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2)量的緩和すれども [政経お勉強]

defla_1.jpg 2回目は「デフレ」のお勉強。日本はバブル崩壊からずっと不景気。不景気=お金がまわらない=デフレ。倒産すれば株券は紙屑=「株安」。物価が下がれば逆にお金の価値は上がって=「円高」。この悪循環が「デフレスパイラル」。(図)

 リーマン・ショックが平成20年(2008)。株急落で1ドルは90円台へ。この時期は福田内閣。次ぐ麻生内閣で株は最安値6,995円を記録。民主党時代も株価7,000円台。平成23年(2011)3.11東日本大震災後に管総理から野田総理になった9月に1ドル76円の円高記録。

 政府は不景気脱出に「量的緩和」策を続けた。企業が融資を受け易く、設備投資をし易く、国民が貯蓄より消費活発になるように「低金利」へ。バブル崩壊後の平成13年(2001)から続けてきたが効果なし。金利調整の実際は日本銀行が行う。日銀サイトの「長・短プライムレート推移」を見た。「長プラ=1年以上」の金利推移は昭和50年(1975)は9.7%で、以後は6~8%を推移。バブル頂点が平成2年(1990)で翌年崩壊。ここから失われた20年の始まりで、平成9年(1996)になると2%台に下がった。だが「金利」下がれど、景気回復ならず。図式通りには参らぬ。「デフレスパイアル」からの脱出は相当に難しそうだ。

 平成24年(2012)。安倍お坊ちゃま内閣が高らかに「アベノミクス・第一の矢」を放った。従来の「量的緩和」とは次元異なる超大規模展開。日銀・黒田総裁の名を冠して「黒田バズーカ砲」とか。第1弾は2年間で270兆円を投入。日銀がお金をジャブジャブ刷って「長期国債」を買う。この強制的「量的緩和」は市場メカニズムを捻じ曲げる禁じ手「財政ファイナンス」と言うそうな。アメリカは08年から470兆円の「量的緩和」を展開して昨年10月に「効果あった」で終了。だが日本では消費者の財布の紐はビクとも動かず、給与も上がらない。予定された消費税アップも先延ばし。

yukimejiro1_1.jpg 平成27年(2014)10月「黒田バズーカ砲第2弾」。年に80兆円投入らしい。10年国債は0.221%、5年物国債は金利低下で募集停止の「超低金利」、株価は目下17,000円台の「株高」、1ドル120円台の「円安」になったが、何故か庶民の財布は固い。給与上がらず。物価は上がる。格差拡大、派遣社員急増で結婚できぬ若者も多い。子供も産めない。老人は老後破綻に怯えている。

 なぜ状況は良くならないのか。理由は経済音痴のあたしにも推測できる。株は上がったが、日本株の売買は6割が外人投資家らしい。ドル高になって円安。割安感で日本株がドッと買われたためだろう。消費者物価指数が2%に近づいたが、デフレから脱出できたワケじゃない。これは食品が値上げされるたびに、ナニナニの影響でと説明付きで報道され、そうした値上げラッシュが重なった結果じゃないのだろうか。

 数日前のテレビで、黒田総裁が外国のなんだか会議に出席で「世界で最も孤独な総裁」と紹介されていた。「超大量金融緩和」をやるも第2・第3の矢の援助がなく梯子を外されたかわいそうな総裁とか。あのジャブジャブ刷ったお金で膨大に国債を買って「国債崩壊」にならぬのか。そして相変わらず我が暮らし楽にならず。

 あちこちの資料より、こんな感じでまとめて(数字に間違いあるかも)みて、日本の現状がちょっと見えてきた。写真は記事に関係なく、昨日のベランダに積もった雪とメジロ。都会の雪はつかの間で溶けるが~。


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鶉衣4:大田南畝の序 [鶉衣・方丈記他]

uzurajyo1_1.jpg まずは四方山人(大田南畝)の序を筆写し( )内に自己流解釈。

いしに(以丹し=往にし=去る)安永のはじめ、すみだ川ほとり、長楽精舎(長楽寺とは?)にあそびて、也有翁の「借物の辨」を見侍り(はべ・る=「あり・をり」の謙譲語・丁寧語)しが、あまりに面白ければ、うつしかへり侍りき。(校注に安政元年なら南畝二十四歳、也有七十一歳とあり)

それより山鳥の尾張のくに(山鳥は尾張の枕?)の人にあふごとに、この事うち出てとひ(問い)侍りければ、金森桂五(尾張藩の俳人。狂歌名は傘衛守・からかさのえもり)、うさぎの裘(かはごろも)にハあらぬ『鶉衣』といへるもの二まきをもてきてみせ給へり。

翁なくなりぬときゝて、なを馬相如(裘も馬相如も「漢書」逸話ゆえ無学のあたしは解釈を省略)が書のこせるふみもやあるとゆかしかりしに(ゆかし=好奇心で知りたい・見たい・聞きたい。「シク活用」で「ゆかしかりしに」)、細井春幸・天野布川に託して、その門人紀六林のうつしをける(をいた)全本をおくれり。

まきかへしみ侍るに、からにしきたゝまく(校注:古今集は「唐錦を裁つ」を「唐錦を立たまく」としているが、ここでは「絶た+まく」にしたらしいとある)をして、とみに(急に)梓のたくみ(版木の匠)に命じて、これを世上にはれぎぬ(晴衣=世間に公開)とす。

uzurajyo2_1.jpg翁の文にをけるや、錦をきてうハおそひし(錦を上におそって?)、けたなる袖をまどかにして(角袖を丸袖にして)、よく人の心をうつし、よく方(ほう)の外(常軌の外)に遊べり。

鶉ごろもの百むすび(ボロボロ衣裳)とハ、みづからいへることのはにして、くつねのかわ(狐の皮)のちゞのこがねにあたらざらめや。(当たらざらめや。同じ語用で「思はざらめや」「匂はざらめや」「逢はざらめや」などよく使われる。「~ないわけがなかろう」の意。否定「ず」の未然形「ざる」+推量「む」の已然形「め」+感嘆「や」)

右のたもとのみじかき筆は(「論語」に右の袂は短い方が使い易いとあるそうな)、なへたるもはづかしけれど(萎えたるも恥ずかしいけれど)、たゞにやはと、へにもはれにも(褻にも晴れにも=いいも悪いも、いつでも)かいつけ侍りぬ(書いてしまいました)。四方山人

 なお『鶉衣』が大田南畝・編で蔦屋重三郎より刊行されたのは前編三冊が天明七年で、後編三冊が天明八年。南畝が三十九歳と四十歳の時。(その後、続編三冊、拾遺三冊は石井垂穂による編録で計十二巻十二冊が文政六年に名古屋の永楽屋東四郎から出版) 


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1)十年国債金利0.221% [政経お勉強]

sihonsyugi_1.jpg 経済は恥ずかしながら全くわからない。税理士の手を離れ自ら確定申告をし始めた時に、理解出来ぬ経理言葉や合わぬ数字に発狂しそうになったこともある。さらに告白すれば数字が苦手。引き算なんかつい指を折りたくなる。〝完全な経済音痴〟のまま隠居になってしまった。ボケる前に多少の経済知識を得たいと思った。そこで手にしたのが水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』。満足に理解できなかったが、えらくスリリングな内容だった。

 日本の総理が自分の名を冠した〝アベノミクス〟とやらを国内外で高らかに謳っている。自分の名を冠したその連呼、その口元を見ていると、なんだか〝幼稚性〟を感じてしまう。これも直観だが、例えば「福島第一原発の汚染水は港湾内で完全にブロックされている」とシラ~ッと演説した時も〝アベシンちゃんの幼児性〟だなと思ってしまった。〝アベノミクス〟とやらを信用していいのだろうか。

 いまブログは横井也有『鶉衣』へ挑戦で〝頭の中は江戸時代〟だが、今年は併せて「アベノミクス」と『資本主義の終焉と歴史の危機』を軸に、初めての政経のお勉強をしてみようと思った。イヤ、お勉強というよりもボケ防止だな。隠居で有り余る時間を持ちながら、散財遊びもできぬ貧乏隠居の暇潰しです。

 水野著はまず「利子率の低下は資本主義の死の兆候」と題した項に、こんなことを書いていた。「10年国債の利子率が2%を下回るということは、資本家が資本投資をして工場やオフィスビルをつくっても、満足できるリターンが得られなくなったことを意味する」。

 本当かしら。ネット検索すれば財務省HPで国債金利情報が公開されていた。平成27年1月20日、10年国債は0.221%。「あんれまぁ~」。2%どころではなく大変な超低利じゃないか。1月22日の日経には「5年物国債、金利低下で募集中止。販売開始後初めて」なる活字も躍っていた。ふふっ、新聞の経済欄を初めて読んだ。

 水野著は昨年3月の刊。出版時より約1年で事態はかくも悪化しているらしい。同著によれば〝もう完全に資本主義の終焉〟だろうが、東京には高成長の象徴かのような超高層ビルが次々に建っている。経済ってぇのは本当にわからない。どこかに「やまかし」が潜んでいる。(続く)

この記事ではなく、昔のHPの「東京下町ことば」へのコメントを「kyokoさん」からいただきました。返信しますと<認証コードが一致しません>で、はねられちゃうんです。で、すいませんがここで返信です。コメントとリンクのご報告ありがとうございます。「おみおつけ」が志ん生で「おつけ」とは知りませんでした。勉強させていただきました。子供時分の下町ことばを思い出した後のあたしは、目下、江戸の文字を読みたく「くずし字」勉強中で「江戸の本」を少しづつ読み始めています。

迂闊にも気付くのが遅くすみませんでした。野鳥を撮られ、テニス趣味のkaikuuさんのサイト「あっちも・こっちも」が弊ブログを紹介して下さっていました。小生も左枠「読んでいるブログ」にリンクを張らせていただきました。ありがとうございます。


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鶉衣3:宗春に仕えた苦労 [鶉衣・方丈記他]

kanseinokaikaku2_1.jpg 横井也有と尾張藩の事情をもう少し知りたい。也有が尾張藩の御用人を務めた父・時衡の家督を継いだのは享保十二年(1728)、二六歳の時だった。その二年後に宗春が尾張藩主になった。宗春の兄・継友が八代将軍継承の闘いに破れたゆえ、宗春と吉宗は因縁の間柄。

 吉宗の倹約施策「享保の改革」に比し、宗春は「温知政要」をもって藩政にあたった。藩主になった翌年。沿道の人々が腰を抜かさんばかりの派手な衣装・行列で名古屋入り。歌舞伎座を京都、江戸、大坂に次いで名古屋にも設け、遊郭もつくった。尾張に商店も人も増えて大繁盛。“尾張芸どころ”の礎となった。

 しかし藩には吉宗(公方)派の附家老がいて、伝統の勤皇系もいる。用人らは右往左往、ハラハラドキドキ。横井也有もキリキリ舞いだったろう。やがて吉宗の怒りが爆発。宗春は火事焼失の江戸上屋敷(市ヶ谷、現防衛省)を新築するも、中屋敷(麹町、現上智大)に隠居謹慎。吉宗没後に宗春は隠居謹慎のまま名古屋・下屋敷へ。この時、宝暦四年(1754)。也有が五三歳で隠居した年になる。

 海音寺潮五郎『吉宗と宗春』(昭和14年刊)は小説ゆえ二人の確執、闘いが吉宗創設の御庭番の暗躍も交えて面白く書かれている。也有は『鶉衣』にこう書いている。~官路の険難をしのぎ尽し、功こそならぬ、名こそとげね、ほまれのなきは恥なきにかへて、今此の老の身しりぞき、浮世の塵を剃りすつべきは、いかでうれしとおぼさざるや。

 『鶉衣』は大田南畝がこれは面白いと蔦重の手を煩わせて刊行させたが、この時の大田南畝の事情にも注目したい。『鶉衣』前編刊の前年、天明六年は徳川家治没で田沼意次が老中を解任。天明七年に吉宗の孫・定信が老中就任。定信は吉宗と同じく厳しい倹約令「寛政の改革」で世を締め付けた。狂歌・戯作者らのパトロンだった勘定組頭・土方宗次郎は死罪。恋川春町を死に追いやり、宿屋飯盛は江戸払い。山東京伝は手鎖五十日の刑で、蔦重は財産半分没収。大田南畝は土方の援助もあったか吉原・遊女を身請けしてい、首がヒヤリとしたに違いない。彼は狂歌、戯作者との交流を絶って学問吟味に挑戦した。

 南畝は下級武士(徒歩組)。横井也有のようは上級武士ではなかったが封建下の宮仕いの悲哀に共感するところ大だったのではないか。大田南畝による也有『鶉衣』出版にはそんな思いも秘められていたと推測するがいかがだろうか。前段はここまで。次は『鶉衣』の四方山人(大田南畝)の序へ。


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鶉衣2:也有翁とは [鶉衣・方丈記他]

yayuou1_1.jpg 『鶉衣』本文に入る前に、横井也有とはどんな人物や。新宿図書館蔵書の「横井也有」を検索してみれば僅か数冊のヒット。しかも単独の書はなく、何人もの評伝のなかの一人。まず寛政十年刊の三熊花顛の文・絵、伴蒿渓の校訂『続近世奇人畸人伝』(五巻五冊)が、中野三敏校注の現代語訳で「中央クラシックス」より出てい、そのなかに「横井也有」の項があった。

 也有(やゆう)。横井氏、俗名孫左衛門、尾張の士也。篤実、謹厚にして文雅を好み、殊に俳諧に長じ世に名有。(芭蕉流を喜びてしかし定れる師なしとぞ) 閑田子、一とせ彼国に遊びて其著述『鶉衣』、『うらの梅』といふ俳諧体の文集をみるに、そのさまいやしからぬのみか、鼓舞自在、比類なく覚ゆ。はた生前をよく知る人にあひて其行状をきくに、文章にかゝれたる趣と言動一致なるに感ず。そして伝え聞く人となりは~として多少の逸話が追記されていた。

 次に磯辺勝著『江戸俳画紀行』(中公新書)の最初の項が「横井也有~楽しき隠居暮らし」。~尾張藩で千数百石どりという、大名に近いような身分の上流武士であったが、五十三歳で家督を譲って隠居。俳諧に遊びつつの悠々自適の日々を過ごし、八十二歳で死んだ人物。勝手にしてくれ、といいたくなるような結構なご身分である。著者は也有の身分を妬たんでいるのか。あたしは貧乏隠居だが、也有翁をそんな風に妬んだ眼でみたことはない。

 次がぺりかん社刊の徳田武著『江戸詩人傳』。漢詩人評伝集。横井也有の項で、彼の漢詩から「荘子」の養生思想が読み取れると指摘。名利を得るより、自己の資質にしたがって、貧しくも精神の自由を得、肉体を安んじさせ、この生を愉しもうとする思想が伺えるとし、『鶉衣』にも荘子の思想の反映がいたる所に見られると分析。また注目すべきは、彼の隠棲を考えると徳川宗春の失脚事件が欠かせぬの指摘があったこと。

 宗春と吉宗については次回に記すが、也有は名古屋尾張藩の用人ゆえ、吉宗に反抗する宗春の無茶振りに藩内右往左往のなかで仕えていたはず。ほとほと宮仕えがいやになったと思われる。なお同書には也有句集『羅葉集』(明和四年)巻頭に収められた「横井也有肖像」が掲載されていたが、ここでは「国文学名家肖像集」の横井也有像を着色模写で遊んだ。


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鶉衣1:『鶉衣』に至る辨 [鶉衣・方丈記他]

iwanamiyuuya_1.jpg 昨年、山東京伝の黄表紙『江戸生艶気蒲焼』、大田南畝の?洒落本『甲驛新話』の筆写・解読+挿絵模写〝遊び〟をした。さて、次は何にトライしようかと思った。某日ふと自身ブログの閲覧を覗けば「也有翁剃髪の弁かく語り」が閲覧されていた。「そうか、横井也有『鶉衣』の筆写・解読〝遊び〟が面白そうだ」と膝を叩いた。

 幸い「早稲田大学古典籍データベース」に横井也有『鶉衣』(坪内逍遥旧蔵)が公開されていた。前篇・後編・続編・拾遺の全四冊で尾陽・東壁堂蔵。巻末に名古屋本町通七丁目、永楽屋東四朗、日本橋出店がクレジット。毛筆に違いはなかろうが、ボールペンのような版木文字。現存する『鶉衣』はほとんどが写本らしいが、これは誰がどんな筆で書き、またどう彫ったかも気になるところ。

 手元に岩波書店刊「日本古典文学大系」の『近世俳句俳文集』(麻生磯次校注の『鶉衣』収録)あり。岩波文庫の堀切実校注『鶉衣』(上下)も販売されていた。司馬遼太郎による『鶉衣』(抄)の現代語訳収録の河出書房新社刊『日本の古典/蕪村・良寛・一茶』が図書館にあり。教材が揃っている。

 かくして昨年の『江戸生艶気蒲焼』『甲驛新話』に次いで、今年は『鶉衣』のくずし字筆写と解読遊びにトライ。全編は無理だろうから前編のみ。いや、隠居遊びだ。お気に入りの項のみトライが気軽でいいだろう。

 だが残念ながら『鶉衣』は文字だけ。ビジュアル遊びをどうするか。まずは岩波文庫『鶉衣』表紙にあった本人直筆の自画像と歌を模写。歌は「世をのがれたる前津の庵に老の春をむかへて門に見る松やむかしの友ふたり」。空間をたっぷりとって小さな文字と自画像。閑寂感が漂う俳画だが、ここは文字も絵も大きくしたアレンジ模写。まずは横井也有『鶉衣』のはじまり・はじま~りの辨。


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トモエガモ撮って区切りの鳥探し [新宿御苑の野鳥]

tomoe2_1_1.jpg 4年前のこと。未撮の「トモエガモ」(環境省レッドリスト)が綾瀬の公園にいると知った。行けば飛び立った直後だった。その後、見沼自然公園に居るとか。大宮からバスに乗って現地を訪ねた。三脚に長玉(望遠レンズ)の鳥撮りオジさんらがズラッと並んだ遠方のカモ群に一羽の「トモエガモ」。1時間ほど待つと陽の当たる近くに寄ってきて思う存分撮った。ライフリスト160種目で、あたしは間もなく鳥撮りを止めた。

 それ以上は希少種、迷鳥、絶滅危惧種で生活のなかの〝季節の情景〟とは次元が異なる。「花鳥風月」の域を越え、珍鳥に眼の色を変えるマニアックな世界。撮れば自慢気に写真公開し、撮影ポイントは隠蔽。蒐集者の偏屈、満足、競争、嫉妬が渦巻く〝イヤらしい世界〟か。高じてくれば〝生活のなかの野鳥〟から〝珍鳥を撮るための生活(者)〟になる。鳥撮りもここらが潮時だろうと止めた。さらに撮影ポイントだった葛西臨海公園の河口辺り、手賀沼も放射能が蓄積されている。それら地で野鳥を撮って楽しいワケがない。その意では福島原発事故があたしの趣味も奪ったといっていいだろう。

 今も鳥を撮るが、それは生活のなかの〝季節の情景〟〝花鳥風月〟を愉しむ範囲内。先日、読書に飽きて身体の按配も良く、久しぶりに新宿御苑へ鳥撮りウォークをしたくなった。一眼レフに望遠レンズを装着、片手に双眼鏡のかつての出で立ち。

 最近の新宿御苑はかかぁと一緒で、まずは伊勢丹・地下でお弁当を購い、芝生でのんびりと昼食が定番。だが久々に鳥撮り体制で御苑内を歩けば、なにやら三脚に長玉セットのオジさんらが眼に付く。訊けば御苑に「トモエガモ」と「アカゲラ」が入っているとか。「アカゲラ」は探せなかったが、日陰で眠そうな「トモエガモ」を撮った。陽の当たる場所に移動するまで待っても良かったが、日陰で水面になじむ絵もよしとした。

 帰宅後に自身のブログでかつて撮った「トモエガモ」写真を探したが見つからぬ。ブログ内検索をすればマイカテゴリー「おくのほそ道」にあった。芭蕉句「田一枚植て立去る柳かな」のもじり駄句「トモエガモ撮って立去る見沼かな」。野鳥よりも見知らぬ地を彷徨った愉しさが上回っていたのだろう。


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混入ぞ蠅虎の茶番かな [花と昆虫]

ibutukonyu_1.jpg チェーンスモーカーだったが7、8年前に禁煙した。一方、チェーンカフェというか、机に飲み物は相変わらず欠かせない。この日はコーヒーを何杯も飲んだ後でお茶を淹れた。半分ほど飲み、またカップに手を伸ばせば、なんと、何かが混入しているじゃないか。ギョギョッ。よく見れば〝飛び蜘蛛〟らしい。ネット調べすると、正しくは「はえとりぐみ(蠅取蜘蛛、蠅虎)とか。網を張らずにピョンピョンと跳ねまわって小虫を捕獲するらしい。

 この混入が。もしコーヒーの中だったら琥珀色に馴染んで気付かずに飲んでいたかもしれない。蠅取蜘蛛に毒はないのだろうか。こころみに歳時記をひもとけば、驚いたぁ。こんな蜘蛛にもちゃんと季があって夏の季とあった。「歳時記」恐るべし。正岡子規門の青木月斗(げっと)の句「蠅歩く蠅虎も歩くかな」が紹介されていた。

 あたしは昨今の食品異物混入を意識して「混入ぞ蠅虎(はえとりぐも)の茶番かな」と詠んだ。「番茶」が「茶番」にひっくり返ったのは、〝飛び蜘蛛〟をカップから救い出せば、何もなかったようにピョンと飛んで姿をくらましたからなんだ。


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ラミーサファリで簡単スケッチ [スケッチ・美術系]

takesumi_1.jpg 昨秋、ブログのマイカテゴリーに「スケッチ」を設けたが、3回で止まってしまった。浮世絵の筆ペン模写で多少の絵心が出来たと思ったが、そうは問屋が卸さない。絵の基礎がなく、描く習慣がないためだろう。

 大島の知り合いの画伯が、磯に出て墨筆をパパッと躍らせて一瞬にして作品を描き上げた。超抽象。太い筆と墨でゴツゴツとした岩磯が見事に表現されていた。「ふ~ん、なるほど」と思ったが、そこまでは〝飛びきれぬ〟。具象から離れられない。

 年末に筆ペン(ゼブラ)・パーカー第五のペン(インジェニュティ)・ラミー万年筆(サファリ)三種で「くずし字比べ書き」をしたが、先日のウォーキングついでに「世界堂」でニ本目のサファリを購った。最初のサファリは黒ボディーでインクはパイロット・ブルー。二本目は赤ボディーでインクはパイロット「色彩雫(いろしずく)シリーズの竹炭」。「竹炭」で実際に書いてみれば「パイロット・ブルー」で味わえた万年筆タッチ(多少の濃淡)のようなものが微塵もなく、とことん真っ黒で面白味がない。

 インク選びに失敗したらしい。では同シリーズの「冬将軍」(やや薄炭色)にしようかしら。そうした思惑違いをせぬよう「色彩雫シリーズ24色」にはミニボトル三色セット2100円もある。「さて、どの三色を選ぼうかしら」と悩んでいれば、ふとひらめいた。「そうだ“竹炭“を水で薄めればいいじゃないか」と。吸い込みコンバーターで「竹炭」を八割、加えて水二割を吸引した。邪道だろうが、これでいい塩梅になった。

 それでスケッチしたのがコレ。そうだ、こんな簡単下手なスケッチを数こなして行けば、絵も次第に上手くなってくるかも知れない。スケッチにも使うのならば別インク用に第三・第四のラミー「サファリ」が欲しくなってきた。お爺さんなのに、にわかに盛り上がる文具遊び。あぁ、そんな素敵なお爺さんがいたなぁ(今は亡き植草甚一さん)と思い出した。

 追記1)万年筆で絵を描くには、水彩絵具に溶ける(滲む)染料インクではなくて、耐水性インクがいいと知った。それには2種あってプラチナ万年筆「超微粒子プラチナカーボンイング・ブラック」、セーラー万年筆「超微粒子顔料インク・極黒」。「極黒(きわぐろ)」は万年筆内でインクが固まっても、水に浸しておけば溶け出すとかで、同インクを購った(2千円)。惹句に「色あせない、耐水性に優れ、目詰まりがなく美しい筆跡。ナノインク」。使ってみればパイロット「竹炭」に比して、まぁ、驚くほど滑らかで、すっかり気に入ってしまった。

 追記2)2016年1月18日「新春に黒の遍歴定まりぬ」で、さらにプラチナ「カーボンインク・ブラック」へ至る遍歴と、ラミーサファリも4本になった経緯を記しています。


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俳人らの「季語」説明集(2) [暮らしの手帖]

mejirosakura1_1.jpg●久保田至誠著『滅びゆく季語~自然環境変化と歳時記』:温暖化による地球環境変化、それに伴う歳時や動植物の変化、生物多様性の喪失、絶滅危惧種の増加などで「季語が滅亡の危機」を迎えていると警告。絶滅が危惧される動植物などを詠んだ五十句などを紹介。嘆いているだけでは意味がない。俳句界は自然保護、温暖化防止などに取り組んでいるのだろうか。

●目下テレビで人気の毒舌俳人・夏井いつき著で『絶滅寸前季語辞典』が二冊あった。未読だが、こう思う。東京暮しのあたしはマンション住まいで子供を育ててきた。節分になれば、自分が子供時分に父の大声張り上げた「鬼はぁ~外、福は内ぃ~」の豆蒔きを思い出しつつ、あたしもマンション内でそうやっては来たが、近所から豆まきの声が聞こえてこなかった。かくして歳時は次々に滅び行く。ちなみに生活関連の歳時記をひもとけば、あれもこれも今は遥か昔の懐かしい歳時ばかり。息子と孫は果たして「七草粥」を食べただろうか。

●飯田龍太著『俳句は初心』:「季題」は和歌・連歌などで古来からの伝承的美意識に支えられてきた季節の題。「季語」は季節の言葉。明治以降は「季題・季語」の区別があいまいとなり、歳時記でも分類されず「季題・季語」と一括りになった。「季題・季語」は江戸末期に約五千。明治・大正に入るとその約三倍になった。

●高橋睦郎『私自身のための俳句入門』:俳句が俳句として生き残る道は中心に季を置き、季の本質をさぐりつづけることにしかない。中心を季以外に移す方向は無限で雲散霧消させてしまう結果にしかまるまい。

●「俳句研究」編集部『俳句実作の基礎用語』:森無黄『季題の用法』では季題と本意は継承されたが、大須賀乙字『季語』では約束ごととは無縁の季語が一般的になった。現代俳句では季題の本意の約束が薄れて「季題・季語」の区別はつけ難い。

 この辺でやめよう。当初の疑問「メジロの季」は夏か、三夏か、秋か、春か?は、馬琴が括った秋で納得したいが、はたして「メジロに本意」はあるや?。なぜに「梅、椿、桜にメジロ」は破棄されたかの答えは見い出せなかった。間もなく〝寒桜にメジロが群れる季節〟になります。


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俳人らの「季語」説明集(1) [暮らしの手帖]

harusame2_1.jpg メジロの季の疑問から、俳句のややこしい領域へ首を突っ込んでしまった。切り上げる前に、俳人らの著作で「季語」がどう説明されているかを私流咀嚼・解釈をもって集めてみた。

●中村草田男『俳句入門』:和歌(短歌)は貴族遊技色中心の連歌へ。連歌が庶民主流になって俳諧の連句へ。その最初の句が「発句」で、そこから幾人も続くゆえ「発句」にイメージ提示の「季題」を入れた。発句が独立して「俳句」になった。「千鳥」は一年中いるも有名和歌によって冬の季題になった。それらが季節特定できないゆえに「歳時記」が誕生。昔の歳時記は旧暦に基づいたが、今は新暦で新季題も追加されている。日本人は季節美と自然美に感動する詩人的素質があり、季題は季節的美感と象徴文学的な共通符牒効果をもたらす。

●金子兜太『俳句入門』:季語は「旧暦」を使うから現生活とズレが生じる。日本の古来からの季節感や美意識は旧暦に基づいている。(早くも両者の間で俳句と新暦・旧暦の捉え方が違う)

●安倍筲人『俳句』:俳句は短型ゆえ凝縮した言葉となり、そこに自己を表現する。それを「言葉のどんづまり性」という。季語は季節の共有、凝縮性を有して「作品に現実感」と作者のアリバイをもたらす。

●長谷川櫂『一億人の季語入門』:季語には「本意」があり、その本意の上に成り立つ。「春雨」の本意は「降るともなく上がるともなく、音もなく降り続く」。それら季語の本意に日本人の想いがある。季語は想像力の賜物で、季語の世界を「季語の宇宙」という。

★「春雨の本意」の引用元は服部土芳『三冊子』(安永五年・1776年刊)らしい。同著は早大古典籍データで公開されてい、現代訳は岩波書店『連歌論集 俳論集』に収められている。両著で「くずし字+俳句」の両勉強ができそう。まずは『三冊子』の「春雨の本意」の部分を筆写してみた。~「春雨ハをやみなく(小止み無く=少しも止むことなく)いつまでもふりつゞくやうにする三月をいふ。二月末よりも用る也。正月二月はじめを春の雨と也。五月を五月雨と云。晴間なきやうに云もの也。六月夕立、七月にもかゝるべし。九月露時雨也。十月時雨、其後を雪みぞれなどいひ来る也。急雨は三四月の間に有こころへ也。

 ちなみに2002年刊「歳時記」の「春雨」の項をひもとく。その特性(本意)が気象学的分析をも加えてより詳細に説明されていた。「季語の本意は歳時記に詳しい」そんな簡単な説明の方がわかり易かった。(続く)


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メジロから「季語の誕生」へ [暮らしの手帖]

mejirokigo1_1.jpg メジロの季の疑問から、「季語」ってなに?と思い始めた。そこでまずは宮坂静生『季語の誕生』を読む。以下は私流解釈で記す。

 まず「はじめに」。こんな記述あり。北海道の俳句作家より、実景と歳時記の季が符合せずに悩むとの便り。著者は子規が同様の質問を盛岡の俳人から受け、こう答えたと引用する。「少しも差支なし。盛岡の人は盛岡の実景を詠むが第一なり」。また芭蕉の「松の事は松にならへ、竹の事は竹にならへ」(そのものを見つめよ)を紹介。

 地域によって当然ながら季節のズレがある。さらに年中見られる「月」の季が秋に〝決められている〟そうな。これは『金葉和歌集』(平安後期、1124年)による。縄文時代~生産・生殖~月のもの(月経)~秋の収穫祭~で「月が秋」になったのだろうと考察される。このやや重い原初的〝月の本意〟が、時代を経て芭蕉の軽さによって〝普通の月〟に取り戻されたとも。だが今も〝月の季は秋〟。

 同和歌集で「早蕨(さわらび)」も春の季に〝決められ〟ているとか。『古今和歌集』の「煙たち もゆとも見えぬ 草の葉を 誰かわらびと なづけ初めけむ」(真静法師)。この歌は「萌え(燃ゆ)」「蕨(藁火)」の掛詞がポイント。蕨の実体から離れた掛詞(言葉遊び)から蕨の季が春と決められた。著者は六月初旬に妙高高原で蕨狩をした際の感動を記し、自分の蕨の実景は六月だったと記す。

 和歌(短歌)には掛詞(かけことば)が多い。同音異義語遊び。人を待つ⇒松虫、歌を聞⇒菊などの言葉遊び。小生には和歌・短歌の知識はまったくないが本歌(古歌)を自分流に変える〝本歌取〟や、狂歌のシャレにも、この言葉遊びは続いている。かくして実体と離れた季題・季語も生まれた。

 そのために「歳時記」が誕生したが、今は旧暦と新暦が混合し、生活様式も変わり、歳時は次々に消滅し、動植物の絶滅危惧種も増えて「季語大混乱」状態。メジロの季の疑問から俳句の面倒くさい領域に入ってしまったようで、俳句趣味ではない小生はここらで退散。最後に俳句入門書などから「季語」を説明する記述を幾つか拾って終える。(続く)


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馬琴「俳諧歳時記」八月を読む [暮らしの手帖]

basyohatigatu1_1.jpgbakin8gatu2_1.jpg 馬琴の享和三年刊『俳諧歳時記』八月(新暦九月中旬~)を読む。~「八月」葉月とは葉落月(はおちづき)の略也といへり。或は初月をよみて初来(はつき)とす。鴈の初て来た頭ころなるよしいへり。又は「はつき」は八月之八の字を「は」の音にとむは常のことなりと此節にしたがふべし。(たどたどしく読んだが間違っているかも)

 ~葉月は葉落月の略。初月は鴈が来る初めの月で初来(はつき)。又は八月の八を「は」と読むは常で「はづき=葉月」と説明。同月記述末にあげられた野鳥は38種。鳥好き、異体字に関心あるゆえにこれも筆写した。

 ~贗(雁の異体字。かり、がん)、鴻(ひしくひ、菱喰、カモ科)、雁書(かりのふみ、がんしょ、雁の使い、手紙、書簡、雁信)、雁金(かりがね、マガンに似ている)、二季鳥(ふたきとり、にきどり、雁の異名、秋に来て春に帰る二季節の鳥)、可多糸鳥(かたいととり、片糸鳥、雁の別称)、稲負鳥(いなおふせとり、稲刈りの時に来る鳥、実体は不明)、色鳥(秋に来る色の美しい小鳥)、渡り鳥、鴗(そにどり、かわせみ、翡翠)、啄木鳥、鵯(ひよどり)、鶫(つぐみ)、猿子鳥(ましこ)、桑鳲(まめうまし、いかるか、豆甘、イカルの異名)、椋鳥、鶲(ひたき)、鴰(ひがら)、山雀、四十雀、五十雀、小雀、頬赤(ほあか、ほおあか)、繍眼児(めじろ、シュウガンジ)~ まだまだ続くが筆写参照。

 馬琴は一時、百羽もの飼い鳥をし、三百種網羅の鳥図鑑『禽鏡』(きんきょう。絵は娘婿の渥美覚重)を天保五年(1834、馬琴68歳)に出版している。実際に繍眼児(めじろ)も飼っていただろうし、果樹を植え池も作るなどした凝った庭に、メジロも遊びに来ていたかもしれない。ここは野鳥に詳しい馬琴を信じて「メジロ=八月」、つまり旧暦・秋の季語(新暦九月)に納得したい。確かに「熟柿にメジロ」も眼にする。では「梅・桜・椿とメジロ」の春のイメージはなぜに捨てられたか。

 改めて「季語とは」を、宮坂静生『季語の誕生』でお勉強してみる。(続く)


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馬琴「俳諧歳時記」=メジロは秋 [暮らしの手帖]

saijiki3_1.jpg 駄句遊びをしていると「季語」に〝ひっかかる〟ことがある。花鳥は自分の眼で見て撮っている(実景)ゆえに、「歳時記」の季とずれることまま也。机上の歳時記(大岡信監修、遊子館刊、写真)では〝メジロの季は夏〟で腑に落ちぬ。

 あたしはブログ・タイトル欄を「五七五」にしているだけで、とても〝俳句趣味〟とは言えぬレベル。初めて〝季語って何だ〟と、ネット巡りをしてみた。寛永13年(1636)刊の野々口立圃『はなひ草』で590の季題を網羅。慶安元年(1648)に北村季吟『山の井』で1300語を収録。享和3年(1803)に曲亭馬琴『俳諧歳時記』が2600の季語を網羅。「季題」なる言葉は明治36年(1903)に森無黄が初めて使い、「季語」は明治41年(1908)に大須賀乙字が初めて使ったとあった。なぁ~んだ、えらく最近のことじゃないか。

 ここで早大「古典籍総合データベース」にアクセスすれば『俳諧歳時記 春、夏、秋、冬、雑之部』曲亭主人纂輯2冊がヒットした。享和3年(1803)刊。「春之部」正月、二月、三月。「夏之部」四月、五月、六月。「秋之部」七月、八月、九月。「冬之部」十月、十一月、十二月。「秋之部」八月に「繍眼児(メジロ)」があった。

mejirosisyuup_1.jpg 机上の歳時記は「春」が立春の二月四日頃~立夏前日。「夏」が立夏の五月六日頃~立秋前日。「秋」が立秋の八月八日頃~立冬前日。「冬」が立冬の十一月七日頃~立春前日。それでメジロは夏の季。

 以上から旧暦・新暦のズレに気付く。旧暦は新暦より約一ヶ月遅い。馬琴『俳諧歳時記・秋之部』は享和三年八月一日からだから、新暦変換すれば九月十六日。つまり馬琴は新暦九月中旬期にメジロを括った。

 メジロの季が夏または秋と言われるのは、この旧暦・新暦の混乱からきているのではないかと推測するがいかがだろうか。いや「メジロ・三夏」とする歳時記もある。旧暦4・5・6月=初夏・仲夏・晩夏。う~ん、どうも定まらぬが、馬琴がメジロを「秋之部」八月、つまり九月中旬頃としたのが最も納得できる。実際に「熟柿にメジロ」はよく眼にもする。

 しかしあたしにとってのメジロは「梅にメジロ」「桜にメジロ」「椿にメジロ」で春のイメージが強い。ちなみに年中見られる「月」は何故か秋の季。俳句の季語は相当に「緩く」また「訳あり」と踏んだ。★追記/金子兜太『俳句入門』:俳句の季節は「旧暦」を使います。中村草田男『俳句入門』:今の「歳時記」は新暦で編まれており、新しい社会の行事が新季語として取り入れてあって便利です。★えぇえい、いってぇどっちだ!

 メジロは「繍眼児(シュウガンジ、メジロ)」の表記。これはメジロの眼の周りが白の絹糸で刺繍をされているようだからとか(アップ写真参照)。次に実際に馬琴『俳諧歳時記・秋之部・八月』を読んでみる。(続く)


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夏の季「メジロ」師走に遊び来る [暮らしの手帖]

mejiro281_1.jpg 昨年12月25日から新宿・大久保の自宅マンション7階ベランダにメジロが遊びに来ている。ここにメジロが遊び来るようになって6年目。例年1、2月に来て、寒桜が咲く頃まで通って来る。昨年は1月9日に来て、春までメジロ堪能と思いきや、隣のマンション大規模工事のせいだろう、数日で姿を消した。

 そして年末からメジロが連日遊びに来ている。部屋の中からガラス窓越しに撮ったのがこの写真。可愛いでしょ。正月にはすっかり慣れて、2㍍ほどに近づいても逃げもせず。花の少ない時期にベランダのローズマリーが咲いているから通って来たのだろうが、それでは蜜が少なかろうとミカンの半切れを刺し、「冬にメジロ」が我が家の風物に定着している。

 改めてメジロの季語を確認すれば、まぁ「夏」または「秋」とあり。ふに落ちない。夏の季と説明の歳時記本に載せられた絵は北斎の「梅とメジロ」。またメジロと云えば「桜とメジロ」「椿とメジロ」もお馴染みで、「夏=メジロ」は眼にしたことがない。何故にメジロの季語は夏、または秋なのだろうか。ネットには繁殖期の夏にさえずるからの記述もあったが、メジロの繁殖は4月末、5月頃だろう。

 原発は安全ではなく、先生と呼ばれる方々や警察・司法関係の方の犯罪も目立つ。かくも時代は概念を変えるのに季語が普遍、不変でいいのだろうか。図書館で久保田至誠著『滅びゆく季語~自然環境変化と歳時記』を手にするも「自然環境の変化、実体との乖離」がテーマ。絶滅危惧種になった動植物などの句が紹介されてい、これでは何故に「メジロ=夏・秋」かの解明に役立ちそうもない。今年のブログ最初は思いも寄らず「メジロの季語」追及から始めることに相成候。(続く)


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