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日本語(7)和歌に「濁点なし」の理由 [くずし字入門]

 

 mototune.jpg_1.jpg 藤原定家は、かくして「和漢混交文の時代」へ導くが、山口著『てんてん』の主題〝濁点〟について。平仮名の『古今和歌集』は905年。980年の『宇津保物語』には「漢詩は楷書、青い色紙に草書体、赤い色紙に仮名文字」の記述ありと説明。さらに仮名に5種類の書き方ありの記述があって「男手=万葉仮名」「女手=平仮名」「男手・女手でもない=草仮名」「片仮名」「葦手=装飾的文字」ありと記されていて、当時はさまざまな書き方が混在していたと説明。ちなみに『宇津保物語』は作者不詳で〝婚姻がらみ皇位係争〟を語る最古の長編小説。

 万葉仮名は「濁音と清音」を漢字で書き分けていたが、「草仮名~ひらがな」へ移って、濁音は「〃」の補助記号を使って書き表わされた。だが次第に「濁点なし」へなるのは、宇多天皇即位後の「阿衡(あこう)の紛議」が影響していたと指摘。

 藤原公清から代々天皇の実験を握ってきた藤原北家の藤原基経(もとつね)が、嵯峨天皇崩御45年後の宇多天皇の代で、橘広相(ひとみ)と「阿衡の紛議」勃発。原因・経緯は省略も「広相が受罰」。基経が関白太政大臣になって権力集中。「広相を遠島」に反対したのが菅原道真(みちざね)だった。

 当時は娘を天皇に嫁がせ、天皇外戚となって要職独占の「摂関政治」が展開。小生補足すれば、藤原基経の妹は清和天皇の皇太后だが、清和天皇が子を産ませた女性は25名。多数子孫を「清和源氏」として臣籍降下。広相の娘も宇多天皇と結婚。菅原道真の娘も宇多天皇の女御。その前の嵯峨天皇の相手も25名で子が50人。32名の子に「源」の姓を与えて「源氏」誕生とか。為政者の性と権力が絡み乱れ爛れて、その反省・浄化もあったと推測する。

 かくして「摂関政治」で実権を失った以後の天皇は「あぁいやだ・いやだ」と穢れを避け、浄化に道を求めて住居を「清涼殿」と命名。著者はこれによって中国にはない〝穢れを避ける意識〟が日本に生まれ、それが日本語にも影響したのでは~と説明していた。

 後の本居宣長はそれを「濁った世の中に現われる蓮の花=もののあはれ=物事に触れて心にわき上がるしみじみとした感情=王朝文化=『源氏物語』や和歌に秘められた」と語っていると説明。

 和歌にそんな流れが生まれて「ごみ・ぶた・どろ・げろ・がま」など濁音で始まる言葉を「穢い、下品」と避け「優艶さ・浄化美」を求める風潮へ。和歌という場の雰囲気に「濁点」がそぐわない感覚が育まれたのではないかと指摘。

 以後、公的文書記録は誰が読んでも間違えない漢文で書かれ、文学(私的で女性的)は平仮名で書くようになった。だが「仮名」は読む人によって誤解を招きかねない点を残し、その危うさもまた味わいになったと記す。カットは菊池容斉『前賢故事』(明治1年)の挿絵「藤原基経」。

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