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メジロから「季語の誕生」へ [暮らしの手帖]

mejirokigo1_1.jpg メジロの季の疑問から、「季語」ってなに?と思い始めた。そこでまずは宮坂静生『季語の誕生』を読む。以下は私流解釈で記す。

 まず「はじめに」。こんな記述あり。北海道の俳句作家より、実景と歳時記の季が符合せずに悩むとの便り。著者は子規が同様の質問を盛岡の俳人から受け、こう答えたと引用する。「少しも差支なし。盛岡の人は盛岡の実景を詠むが第一なり」。また芭蕉の「松の事は松にならへ、竹の事は竹にならへ」(そのものを見つめよ)を紹介。

 地域によって当然ながら季節のズレがある。さらに年中見られる「月」の季が秋に〝決められている〟そうな。これは『金葉和歌集』(平安後期、1124年)による。縄文時代~生産・生殖~月のもの(月経)~秋の収穫祭~で「月が秋」になったのだろうと考察される。このやや重い原初的〝月の本意〟が、時代を経て芭蕉の軽さによって〝普通の月〟に取り戻されたとも。だが今も〝月の季は秋〟。

 同和歌集で「早蕨(さわらび)」も春の季に〝決められ〟ているとか。『古今和歌集』の「煙たち もゆとも見えぬ 草の葉を 誰かわらびと なづけ初めけむ」(真静法師)。この歌は「萌え(燃ゆ)」「蕨(藁火)」の掛詞がポイント。蕨の実体から離れた掛詞(言葉遊び)から蕨の季が春と決められた。著者は六月初旬に妙高高原で蕨狩をした際の感動を記し、自分の蕨の実景は六月だったと記す。

 和歌(短歌)には掛詞(かけことば)が多い。同音異義語遊び。人を待つ⇒松虫、歌を聞⇒菊などの言葉遊び。小生には和歌・短歌の知識はまったくないが本歌(古歌)を自分流に変える〝本歌取〟や、狂歌のシャレにも、この言葉遊びは続いている。かくして実体と離れた季題・季語も生まれた。

 そのために「歳時記」が誕生したが、今は旧暦と新暦が混合し、生活様式も変わり、歳時は次々に消滅し、動植物の絶滅危惧種も増えて「季語大混乱」状態。メジロの季の疑問から俳句の面倒くさい領域に入ってしまったようで、俳句趣味ではない小生はここらで退散。最後に俳句入門書などから「季語」を説明する記述を幾つか拾って終える。(続く)


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