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日本語(8)「仮名遣い」の創始・藤原定家 [くずし字入門]

sadie_1.jpg 小池著のⅢ章<日本語の「仮名遣」の創始・藤原定家(さだいえ)>を読む。定家は平安末期~鎌倉初期の歌人・歌学者。『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』などの撰。歌論書、また多数仮名文の筆写を経て「定家仮名遣」を考案。歳時記をもって日本人の季節感形成にも寄与。

 藤原定家は和歌の家、御子左家(みこひだりけ)当主・俊成の息子。俊成が後鳥羽院に『新古今和歌集』編集を命じられて、息子・定家を参加させた。(小生注:鴨長明は定家より8歳年長。後鳥羽院に認められて「和歌所」寄人になっていたが、撰者6名から外され十首入集のみ。その後に〝隠棲〟した。『方丈記』を読むと、彼らの時代は戦乱・大火・地震・大飢餓・福島遷都・源平合戦~の激動期とわかる。)

 定家はそんな時代に身を潜めるように文献書写に専念していたらしい。生涯を通じた書写は仏典19種、記録類など9種、物語や日記は『源氏物語』他5種、歌関係が30種。そして56年間に及んだ日記『明月記』を遺した。

 定家59歳、後鳥羽院(40歳、翌年から上皇で23年間にわたって院政)の逆鱗に触れて突如の閉門。宮廷保護に頼らぬ研鑽、膨大な書写をもって和歌の二条家、御子左家を興し、校訂力を磨いての『定家仮名遣』(『下官集』など)を考案、定着させた。「を」は高い発音で、「お」は低い発音で~などの使い分け。他に「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の使い分けで、平仮名の誤読誤解を防いだ「和漢混交文」を普及。

 一方、後鳥羽院は鎌倉幕府・北条義政へ兵を挙げた「承久の乱」で隠岐へ配流。また「定家仮名遣」は僧侶の世界にも変化を及ぼした。寛和元年(985)に天台宗の恵心僧都(えしんそうず)源信が漢文『往生要集』を著わすも、庶民へ広めるには漢文では役に立たずで、彼も仮名主体の『横川法話』500字余りを著わした。法然もまた『仮名法語』を著わし、弟子・親鸞も「漢字平仮名混交文」を著わした。

 定家と同時代の天台座主慈円も歴史書『愚管抄(ぐんわんせう)』もまた適度に漢字、意識的に仮名を使い、しかも主格助詞「ガ」用法は近代語と同じレベルだと指摘。また慈円は『平家物語』の成立にも関与して、美しい韻律を有した抒情的和漢混交文の傑作に関与したらしい。

 なお〝仮名遣い〟は、後の元禄期の僧・契沖によって定家とは理論の異なる「歴史的仮名遣」が生まれ、明治以降の学校教育採用に至るが、13世紀の藤原定家はじめの活躍で、日本語のあるべき姿、スタイルの基礎が出来たと言えそうです。カットは藤原定家(権中納言定家)。江戸後期の「肖像集」より)

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