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異国船来航時の荷馬・口取りのギャラ [くずし字入門]

komonjyo10_1.jpg 以下、左筆写の解読文(読み下し文) 

 差入申一札之事 尾州様御用御小荷駄馬之儀(おこにだうまのぎ)、今般異国船渡来ニ付、急御用向之節、老馬并(ならびに)聊(いささか)たり共御用相立兼(あいたちかね)候馬ハ相除(あいのぞ)キ、全(すべて)御用相成候(ご用あいなり候)馬壱疋ニ付口取共、御用之節一日銀拾四匁ツゝ、御渡可被下(おわたし下さるべく)候、夜中御用之節ハ右同断(どうだん)、可被下筈取極(下さるべきはず取りきめ)、尤(もっとも)御用被 仰候迄(ご用おおせられ候まで)、足留金(あしどめきん)之内三十日金壱分ツゝ之割合を以(もって)、此度(このたび)私共御受負仕度(下おんうけ負いつかまつりたく)、右ニ付馬弐拾五疋分足留金六両壱分御渡し被下(くだされ)、慥(たしかに)受取申処実正(じっしょう)御座候、然上者(しかるうえは)兼て急御~(つづく)

 当時の相場を現代換算すると銀壱匁=ニ千円。馬と口取りで銀拾四匁=二万八千円になる。当時の大工日給は銀五匁四分ゆえ、大工日給より少し安い。馬二十五疋で六両壱分(壱両=十二万八千円×六=七十六万八千円と壱分=三万二千円で計八十万円)ということか。

 この古文書は嘉永七年二月六日のこと。一月十六日にペリーが軍艦七隻で再来日して江戸湾に停泊。三月三日に軍事的威圧に屈して「日米和親条約」を締結。その最中に取り交わされた尾張藩江戸屋敷と農家名主の覚書。同年十一月に東海・南海地震。翌安政二年に直下型の安政江戸大地震。この古文書はよくもまぁ、焼けずに残っていたなぁとも感心する。


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