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内調(2)松本清張が危惧した謀略的活動 [政経お勉強]

seicyonigao.jpg.jpg 「内調」の実態は闇。その闇に松本清張が昭和36年(1961)に小説『深層海流』で挑んでいた。登場人物は仮名で「内調」誕生経緯、当初の諸事件をM資金、政財界の派閥争いがらみで詳細紹介。そして4年後の『内閣官僚論』最終章が『内閣調査室論』。こちらは実名で論じていた。その概要をまとめてみる。

 「内閣調査室」は、講和条約発効寸前の昭和27年に、GHQが去るのに備え、世界の共産圏、国内の共産党や労働組合などの脅威阻止のために誕生。(小生注:昭和25年、朝鮮戦争勃発。マッカーサーが吉田首相に警察予備隊の設置、海上保安庁8千人増員指令。併せてレッドパージ開始。2年後に警察予備隊が保安隊へ。29年に自衛隊へ。吉田茂は麻生太郎の祖父)

 当初の目標は「日本のCIA」だったが、その組織を見て新聞各紙が「戦前の内閣情報局(注:戦争に向けた世論形成、思想取締りの情報機関)だ」と激しく非難。結果、名称も「内閣官房内閣調査室」。(注:発足の昭和27年4月9日「もく星号」撃墜。12日に破防法反対で107万人デモ。5月1日に「血のメーデー」)

seicyosituron_1.jpg 「内調」発案は村井順(警察官僚~吉田首相秘書~初代室長)。その案に強く共感したのが副総理で官房長官・緒方竹虎。やがて吉田と緒方が対立。各省出向で構成された「内調」内も諍い続き。「内調」設立の翌年に村井室長が外遊すると、新聞が「村井はボン到着時から英国情報員にマークされ、ロンドンでは腹巻の闇ドル(M資金)が関税で没収された」と報道。これまた内部抗争で外務省のフェイク。2代目室長・木村行蔵は、各省役人同士の抗争をいさめ「和」を説いた。

 3代目室長・古屋亨時代には、「内調」防衛班長・肘付が部下Iの辞職願を勝手に提出した「肘付事件」。昭和29年には駐日ソ連大使代表部の2等書記官が米国側へ逃亡。関わった「内調」の軍人2人、外務省出向役人が調べられ、地検調べ中に外務省・日暮氏が窓から飛び降り自殺。さらに鳩山首相がソ連と国交回復するキッカケになったドムニツキー親書について怪文書が出回った。その出所も防衛班長・肘付とか。かく「内調」の足腰定まらず。

 4代室長・石岡実の時代に★1部(国内情報)治安担当、文化担当、経済担当、労働担当。★2部(海外情報)朝鮮、中共、東南アジア、ソ連・東欧、軍事、資料。★3部(マスコミ論調)★4部(資料・通信関係)。★5部(研究、民主主義研究等)。★6部(情報判断会議)の体制へ。

 この頃から民間団体への情報依託が増加した。これは「内調」定員67名+各省からの出向の内閣幹部約30名でスタッフ不足によるもの。昭和36年の衆議院予算委員会で古屋室長が依託団体名・予算を公開。ここでは全文引用省略するが同年調査委託費=3億6600万円ほど。39年度の調査委託費は約4億6000万円。

 『内閣調査室秘録』の編者・岸氏は松本清張『「深層海流」の意図』より「情報の蒐集は国策に必要だろうが、そこを逸脱して謀略性を帯びたら見逃すわけにいかない」の清張記述を太Gで強調していた。「モリカケ問題」の元文部科学事務次官・前川喜平氏の「出会い系バー通い」リークなどは明らかに謀略的活動だろう。そうなれば、あの事件この事件で「内調」がどう動いていたかも気になってくる。

 次に先日7月19日発売の『内閣調査室秘録』(設立当初のメンバー・志垣民郎氏の日記など)を読んでみる。カットは以前に描いた松本清張似顔絵(続く)。

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内調(1)安倍内閣と250名の内閣情報調査室 [政経お勉強]

kisya_1.jpg 21日に参議院選挙が行われた。自民党は単独過半数を失い、自民・公明・維新などの改憲勢力が2/3を割り込んだが「安倍一強政治」変わらずです。

 映画「新聞記者」が、内閣情報調査室(内調)の不気味さを描いていた。安倍一強の長期化で「内調=安倍内閣の情報機関」となって、昨年秋の自民党総裁選でも石破・元幹事長へも「内調」が動いたとか。

 怖いですねぇ。「加計学園問題」では「官邸の最高レベルが言っている、総理のご意向」などの文書に、官房長官が「怪文書みたいな~」と一蹴。その後に元・文部科学省の事務方トップの前川喜平氏が「行政が歪められている。同文書は私も見た。在るものを無いとは言えない」と発言。

 すると即、読売新聞に前川氏の「出会い系バー通い」報。官房長官すかさず「信用出来ぬ人物」と言い放った。このマスコミ工作も「内調」が関与していたらしい。だが再調査によって、それは〝怪文書〟ではなく、実在する文書とわかった。〝悪だくみ〟は後でバレるのが常です。(参考:森功著『悪だくみ』、角川新書『同調圧力』、今井良著『内閣情報調査室』)

 今井著によれば、内閣情報調査室は海外情報機関から「CIRO(サイロ=キャビネットインテリジェンス&リサーチオフィス)」と呼ばれる存在。官邸の総理執務室を最も頻繁に訪れ、官邸職員に「火・木の紳士」(両日に首相とサシ面談)と呼ばれるのが同組織トップ=内閣情報官・北村滋氏(警視庁から2011年に内閣情報官)で、第2次安倍内閣発足から4年間で面会数659回とか)★北村氏は現在、出世して国家安全保障局長に出世。表舞台に出て時々ニュース映像に登場している。

 現在の「内調」は安倍一強に比例して公安警察、公安調査庁を凌ぐスパイ組織として日本版CIA(中央情報局)としての地位を固めているらしい。所在地は総理府ビル(内閣府庁舎)。内閣情報官・北村滋、次長・森美樹夫、内閣審議官4名、内閣情報分析官7名、そして国内部門、国際部門、経済部門、総務部門で約250名(平成17年の国会答弁では170名。採用職員約70名、警視庁出向約40名、公安調査庁出向約20名、防衛庁出向約10名、そして各省から若干名=ウィキペディア。それから現在は80名も増えて約250名らしい。平成31年度の同室予算は35.3億円。また内閣衛星情報センター予算は620.7億円=ネット調べ)。

 さて参議院選挙結果を得て、安倍内閣は諸問題山積みで「内調」もフル活動だろう。今日も菅官房長官の「情報を収集した後で~」と発言する映像が流れていたが、これは「〝内調〟の情報収集・分析結果を得た後で~」の意だろう。

 政治や事件の記者経験もなく、右でも左でもない〝フツーの貧乏隠居〟が、ちょっと重いテーマながら「内調」について、どの程度まで知ることができましょうか。隠居の新たな暇潰しです(続く)。

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六本木から「トカイナカ島」 [新宿発ポタリング]

takesibafuto_1.jpg 六本木1丁目から「そうだ海を見に行こう」で、竹芝桟橋まで走った。2年前のブログで浜松町辺りの高層ビル群紹介記をアップしたが、竹芝桟橋前の「(仮称)竹芝地区開発」の40階建て。約20万㎡のデジタル×コンテンツによる国際ビジネス拠点が姿を現していた。

 港区の超高層ビル群(約75棟?)が竹芝(港区南)まで迫ってきた感じです。浜松町駅から竹芝への「ペデストリアン・デッキ(pedestrian deck=車道と歩道を分離して設置した高架歩道者専用道路)」の、首都高上の横断部分工事が去る7月7日深夜に行われたらしい。開通は2020年。島への行き帰りに重い荷を持ち通った28年間に新たな展開。島の庭仕事で疲れた身体と作業着で歩けましょうか。

takesiba1_1.jpg 竹芝桟橋デッキに上ると、眼下に大島行ジェット艇あり。左は隅田川。勝鬨橋の奥の佃地区の超高層ビル群、その奥に東京スカイツリー。正面は五輪村が急ピッチ建設中で、その奥が豊洲市場。右へ眼を移せばレインボーブリッジとお台場。

 今「トカイナカ」なる造語があるらしい。高層ビル群を背にジェット艇に乗れば1時間45分で伊豆大島。長閑な時間が流れる昔むかしと変わらぬ「トカイナカ島」。

 海っぺり露天風呂に浸かりながら伊豆半島先端に沈む美しい夕陽を愉しむ。日没同時に島は漆黒。闇奥から外来種キョンの不気味な鳴き声、荒海ならば波の音、西風ならばロッジ揺れ、断絶魔のような草木の悲鳴。冬なら薪ストーブの炎が愉しい。高層ビル群の暮しで失われた人間本来の「原初感覚」が甦る夜~。

 小生が島ロッジを建てたのは平成3年(1991)。当時から何も変わっていない。いや、当時は島ブームの名残もあったかで人口1万数千名も、今は過疎島で約半分の7500名ほど。超高層ビル群での勤務、デジタル仕事、忙しさに疲れたら、竹芝桟橋から船に乗ってみませんか。

 竹芝桟橋でジェット艇を見送った翌日昼、「デジタル×コンテンツによる国際ビジネス拠点」「ペデストリアン・デッキ」の工事現場を経て、島へ渡った友人から「セグロアシナガバチに刺された」と電話が入った。

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港区の超高層ビル群彷徨 [新宿発ポタリング]

grantower1_1.jpg 7月中旬、久し振りに自転車を駆った(脊柱狭窄症と診断され、自転車の長時間凸凹道の影響と自己判断して、運動をウォーキングに切り替えている)。さて、どこを走りましょうか。

 一時期「お雇い外国人」らが眠る「青山墓地」へ通ったことを思い出し、まずは新宿~神宮銀杏並木~青山墓地へ。ここから道に迷って、ふと見上げるとガラス壁に三角錐が張り付いているような「六本木グランドタワー」が見えた。「よし、遠望ではなく間近で見てみよう」。

 六本木通りを「寄席坂」(坂途中に明治~大正期に寄席・福井亭があった)から「なだれ坂」(昔に土崩れがあった)へ。その坂沿いに同ビルが建っていた。下から見上げると、遠望で感じるほどに三角錐は出っ張っていない。眼の錯覚が計算されているようだ。3年前の2016年に竣工。先日、仮想通貨35億円流出のニュースで同ビル映像が流されていた。該当企業が入居しているらしい。

 同坂沿いに古い民家が1軒取り残されて、昭和初期風景の面影が残っていた。昔、荷風さんは麻布通りの向こう側「偏奇館」から、寄席坂の上辺り「丹波谷」の窪地にあった秘密めいた家で、十円で女を抱いた。今は同ビル地下で麻布通り向こう地下鉄「六本木1丁目」や「泉ガーデン」とつながっている。

grantower2_1.jpg 昔からずっと赤坂にあった「日本コロムビア」が六本木1丁目に移転した際は、仕事ついでに隣の「泉ガーデン」泉通り側玄関の植え込みにある「偏奇館跡碑」を幾度か眼にし、荷風さんがいた時代に思いを馳せたもの。荷風さんは「偏奇館」勝手口に蛇が出ると記していた。川本三郎は『荷風と東京』で偏奇館跡付近を歩いていた際に、そこから坂を下る「御組坂」で大きな蛇がゆっくりと坂道を横切っていたと記していた。

 もう蛇は見なかったが「御組坂」を下ると、正面が「アークヒルズ仙台山森タワー」(2012年竣工の47階建て)。同ビルを見上げて振り向くと、背後の小さなビル「泉ガーデンANNEX」で「ポニーキャニオン」社屋があって腰を抜かすほど驚いた。しかも同社ロゴマークも変わっていた。今年4月頃に虎ノ門3丁目から移転したらしい。

 小生がPC社の仕事をしていたのは、同社社屋が浜松町・世界貿易センター、九段の一口坂やNPビル、中央区入船時代まで。その後に虎ノ門3丁目へ移転したらしい。同社全盛期は九段時代と思っていpc_1.jpgるが、そこから流転。無理もない。音楽は陳列商品商売からデジタルへ。そして六本木1丁目にあった「日本コロムビア」は、逆に虎ノ門3丁目に移転らしい。かく街の姿の激変に併せて、仮想通貨やIT(情報技術)系、AI(人工知能)系企業が躍進して産業構造も変わっているのだろう。

 六本木1丁目彷徨を終えて「そうだ海を見に行こう」で「竹芝桟橋」まで走ったが、その帰路で「ソニーミュージック・市ヶ谷ビル」が「武蔵美大・市ヶ谷キャンパス」になっていた。

 「偏奇館」が東京大空襲で紅蓮の炎に崩れるさまの荷風記述が鮮やかに脳裏に残るも、今の港区はこの5年ほどで超高層ビル乱立(70棟ほど)。ちょっと前のことが〝遠く・遠ぉ~い過去〟になっていた。

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「東都新聞」と「東都ジャーナル」 [政経お勉強]

myback1.jpg 上記タイトルからお気づきの方も多いだろうが、映画『新聞記者』主人公・吉岡は「東都新聞」で、川本三郎原作の映画『マイ・バック・ページ」主人公・沢田は「週刊東都~東都ジャーナル」。

 映画は同じ〝東都〟だが、前者モデルは「東京新聞」で、後者は「週刊朝日~朝日ジャーナル」。6月28日公開『新聞記者』から約1週間後7月7日にBS日テレが2011年公開の『マイ・バック・ページ』(以下『マイ~』)を放映した(頭のいい編成がいるらしい)。

 映画『マイ~』は映画や町歩きの随筆、また永井荷風テーマはじめの幾作で文学書を受賞の川本三郎が、1971年の赤衛軍を名乗るグループによる自衛官殺害の際の血痕付き腕章などの所持から「証拠隠滅」で逮捕。同社を懲戒免職された15年後に、その経緯を記した同題書の映画化。

 ここでは著者の〝問題点〟を再考せぬが、〝東都〟両映画から45年の時代の変わりようにも気付かされた。川本三郎は小生と同年代だろう。60年安保は16歳で、70年安保は26歳で社会人。学生運動の狭間世代。小生は付属高校入学時に、大学生らが物騒(危険)なプラカードを作っているのを見た。70年直前には新宿西口フォーク集団や東口のフーテン族を縫って新社会人として通勤していた。当該世代は傷を負い、狭間世代が口を挟めば揶揄される。

warudakumi_1.jpg 映画『マイ~』には、当時の荒れた世情や若者の熱気が満ち、ザワザワとした手触りが満ちていた。一方の映画『新聞記者』画面には妙なクール感が流れていた。内閣情報調査室(内調)場面の灰色プラスチック壁の中で、大勢の内調スタッフらが黙々とパソコンに〝悪だくみ〟を打ち込む光景にゾッとする恐怖感があった。

 45年を経ると同じ<新聞・雑誌&政治>の世界は、かくも変化している。ならば今から数十年後は、当然ながら戦前の傀儡のような政治家らの姿や影響のない、「ビッグデータ~AI(アーティフィシャル・インテリジェンス)」による未来予測、政策立案、効果的施策の時代になっているのかも知れないと思った。何かと問題が多く、金食い虫の〝国会議員〟はもういらない時代がきてもいい。

 川本三郎の妻は、彼が懲戒免職された際に「私は朝日新聞と結婚したワケじゃないから~」と彼を励ましたとか。彼女は2008年没で、川本三郎は2012年刊『いまも、君を想う』で荷風句「持てあます西瓜ひとつやひとり者」をもじって「持てあます野良猫二匹やひとり者」と書き出した。その最終章では「公園墓地と言う霊園で亡き妻を思いひとり弁当を食う」と詠った。

 時代も、人も、街の姿も変わり、「中立」は絶えず変化し、テクノロジーは驚異的変化・普及している。そのなかで誰もがどう生きるかを問いつつ生きて、あたしもソロソロでございます。

 時の流れは早く、人々はもう「モリカケ問題」があったことなど、すっかり忘れているらしい。森功原作『悪だくみ』なる映画が製れたら、『新聞記者』より遥かに凄い映画が出来るに間違いない。話題の人物が多いゆえオールスター出演。2時間余の超大作になりそう。小生は単行本で読んだが、今年6月6日に「文春文庫」刊らしい。

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「同調圧力」について [政経お勉強]

doucyo_1.jpg ●迂闊にも、同映画を観るまで「同調圧力」なる言葉を知らなかった。★クマさんは、江戸時代で遊び過ぎだよ。●ネット検索すると、2015年6月の為末大氏(元400mハードル選手、走る哲学者)のサイトがヒットした。タイトルは「同調圧力の正体」。概ねこんな内容だった。

 ~テレビに関わっていると、メディアの方が〝この意見は中立だろうか〟と神経質になっている姿をよく見る。〝中立に報道すべし〟の縛りを自らに課している。だが〝中立〟とは何か。それは常に今の時代の中立で、時間軸を伸ばせば、その中立も偏向しているに違いない。よって多様な世界観が大事なのではないか。山本七平氏は、現在の〝中立意識〟をどう看破してくれるだろうか~。

 ★2015年と云えば、第二次安倍内閣の当時の高市早苗総務相が「中立報道でなければ〝電波停止宣言〟」をした頃だな。マスコミ陣は〝中立〟にピリピリしていた姿を見ての、為末氏の考察だろう。で「同調圧力」なる言葉の出所はわかったの。●勉強不足で申し訳ない。わからず仕舞い。山本七平著『「空気」の研究』も読んでいないし。ブログに別テーマ出現で読書途中のままのオルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』にも同様な指摘があったようにも思う。

 ★同題書が出ているんだよな。●映画『新聞記者』に座談会映像が挿入で、画面中の小枠挿入ゆえに、何を語り合っているか明確にわからなかったが、その座談会が巻末附録として掲載された題名『同調圧力』が出版とか。★クマさんは、現代ごとに疎いから、同書で初めて知った言葉も多かったんじゃないか。●うん、少し勉強してみた。

 ■同調圧力:全体主義的で、多様性を認めずに〝村八分〟の圧力らしい。■リテラシー(literacy):何らかの形で表現されたものを適切に理解・解釈・分析して改めて記述・表現すること。昨今はネット上にフェイクが多数ゆえに「リテラシー〝力〟」が重要視される。特にフェークの多いネットリテラシー。テレビや新聞(影響力大ゆえに安易に信用してはいけません)メディアリテラシーが肝心。

 ■アクセス・ジャーナリズム(access journalism):権力に近い側に寄り添って取材する法。余りに権力側に偏っている人を「政権のポケットに入っている人」。★あぁ、あの人・この人だなぁ~。 ■アクセス能力:権力者や有力者の懐に入る能力。これに長けたミラー記者がブッシュ政権高官のリークでスクープ。それがイラク大量兵器保有の報で戦闘へ。後に政権のガセリークとわかり、危険な取材法とされた。

 ■アカウンタビリティー・ジャーナリズム:accountability=説明責任。制作決定へのプロセスを情報公開法などで丹念に探り、真実を白日に晒す報道とも言うのかなぁ。昨今の政治は内緒ごとが多いから議事録を改ざん・破棄・さらには記録せずで、説明責任から逃げている場合が多いらしい。

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『新聞記者』出演者・製作者の矜持 [政経お勉強]

eigakoukoku_1.jpg ★クマさん、映画好きじゃねぇな。●子供時分から泣いたり怒鳴ったりのテレビドラマが大嫌いだった。★男は黙って~ ●それも面倒臭い。やはり好きじゃない。

 ★そんなクマさんが、珍しく映画を観ようとしたら、それが〝なっちゃん〟と官邸がらみで興醒めした。●その反動かなぁ、ふと眼にした映画広告(写真)に「日本の映画が変わる!」とあった。是枝裕和の推薦文が「これは、新聞記者という職業についての映画ではない。人が、この時代に、保身を超えて持つべき矜持についての映画だ」。キネマ旬報の推薦文を要約すると「権力と闘うジャーナリズムを描く映画は日本では無理だろう~を打ち破ったのが『新聞記者』。ここで描かれる数々の政治事件が、何を指すかは一目瞭然。大手映画会社では出来ないこと。この映画は観客に多大な問題を問う力作である」

sinjyukupi_1.jpg ★例の如く、観る前に原案・望月衣塑子『新聞記者』を読んだ。●いや、これは読む前に観るだな。即「新宿ピカデリー」まで歩いた。★チケット買えたか? ●満席。明日の最終回に2席が空いていた。「前から2列目ですがいいですか」。そのチケットで翌日観た。★どんな映画だった。●映画内容はネットに溢れているから省略。

 ★ひと言くらいは~。●内閣の悪だくみ、内閣情報調査室(内調)の暗躍。(内調)は政権不都合情報のコントロール集団(追記:~及び諜報活動などで250名ほどが在籍しているらしい。今井良著『内閣情報調査室』なる書あり。買おうと思ったが見城徹の顔が浮かぶ幻冬舎刊ゆえ買えなかった)。各省からの出向職員らが、ネトウヨよろしく一斉にネット投稿しているシーンの恐ろしいこと(佐藤優氏が新聞に、内調はそんなことをするほど暇じゃないと書いていた)。とは言え、政権に邪魔な人間をおとしめるガセネタはリークする。官僚にも無理強いし、それを苦に官僚の自殺もあった。フィクションゆえ、逆にリアルな恐怖が増す。そんな世界にジャーナリスト矜持を有する女性記者が闘いに挑む。苦悩する若い官僚~

 ★クマさん、若い時分にPR会社にいたな。●PRのそもそもが政治PRから始まった。★フリー後は楽曲プロモートの仕事。●あぁ、まず素材の分析。キャンペーン・コンセプトの設定。それに沿って攻めるべきラジオ、テレビ、活字媒体、店頭、出演、イベント、タイアップ、さらにはシンパ作りを考えてチャート化する。薄い部分をさらに補強してマルチ展開を仕上げて行く。そんな企画書ばかりを書いていた。

 ★楽曲も政治もPRの基本は同じ。政治はエゲツない展開もありそう。●一時期、首相がマスコミ各社役員と盛んに会食で~。★政権ベッタリの人間やマスコミ役員が増えた。

 ●内閣の動きを見ていると有能PRマン(戦略立案者)がいて、実行部隊が「内調」で、怖い別動隊(公安)も一緒に動いているらしい。資金は潤沢で、やりたい放題。テレビは放送法を盾に電波停止宣言。自己規制から「同調圧力」(村八分)。★そう云えば、テレビはこの映画について一切報じていない。●記者らの多くは、内閣が出す情報をただ流すだけが仕事。★戦時中の大本営発表と同じ。●一強政権で官僚も保身・忖度で生きている。

 ●エンドロール後の映画館に大拍手が渦巻いたってぇのは、映画内容と同じく、出演者も製作スタッフも配給会社も劇場も、すべての方々が相当な覚悟を持って挑戦したってことで、それらすべての方々の勇気への賞賛だったと思うんだ。

 ★追記:7月23日で33万人ヒット。興業収入4億円突破とか。願わくば、一つでも多くの映画賞を受賞し、海外でも公開。また現政権下では無理も「同調圧力」薄れた後の時代でもいいから、テレビ放映もされるようになることを願っています。

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映画『ある町の高い煙突』を観る前に [政経お勉強]

entotu_1.jpg ●映画は、日立鉱山の煙害と闘った男の物語。時は大正3年、煙害回避で世界1(当時)の高さ155.7mの大煙突をおっ建てた噺。★ほぉ~。●映画の公式サイトを観るてぇと、実在モデル4人を紹介。まずは主人公。若くして煙害対策委員長になった関氏。★二人目は~

 ●藤田組・小坂鉱山から日立鉱山へ移って、煙害被害の補償問題担当の角氏。彼が伊豆大島・三原山の噴煙に耐えて美しく咲き誇る「オオシマザクラ」に注目。明治41年に鉱山社宅周辺に同サクラを植えた。植え続けて昭和7年(18年間)に260万本へ。日立に「オオシマザクラ」が満ちた。★角氏が「オオシマザクラ」を知った経緯や如何に~。

 ●そこが肝心も書かれていない。三人目も藤田組・小坂鉱山から日立鉱山に移った小平氏。社内起業で電気系「日立製作所」を創った。★四人目は? ●大物・久原房之助。彼の父の実弟が藤田伝三郎だ。久原は藤田組に入社。退社後に鉱山買収して久原鉱業。彼の最初の妻が鮎川義介の妹で、久原は鉱山を鮎川に譲渡して政界入り。鮎川は同社を日立鉱山に改称し、後の日産コンシェルン(鉱業、電気、自動車など)を形成し、久原は立憲政友会総裁になった。(追記:戦後はA級戦犯容疑で公職追放とか)

 ★藤田組、鮎川義介で伊豆大島のメンツが揃った。●鮎川義介が私財投じて大島公園を作ったのが昭和10年。その後に藤田組が東京湾汽船、大島観光に着手する。★で、その映画『ある町の高い煙突』を観たの? ●観る前に原作・新田次郎の同題小説だ。胸ワクワクさせて新宿・紀伊国屋へ走って入手。だが読めども読めども「オオシマザクラ」は出て来ねぇ。さらに落胆したのは~

 ★どうした・どうした~。●新田次郎に大煙突の小説化を勧めたのが日立市天気相談所の山口秀男氏とか。なんと秀男氏の子が、公明党代表・山口那津男。選挙になるってぇと、支持者に「皆さん〝なっちゃん〟ですよぅ~」の山口代表。で〝なっちゃん〟が、映画スタッフ率いて首相官邸へ。映画が公明党、官邸とくっついちゃった。

 ★あら、嫌だ。首相官邸ってぇのは何でも取り込んじまう。先日も吉本新喜劇メンバーが官邸表敬訪問。●それは吉本芸人〝闇営業〟問題噴出前の確か6月6日だった。同映画スタッフの官邸訪問は5月初旬。安倍晋三ツイッターが「鉱山の公害に対して、企業と地域の皆さんが力を合せて、解決に取り組んだ実話が映画化されます。山口代表と、その映画の関係者の皆さんが本日、令和最初のお客様として~」

 ★政権は若い女性も取り込みたいってんで、先日は女性ファッション誌ともタイアップ展開した。●かくして同映画への興味がストーンッと醒めた。★映画を観ないクマさんが、久し振りに観ようと思い立ったら残念な結果になり申した。●するってぇと、映画『事件記者』の広告が眼に飛び込んで来た。

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オオシマザクラとゴーンさんと映画 [政経お勉強]

nitta_1.jpg ●八っつぁん、映画の噺していいかぁ。ちょっと政治がらみだが。★老い先短ぇんだ、手短に頼むぜ。●伊豆大島だが~。★ははっ、クマさんも小屋もボロボロだ。免許返上の歳にもなった。●島ってぇと「椿」だが、島を真っ白に染める「オオシマザクラ」が、まぁ見事なんだ。★それがどうした。

 ●先月に読んだ新聞コラムの書き出しが「大島で磯釣りをした。入った磯がかつての鮎川義介別荘地と聞かされて、一気に仕事モードに入った」てぇんだ。★おぅ、先が気になる。●日産ゴーン被告逮捕が「国策捜査」じゃねぇのかっちゅう憶測があって~と続く。★さて「オオシマザクラと鮎川義介と日産ゴーン氏」がどう結びつく。

 ●安倍首相が敬愛するのが~ ★祖父・岸信介だな。戦犯逮捕も何故か起訴を免れた。●彼の満州事業の中核を担ったのが同郷(長州)の満州重工業開発の初代総裁・鮎川義介だ。彼もまた巣鴨拘置所20ヶ月で無罪放免。★そういやぁ~、おめえの千駄ヶ谷シリーズで元満鉄総裁・松岡広右は戦犯裁判中に病死とあった。

 ●3人共に同郷で姻戚関係。満州で権勢を奮ったのが「2キ3スケ」と言われている。信介・義介・広右(ひろすけ)が「3スケ」。★「2キ」が東条英機(絞首刑)と満州国総務長官・星野直樹(終身禁固刑)。それがゴーン氏とどうつながる?

 ●岸信介の遺志実現に執着するのが現首相。祖父の盟友・鮎川義介(日産コンシェルン創業)の日産が、フランス政府の企てに潰されてたまるかってんで、内閣から日産社外取締役を送り込んでいた。★ホントかいなぁ。●ゴーン逮捕と同時に日産側が官邸へ走っている。

 ★それが「オオシマザクラ」とどう結びつく。●鮎川の日産コンシェルンには日立鉱山がある。鉱山と云えば公害だ。そこで鉱山側が噴煙にもめげずに自生する「オオシマザクラ」に着目して、明治41年に鉱山社宅周辺に植えたっつぅんだ。それが広がって今では260万本。かくして今も日立市は「オオシマザクラ」が美しい。時期になると海からのサクラ観賞ツアーがあるてぇほどだ。★はぁ~ん、大島じゃ「椿」ばかりで「オオシマザクラ」の観光施策はねぇ。噺はそれだけじゃなかろう?

 ●「オオシマザクラ」をネット検索すると「大島さくら子」さんばかりがヒットするが、その隙間に6月公開映画『ある町の高い煙突』がヒットした。★噺が長くなりそうだから、次にまた聞いてやらぁ。

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日本語(10)濁点記号〇〇が〃になる。 [くずし字入門]

dakuten_1.jpg 小池著のⅤ章は「近代文体の創造 夏目漱石」(近代小説家らの文体・日本語論)。Ⅵ章は「日本語の文法の創造 時枝誠記」(日本語の現代文法成立の過程を紹介)。ここは濁点疑問から離れるのでスルーする。

 最後に山口著『てんてん』より第六章「訓読と濁点」を読む。菅原家に対する藤原家の「冬嗣」(恒武天皇に信頼厚く左大臣まで出世)が創った大学寮「勧学院」の故事成語に「勧学院の雀は〝蒙求〟を囀る」(蒙求=もうぎゅう、中国語初学者向け教科書)。これは例えば、学生らが「秋収冬蔵」を中国語で「ツユゥツユゥ・チュウジュオウ」と覚え読むので、雀が囀っているようだの意。当時は中国語発音教師〝音博士〟なる渡来人がいたと説明。

 しかし遣唐使廃止後は「日本語で漢文を読む訓読」になって数字や返り点、さらに漢字の四隅に「ヲコト点」付きで読ませるようになる。「日本語英語」ならぬ「日本語〝漢文〟」。日本人が作った最古の漢和辞典は『新撰字鏡』(僧侶・昌住の著。898~901刊)。現代の漢和辞典と同じく部首分類で編集。音読み、万葉仮名で日本語の訓読み。これは経典を日本語で読むための辞書。

 次に作られたの辞書が『和名類聚抄』(源順著、931~938)。万葉仮名の日本語読み。次が「いろは」検索の『色葉(いろは)字類抄』。漢字の音読みをカタカナ表示。例えば「雷」は「ライ」。訓読みで「イカツチ」。別頁の「雷」には音読み「テン」。訓読み「イナツルヒ・イナツマ・イナヒカリ」。

 平安中期1100年に『類聚名義抄』が登場。これはアクセント記号、濁点記号付き。アクセント記号が(→)や濁音〇記号が付けられている。小生が確かめれば(写真)、カタカナの左上や左下に「〇〇」印あり。ヒクラシ、ヒコホシ、ヒクレ、ヒケなどに濁点〇〇印があるのがわかる。

 この濁点記号が、後に濁点(〃)になると説明。例えば「油=阿布良(万葉仮名)」で「布」横の平音位置に「〇〇」で「ブ」と読むという印付き。

 次に言葉が二つ合わさっての「連濁」は『万葉集』当時からあって「竹竿(タケザオ)」、「神棚(カミダナ)」「島々(シマジマ)」など。この連濁は幽霊のように時代や方言によって現れたり現れなかったりで一定ではなかったと説明。また江戸弁になると「でぇこん(大根)・でえく(大工)などやたらに濁点が多発されるようになったと説明。

 未消化・理解不足ながら、この辺で「てんてん」のお勉強を終了します。なおこのシリーズのカットはすべて国会図書館デジタルコレクションより。

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日本語(9)儒教批判と和歌文学の本居宣長 [くずし字入門]

motoori2.jpg_1.jpg 小池著のⅣ章「日本語の音韻の発見 本居宣長」を読む。本居宣長(もとおりのりなが)。江戸中期の国学者。内科・小児科医。35年を費やした『古事記伝』、「源氏物語」の注解『玉の小櫛』、歌論など多数。外来の儒教を批判して和歌文学(もののあわれ、恋愛歌)、古道、神道論、近代考証学を追及。また五十音図など日本語の音韻を明確化した。小林秀雄、丸谷才一らが『本居宣長』論を著わしている。

 著者はまず「母音・子音」の歴史から説明している。小野篁が拒否した最後の遣唐使(承和5年・838)に、最澄に師事の44歳円仁(えんにん)がいた。唐滞在9年。真言(密教の呪術的語句)の正確な発音を求めてインドの発音(サンスクリット語=梵字)の発音一覧表「悉曇章」を請来し、『在唐記』を刊。仏典など計423部・559刊を書写。その波乱万丈の旅日記『入唐求法巡礼記』は日本初の本格旅行記。中公文庫、東洋文庫あり。他に講談社学術文庫は元米国駐日大使ライシャワー氏の著作。(本居宣長、円仁のお勉強が新たな宿題になってきた)

 なお山口著には、空海が請来した悉曇学書は『悉曇章』『大悉曇章』『羅什悉曇草』『瞻波城悉曇章』『七曇字記』『悉曇釈』で、サンスクリット語から日本語になった「ulambane=盂蘭盆」「stupa=卒塔婆」などの例を紹介していた。写真下は『悉曇字記』例。これは梵字を漢字翻訳した音訳書で、喉声(唇音)は5字。この梵字は「波(ハ)」と発音すると記されている。

sittanjiki.jpg_1.jpg 唐末~五代の頃の『韻鏡』に、横軸に声母(日本の子音)、縦軸に韻母(日本語の母音)で構成した図表があり、ここから平安時代に母音5字×子音10字の日本語50音図が考案された。日本に現存する最古の「五十音図」は11世紀初期に経典の読み解き方を伝える附録に「ア行・ナ行なし」の『孔雀経音義』もあったと説明。

 そして慶長9年(1604)にジャアン・ロドリゲス(ポルトガル出身イエズス会宣教師)著の『日本大文典』が、ローマ字50音図で「あいうゑを」を発表。それらを訂正したのが元禄6年(1693)の契沖『和字正濫抄』で「安(あ)・以(い)・宇(う)・江(え)・遠(を)」を発表。この頃に初めて「五十音図」なる言葉が使われたと説明。

 そして安永5年(1776)に本居宣長が『文音仮名字用格(もじごゑのかなつかい)』で「お=ア行」「を=ワ行」とし、「いろは47字」を定めたと説明。宣長は他に『てにをは紐鏡』や特殊仮名遣いの『上代特殊仮名遣』も著わし、現代に通じる音韻を確立したと説明。隠居の頭では理解も大変だが「くずし字」に親しむには、こんな歴史も知っておきたい。このシリーズは次回で終了です。

 カットは「肖像(野村文紹著)」より本居宣長。カット下は『悉曇字記』より波(ハ)の説明頁。

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日本語(8)「仮名遣い」の創始・藤原定家 [くずし字入門]

sadie_1.jpg 小池著のⅢ章<日本語の「仮名遣」の創始・藤原定家(さだいえ)>を読む。定家は平安末期~鎌倉初期の歌人・歌学者。『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』『小倉百人一首』などの撰。歌論書、また多数仮名文の筆写を経て「定家仮名遣」を考案。歳時記をもって日本人の季節感形成にも寄与。

 藤原定家は和歌の家、御子左家(みこひだりけ)当主・俊成の息子。俊成が後鳥羽院に『新古今和歌集』編集を命じられて、息子・定家を参加させた。(小生注:鴨長明は定家より8歳年長。後鳥羽院に認められて「和歌所」寄人になっていたが、撰者6名から外され十首入集のみ。その後に〝隠棲〟した。『方丈記』を読むと、彼らの時代は戦乱・大火・地震・大飢餓・福島遷都・源平合戦~の激動期とわかる。)

 定家はそんな時代に身を潜めるように文献書写に専念していたらしい。生涯を通じた書写は仏典19種、記録類など9種、物語や日記は『源氏物語』他5種、歌関係が30種。そして56年間に及んだ日記『明月記』を遺した。

 定家59歳、後鳥羽院(40歳、翌年から上皇で23年間にわたって院政)の逆鱗に触れて突如の閉門。宮廷保護に頼らぬ研鑽、膨大な書写をもって和歌の二条家、御子左家を興し、校訂力を磨いての『定家仮名遣』(『下官集』など)を考案、定着させた。「を」は高い発音で、「お」は低い発音で~などの使い分け。他に「え・ゑ・へ」「い・ゐ・ひ」の使い分けで、平仮名の誤読誤解を防いだ「和漢混交文」を普及。

 一方、後鳥羽院は鎌倉幕府・北条義政へ兵を挙げた「承久の乱」で隠岐へ配流。また「定家仮名遣」は僧侶の世界にも変化を及ぼした。寛和元年(985)に天台宗の恵心僧都(えしんそうず)源信が漢文『往生要集』を著わすも、庶民へ広めるには漢文では役に立たずで、彼も仮名主体の『横川法話』500字余りを著わした。法然もまた『仮名法語』を著わし、弟子・親鸞も「漢字平仮名混交文」を著わした。

 定家と同時代の天台座主慈円も歴史書『愚管抄(ぐんわんせう)』もまた適度に漢字、意識的に仮名を使い、しかも主格助詞「ガ」用法は近代語と同じレベルだと指摘。また慈円は『平家物語』の成立にも関与して、美しい韻律を有した抒情的和漢混交文の傑作に関与したらしい。

 なお〝仮名遣い〟は、後の元禄期の僧・契沖によって定家とは理論の異なる「歴史的仮名遣」が生まれ、明治以降の学校教育採用に至るが、13世紀の藤原定家はじめの活躍で、日本語のあるべき姿、スタイルの基礎が出来たと言えそうです。カットは藤原定家(権中納言定家)。江戸後期の「肖像集」より)

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