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湾岸12)メモ「江川坦庵」とは [新宿発ポタリング]

daiba_1.jpg 東京湾史を私流に200字でまとめる。~明治まで霊岸島の河岸が荷揚場だった。浅い東京湾の浚渫土で「佃島・石川島」地続きに「月島埠頭」ができた。同じく浚渫土で「晴海埠頭」が昭和4年に誕生。大正から明治の帝都発展で「日の出桟橋・芝浦埠頭・竹芝桟橋」ができ、戦後の高度成長に電力の地として「豊洲埠頭」ができた。

 一方、都民のゴミは「夢の島」へ。第二夢の島=若洲、第三夢の島=中央防波堤内側埋立地、第四夢の島=同外側埋立地、第五夢の島=新海面処理場と海は次々にゴミで埋立てられた。物流拡充で青海コンテナ埠頭(第一~四)、大井埠頭(一~五)も完成。ゴミ埋立地と埠頭群に抱かれるようにして、嘉永6年築造の「台場」を軸に「臨海副都心(台場・青海)」が開発された。

 湾岸史をかく振り返ると、そのルーツに「台場」あり。ならば台場を企画・設計・施行監督した江川坦庵を知りたい。仲田正之著「江川坦庵」から〝坦庵像〟を短くまとめてみた。江川家は26代より太郎左衛門を名乗り、33代から韮山代官。支配管轄地は「武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐」で、坦庵は36代目。

 享和元年(1801)、伊豆・韮山屋敷で江川英毅の次男・英龍として誕生。文政1年より神田・撃剣館で剣術修行。2年後の二十歳で免許皆伝。撃剣館四天王の一人。館主没後に兄弟子・斉藤弥九郎に撃剣館を経営させ、俎橋・練兵館の師範代にもした。

 34歳で太郎左衛門の名と韮山代官を継ぐ。詩文・書画にも優れ、号は坦庵。江戸屋敷は本所(おや、勝海舟生誕地と同じだ)。生活は質実・倹約。弥九郎を共に行商人姿で支配地を巡回し「世直し江川大明神」の異名。天然痘種痘を我が子に施し普及させた。当時の進歩派知識人は蘭学に惹かれた。父は杉田玄白、伊能忠敬、間宮林蔵と交際。坦庵もシーボルト付きボーイからオランダ語習得の幡崎鼎に学ぶ。

 天保8年に洋式軍船、大砲製造などの海防を建議。だが幡崎は蘭書購入で軽追放。次に渡辺崋山と交際。老中・水野忠邦は江戸湾防備の備場(そなえば)見分を目付・鳥居燿蔵と韮山代官・坦庵に命じた。坦庵はこの見分で猿島~富津の浦賀水道に海防線を設けることを建議。しかし西洋知識派・坦庵と国学派・鳥居はことごとく対立。

 鳥居は南町奉行になって〝マムシの燿蔵〟になる。高野長英、渡辺崋山を捕らえた〝蛮社の獄〟。馬琴は息子の友・崋山と交友を深めていたが、崋山の蟄居・自害に手を差し伸べられなかったことを悔やむ。水野~鳥居による「天保の改革」は奢侈禁止も厳しく為永春水が手鎖50日、柳亭種彦が版木取り上げ、市川團十郎は江戸払い。芝居小屋は郊外(浅草)に追いやられた。

 坦庵は高島秋帆の洋式砲術の免許皆伝になると、鳥居は高島も捕まえるが、ややして水野は改革挫折で老中退陣。〝マムシの鳥居〟も町奉行罷免。老中は安倍正弘に代わる。坦庵の尽力で高島秋帆は放免。幕府買上げの高島の大砲演習の四門、小銃取り寄せを願い出て砲術習得の韮山塾を開設。ここで学んだ家臣・塾生約300名。坦庵没後の修練場門弟は4000名余。

 オランダ語は使えぬゆえ「担え銃(ツツ)」「気を付け」「前へ習へ」などの「鋭音号令」は坦庵発案とか。この時期に坦庵は兵糧としてパンも作って「パン祖」にもなる。ジョン万次郎も坦庵の専属通訳・翻訳官として相次ぐ異国船との交渉に活躍。韮山塾や没後の修練場から育った多くの人々が感臨丸で渡米したり、幕末・維新に活躍している。

 坦庵の海防論は軍船製造、農兵論、浦賀水道の防衛築造。だが幕府の腰は重い。ペルーが浦賀を去った2ヶ月後に、慌てて坦庵企画の台場築造を決意。坦庵の設計・監督でまずは第一~第三台場に着工。八ヶ月で竣工。その後に第五~第六台場を十ヶ月で完成も、後は予算不足で断念。

daibamegami_1.jpg 坦庵建議の浦賀水道防衛線は、明治に入ってやっと実現で猿島・第一。第二海堡築造。洋船製造の願いは、座礁したロシア船ディアナ号代わりに戸田号を製造。また韮山に鋳造溶解の反射炉を完成させて鋳鉄銃を生産。安政2年(1855)55歳没。彼の建議はかく明治に実現・発展され、韮山塾や修練場の門弟らの多くが後に大活躍。坦庵、偉人なり。幕末・維新は薩長ばかりではなく「坦庵、勝海舟あり」ってことで締めくくりたい。

 墨田川沿いに立派な勝海舟像が建ってい、東京湾を指さしている。台場に立派な坦庵像を建てたいところだが、なぜか台場に「自由の女神」が建ってい、それを見るとあたしはちょっと恥ずかしく哀しい。(なお新宿図書館で江川太郎左衛門で検索すれば12冊がヒット。概ね各書共に幕末の偉人的扱い。少しづつ読んでいきましょう)


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