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日本語(7)和歌に「濁点なし」の理由 [くずし字入門]

 

 mototune.jpg_1.jpg 藤原定家は、かくして「和漢混交文の時代」へ導くが、山口著『てんてん』の主題〝濁点〟について。平仮名の『古今和歌集』は905年。980年の『宇津保物語』には「漢詩は楷書、青い色紙に草書体、赤い色紙に仮名文字」の記述ありと説明。さらに仮名に5種類の書き方ありの記述があって「男手=万葉仮名」「女手=平仮名」「男手・女手でもない=草仮名」「片仮名」「葦手=装飾的文字」ありと記されていて、当時はさまざまな書き方が混在していたと説明。ちなみに『宇津保物語』は作者不詳で〝婚姻がらみ皇位係争〟を語る最古の長編小説。

 万葉仮名は「濁音と清音」を漢字で書き分けていたが、「草仮名~ひらがな」へ移って、濁音は「〃」の補助記号を使って書き表わされた。だが次第に「濁点なし」へなるのは、宇多天皇即位後の「阿衡(あこう)の紛議」が影響していたと指摘。

 藤原公清から代々天皇の実験を握ってきた藤原北家の藤原基経(もとつね)が、嵯峨天皇崩御45年後の宇多天皇の代で、橘広相(ひとみ)と「阿衡の紛議」勃発。原因・経緯は省略も「広相が受罰」。基経が関白太政大臣になって権力集中。「広相を遠島」に反対したのが菅原道真(みちざね)だった。

 当時は娘を天皇に嫁がせ、天皇外戚となって要職独占の「摂関政治」が展開。小生補足すれば、藤原基経の妹は清和天皇の皇太后だが、清和天皇が子を産ませた女性は25名。多数子孫を「清和源氏」として臣籍降下。広相の娘も宇多天皇と結婚。菅原道真の娘も宇多天皇の女御。その前の嵯峨天皇の相手も25名で子が50人。32名の子に「源」の姓を与えて「源氏」誕生とか。為政者の性と権力が絡み乱れ爛れて、その反省・浄化もあったと推測する。

 かくして「摂関政治」で実権を失った以後の天皇は「あぁいやだ・いやだ」と穢れを避け、浄化に道を求めて住居を「清涼殿」と命名。著者はこれによって中国にはない〝穢れを避ける意識〟が日本に生まれ、それが日本語にも影響したのでは~と説明していた。

 後の本居宣長はそれを「濁った世の中に現われる蓮の花=もののあはれ=物事に触れて心にわき上がるしみじみとした感情=王朝文化=『源氏物語』や和歌に秘められた」と語っていると説明。

 和歌にそんな流れが生まれて「ごみ・ぶた・どろ・げろ・がま」など濁音で始まる言葉を「穢い、下品」と避け「優艶さ・浄化美」を求める風潮へ。和歌という場の雰囲気に「濁点」がそぐわない感覚が育まれたのではないかと指摘。

 以後、公的文書記録は誰が読んでも間違えない漢文で書かれ、文学(私的で女性的)は平仮名で書くようになった。だが「仮名」は読む人によって誤解を招きかねない点を残し、その危うさもまた味わいになったと記す。カットは菊池容斉『前賢故事』(明治1年)の挿絵「藤原基経」。

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日本語(6)仮名は読み次第~和漢混交文へ [くずし字入門]

takamura_1.jpg 再び山口著『てんてん』に戻る。第三章「かな前夜」、第四章「聖なる世界が創られる」を自己流まとめ。まず著者は「仮名」の前に「章草体」ありと紹介。唐全盛期の玄宗皇帝の手紙も、空海書も「章草体」。その写真を見ると漢字を崩し書いたような「草仮名」へ至る過程の形と思える。そして小野篁(たかむら)の孫・道風の書は「草仮名」。さらに「平仮名」に近くなっている。

 小野篁が登場すれば、嵯峨天皇(上皇)との逸話も欠かせない。空海没後の承和3年(836)遣唐使副使に任命された篁。2度の難破。3年後3度目に、篁はもう唐の時代ではなく、自国文化を築く時と遣唐使を拒み、遣唐使の無謀を漢詩に書いて嵯峨天皇が激怒。隠岐島へ流刑された。写真は小倉百人一首(菱川師宣・画)の参議篁の歌。「和田(海)の原八十嶋かけて漕出ぬと 人にはつけよ海士のつりふね」。隠岐へ向かう時に詠んだ歌。

 2年後に許されて後は要職を歴任。嵯峨天皇との間では、こんな逸話も有名とか。天皇がこれを読めるかと「子子子子子子子子子子子子」を出題。篁は「子=ね・こ・し」と読めることから「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と読み解いた。(「宇治拾遺物語」収録逸話らしい)

 同じような仮名の読み違いの有名逸話。蒔絵師が詠んだ。「たたいまこもちをまきかけてさふらへはまきてさふらひてまゐりさふらふへし」(只今御物を蒔き掛けていますので、蒔き終わってから伺います)を、高倉天皇の皇女坊門院範子の台所女房が「只今女房を抱いていますので、ことを済ませてから伺います」と解釈。(「古今著聞集」収録逸話らしい)。山口著は「こもち=御持=御道具。まく=枕く」。小池著は「こもち=女房、まく=婚く=情交」と読み違えたと説明。

 以上から山口著は「仮名は読みなし。解釈がさまざまにできる。しかも笑い、きわどさ、哀しさとも言えぬ複雑な「もののあわれ」を滲ませて「憂き世=仮の名(仮名)」に通じると説明。

 これに関して小池著<日本語の「仮名遣」いの創始・藤原定家>で、定家はこうした仮名文の支障に悩んで「日本語を書き表わすには、漢字だけでも駄目であり、仮名だけでも駄目である」と結論。かくして定家は心血を注いで「和漢混交文」を考えた。結果は漢字の比率を仮名文より多めにすることによって、漢字が文意の把握を容易にし、文のまとまりを示し、文節の始めを示し、文の構造を把握しやすくなるとした。日本語はかくして「和漢混交文の時代」へ入って行くと説明していた。

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日本語(5)和文の創造・紀貫之 [くずし字入門]

kokinkanajyo_1.jpg 続いて小池著のⅡ章「和文の創造・紀貫之」を読む。奈良時代に大伴家持(やかもち)らによって天皇~乞食までの歌が網羅された『万葉集(一大国民歌集、万葉仮名)』が生まれた。(2)で「吾勢子波借盧作良須草無者小松下乃草苅核」の一例を紹介済。

 そして平安前期、紀貫之(きのつらゆき)らによって、今度は貴族・僧侶中心の平仮名『古今和歌集』(延喜5年・905)が生まれた。紀貫之の一首は紹介済だが『古今和歌集』には有名な「仮名序」、漢文の「真名序」あり。「仮名序」冒頭(写真左)を読んでみる。「やまとうたは人の心をたねとして よろ川のことのはとそなれりける よの中にある人ことわさ志けきものなれば こころにおもふことを~」。

 さらに有名な二首を紹介してみよう。在原業平の〝都鳥の歌〟(写真下左。慶長13年刊の嵯峨本より)は「名にしおハゝいさことゝハん宮古鳥 わか思ふ人はあり屋なしやと」とよめりけ禮ハ~。

 次は国家の基歌。~たいしらす よみ人しらす(題しらず 読人しらず)「わかきみはちよにやちよにさされいしのいわおとなりてこけのむすまで」(濁点なし)

 『古今和歌集』をもって「仮名」が公認、市民権を得た。「仮名」は漢字の意を捨て、音だけを利用した「万葉仮名」を、多くの人々が草書で簡略書き(草仮名)するうちに次第に固まった日本オリジナル文字の誕生。

nanisioha_1.jpgkokenomusumade_1.jpg 「平仮名」に後れをとった「片仮名」は、寺院での講義ノートから生まれた一種の速記文字として発達したらしい。「平仮名」誕生は「和歌」を発達させ、文字社会の成熟も生んだ。作者不詳の歌物語(和歌にまつわる説話を集成した物語文学)の『伊勢物語』も誕生した。

 当初の和文は、和歌と消息(手紙)から発達したが、「消息=話ことば」をそのまま書きことばにして〝だらしない〟印象があった。そこで漢文を基に(後ろ盾にして、養分を摂取しつつ)次第に磨かれていった。

 紀貫之はその後に『土佐日記』も著わす。同作は男である貫之が、女に仮託して述べる虚構で、その方法もまた文芸の香り高さを有する日本文学の礎になった。著者は夏目漱石の「吾輩は猫である。名前はまだない」と書き出して「猫」に仮託してしゃべらせる~に通じていると指摘していた。

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日本語(4)小池清治『日本語はいかにつくられたか?』 [くずし字入門]

kojikijyo_1.jpg 小池著『日本語はいかにつくられたか?』(ちくま学芸文庫。筑摩書房版は平成元年・1889に刊)を入手。同書を〝プロの読み手〟とでもいうべき「松岡正剛の千夜千冊」が今年2月に取り上げていた。再評価? こう紹介されていた。

 「本書はよくできた一冊だった。6人の〝日本語をつくった男〟を軸に、日本語の表記をめぐる変遷を近代まで読み継がせた。(日本語研究の全8巻、全16巻などを挙げて)それらをひも解くことがあるも、全貌を俯瞰する視野と結び目がもてないままにいた。それがこの本書によって画竜に点睛を得た」

 その6人で各章構成。Ⅰ「日本語表記の創造・太安万呂」、Ⅱ「和文の創造・紀貫之」、Ⅲ「日本語の〝仮名遣〟の創始・藤原定家」、Ⅳ「日本語の音韻の発見・本居宣長」、Ⅴ「近代文体の創造・夏目漱石」、Ⅵ「日本語の文保の創造・時枝誠記」。まずはⅠ章を読んでみる。

 太安万呂(おおのやすまろ)。日本に漢字がなかった応神天皇15年(4世紀末~5世紀初頭)に、百済国王より馬2頭が贈られ、馬飼職として「阿直岐(あちき)」も来朝。彼が「経典」を読むので皇太子の家庭教師にした。字の重要性に気付いた天皇は、百済に人を派遣して『論語』十巻と『千字文』一巻を携えた「王仁(わに)」先生を招聘(出典は『日本書記』『古事記』でしょう)。かくして飛鳥時代に日本人が日本語を書き表わすようになった。

 奈良時代の和銅4年(711)、太安万呂が稗田阿礼(ひえだのあれ)らの協力を得て4kojikiden_1.jpgヵ月で『古事記』を撰録。その早さは阿礼ら語部の「誦習(よみなら)=暗唱)ゆえ。それを文字化するのに太安万呂は「言=主に音声」と「意=意味」に二分して「漢字仮名交り文(音訓交用)」を創造した。だが未だ「仮名」はなく「訓注・声注・音読注・解説注」多用で対処した。

 ちなみに『古事記』冒頭(写真上。明治3年の柏悦堂刊)は「臣安萬侶言、夫混元既疑、気象未効、無名無為、誰知其形~」。現代訳は「臣の安萬侶が申し上げます。夫(そ)の混元(まざりはじめ)は既に疑れど、気象(かたち)未だはっきりしませんで、名なく為(なすこと)なく、誰も其の形を知らず~」

 安万呂は4ヶ月で『古事記』を書いたが、江戸中期の本居宣長は『古事記』を読み解くのに35年も要して『古事記伝』(写真下)を寛政10年(1798)に脱稿とか。安万呂の表記法が不完全ゆえに苦労したらしい。小池清治著のわかり易いこと。氏は1641年生まれの国語学者。昨年亡くなった。

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日本語(3)和歌は濁点を好まない [くずし字入門]

dakuten2_1.jpg 「おまいさん、そんなに机に向かっていると今月は10万歩達成できないよ。馬場のブックオフへ行っておいでよ。あたしの好きな時代小説を買って、ついでにコージーコーナーでケーキを買ってきておくれ。往復5千歩だよ」

 かくしてブックオフで小池清治『日本語はいかにつくられたか?』と岩波文庫の『古今和歌集』を購った。それらも参考に山口謡司『てんてん』を拾い読みする。「はじめに」にこう書かれていた。

 「いまだに和歌は〝ひらがな〟には濁点をつけずに書くのが正統である。/本居宣長は古代日本語には濁音で始まる言葉はなかったと記している。/江戸時代は濁音なしでもよくて〝蕎麦をするするすする〟は(するする)でも(ずるずる)でも読み手次第。/日本人は自然の音を言葉にする能力に長けて〝てんてん〟をつけて擬音、擬態語(オノマトペ)を創造した。」

 第一章「日本語の増殖」 『古今和歌集』の「梅の花見にこそ来つれ鶯の ひとくひとくといとひしもをる」は、「ひとくひとくと=人が来る人が来ると」だが、この発音は平安時代初期は「フィトク」、奈良時代は「ピチョク、ピティォク」。鶯の鳴き声「ピーチク」(ホーホケキョじゃないのか?)にかけた〝言葉遊び〟だったと解説。平安初期まで「はひふへほ=パピプペポ」、『源氏物語』の頃は「ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ」に変化。「さしすせそ=ツァ・ツィ・ツゥ・ツェ・ツォ」。「笹のは葉=口を開かずにツァツァノパパ」。

kouin_1.jpg 著者は「唐の漢字の発音を知ることができる『広韻』を調べてみると」として、次々に「発音記号」で説明するが『広韻』(国会図書館デジタルコレクションで閲覧可、写真左)に発音記号があるワケもなく、中国語発音記号「ピンイン」がローマ字式で制定されたのは昭和33年(1958)。これらはネット公開「音韻学入門」(愛知大)はじめ幾つかのサイトに詳しいが、専門過ぎて小生にはとても読めない。

 第二章「万葉仮名で書く日本語」 中国は唐王朝の影響で日本も公用語は漢文。だが日本固有のものは漢字では無理ゆえ、漢字の当て字(万葉仮名)が生まれた。漢字には主に呉音(ごおん)と漢音がある。「女=ニョ(呉音)、ジョ(漢音)/男=ナン(呉音)、ダン(漢音)/老若男女=ロウニャクナンニョ、法会=ホウエは呉音」と説明。

 面白いのでネット調べで追記する。日本へ最初に入ってきた中国語は南北朝時代の南朝・江南からで、同地はかつて呉の地方ゆえに呉音。他に食堂(じきどう)、文書(もんじょ)、金色(こんじき)、今昔(こんじゃく)、経文(みょうもん)なども呉音。

 だが中国が唐中心になると「科拳」(官僚試験)のために唐音に統一が必要で『切韻』で体系化。年々改訂された最終版は1008年『広韻』となって2万6千字ほどを収録。~どうやら「てんてん」を知ること=日本語誕生の歴史を知ることらしい。そこで体系的に説明された小池著『日本語はいかにつくられたか?』を読んでみることにする。

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日本語(2)「てんてん」の本 [くずし字入門]

manyousyu_1.jpg 新宿中央図書館へ行った。沼田克明著『濁点の源流を探る』はなく、山口謡司『てんてん~日本語究極の謎に迫る』があった。

 裏表紙のコピー。~「かな」を濁った音にする「てんてん」は、近代に発明された記号である。『古事記』『万葉集』など万葉仮名で書かれた日本語には、濁音で始まる言葉はほとんどなく、江戸の人々は、「てんてん」がつかない文章でも、状況に応じで濁る・濁らないを判断していた。自然の音を言葉にする能力に長けた日本人の精神性に根ざした「てんてん」の由来と発明の真相に迫る!

 テーマが明確に記された文章。だが同書をひもとけば、話がやたらに彼方此方へ飛ぶ。体系的・理論的に理解するには程遠い。どんな方が書いているのだろう。顔写真はア―写(タレント宣伝写真)、選挙写真のよう。誰に微笑んでいるのだろうか。言語学者イメージはない。「読むのを止めようかしら」と思ったが、ちょっと立ち止まって著者周辺を探ってみる。絵も書も達人とか。絵は湯村輝彦や先日亡くなった河村要助らのヘタウマ系イラスト風。夫人はフランスの方らしい。本を閉じようとしたら板橋は大山在住らしい。それで拒否感が少しだけ薄れた。

 あたしは中学の時に、別中学の女番長っぽい方から呼び出しを受けて、ビビり向かったのが大山辺り。そんなことを思い出す頃に、同書にまとまりがないのは、あちこちに書いたものを強引に一冊にまとめたらしいと推測した。

 中学時代を思い出したついでに、同書を読む前に中学程度のお勉強をし直す必要があろうと、以下をお勉強した。「平仮名」は奈良時代に使われた借字(万葉仮名)を起源にする。そうか。では『万葉集』(延暦2年・783)から一首をあげてみよう。原文(写真上)「吾勢子波 借盧作良須 草無者 小松下乃 草苅turayuki_1.jpg核」。解読すれば「吾(わが)勢子(せこ)波(は)借盧(かりほ)作良須(つくらす)草無者(かやなくは)小松下乃(こまつがしたの)草苅核(かやをからさね)」

 「万葉集=万葉仮名=当て字」だな。これら当て字から「波・者を草書体にした〝は〟の形」のようにして平仮名が生まれて『古今和歌集』が誕生。その巻1の2、紀貫之の歌(原文・写真下)を見る。「そてひちてむすひし水のこほれるを春たつけふのかせやとくらむ」。そ(曾)、む(武)、す(春)、つ(川)。江戸時代の「くずし字」と同じ。濁点なし。紀貫之は後に平仮名で『土佐日記』を書いた。

 一気に明治33年〈1900)へ飛ぶ。「小学校令施行規則」第一号表「あいうえお」の48字(ゐ、ゑを含む)が示された。ここまでを予習して「濁点(てんてん)」について~(続く)

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日本語(1)濁点なし文章 [くずし字入門]

edoezu_1.jpg 過日の「戸山荘シリーズ」の解読で、手こずったのが「濁点なし」文章だった。無教養の小生は、この歳で初めて「濁点」に向き合ってみることにした。

 例えば折々にひも解く『江戸名所図会』(絵:長谷川雪旦/文:斉藤月岑)は写真上の通り、漢字にルビ付きで「濁点なし」。一方のほぼ同時期『絵本江戸土産』(西村重長版も広重版も)、写真中の通りルビ付きで「濁点あり」。

 もう少し調べてみましょう。芭蕉『おくのほそ道』の場合はehon_1.jpgどうか。岩波文庫の校注本は「読解上の便を考えて、内容に従った区切りを設け、適宜句読点、濁点、カギ等を施した」で、ここは原本(素竜清書本)を読んでみます。写真下の4行目中ほどから読みます。

 「又いつかハと心ほそしむつましきかきりハ宵より津とひて舟にのりて送る千住といふ所にて船をあかれは前途三千里のおもひ胸にふさかりて幻の巷に離別の泪をそゝく」。

 芭蕉も「濁点なし」です。「津とひて=集いて」は「万葉仮名(津=つ)+濁点なし(と=ど)+旧仮名(ひ=い)の構成。古典は概ね〝施さokunohosomiti_1.jpgれた〟文章で接することが多いも、やはり原本には特別の味わい深さがあります。

 十辺舎一九『東海道中膝栗毛』はどうでしょうか。校注者は「清濁は、同じ語でも表記が違い、濁点を欠くもの甚だ多い。(中略)当時の発音にできるだけ従って補い正した」。濁音付き校注だと説明。

 時代を遡って明治22年(1889)公布の「大日本帝国憲法」を見ます。第1章天皇第3条「天皇ハ神ニシテ侵スヘカラス」。漢字+カタカナ+ルビなし+濁点なしです。表記・黙読は〝ヘカラス〟で、音読ならば〝べからず〟と読むのだろう。

 下世話な小生は、ここで遊んでみたくなった。「本々尓多ん古ん不知古ん天」。北斎ならば即答してくれる。「開(ぼぼ)に男根ぶち込んで」。かく下世話で無教養でお馬鹿な小生にも、そんな濁点についてを、わかり易く教えてくれる本があるだろうか。ネット調べをすれば「そんなこたぁ作者が好んで濁点有無を選んで書いていることゆえ、読む側は文脈の流れから勝手に読めばいいんだよ」とあった。やはり図書館へ行って調べてみよう。(続く)★カットは全て国会図書館デジタルコレクションより。

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75歳で老衰死亡と鉄瓶と~ [暮らしの手帖]

tetubin_1.jpg 若い時分に人気だったイラストレーターの新聞訃報あり。思わず同記事を繰り返し読んだ。氏とお付き合いがあったワケではなく、次の文章が気になったからだ。「老衰のため死去、75歳。」

 過日、千駄ヶ谷までの往復1万歩ウォークをした小生だが、昨年12月から月10万歩ペースが続く。それが功を奏したかは知らないが、病院での血圧検査が「102/58」。「あれっ、俺って高血圧じゃないじゃん」で、日々の薬を捨てた。それはひょっとして老衰ゆえの低血圧なのだろうか。

 小生はずっと高血圧気味で、女房は低血圧気味。貧血で蹲ることままあって「鉄分が足らねぇ」と言われて以来「1日分の鉄分入り云々ジュース」を欠かさず飲んでいる。某日、テレビが「現代人の鉄分不足は鉄器を使わなくなったせいです」と言った。

 先日、馬場から帰る裏路地途中のアンティーク屋・店先に鉄瓶があった。3千円で購入。「値切らねぇ客は初めてだ。店頭の好きなもんを一つ持って行け」てんで、「〇善」刻印の可愛い鉄瓶をいただいた。

 気のせいか鉄瓶で沸かした湯で飲む茶、コーヒーに深い味わいが生まれた。だが鉄瓶使用後は、空焚きして水を飛ばしておかないと、残った水が鉄錆で茶色になる。手入れが面倒で握力減退の老婆には重すぎて危険ゆえに余り使っていない。鉄分過剰摂取を心配するには至らぬだろう。

 かく健康に気を配っている小生らも、ここで倒れれば〝老衰のため死亡〟になるらしい。さて、今日はどこまで1万歩ウォークしましょうか。

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国立競技場の植栽とパノラマ撮影 [散歩日和]

63kokuritu_1.jpg 1万歩ウォークで、千駄ヶ谷・国立競技場を一周した。各階の外周に草木が植わったプランターが並び、地上の植栽も始まっていた。

 完成予想図で感じた〝緑豊かな〟印象はなく、木材多用イメージだったが各階鉄骨天井に板が張られた程度で、木の印象もなかった。今後の仕上げで変わってくるのだろうか。

 小生、20歳の「東京オリンピック」では東京脱出組だった。今回のオリンピックへの関心も希薄。この巨大な競技場を見上げていると、国家イベントゆえにアスリートが為政者に取り込まれている気がしないでもなく、ちょっと心配になってきた。

kucya_1.jpg すでにテレビは「放送法4条」とやらで縛られ、為政者にへつらう人物が番組審査委員長だったりしている。テレビを主な生活の糧にする芸人らも、風刺諧謔の尾を丸めているような~。むりもなかろう、すでに官僚らは〝忖度〟した人生を歩み始めている。

 国立競技場はじめの五輪の膨大経費。戦闘機の巨額購入。「イージス・アシュア」導入では、秋田市配置調査でグーグルアースから算出の呆れたお粗末。年金生活に2千万円足らずも明らかになった。今朝のニュースでは、女性ファッション誌によるモデル起用の自民党とのコラボ企画が報じられていた。「そこまでやるか!」と腰を抜かすほど驚かされた。

 国立競技場をスマホでパノラマ撮影したら、車3台がクチャと潰れていて、面白い絵になっていた。何故こうなるのだろうか。オリンピック終了の頃の日本も、何かが「クチャ・クチャ・クチャ」と潰れていて、不景気に襲われ、老人らの悲鳴が満ち、民主主義も無視され、若者らも明日に夢を託せぬ~とんでもない日本が始まっているような気がしてきた。

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戸山荘㉔『和田戸山御成記』を終えて [大久保・戸山ヶ原伝説]

tokyosisiko.jpg_1.jpg 戸山荘のあった地は〝地元〟です。16年前に「東京市史稿」より大田南畝(写)の『戸山庭記』他を転載したことがあります。今回は三上季寛による寛政5年の11代将軍徳川家斉に随行した『和田戸山御成記』。文章を吟味しつつ、該当現在地をも確かめつつのアップ。戸山荘資料は多数ゆえ、機会があれば今後も読み込んでみたく思っています。

<「東京市史稿」の『和田戸山御成記』について>  同史稿は翻刻(くずし字で書かれた文献を活字に直して一般に読める形式したもの)ですが、昭和4年刊で、珍しい「くずし字活字」交じり。それはまぁ読めますが旧かな、旧字、濁点なし、無教養ゆえ知らぬ語彙も多く、解釈するのに「古語辞典、広辞苑」が欠かせなかった。

 読めなければ、濁点を付けてみる。旧かなを現代かなに直してみる。読点(、)位置を入れ直してみる。漢字変換をしてみる。~等々を試みつつの解読でした。小生は戦後生まれ。かつ母が茶道華道のお師匠さんでしたから着物の生活、茶道具、華道具などに多少の馴染もあり、道具名から〝あぁ、家にもあったなぁ〟などと懐かしく思い出したりしました。しかし今や「集合コンクリ住宅+デジタル生活」で、小生の子供らには江戸はさらに遠い世界になっているように思います。

 わからない個所はそのまま、またいい加減に読み飛ばした部分も多々です。それらが気になる方は、ぜひ御自分で「東京市史稿」をお読み下さり、御自身のサイトでアップ下さいませ。

<現在地の推定について> toyamaenzu.jpg_1.jpgowariko.jpg_1.jpg 戸山荘25景の推定現在地は「新宿歴史博物館」のチラシ「新宿の遺跡2019」の「尾張徳川家下屋敷」の絵図+現在地=「重ね地図」を、また幾つか建っている史柱を参考にさせていただきました。

<参考絵図> 国立国会図書館デジタルコレクションより①「尾張大納言殿下屋敷戸山荘全図」 ②「尾候戸山苑図」(平野知雄・原図。戸山邸内の長屋生まれの藩士。42歳で安政6年の戸山御殿全焼に遭遇。明治元年に名古屋に移住して、戸山荘の思い出を『戸山邸見聞記』(明治元年3巻を刊)。そこから皆園圭・写で明治21年刊。 ③「尾張公戸山庭園」(寛政5年) ④「東京市史稿・遊園篇」2巻掲載の宝暦頃「戸山御屋敷図」

<参考資料> ●国立国会図書館デジタルコレクションより「東京市史稿・遊園篇第1~6篇」(昭和4年~11年刊)より、第1篇「和田戸山庭築造」「尾州公戸山御庭記」/第2篇「戸山御成記」(久世善記・大田南畝写)、「和田戸山御成記」(三上季寛)、「戸山の春」(佐野義行)他。

●新宿区歴史博物館の刊行物「平成4年度企画展図録・尾張徳川家戸山屋敷への招待」/「平成18年度特別展・尾張家への誘い」/「所蔵資料展・新宿の遺跡2019(特集)尾張徳川家戸山屋敷とその周辺」及び同テーマの計3回講座資料。

●書籍 ①小寺武久『尾張藩江戸下屋敷の謎』(中公新書1989年刊)/西村ガラシャ『公方様のお通り抜け』(日本経済新聞社2016年刊)/③清水義範『尾張春風伝』(幻冬舎1997年刊)/④芳賀善次郎『新宿の散歩道』(三交社刊)/⑤『我が町の詩 下戸塚』。他に多数ウェブサイトも参考にさせていただきました。

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戸山荘㉓徳川光友と千代姫と~ [大久保・戸山ヶ原伝説]

segaiji1_1.jpg 三上季寛『和田戸山御成記』最後に戸山荘造営に関して~<尾公こたへ給ふは、小身のやつがれ心(気持ち)に任せ侍らしと仰せありしかば、即命下りて早卒に御庭造りまゐらせよとて、頓てこと行はれ侍るとそ申伝へたるとなん>

 と簡単に記している。この尾公とは、11代将軍家斉御成りの際の9代藩主・徳川宗睦ではなく、戸山荘を造った2代藩主・光友のことだろう。加えて最後に本堂なしの「世外寺」も登場した。同寺は光友の正室・千代姫を産んだ「お振」の墓所・自証院(現・市ヶ谷富久町)が焼失で、家斉御成りの寛政5年の54年前、元文4年(1739)に世外寺(コブ寺)を移築したため。(絵図は尾候戸山苑図より。世外寺は現・生協辺り)

 ということで、戸山荘シリーズ最後は女性がらみだった光友の「戸山荘造成」経緯を簡単にまとめておく。光友の父・義直は家康の9男で、家光は2代将軍秀忠の次男。家光は衆道傾向ゆえ「おなよ」の孫娘「お振」を春日局の養女にしてボーイッシュ仕立てで側室にあげ、家光最初の子・千代姫が産まれた。「おなよ」は二度の結婚や夫浪人などの経歴、勉学で深い教養を深めており、義理の叔母・春日局の補佐役として大奥や家光の信頼を得た。しかし千代姫の母「お振」は、産後の肥立ち悪く3年後に没。

 12ヶ月の千代姫は、13歳の光友と婚約。寛永16年(1639)、14歳光友と2歳千代姫が婚姻。もし家光に男子が産まれなければ、次は光友が将軍なる密約もあったとか。だが2年後に家光に「家綱」が誕生。

 寛永20年(1643)、家光の勧めで「おなよ」は出家して「祖心尼」へ。同年に春日局も没。1646年、祖心尼は家光より寺社建立をと牛込に1万坪を拝領して「濟松寺」(現・早稲田駅から徒歩7分の榎木町)を開山。

 慶安4年(1651)に家光没。「祖心尼」も大奥を去って同寺へ。翌年に千代姫15歳、光友27歳の間に「綱誠」誕生。(側室が長男を産んでいるも、側室の子で嫡男へ。ちなみに光友側室は10名。子は正室の子も含めて11男6女。庭作りも好きだったが、子作りも好きだったらしい)

 寛文8年(1668)、濟松寺内に江戸有数の名庭を有していた80歳の祖心尼が、戸山荘の地4万6千坪余を光友に譲る。光友は翌年から造営開始。寛文11年(1671)、その隣接地8万5千坪余を幕府から拝領。理由は千代姫御病気御静養のためとか。周辺地も入手して計13万6千坪余の戸山荘へ。(尾張藩の江戸屋敷については徳川黎明会によるPDF「大名江戸屋敷の機能的秩序」渋谷葉子氏に詳しい)

 そして寛文末から延宝期(~1681)に戸山荘の主施設完成。戸山荘の作事奉行は尾州の加藤新太郎とか。なお「祖心尼」は濟松寺で余生を過ごし88歳で没。千代姫は元禄11年(1699)に62歳で没。増上寺に葬られたが、後に尾州瀬戸の定光寺に合祀されたらしい。この項は多数ウェブサイト巡りで自分流まとめ。また『和田戸山御成記』の三上季寛は、当時は御先手頭を勤めていた600石旗本と記したが、改めて同名検索すれば「火付盗賊改方頭」180代長官(鬼平モデルの長谷川宣以の8年後)でヒットした。多分同一人物だろう。次回にこのシリーズ主な参考資料を記して終わります。

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戸山荘㉒五重塔、世外堂で完 [大久保・戸山ヶ原伝説]

gojyunotouup_1.jpg ここかしこめくりて、なたれ(傾)たる芝生の清き事いわんかたなく(言いようがない)、塵もなく、さし出し草もなく、たゞのしにのべたるか(伸ばし絶え間なく続くさま)ごときうちに、見上るばかりの大石をこともなけにすへ、そのほとりに芝つつしなとたへたへに(控え目に途切れ途切れに)あしらへるさま、御庭の事司しめさせ給ふ人の心の行しことぞおし量られて、いと感することの限りなりし。右りもかたの長畑道とて細く清らに直なる道に入らせ給ふ。<この大石風景は幾つもの絵図に描かれているも省略>

 左に「番神堂」また「五重の塔」有。事ふりし(事旧りし=ふるめかしい)白木造りにて、是なん餘慶堂にての眺望なりけらし(~だったようだ)。このほとりは竝木(なみき)の松数もしられぬばかたちつゞきたるか。林の竹の生たるようにて、枝もすくなくすなほにてのびやかなる。西北の風烈しき所なるにや、梢は皆東南になびきて、吹ぬに残す風の姿(風が吹くことによって残った姿)もめづらかなり。「稲荷」の宮ゐ(宮居)など拝まれおはします。

segaiji2_1.jpg 此道をはるばると過させ給ひて「世外寺」と名付られし古寺の跡有。地内に地蔵堂また大きなる鐘あり。楼は節々多くたくましき荒木にて造りたるも古めかし。八幡観音虚空蔵殊勝にも又とふとし。小高き岳より見やりけるに、こは名におふ大久保などいへるあたりを見おろしたるけしき。折から青みわたりしもたくひなくぞ覚え̪し。むかしはまことの寺にて、墓所なんと有しとし。万治の年号刻る石燈など有き。誠に閑寂たることともあわれけに見へしも、皆御庭の風情もとめんたよりに作りし成べし。西南山の車力門より還御おはし給ぬ。これは寛政五のとし、けふの暮つかた(暮つ方)のことになんありけらし(~たらしい)。

 そも此御庭と申は、将軍家大猷公(徳川家光)の姫宮、尾州家へ御入輿ましましたる時、御遊び所にとて進せしめ給ひし、二とせ三とせ過にし頃、さいつ頃(先つ頃=先頃)の外山の庭はいかにとも尋され給るに、尾公こたへ給ふは、小身のやつがれ心に任せ侍らしと仰せありしかは、即命下りて早卒に御庭造りまゐらせよとて、頓て(やがて、にわかに)こと行はれ侍るとぞ申伝へたるとなん。

seikyo_1.jpg けふの御もてなしの御調度ともは、皆御宝にて尾州国よりはこびもて来しものなるか。程もなく築地の御屋敷なる御蔵へ運き行て舟艤(ふなよそおい)し、尾州国の御宝蔵へ送り、かりそめに造られし御調度迄一ツとして残し給はず、皆御宝の数に入られたるよし聞伝へし。其折しも幸に御供にまかりて、ここかしこ見し聞しこと計をおもひ出しはしはし書つづり侍るもよしなし。『和田戸山御成記』(16)完。

 <世外寺(せがいじ、コブ寺)があったのは現・生協(写真)辺りか。世外寺は千代姫がらみゆえ、尾張2代藩主・徳川光友の造営経緯をまとめる最終回に詳しく記してみたい。「五重塔」は現・小生マンション7F眼前が14、15階の戸山ハイツ群だが、昔ならば眼前に五重塔が建っていたのだろう>

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戸山荘㉑望野亭で無礼講の宴 [大久保・戸山ヶ原伝説]

bouyateup_1.jpg 扨かの「望野亭」(ぼうやてい)の御殿には、御上段をかまへ餘慶につぎたる大との(殿)造りなりき。御床には喚鐘撞木(かんしょう:小さな釣鐘+しゅもく:それを叩く木の棒)をかけられ、寄合書の三十六歌仙の手鑑。筆はしるし(著名)なけれ共、ふるき筆の跡位も尊とげにて某人の名もしたはし。画は藍をもて艸々と書たるか。さもめづらかなる御物也。唐かねの菊の折枝の文鎮のさひしけなるをそ置き給ふ。

 数々の御殿につづきし御厨(みくりや=台所、御供所)をば、あらたに造そへられ、御井(みい=井戸)は大広床の最中にありて、かたへ(片方)には大いろり、青竹もて作れるおちゑん(落ち縁=雨戸外の座敷より一段低い縁側)なんどいさぎよし(景色などが清らかである)。御はめ(板張り)には御画師の何某打つけて気より畫(かくす)る。いかにも浮たつさまにそかゝせ置る。御手水入られしは南京とかや、いかにも大きなる瓶なり。水満ち満ちてきよき事のかぎり言葉もなし。人々めづらしき器也とて感じぬ。

kanzan_1.jpg 大納言殿(尾張公)より贈物にと檜重三組(重箱)、からはらに紙片木器なんぞ取そへて、たばこの火に茶のまふけまで残所なく出しおかれし。御前にて御供の人々に御酒など給はり、興すること限りなし。酔(よえ)る貌は夕日のかがやかされてまくよりあかし。

 たはふれののしれども聞とるべきこと人もちかずかす。心そらになして御前の事も覚へず顔になるまでゑゝる(出来ている)もあり。御酒たけぬものには御菓子をとり広めよとて、御庭に氈むしろなんとしどろ(乱れ)に敷わたし、をのをの腹ふくらかしていねむり出るもおかしき事になん。御供のおさの誰かれは、傍なる小座敷にて御酒肴とも数々給りける。皆せきふくれたりとて、かの広き芝の原を走競せばや(したならば)とて、酔るはころびころびてさまよへるなど、いと御気色よかりし。

 日のかたむくもしらで(不知で=知らずで)ありけるに、かねて期せさせ給ひし事ありて、鴈かしまし(喧し)うたせせよとあれば十匁の炮薬もいとつよふこめて、三放まで大井の何某つかふまつれが、御供の人々あつまり侍りける。

 御名残惜し、今一廻り給んとて出立勢給ひ。「乾山」に登らせたまふ。この御山は九折なり。老木の松の枝垂しをばひくくり、根などに取付登りみれば向うには「諏訪明神」の御林しんしん(森々)たる御よそほひなと、又たくひなき風景也。あたりの野原には秋のためにや萩薄など植置れし。をのがさまざま(己が様様=思い思いに)芽生出て、花咲秋をまた見まほしげ(見たいようす)にて、人々も行なやまり(悩めり=悩んでいるようにみえる)。『和田戸山御成記』(15)

 <絵図上「望野亭」は現・学習院女子大の敷地内。絵図下「乾山」は現・明治通りと諏訪通り角の区立西早稲田中学校辺り。富士山も描かれている。この記述を読んでいると「寛政の改革」から解放された御供らの、いかにも楽しそうな姿が浮かんできます。>

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戸山荘⑳臥龍渓・養老泉・望野亭 [大久保・戸山ヶ原伝説]

garyukei_1.jpg <全図拡大で、宿場木戸を出た所の「石カケ嶋・臥龍渓」を確認して~> しばし行ほどに「石カケ島・臥龍渓」。ここには橋などのかたちに御床几やうのものをいくつもならべて広くまふけ、尾州にて造りしものとて、黄なる氈(もうせん)に色々の山水の画をえもいはれぬほどうつくしく織出したるを、広やかに敷わたされしも興ありて覚へし。

 <次も位置確認に絵図(西が下)を拡大。琥珀橋の左に「四ツ堂」。池沿い先に「傍花橋」。小池奥に尾張瀬戸焼の阿弥陀像安置の「阿弥陀堂」。奥に「奥の院」。四ッ堂の斜め左下に「養老泉」。奥に「薬師堂」。さらに左下に「望野亭」>

yorosyuhen_1.jpg 「三嶽権現薬師堂」「養老泉」。抑(そもそも、さて)此いづみと申は石にて作れる井なり。いかにも清き水の湧出て、さされ石のかくれぬほどにさらさらと音して流行も耳にとまりぬ。この茶屋には紅の氈を敷ひろげて、ゑにしだ(金雀枝。黄色の蝶形の花がいっぱい咲く)の花を籠にいれて、垂撥(すいばち=花器を掛けるべく板に切り目を入れた道具)にぞかけられたり。人々にもやすらへとにや(~であろうか)、小き棚におかしげなる茶わんひさぐ(拉ぐ=ひしゃげる)なんどまで取そへられしに、ものわびしげにも見へし。(現「養老泉跡」支柱の奥は、学習院女子大敷地内になります) 

 斜に向ふ「四ツ堂」といへるは、四間四方程もありて、いかにもゆへあるさまなり。柱はあけ(朱)にして、銅ものは緑靑をもてぬり、床はなく石畳にて、水引(四本柱上部に横に張る細長い幕)なんどいへるあたりは、皆彫物に手を盡し、真中にはもの釣べきたより(手段)と覚しくて、大きな環を打てたれにける。yorosen2_1.jpgyorosenato_1.jpg此御堂は何の為ならんやといふかしき見もの也。市買(いちがい=市ヶ谷)の御館の御庭にも四ツ堂とて、是にたがはぬ御堂ありと聞侍る。

 「傍花橋(ぼうかきょう)」のこなたより左りの寺に「阿弥陀堂」あり。奥の院と名づけしは、山のかたはらを少し平めたるに、ちいさき屋根計の堂に、尾陽瀬戸(尾張瀬戸焼)の造りし仏像古びわたりてさむさげにぞおはします。凍にやとちけん(?)、ひび多くありて、見事さ、殊勝さ、たちふべきにもあらず。四尺計も有なん座像にてぞ有し。

jyusuidou.jpg 爰にてまずおほよその御けしきはのこりなく見尽されたるならんかしと思ふにはや(ばや=~したいものだ)。大原の「望野亭」といへる殿にぞ入り給ふ。此大原と申は、広く平らかなるもたとふべき處なし。小松などしげからずに生て、はれやかに右の方の向ふに「拾翠台」(左図。御成御門脇にある)とて小高き所あり。面白げなる道を廻りて登りいたれば、日おふひの紅と白の布幕にてこしらへ、小き御ゆかをかまへ、遠眼鏡などかけられ、其かたはらは皆うすべり(薄縁=縁をとったゴザ)などいへる筵を広く敷て、青竹の節をもて鎗のやうにこしらへ、地にさし貫て風のふせきまでこまかなる御事なり。見渡されたる方は、名さへ高田の馬場隈なく見へて、ぞうしがや(雑司ヶ谷)鬼子母神など云あたりまちかく手もとゞきぬべきやはと覚ゆるもおかし。萩のかれえの垣ゆひ廻してさはやかなり。『和田戸山御成記』(15)

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