るも、島での施工不可。著者は建築学科卒。同ホームのデザインを真似て自ら設計。島の建設会社の見積額に、資材の自己調達を決める。11ヶ月及ぶ完成までのドキュメント。結局、当初予算2千万が3千5百万。移住7年後に建築当時を振り返りつつの執筆。

 皆さん〝家〟作りに大変な苦労をされているが、あたしの場合は米国レイクタホでスキーをした際に借りたロッジを小スケール化した厚紙模型を作って、後は丸投げの安普請小屋(ロッジ)。横井也有『鶉衣』に~吉田の法師にとへば、冬はいかなる所にもすまる、あつき比(ころ)わるき住居はたへがたしとぞ、とあった。


コメント(0) 

蟷螂の片手の思案我になく [週末大島暮し]

kamakiri_1.jpg 俳句って、いい遊びですね。お金使わずしばし没頭。下手こそ愉しいかも。下五が決まらない。歳時記をひもとけば「カマキリ(蟷螂)」でも、多くの有名俳人が詠んでいる。島で撮った写真を見つつ、あたしも駄句遊び。

 都会暮らしは隠居とて気ぜわしい。だが「のんびり」がモットーで、パソコンも持ち込まぬ島暮しでは、虫と遊ぶ心の余裕も生まれる。オイルスティンを塗ったベランダにカマキリが遊びに来た。前肢を出し、歩き出すかと思えど引っ込め、またそっと前に出して動こうとしない。

 何を考えているのだろう。春に孵化し冬前に卵を産んで死ぬらしい。短命なのに、そんなに優柔不断でいいのだろうか。そう思って、かかぁに言えば、こう返ってきた。

 「おまいさんがセッカチなんですよぅ。ここを建てるのだって、変なチラシに飛びついて勝手にコトを進めて。高い船賃、海ガ荒れれば船は出ず、物価は東京より高く、車は錆びる。陸続きのロッジだったらもっと気軽に通えたものを。せっかちを反省してよ」

 ちなみに竹芝~大島のジェット艇は往復15,740円。ANNの往復は2万数千円か。いつも二人連れだからその倍で、ガソリン・灯油・食費に加えてメンテナンス費用~。竹芝桟橋に向かう途中で眼にする格安海外ツアーの金額に、つい見入ってしまう。

 カマキリのメスはオスを食うそうだが、不便な離島にロッジを建ててしまったあたしは、かかぁにまだ食い殺されてはいない。もう残り少ない余生。カマキリのようにのんびり、大らかに生きて行きたい。


コメント(0) 

幻の伊豆大島ハワイ熱帯植物園 [週末大島暮し]

hawaiisyokubutuenn_1.jpg 島で散歩中に廃墟「伊豆大島ハワイ熱帯植物園」の前に出た。島通い20年の当初より廃墟で気になっていた。いい機会ゆえ調べてみた。

 ネット検索すれば、いとも簡単にわかった。PDFファイル「熱川バナナワニ園50年の歴史」がヒット。伊豆・熱川温泉に開園(行った記憶がある)した同園の経営で、昭和49年に「伊豆大島ハワイ熱帯植物園」を開園。昭和60年8月31日に閉園とあった。経営的にうまくいかなかったのだろう。昭和60年閉園なら、島の方なら入園体験があるかも知れない。今度島に行った時に、どんな植物園だったかを聞いてみよう。

 「熱川バナナワニ園」研究員によるサイト「学芸員の独り言」の昨年夏の記述に、こんな一文があった。~(キミノバンジロウが)伊豆大島ハワイ植物園では露地に列植されていて、完熟した実がとても甘く風味あり最高に美味しかったのが強く印象に残っている。

 キミノバンジロウ(黄蕃石榴)は侵略的外来植物らしいが、別名イエローストロベリーグァバ。フトモモ科バンジロウ(グァバ)属。甘酸っぱくジューシーな黄色い実が秋に成るらしい。今もひょっとすると同廃墟の金網脇に実が成っているかもしれない。これも次の島暮しで調べてみよう。

 我がロッジ近くにも〝ミニ廃園〟がある。何年前だったか、久しぶりに島に行くと、道路沿いに突如「ハマユウの丘」なる東屋付きの公園ができていた。ハマユウが咲き誇る景色を期待していたが、花も咲かず手入れもされず、今は藪と化している。

 追記:昭和63年刊「郷土資料字典」(人文社)に、すでに閉館後なのにこんな紹介文が載っていた。~面積1万6,900㎡。世界各国から集められた1,500種、3,000余本の椿が植栽されているほか、6棟の大温室がある。温室内には、大島と姉妹島関係にあるハワイで収集されたハイビスカス182種をはじめ、ブーゲンビリア、熱帯性スイレン、カトレアなど1,100種5,000本が植えられてあり、四季折々美しい花をみることができる。交通は元町港と園の入口を往復する遊覧馬車を利用(有料)するのが便利。へぇ~、遊覧馬車とは驚きました。

 追記2:ウィキペディアの「大島空港」を見たら、2009年と1976年の航空写真(国土交通省国土画像)が載ってい、それらしき六つの温室らしき建物が写っていた。


コメント(0) 

冬鳥が道を誘ふ藪の道 [週末大島暮し]

kisekifrei_1.jpghoojiro1_1.jpg 閑散とした枯葉舞う小道を車で走っていると、黄色い鳥が道案内するように先を飛んで行く。キセキレイだ。ベランダで日向ぼっこをしていたら、草刈り後の庭に二羽の鳥が舞い降りた。ホオジロのつがいが草の穂を啄んでいた。寒さ厳しくなった北の山から下りて、この辺で越冬〈島)するのだろう。車の前を赤っぽい鳥が幾羽も飛び交った。ジョウビタキ。こちらは中国、シベリアからの渡り鳥。

 昭和12年の「島の新聞」に内田農学博士の記事あり。大島で確認の野鳥は86種。留鳥23種、夏鳥7種、冬鳥24種、迷鳥10種、旅鳥5種。他が17種。

jyobitaki_1.jpg 季節毎に多くの野鳥が島にやって来るが、島の観光リピーターはどれほどか。昨年の大災害影響もあろうが、観光集客は端から減少傾向。今は「復興キャンペーン」で宿泊者やツアー客に相当の割引展開がされているも、多くの島民はお金(都の補助)施策は一過性で、抜本的な集客対策にはならぬと気付いている。

 昭和10年「島の新聞」にこんな指摘があった。~(純農村島から遊覧大島になったが)我々の耳目には彗星のように飛来しては消え、忘れ去られる遊覧地の例を多く知っている。「遊覧地は処女の如し」などと云う言葉さへも産み出されている。

 同文は「都会人が求めるだろう島本来の自然、純情、素朴さ、雰囲気を大切にするのが何よりだろう」と結ばれていた。今から79年も前の指摘。それらを大事にしてさえいれば、季節毎に多くの野鳥が戻ってくるように、観光客も戻ってくるような気がしないでもない。(参考:来島者推移=昭和48年84万人、平成3年53万6千人、今は20万人くらいかな)


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。