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俳人らの「季語」説明集(1) [暮らしの手帖]

harusame2_1.jpg メジロの季の疑問から、俳句のややこしい領域へ首を突っ込んでしまった。切り上げる前に、俳人らの著作で「季語」がどう説明されているかを私流咀嚼・解釈をもって集めてみた。

●中村草田男『俳句入門』:和歌(短歌)は貴族遊技色中心の連歌へ。連歌が庶民主流になって俳諧の連句へ。その最初の句が「発句」で、そこから幾人も続くゆえ「発句」にイメージ提示の「季題」を入れた。発句が独立して「俳句」になった。「千鳥」は一年中いるも有名和歌によって冬の季題になった。それらが季節特定できないゆえに「歳時記」が誕生。昔の歳時記は旧暦に基づいたが、今は新暦で新季題も追加されている。日本人は季節美と自然美に感動する詩人的素質があり、季題は季節的美感と象徴文学的な共通符牒効果をもたらす。

●金子兜太『俳句入門』:季語は「旧暦」を使うから現生活とズレが生じる。日本の古来からの季節感や美意識は旧暦に基づいている。(早くも両者の間で俳句と新暦・旧暦の捉え方が違う)

●安倍筲人『俳句』:俳句は短型ゆえ凝縮した言葉となり、そこに自己を表現する。それを「言葉のどんづまり性」という。季語は季節の共有、凝縮性を有して「作品に現実感」と作者のアリバイをもたらす。

●長谷川櫂『一億人の季語入門』:季語には「本意」があり、その本意の上に成り立つ。「春雨」の本意は「降るともなく上がるともなく、音もなく降り続く」。それら季語の本意に日本人の想いがある。季語は想像力の賜物で、季語の世界を「季語の宇宙」という。

★「春雨の本意」の引用元は服部土芳『三冊子』(安永五年・1776年刊)らしい。同著は早大古典籍データで公開されてい、現代訳は岩波書店『連歌論集 俳論集』に収められている。両著で「くずし字+俳句」の両勉強ができそう。まずは『三冊子』の「春雨の本意」の部分を筆写してみた。~「春雨ハをやみなく(小止み無く=少しも止むことなく)いつまでもふりつゞくやうにする三月をいふ。二月末よりも用る也。正月二月はじめを春の雨と也。五月を五月雨と云。晴間なきやうに云もの也。六月夕立、七月にもかゝるべし。九月露時雨也。十月時雨、其後を雪みぞれなどいひ来る也。急雨は三四月の間に有こころへ也。

 ちなみに2002年刊「歳時記」の「春雨」の項をひもとく。その特性(本意)が気象学的分析をも加えてより詳細に説明されていた。「季語の本意は歳時記に詳しい」そんな簡単な説明の方がわかり易かった。(続く)


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