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戸山荘⑧修仙谷を渡り錦明山、そして下る [大久保・戸山ヶ原伝説]

tounanbu_1.jpg かなたこなたつたひ下りて見れば、谷水したゝりて草もめなれぬ(目馴れぬ)が生茂り、丈ケひきゝ(背低き)人は行方も見とめぬ程にぞあんなれ(あるようだ)。雨降なば(~ならば)草も木も高からぬは皆水底に沈むさまならんかとおもひやらる。小き茅葺の「御やすらひ所」ありけるに、御床には青銅の布袋を置給ふ。そもいかなる人いつの頃にか作りけん。銅いろいろ艶有りて何やらん仰ぎ見るさまして、左の足をあげて笑ふくみたるよそほひ。あやしげにも見やられける。御次とおぼしき御やどりには、唯こしやすめのミゾありける(腰掛縁)。御手水なども清げにて、木賊(とくさ)なんど生て、小き石など所々にすえられしは、けふの御まふけ(準備)とど見へ侍りし。

 <小寺著『戸山の春』(佐野義行の記)を参考にする。「修仙谷」を下ると、流れは涸れて沢渡りの石伝いに歩むと、対岸に草葺茶屋あり。三畳の床に布袋像が置かれ、四畳半の土間には腰掛け縁。手水鉢の形もおもしろく、木賊が垣根のように生えて幽隠の境地のように思われた。この屋は一度取り壊されていたが寛政5年に再建>

sunrise_1.jpg 錦明山(絵図は右上。現在は写真左の区立障害者福祉センター辺り)、天満神を崇め奉らせ給ふ。御みやづくり神籬(ひもろぎ)のみありさまよのつねならず(並々ではない)。みかぐら(御神楽)奏し奉るみとゝのゝ(?)うちより、老木松生出たるか。四方に枝さし覆ひたるけしき、又なく面白侍し。茶など商ふ屋などもあり。左に水神の宮、元在郷屋とておかしげに造らし給う。

 <小寺著には、老松が屋根を貫いていたのは「絵馬堂」と記されていた。「水神の宮=水天宮」は社うしろから清水が湧き出して修仙谷へ流れ込んでいたが、光友没の頃に涸れたそうな>

jinkotunohara_1.jpg 「宇野のや地蔵」(絵図左下の「宇津谷地蔵堂」)は、山の中伏に白木造りの御堂にたゝせ給ふ。こゝもはるばるとのどやかに(長閑やかに)見所多し。かけ道(懸け道=険しい山道)をつたひ下りて、右は山、左は地水の清げなるさゞ波もたゝず。只凹なる鏡に向ふこゝちになん。初め見侍りし「随柳亭」を左の方に見なしたるか、風になびくみどりのいとゞ(ますます)王昭君(中国四大美人の一人)のむかし忍びかほなるもおかし。此辺に「在郷屋敷屋敷」ありし。すべて此家のさま、籾なんど敷たるうへに、荒きむしろひろげ敷おほひて、竈は皆ひとつなん(なむ=推量)あるに、黒木柴など取そへてくすほをりたるさま(燻りたる様)也。壁なども手してぬりくろめたるに、松葉なんとやうのもの、そぞろにかきものしたるもおかし。窓なども竹をあらはにのこし、三角丸四角などきわもなく(限りなく)ぬりにぬりたるまゝにこそ見へし。其あたりは竹の荒々しき垣、せんさいにはささけちぞ、春菜の苗手むさげに(適当に)植し。門は黒木をし立て竹のあみ戸しどけなくそまふけられし(杣葺けられし)。はねつるべ(跳ね釣瓶)などいふものありて、井のはたには水汲まふけて(設けて)、泥も浅からぬさまを催し、木履(ぼくり=下駄)のあとなんどいかにもあらあら敷付置(しくおきつけ)たるは、心深(ふこ)ふも数寄造られしにやと感じて過(あやたま)ぬ。『和田戸山御成記』(6)

 <元在郷屋に施された細やかな演出の紹介は、旧仮名・古語の楽しいお勉強になります。「天神山」は天明8年(1788)に「錦明山」と改称。絵図の「両臨堂」は現・戸山ハイツ1号棟辺りか。同1・2号棟は目下、国立病院宿舎建設で解体中。「宇津谷地蔵堂」はそれより一段下がった池側ゆえ写真下の更地辺りか。同地蔵近くに宗春の時代には「鬼の岩屋」があり、奥に木製の鬼がいたらしい。西山ガラシャの小説では、怖がらせる程度をどれほどにするか思案する場面が面白かった。まぁ、お化け屋敷的仕掛けとでも云えましょう。さらにこの地は戦後に人骨騒動もありの大日本帝国陸軍の暗い遺産もあるが、それらは後でまとめて記しましょう。

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