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鶉衣4:大田南畝の序 [鶉衣・方丈記他]

uzurajyo1_1.jpg まずは四方山人(大田南畝)の序を筆写し( )内に自己流解釈。

いしに(以丹し=往にし=去る)安永のはじめ、すみだ川ほとり、長楽精舎(長楽寺とは?)にあそびて、也有翁の「借物の辨」を見侍り(はべ・る=「あり・をり」の謙譲語・丁寧語)しが、あまりに面白ければ、うつしかへり侍りき。(校注に安政元年なら南畝二十四歳、也有七十一歳とあり)

それより山鳥の尾張のくに(山鳥は尾張の枕?)の人にあふごとに、この事うち出てとひ(問い)侍りければ、金森桂五(尾張藩の俳人。狂歌名は傘衛守・からかさのえもり)、うさぎの裘(かはごろも)にハあらぬ『鶉衣』といへるもの二まきをもてきてみせ給へり。

翁なくなりぬときゝて、なを馬相如(裘も馬相如も「漢書」逸話ゆえ無学のあたしは解釈を省略)が書のこせるふみもやあるとゆかしかりしに(ゆかし=好奇心で知りたい・見たい・聞きたい。「シク活用」で「ゆかしかりしに」)、細井春幸・天野布川に託して、その門人紀六林のうつしをける(をいた)全本をおくれり。

まきかへしみ侍るに、からにしきたゝまく(校注:古今集は「唐錦を裁つ」を「唐錦を立たまく」としているが、ここでは「絶た+まく」にしたらしいとある)をして、とみに(急に)梓のたくみ(版木の匠)に命じて、これを世上にはれぎぬ(晴衣=世間に公開)とす。

uzurajyo2_1.jpg翁の文にをけるや、錦をきてうハおそひし(錦を上におそって?)、けたなる袖をまどかにして(角袖を丸袖にして)、よく人の心をうつし、よく方(ほう)の外(常軌の外)に遊べり。

鶉ごろもの百むすび(ボロボロ衣裳)とハ、みづからいへることのはにして、くつねのかわ(狐の皮)のちゞのこがねにあたらざらめや。(当たらざらめや。同じ語用で「思はざらめや」「匂はざらめや」「逢はざらめや」などよく使われる。「~ないわけがなかろう」の意。否定「ず」の未然形「ざる」+推量「む」の已然形「め」+感嘆「や」)

右のたもとのみじかき筆は(「論語」に右の袂は短い方が使い易いとあるそうな)、なへたるもはづかしけれど(萎えたるも恥ずかしいけれど)、たゞにやはと、へにもはれにも(褻にも晴れにも=いいも悪いも、いつでも)かいつけ侍りぬ(書いてしまいました)。四方山人

 なお『鶉衣』が大田南畝・編で蔦屋重三郎より刊行されたのは前編三冊が天明七年で、後編三冊が天明八年。南畝が三十九歳と四十歳の時。(その後、続編三冊、拾遺三冊は石井垂穂による編録で計十二巻十二冊が文政六年に名古屋の永楽屋東四郎から出版) 


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