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尾張藩中屋敷を中村家が開墾? [くずし字入門]



IMG_5943_1.JPG左記古文書の<解読文&(読み下し文)>


  覚(おぼえ)

御殿跡荒地(あれち)起返(おこしかえし)

一(ひとつ) 金拾両

右被下置候ハゝ(くだしおかれそうろうハバ)當辰ゟ来ル(とうたつよりきたル)

牛年迠(うしどしまで)三ケ年相除キ(あいのぞキ)未年ゟ(ひつじどしより)

金弐両壱分宛(ずつ)御上納(ごじょうのう)可仕候(つかまつるべくそうそう)

辰二月  戸塚村 甚右衛門

御作事方(おさくじかた) 御役所様


 「荒地起返」=荒廃田畑を再開発して生産力を回復すること。「被(され)下(くだ)置(おき)」=くだされおき。「ゟ」=より。「宛」=ずつ。「可(べく)仕(つかまつり)候」=つかまつりべくそうろう。 


 この辺の歴史は自分でも調べてみる。尾張藩の主な江戸屋敷は市ヶ谷の上屋敷、麹町の中屋敷、戸山の下屋敷。現在は上屋敷が防衛省、下屋敷が箱根山中心の戸山公園で、ウチ(7Fの部屋)の西窓眼下に広がっている。そして麹町の中屋敷跡は現・四谷駅前の上智大になっている。


 当古文書「覚え」の歴史背景を、サイト「徳川黎明会」と新宿歴史博物館刊『尾張家への誘い』を参考に簡単にまとめてみる。麹町の中屋敷は総坪数1万7870坪。市ヶ谷屋敷の「西御殿」が中屋敷的に機能し始めて、こちらの御殿は老朽化と同時に取り壊し。文化5年(1808)、その跡地2000坪が尾張家御用の中村家に貸し付けられた。中村家は戸塚村と大久保新田(現・高田馬場34丁目、西早稲田3丁目と百人町4丁目)の名主。同家は金20両を投資して畑地とし、作柄もまあまあ也。同12年(1815)に貸付を中止され尾張藩は家臣の手作り地として「年貢米」を上納されることになった。とあった。


 この古文書「覚」では、中村家が金10両で開拓を請け負い、3年開けた4年目から年2両1分ずつ上納すると記されている。「10両と20両の違い」「貸付中止」から勝手解釈してみる。ここには坪数の記述がない。1000坪の起返を10両で請け負い、さらに1000坪を請け負って計20両かもと推測される。そうなら4年目から1000坪につき年2両1分上納で、2000坪で4両2分上納か。それでも充分に採算(利益)が上がった。それを知った尾張藩は「中村甚右衛門はうまいことをやりぁがって」と、文化12年に貸付を止め、家臣に与えて「年貢米」を上納させることにしたと推測遊び也。★somiさん、ご指摘ありがとうございます。「来年ゟ」を「未年ゟ」に訂正させていただきます。


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