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俳人らの「季語」説明集(2) [暮らしの手帖]

mejirosakura1_1.jpg●久保田至誠著『滅びゆく季語~自然環境変化と歳時記』:温暖化による地球環境変化、それに伴う歳時や動植物の変化、生物多様性の喪失、絶滅危惧種の増加などで「季語が滅亡の危機」を迎えていると警告。絶滅が危惧される動植物などを詠んだ五十句などを紹介。嘆いているだけでは意味がない。俳句界は自然保護、温暖化防止などに取り組んでいるのだろうか。

●目下テレビで人気の毒舌俳人・夏井いつき著で『絶滅寸前季語辞典』が二冊あった。未読だが、こう思う。東京暮しのあたしはマンション住まいで子供を育ててきた。節分になれば、自分が子供時分に父の大声張り上げた「鬼はぁ~外、福は内ぃ~」の豆蒔きを思い出しつつ、あたしもマンション内でそうやっては来たが、近所から豆まきの声が聞こえてこなかった。かくして歳時は次々に滅び行く。ちなみに生活関連の歳時記をひもとけば、あれもこれも今は遥か昔の懐かしい歳時ばかり。息子と孫は果たして「七草粥」を食べただろうか。

●飯田龍太著『俳句は初心』:「季題」は和歌・連歌などで古来からの伝承的美意識に支えられてきた季節の題。「季語」は季節の言葉。明治以降は「季題・季語」の区別があいまいとなり、歳時記でも分類されず「季題・季語」と一括りになった。「季題・季語」は江戸末期に約五千。明治・大正に入るとその約三倍になった。

●高橋睦郎『私自身のための俳句入門』:俳句が俳句として生き残る道は中心に季を置き、季の本質をさぐりつづけることにしかない。中心を季以外に移す方向は無限で雲散霧消させてしまう結果にしかまるまい。

●「俳句研究」編集部『俳句実作の基礎用語』:森無黄『季題の用法』では季題と本意は継承されたが、大須賀乙字『季語』では約束ごととは無縁の季語が一般的になった。現代俳句では季題の本意の約束が薄れて「季題・季語」の区別はつけ難い。

 この辺でやめよう。当初の疑問「メジロの季」は夏か、三夏か、秋か、春か?は、馬琴が括った秋で納得したいが、はたして「メジロに本意」はあるや?。なぜに「梅、椿、桜にメジロ」は破棄されたかの答えは見い出せなかった。間もなく〝寒桜にメジロが群れる季節〟になります。


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