SSブログ

戸山荘⑲古驛楼や高札の戯言 [大久保・戸山ヶ原伝説]

odawarajyukuzen_1.jpg <カットは全図の部分拡大。写真は小広場に建つ「古驛楼跡」史柱(赤丸)。この辺から右奥の建物(現「シルバー活動館」昔は児童館)へかけて小田原宿を模した町並が続いていたらしい。160年前の我家近所に、そんな戯れの宿場町があったとは、信じるも信じないも貴方次第。

 本陣といへる家には紫と白との布ませ(仕切り)の御幕引廻されしも、ちりめんにてあんなれば(~と聞けば)、風に吹なびきたるさまうやうやしくぞ見渡されたる。菓子(果物)の名をくすりに戯ぶれて茘枝(ライチ)丸、龍眼(リュウガン)圓、蜜漬丸などやうのkoekirousiseki5.jpg数々。金だみ(だみ=彩潰し。塗り潰す。金だみ=金泥で彩色すること)たる看板を臺にすへて、うしろには虎の絵かきたる屏風を建られたり。こゝをなん(強調)「古驛楼」と名付て、内のさまつきづきし(ふさわしい)。御上晴(御上=おうえ、座敷+旧字の晴=?)のご縁は高欄作りにて、氈敷ひらめ(平め)かしてことやう(異様、風変り)にこしらへ、こゝにはしばしやすらはせ給ひて興をそへ給ひし。

 <古語辞典、広辞苑ひもときつつ四苦八苦です> 我等ごときは始ことたりぬ(不足)など申せしも、いとふ(厭ふ)さみしげに成たるなどいいて、蓮葉につつみしかれいい下し(言い下し)給ふを手々に(てんでに)取てそたひにたひける(粗大に度ける?)。酒たうべ(飲む食うの謙譲語)など興ずるも多かりけり。御共のくすし(具すし=従い歩く)何がしかれがしそれがし(誰・彼某・某=だれ・あんた・わたくし)など、かの駕に乗てかたげ(乗手・担げ)ありきしも興尽ぬ事ぞ多かりし。かたへ(片方、傍ら)の経師表具したてて、かり張(無茶、むやみ)に懸置けるも、御もてなしの数なんめり。

 此所を過て大きなる木戸のある番所はいかめしくかまへ、火の番などいふめる(~ようだ)。とほしなとのさま(通行などの様)にいたるまでこまやかにぞ、其外面に星霜ふりし制札あり。たはふれの製し詞ことある中、落花狼藉尤くるしき事、草木の枝きりしたん停止の事。人馬の滞あつてもなくてもかまいなき事と、さもことごと敷そ建られたり。このころのたはふれ(戯れ)に書たらんものなりせばばかばかしき、御前にたてゝおかるべくもさむらはねど(さむらふ=「あり」の謙譲語。傍に控える、近づくことはございませんでしょうが~)、年ふりたれば(年を経たれば)、文字もさだかならず。やうやうとさゝやきあんじて(考えて)読つゞくるほどになんありけるにぞ。ふりにし(古るくなってしまった)世のしたはしげにや、人々もとふとみあへりき。『和田戸山御成記』(14)

 <高札原文と現代訳を以下に記す> 一、於此町中喧嘩口論無之時、番人ハ勿論、町人早々不出合、双方不分、奉行所江不可届事。(この町中において喧嘩口論これなきとき、番人は勿論、町人早々に出合わず、双方を分けず、奉行所に届けべからざること) 一、此町中押買不及了簡事。(この町中で押し買いは了簡およばざること) 一、竹木之枝幾利支丹堅停止之事。(竹の枝、キリシタン堅く停止のこと) 一、落花狼藉いかにも苦敷事。(落花狼藉いかにも苦しきこと) 一、人馬之滞有てもなくても構なき事。(人馬の滞り、あってもなくても構いなきこと)>

 <小寺著には37軒の町屋は約207m。1軒平均間口は約3間半(5.5m)。北端の木戸内に番所、外に高札。古驛楼と称する本陣は、以前は小田原名物の老舗「外郎屋」の名。この宿場町は享和3年(1803)の正月火災で27軒焼失。文化12年(1815)に古驛楼はじめ8軒再建。文政3年(1820)に11件、同4年に10軒完成で完全復活。弘化4年〈1847)の12代将軍家慶の来遊時にも町は健在。安政6年〈1859)の大火で焼失。同著は「虚構の町」で1章を設けて当時の図面入りで詳細紹介している>

コメント(0) 

戸山荘⑱小田原宿を模した37軒の町並 [大久保・戸山ヶ原伝説]

koekiroup_1.jpg 抑(さて、それにしても)世に言伝へ侍る五十三駅(つぎ)を写し給ふなど申侍る其所におもむかせ給ふ。まづ左り右りの家居竝立(いへゐたちならび)てあやしの茅葺の屋に茶釜などいかにも鄙びたるさまにこしらへさせ、団子でんがくなどいふものを木にて造り、白々とぬりてならべ置けるさまもいと興ありき。弓師が見せには、白木ぬり木さし矢(差し矢)弓なんどまで二三十弦もかざりて、弓がための木などもかけ、小刀前がんな小かんな、大板には弦天鼠(くすね=接着剤)皮ことごとく握皮なんど切ちらし、隣の矢師は矧立(はぎたて)の矢多く錺り、矢柄竹ことごとし(弓道用語調べをどうぞ)。

matiyaup_1.jpg 本肆(ほんや)には、唐本和本誰か著述かれる石すか(石摺り?)新板色とり草紙袋へ入たるなんど棚に満、見せに錺りて夥し。薬種屋にはいろいろの薬種あらゆる数々取そろへ、袋の銘などやうありげに(わけありげに)唐めきて、御共のくすし(者?)共も胆をけし侍るほどにさへありてこしらへたり。

 合羽色々数を尽くし、桃灯(ちょうちん)はかたちもさまざまにかはり、思ひ思ひの紋をば書たり。茶売る家には茶壺を並べ竝(なら)べ、宇治の名所の数々さも風流なる手跡にて書たり。又下さま(下様)の茶には筆もまたいやしげにて荒々しく大きなる袋に入、かねて取散したるもおかし。

 金商ふ家には、天秤分銅などいへるものに大福帳、懸硯(手提金庫)などいふもの取そへ、銭は藤かづらやうのものにてさも誠しやかに造置たり。米屋にはさすが名におふ尾張俵を杉なり(三角状)に積たり。菓子見せには色々のもの共皆木にて造り、うましげにぞ見へし。医師か家迄造なせり。和田戸庵と宿札かけて、いづち(何所)へか出行けんさまして、薬箱に菖蒲草のおほひをかけ、碁将棋盤に茶臼をもそへて置たり。国助といふ鍛冶もあり。いろいろの打もの吹革(ふいご)ことごとしく炭取散らしていさぎよかりし。

 植木屋には腰懸などさわやかにつくり、家のうちを通りて奥の方へ行ば、いろいろの植木をうへ、石台(せきだい、植木鉢の一種)など花もいろいろ盛に葉をわきてつやつやし。「問屋」などいへる家は一きわ棟高く、見せは土間にして広く、四ツ手かごといふのりもの三ツ四ツ新に造りて置たり。

 其外数々思ひ思ひの秀作とも中々覚も尽くがたし。色々ののうれん(=のれん)紋所など家の名迄それぞれに似やわしくて、腹ふくるゝわざにぞ。炭屋薪屋酒屋せうゆ(醤油)味噌酢扇店、造花見勢(店)などわきてうるはし。生花いろいろ大桶小桶筒などそれぞれに多く入たり。御いへつとにとて一ツ二ツめされ給ひし(主君はすでに幾つかを召しあがったの意?)。小間物屋きせるこの外数も覚へねどいづれいづれおとらぬ事の多かり。『和田戸山御成記』(14)<ゆっくり読めば、なんとか解釈できそう。長いのでここで区切る>

コメント(0) 

戸山荘⑰招隠里を探す [大久保・戸山ヶ原伝説]

syouinri_1.jpg 「招隠里」といへる世の常ならぬ御物数寄(ものずき)と覚しく、大樹生茂りたる枝払ふ事もなく、いつの世よりか苔も蒸し(苔は生える=むす)そへしにや。深みどりなめらかに、いやむしにむしそへて、いはんかたなく(言はむ方無く=言いようがなく)物すごきさまなり。「しづかなる庭のうちなるかくれ里 これも浮世のほかとおもへば」

 是は尾州家二代の君(光友)の自詠自筆にて、たやすく出さえ給はぬ御事と申されしもむべなり(いやはやもっともである)。誠に木の葉も去年のまゝにて雪のをのづから(自然に)消しあとなどと覚しく。其儘に草もねじけ(拗け)木もねじけて枝もきらず。なべてみどりの色にうつりて、人々のかほまで青ミたるやうに覚へしも、又なきしづけさなるべし。御すまゐの閑寂たる事はたとふるものなし。ひとりなと行たらんには物すごくたへかたかるべきと思ひやられ侍りし。

 扨、此山を出させ給ひ、左の方の沢には紫と白の杜若今を盛なりき。「大日堂人」「丸の堂」あり。この像はほのぼのとの画のさまをうついしたるかたちなり。過し年、狩野栄川法印(余慶堂で登場の狩野惟信の父・典信)此御庭を拝し奉りし時。御像を申syouinriurakara.jpgていはく、画の心に叶ひたりとていとふかく感じたるよし申伝しと承りき。『和田戸山御成記』(13)

 <招隠里(隠里御茶屋)は、絵図から現在地を探せば23号棟西側辺り。坂を少し登った地ゆえ、勝手に写真の辺りだろうと推測した。この写真の背(反対)下側方向に「古驛楼跡」史柱有り。余談:その地を探して同地へ行けば、女の子がヘビを持ち、嫌がる小生に迫ってきた。新宿とは云え、古の隠れ里に今だヘビ棲息なり。戸山荘には関西のカエル、ホタルも持ち込まれたが、そのヘビの先祖も関西系か。

syouinri3_1.jpg 「大日堂・人丸の堂」は、絵図の通り小田原宿を模した町並の西側。「大日堂」は大日如来を安置した堂。「人丸の堂」は柿本人磨を祀った堂。次回はいよいよ小田原宿を模した町並へ>




コメント(0) 

戸山荘⑯カニ川源流と排出 [大久保・戸山ヶ原伝説]

kanigawa1_1.jpg ここで「カニ川」のお勉強です。芳賀善次郎『新宿の散歩道』より~ コマ劇場を中心とした一帯は、大正のはじめまで元長崎の大村藩主・大村子爵の屋敷で「大村の山」と呼ばれ、うっそうとした森林で池もあり、そこが水源のカニ川になって西向神社下へ流れていた。明治20年頃の同池は閑静なカモ場だったが、明治30年代に一帯を尾張屋銀行の頭取・峰島喜代女(尾張屋5代目の女性実業家)が買い取り、森林を伐採し、淀橋上水場建設で掘った土で池を埋めて平坦地にした。(現在、コマ劇場跡に30階「新宿東宝ビル」が建ち、目下はミラノ座跡に40階ビル工事が始まろうとしている)

 カニ川の水源はもう一つ。新宿2丁目の太宗寺裏「新宿公園」の池は、元太宗寺庭園一部で、その池もカニ川(金川)の水源。以上の二つの流れが西向神社下で合流して戸山荘に流れ込んでいた。(小生の若い頃の記憶だが、同公園は薄暗い奥が窪んで池だったような。今は明るく平らな公園になっている)

hirayatoyama1_1.jpg ちなみに『江戸名所図会』『絵本江戸土産』の大窪天満宮(西向天神)を見ると、門前に小川と小さな池(水色で着色)が描かれている。それが北上して(絵では左へ流れて)戸山荘へ。全図の拡大図から判断すれば、カニ川が流れ込んでいたのは現・東戸山小学校と東戸山幼稚園との間辺りと推測される(写真上)。

 昭和45年(1970)の地図を見ると、当時の「東戸山小学校」は現在地より西側に建っていて、その西側が崖状(崖下の道は現存)。同校校歌~♪富士の高嶺を西空はるか「玉の泉」の湧き出るところ~は、その西側崖からの湧水で同校裏門辺りに50mほどの池になっていたそうで、「玉の泉」とはそれだろうと推測する。また湧水は学習院女子大内はじめに幾つもの湧水があって、それらも戸山荘の池へ流れ込んでいたらしい。さらに同地図の東側(地図右際)が土手状地形になっていて、ここにカニ川が流れ込んでいたと思われる。

nisimukikawa_2_1.jpg 戸山荘からの流出については『我が町の詩~下戸塚』(下戸塚研究家)を参考にする。~戸山荘を出たカニ川は、穴八幡角の八幡坂下(三朝庵辺り)に「駒留橋」があり。その下をカニ川が流れていた。葦や熊笹が密生し、大小の樹木が繁茂。野鳥も多く特に雉が多く棲息していた。

 また『戸山荘御邸見聞記』には~ 穴八幡坂下に正覚寺あり。先年の戸山御泉水水抜けの節、境内本堂の縁上まで水が満ちた。水が落ちた後、近辺の若者が墓所に入って鯉、鮒、うなぎなど夥しく捕えたと記されているそうな。またこの水没は20町(約2.2㎞)先の中里村まで及んだとかで、戸山荘の池泉量を物語る記録になっているとか。なお「正覚寺」は「江戸切絵図」を見ると穴八幡前、現・早大戸山正門辺りにあった。

コメント(0) 

戸山荘⑮カニ川は二手にわかれ~ [大久保・戸山ヶ原伝説]

kanihairu.jpg 「濯纓川(たくえいせん)」はあさき流なるに、おもしろげなる石をしけく(繁く=いっぱい/をしけく=惜しいこと。〝繁く〟と読んでみたが~)おきて、つたひありくさまも清げなりき。「清水御座郷屋」とて田舎めき(めく=~らしくなる)たるか、御ゆか(床)もなく、御腰休めばかり竹と木と交あはせて作られたるに、夏毛と冬毛の鹿の敷革を六ッ七ツ重ねて出しおかれしもゆかしけなりし。その横さまに御供のやすらひ所も有けり。これはなをひきく竹にて造られし。此御屋の内は、皆砂を敷わたして箒の跡も乱さぬさまにてありし。こわ(これはまぁ、なんとまぁ)御座のみあり。ちかく通り侍らねば、爰かしこに通べき道なきまゝに、かくまで心を懸られしは、御はからひと思はる。此ところのさま見渡し給ふけしきもなく、ひたすらにおくらきさま、餘の御すまひにかわりたるも興ある御事にて、又深き故もやあるらんかし(あるだろうよ)。『和田戸山御成記』(12)

simizuya.jpg_1.jpg <戸山荘に流れ込むカニ川は、上の全図(寛政年間作)部分拡大から、荘内に入るとすぐに北上する「古流」と、湿地へ流れる「流」に二分しているのがわかる。「流」は「清水御在郷屋」前の小泉水となり、そこから周囲の田畑への用水となって、名を新たに雅名「濯纓川」(大井川)になる。

 今年3月の新宿歴史博物館講座「尾張徳川家戸山屋敷とその庭園」講師・渋谷葉子氏(徳川林政史研究所)は、池泉は年代によって大幅に造り替えられたと説明。まず池水は南から「上の御泉水」「下の御泉水」「御泉水」の三構造。第一段階:主にカニ川より取水で満水。第二段階:「下の御泉水」が湿地化。北側(早大側)の「御泉水」はカニ川以外の水源によった。第三段階:南の「上の御泉水」が消滅し「下の御泉水」と「御泉水」が満水になって併せて「御泉水」になったと説明。

simizuya2_1.jpg 絵図(中)の「尾張公戸山庭園」(寛政5年)は第二段階の形だろう。カニ川は荘内に入るとすぐ二分され、「流」が小池泉にダイナミックに流れ込んでいるのが描かれている。そして絵図(下)「尾候戸山苑図」(幕末近くの様子)は、渋谷氏説明で「同図は東上空から南西方向を見たパノラマで、遠景の大久保から細いカニ川が石組トンネルを経て流れ込んでいる。それが「古流」。絵は林に隠れているが北上して「下の御泉水」へ。「清水御在郷屋」前の小泉水へは〝掘り抜き井戸二ヵ所からの流入だろう〟と説明された。文中の「御供のやすらひ所」は、図の赤いコの字型のことだろう。また「濯纓川」には摂津国小田の蛙(カジカカエル?)が放たれ、宇治の蛍(ゲンジホタル?)が放たれたとか。

コメント(0) 

戸山荘⑭「称徳場」(馬場)へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

baba_1.jpg (筆者・三上季寛は、ここから戻るように「称徳場」へ)野道をつたひて「御馬場」にいたり給ひ。そも此御かまへはなみなみならず。馬場の中に一はしの土手をまふけて、めぐりめぐりて乗べきためにや(や=~であろうか)とも覚ゆ。むま(馬)のあし冷さしめ給んためなりとて、石をもて畳みおろしたる所ありき。この頃のさまにはめなれぬもの也。馬場殿にはうんげん縁(繧繝縁=格の高い畳縁)のあけ(赤・朱)畳なんどもありて、御間数々のありて、きらきらしかりし御事とも也。(『和田戸山御成記』(11)

 <絵図は「尾張公戸山庭園」(上)と「尾候戸山苑図」(下)の「称徳場」。現・東戸山小学校前広場の西土手際に「称徳場跡」史柱が建っている。その辺りから学校を突き抜けて大久保通り際まで伸びていたのだろう。小寺著ではこう説明されていた。~馬を見る御亭syoutokujyo_1.jpg(馬見所)があり、うしろに馬の脚を冷やす堀が造られていた。『戸山御屋敷御取建以来伝聞記』には、かつては馬場周辺に蹄鉄をうつ鍛冶屋などの建物があり、見物席や広い楽屋などを具えて本格的な舞台も付近にあって「門前五軒茶屋」と称する長屋風の茶店も並んでいた。(次回はカニ川について)


syotokuhiroba_1.jpgsyotokusicyu_1.jpg

コメント(0) 

戸山荘⑬称徳場~彩雲塘~弁天島 [大久保・戸山ヶ原伝説]

babakatabenten_1_1.jpg 左の方の「紫竹門」(余慶堂内庭からの出口)を出させ給ひて、林のうちを過給ひける。ちいさき橋のあまたありけるが、皆新に造らしめて人の踏そめし(染し)跡だに一ツもなかりし。ふみならずまじとのおほせことありて、御供の人々もよきて(避きて)そ通りし。「称徳場(馬場)」といへる所を過て「彩雲塘」(弁天社に至る道)と名づけられしは、猿すべり(百日紅)という木の大きなるかきもとゝいふべbenten_1.jpgき、かぎりもなく左右に広がりて、枝は地をほふて、梢は雲に立のぼり。右りの方は、池の汀になびき、左の方は広き田面に枝さしおほひ、百日の盛に雲をも染なずべき名も思ひやられし。こまやかなり枝茂りあひて、もろこしの画などにみへしさまなるも、年ふりし(年古りし=歳月が経過している)御事の御いつくしみ絶せぬしるしなんめり(なめり=~であるようだ)と、心おどろかぬはなかりしか(ないのではないか)。

 「弁天島」は細道をつたひて、あけ(朱・赤)にぬりたるから橋(唐橋=中国風欄干の橋)をふむもおそれみ、ふるひふるひ(震い震い)わたるもあり。又けがし(穢し)奉る事なんはばかりて、ふし(伏し)拝みて通るもありき。宮居(神社)とふとけき御よそをひにして、宮めぐりするあたりも皆同じ。花の木ばかりぞ茂りあひける。そもそも此弁才天と申奉るは、ゆへある御事とて扉開き奉らぬならはしにとて、扉開き奉らんとせし時さはひなし(障なし)給んやなとの御事申も愚なるべし。『和田戸山御成記』(10)

bentenkoeki_1.jpgbentenjimaatari_1.jpg <戸山荘全図より「称徳場~彩雲搪~弁天島」部分をアップし、「尾張公戸山庭園」より「弁天島」部分をアップした。弁天堂はいわれがあって扉を開かぬことになっていたそうな。赤い唐橋の右の小橋から百日紅の「彩雲塘」が続いている。では「弁天島」はどこにあったか。おそらく現20号棟5階から俯瞰した桜の小広場辺りだろう。正面25号棟の右奥と26号棟左の間に見える木の茂み下に「古驛楼跡」(戸山荘を代表的する小田原宿を擬した37軒の街並の本陣=古驛楼)史柱が建っている。

 写真下右の桜の奥は19号棟~箱根山。19号棟は「平屋の戸山ハイツ」時代は、陸軍戸山学校時代の50m程のプールが残っていて、同棟を建てる際にプールを壊しての基礎造りゆえ建築業者が苦労していた。また広場辺りは更地で、後に桜が植えられた~と当時を知る友人が語ってくれた。同写真右端の20号棟手前辺りに百日紅の道「彩雲搪」があったのだろう。そこで箱根山に向かって立ち、両手を広げる。右手先に「称徳場」、足元に「彩雲塘」、眼の前に「弁天島」、左手先が「古驛楼」。現風景から陸軍戸山学校時代をも透かして、江戸時代の戸山荘の風景が浮かんでくる。

コメント(0) 

戸山荘⑫餘慶堂の描写 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yokeidouezu_1.jpg 中央卓、紅地唐銅獅子の香炉。うしろの御間の御床には越雪湖の梅。右卓、朱からがね(唐銅)驢馬香炉。御湯殿のかたはらの御床には林和靖、李太白(共に中国詩人・文人の詩世界を描いた)探幽(狩野)筆にて一きわ見事なりし。御湯の御まふけし給ふ御ものはあらたに造らし給ひし名だゝる木曾山路の檜杉もて造らせ給ひたるしるしにや、匂ひも常ならず、なべてのいさぎよきことゝも申ばかりもなく、いちじるかりし(かりし=詠嘆)。

 偖(さて)此殿より廊二すじあり。越行て見るに、かぎりもしられぬほどの大御屋造(大書院造)にて、けつかう(結構)なることどもの数々ありて、案内なく入ては帰るさ(帰り道)わきまふべくもなかりきに。御障子御畳など一ツとして古きはなく、みな新に造らしめ給ひしか。うやまはせ給ふのかぎり尽されし御事のとうとさと覚え侍り。

yokeidousirusi.jpgyokeidousya_1.jpg 監の間宮氏御しりえ(後方)のとのに侍りしか、しわぶき(咳)からましけなるもおかし。この殿計にもあらぬか(?)。御手水の御調度御臺子(茶道具一式をのせる棚)なんと、きらきらしくあらたにまふけ給ひし。御庭のさまは大石の数々ねしけかゞまり。又石の工(たく)み手を尽したるなんと取合て、見所多かる限りあつめ尽されし。其ひまひまにはこまやかなる石をもて土は見へぬまで敷ならしたるも見物也。

 餘慶堂の御額は明人の筆。さも殊勝げに懸られし。御庭のさま、向ふの方には大樹かぎりもなくgotenatari1_1.jpg植つづけて、遠山のごとくなるを、一きは(一際=一段と)筥(はこ)などのやうに切平(ひら)めさせて、五重の塔はるばると見へける。何れの伽藍にやと思るゝに、是も此御庭の内にてまふけ(設け)させ給ひしと聞へて、おどろき感じあへり(しっかり感じた)。又左の方に是も梢を平めしめて馬場の埒(柵)などのやうに切ぬきしさま。何のためにかはと見るに、富士の高嶺白々とぞ見へける。裾野のかたはひたすらに見へもやらで、青葉計つゞけたるけしきいはんかたなくぞ(何とも言いようがなく結構)覚へし。

 木は松楓ぞ多かる。よのつねの森林には下草まだらなるか。此御庭にかぎりて下草のみどり深く、蛮国の羅紗なんといへる布を敷たるやうにぞ見渡されし。又きびたき(キビタキ)などいふ小鳥の所悪かふに(交ふに)飛めぐり、おかしきさましてさへずり。けふの御もてなしかふなるも又情ありてぞみえし。『和田戸山御成記』(9)

kigitaki.jpg.jpg <餘慶堂の旧称は「富士見御殿」。林の上部を平らに刈って緑の額縁「木の間の富士」。江戸百富士の一つとか。御殿も餘慶堂も安政6年の大火で焼失。餘慶堂はどこに建っていたか。まず戸山荘全図から確認。「御殿」の西側に張り出ているのが「餘慶堂」。その場所は、写真の丸印に「餘慶堂跡」の史柱が建っている(史柱の左向こうが11号棟・生涯学習館で、背が9号棟)。写真下の広場と10号棟辺りの奥に「御殿」が建っていたのだろう。おまけの鳥写真は小生が昔に葛西臨海公園で撮ったキビタキ> 

コメント(0) 

戸山荘⑪御殿続きの「餘慶堂」 [大久保・戸山ヶ原伝説]

yokeidou_1.jpg 峯を下りてかたわらの細道をしばし過給ひぬほどに、左りのかたに御鞠の御かゝりの跡とて、礎のうちにはいまも砂を敷わたして、かゝりの木と覚しくて、相生乃松(赤松・黒松が一つ根から生えたように見える松)あり。幾世経にけん(けむ=だったのだろう)しるしにや、三人ばかりにてもいだき(抱き)つべくもやあらん(出来るだろうが出来なかった)。高き木ずえはみどりもふかく、いや(きわめて)生に栄へたり。其いにしへは御垣の内にかゞまりたらんさまぞおもひやられて、誠に目出度木にぞありけし(あったようだ)。

yokeizenzu.jpg <それは何処?と資料を探すもわからず。ようやく「戸山御屋敷絵図」(下の図)で御殿西側に「御鞠場」「御土蔵」「石段御門」を見つけた。蹴鞠の御懸(かかり=蹴鞠を行う場)。木を四隅に植えた約15㎡の場で行われる。小寺著『戸山の春』では~ 玉円峰を下ってさらに進むと「御鞠場」の跡。内に砂が敷かれ、かつての懸り木と思われる相生の老松が一本(昔は四隅に四本あった)とあり>

 石段門を入ては、石を敷置たり。四角もあり、三角にこしらへしも有。さまざまの状の石もて(以て)、雨にも道わづらひながらん(煩ひ長らん)為とぞおぼゆ。左の方に御宝蔵とて棟高からぬに扉三所迄ありて、さながらくろがね(鉄)などにて造りたるやうに。きらきらしく見侍り奉りし。すべて此門の内はよ所にはばかりて(際立った)石とも多く、木も色々に造りなせれ、きりしまつづじの紅(くれな)ひ又たとふべきものなし。かしこ(彼処)には龍宮より得たるよしの鐘あり。色はみどりにして、かねのかたちはゑもいはれぬほどにねぢけ古めかしく、穴など幾つもありて、龍頭などいへるものもよの常にはあらで(なくて)、さも珍しき御宝にこそあんなれ。あらあらしき木もて造りたる柱にぞ懸られし。こゝかしこ御覧終りて、ひときはうず高き餘慶堂にいたり給ふ。

omariba_1.jpg <「石段御門」を入ると四角や三角などさまざまな形の飛び石が敷かれ、左に宝蔵殿があり、餘慶堂前に吊られた鐘。これは尾張の海で漁夫が網にかけた古墳時代の銅鐸らしい>

 さて此殿は大屋造にして、あけ蔀(しとみ=雨戸のようなもの。それが開けられて)御簾(みす=すだれ)かけの具などまふけさせ給ひて、雲の上の御よそほひをぞまふけ(設け)させ給ふ。其御床の三福対は、狩野法眼養川惟信(狩野これのぶ。木挽町の狩野派7代目。29歳で法眼の称号。号が養川)にあらためゑがゝしめ(改め描かしめ)給ひし福禄壽山水(七福神の一つが描かれた山水画)、祝ひにひにてこまやかにいさぎよきぞめでたし。砂もの(生け花の古典様式の一つ、砂鉢に木の株を立てたもの)とていかにも広やかなる御器に、松いぶき(伊吹:ビャクシン属の常緑高木)柘榴躑躅に手まり(紫陽花?)。牡丹、きぼうし(擬宝珠)、無儘草(シュンギク)、いちはつ(アヤメ科)なんとにて、さも活き活きとたて造らしめ給ふ。御二の間の御床には雪舟筆、これも山水をえがきたるにてぞありし。思ひのまゝに書なしたるやうにて、とどこふれる事少しもなく、やすらに妙なる事を感じぬるも愚なり。『和田戸山御成記』(8)

 <絵巻は餘慶堂。上が「尾候戸山苑図」。下が「尾張公戸山庭園」より。地図は宝暦頃「戸山御屋敷絵図」の蹴鞠場>

コメント(0) 

戸山荘⑩大日本帝国の痕跡 [大久保・戸山ヶ原伝説]

toyamagako_1.jpg 尾張藩下屋敷戸山荘の地には「大日本帝国」時代の痕跡が幾つか遺されている。箱根山の麓に「戸山荘」史跡看板があり、その一段下がった所に「箱根山陸軍戸山学校址」の石碑も建っている。立ち止まって読む機会も稀ゆえ、ここに全文を写しておく(読み易く句読点をつける)

 この地は和田戸という武士の館の跡で、源為朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ、後代、和田戸山と呼ばれた寛文年間、尾張徳川候の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし、東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された。明治六年、その地に兵学寮戸山出張所が設けられ、翌七年陸軍戸山学校と改称されて以来、約七十年にわたって軍事の研究教育が行なわれ、国軍精神の基を培ったばかりではなく、国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である。この度、東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたって、この記念碑を建てて東京都に贈る。昭和四十二年十一月 元陸軍戸山学校縁故有志一同

syoukoukaigijyo_1.jpg 戦後の民主主義教育で育った小生には、いかにも「大日本帝国・陸軍」らしい碑文と感じられるも、日本の歴史として無視するは避けられない。その暗部をも抱えているのが日本人でもある。

 「新宿区平和マップ」に区内の戦争に関する史跡が紹介されて、戸山荘該当地の史跡も写真付きで掲載。そこに「(国立感染症研究所内)納骨施設」もあった。そこは戸山荘の「臨遥亭」があった地だろう。同マップから説明文を写す。

 「平成元年7月、国立感染症研究所の建設工事中に、土中から少なくとも62体の人骨が発見され、その供養のため石碑が建てられました。この一帯には、敗戦まで陸軍軍医学校があり、鑑定の結果、陸軍軍医学校の標本などに由来する人々のものである可能性が高いと判断されました。その後、厚生労働省ではこれら遺骨を保管することとし、平成14年3月に(研究所敷地内に)納骨保管施設が完成しました。」

gungakudou_1.jpg 同パンフレットには他に「陸軍の将校会議室跡」(現在は私立戸山幼稚園の園舎として利用)、「軍楽隊野外音楽堂跡」、学習院女子大内の「近衛騎兵連隊之跡碑・近衛騎兵連隊宿舎・炊事場跡」などが紹介されていた。

 またかつての国立病院戸山5号官舎の下にも、当時の証言で陸軍軍医学校の標本人骨が埋められているとされ、2010年に同官舎解体後に発掘調査が行われたらしいが、その結果報はどうだったのだろうか。同地はいまは更地にのまま。明治通りを挟んだ反対側の戸山公園(大久保地区)は〝戸山ヶ原〟と称された練兵場(射撃など)などがあった。そこに忍び込んでゴルフに興じたのが大正時代の〝戸山アパッチゴルファー〟(当時の新聞記事を弊ブログでも紹介)。また多くの文人が散策記、多くの画家がスケッチも残している。次回『和田戸山御成記』に戻る。

コメント(0) 

戸山荘⑨茯苓坂~和田戸明神~玉円峯へ [大久保・戸山ヶ原伝説]

bukuryuzaka.jpg_1.jpg 坂下門左に「琥珀橋」「茯苓坂(ぶくりょうざか)。右に「桜の茶屋」。こゝの御まふけ(設け)には、臨粽などいへる花入に、杜若(かきつばた)にはあらぬ同じゆかりの花の色も絶なるをぞ入給ふ。御床のかけし(掛軸)は柴野大心一行もの(一行に書いた墨蹟)。「黒木の茶屋」のかけ物は雀鼬の画。是は名におふ曽我蛇足(じゃそく。一休に画を教えた室町後期の画家)の筆也。中央の卓桑の木地なるに、唐銅鯉の香炉、仙台萩を青磁の陶にぞ入給ふ。御棚には香匙、火筋建(こじたて。灰を扱う火箸立て)、南蛮のたくみなる梨地の盃にぞ錺られたり。

bukuryozakasiseki_1.jpg 右りのかたの石段を登りて「和田戸明神」を祭り奉るいとたふとげ(尊げ)に覚ゆ。神主の住所とて板の掘有りて、少坂をのぼりていかにも数寄にかまへたる家あり。御床には釣瓶(つるべ)に燕の飛遊ぶさまをいかにも面白くぞ画たり。よのつねの英一蝶といへる筆はざれざれ(戯れ戯れ)しく貴けき御前に出べきさまならぬやうに覚しか。此御かけしのさまはさうなふ心ありげに恥じからぬも御宝のゆへなるべしと、ひとり感じぬ。

 <英一蝶は江戸中期の画家。三宅島に流罪。大赦で12年ぶりに江戸へ戻って、さらなる人気絵師へ。小生は高輪・承輪寺の墓を掃苔済。〝ざれざれしい絵〟を一蝶が聞けば〝てぇやんでぇ、江戸っ子の粋が田舎侍にわかるもんかぇ〟と言うかもしれない>

 さて後のかたに引かくしたる御ま(間)にて、焼飯にしめもの(煮しめ物)など取揃へせり。色片木といふものに盛てぞありける。是は我等ごときよりも末のもの迄の御恵なりとて、人々つどゐて忍びかほしてたうべ(頂戴した)。御茶たまへ水給へととよみあひて(大声で騒ぎあって)興じぬ。しばしば御供の事も忘るゝ計りたのしみあへるさま、おのづから御心にもかなひまいらせしやらん(叶うことも忘れてしまった)。

hakoneyama_1.jpg 此あたりは町両側につづきて、家々に茶椀棚釜なんとへつゝい(竃)に懸置たり。そのさまよの常ならぞに、木瓜の形、又口のさし出たる。また口の小きさまざまの古きにぬるひたるなと殊勝かなり。茶道すきの人々はあなめづらし。かゝるたふときものを此さまにあまたありけなるをぞ感じあへる。

 <小寺著『江戸の春』では~ 坂下門を入ると坂の左右に町屋(擬似街並み)風あり。右の「黒木之茶屋」床の間に曽我蛇足の画、その先に「二之御茶屋」「三之御茶屋」(柴野の一行もの軸)、「四之お茶屋」(臨粽の花筒にあやめ)。左側に「桜之お茶屋」、その隣に釣竿などを売る茶屋。その先に「和田戸大明神」の鳥居。社は高い石段の上に祀られ、鳥居の脇に神主の家。床の間に英一蝶の画。この家の奥に焼飯などが用意されていた>

 「達磨堂」を過ぎ給ひて「玉円峰」に登り給ぬ。さゞゐ(栄螺)の状につくりて、高きことは凡五丈斗(15mばかり)もあんあるに、うちのぼらせ給ふ。むかしは見渡されしがたもあらんに、今は老樹雲をしのぐ計なれば、近きあたりは見へざりけり。晴やかならん折からには、遠境のけしきさぞと思ひられ侍りぬ。『和田戸山御成記』(7)

 <丸ヶ獄~玉円峰、そして今は箱根山。その周囲も高く標高は44.6m。都内一の山。★昔を知る方に聞くと「隅田川の花火の時は、箱根山頂上は人がいっぱいになった。よく見えたんだよ。反対側を向けば山の手線が馬場~目白と見えた」。『尾州公戸山御庭記』に、男女15歳以上の者に給金を払い、御泉水を掘らせ、その土を運ばせてこの御山が出来たと書かれている。絵巻『尾侯戸山苑図』の絵と現写真(茯苓坂の史柱あり)。その上の平らな所に「達磨堂」があったのかしら。茶屋が並び「和田戸明神」があったのは、現・箱根山トイレ辺りから手前の広場辺りだろうか>

コメント(0) 

戸山荘⑧修仙谷を渡り錦明山、そして下る [大久保・戸山ヶ原伝説]

tounanbu_1.jpg かなたこなたつたひ下りて見れば、谷水したゝりて草もめなれぬ(目馴れぬ)が生茂り、丈ケひきゝ(背低き)人は行方も見とめぬ程にぞあんなれ(あるようだ)。雨降なば(~ならば)草も木も高からぬは皆水底に沈むさまならんかとおもひやらる。小き茅葺の「御やすらひ所」ありけるに、御床には青銅の布袋を置給ふ。そもいかなる人いつの頃にか作りけん。銅いろいろ艶有りて何やらん仰ぎ見るさまして、左の足をあげて笑ふくみたるよそほひ。あやしげにも見やられける。御次とおぼしき御やどりには、唯こしやすめのミゾありける(腰掛縁)。御手水なども清げにて、木賊(とくさ)なんど生て、小き石など所々にすえられしは、けふの御まふけ(準備)とど見へ侍りし。

 <小寺著『戸山の春』(佐野義行の記)を参考にする。「修仙谷」を下ると、流れは涸れて沢渡りの石伝いに歩むと、対岸に草葺茶屋あり。三畳の床に布袋像が置かれ、四畳半の土間には腰掛け縁。手水鉢の形もおもしろく、木賊が垣根のように生えて幽隠の境地のように思われた。この屋は一度取り壊されていたが寛政5年に再建>

sunrise_1.jpg 錦明山(絵図は右上。現在は写真左の区立障害者福祉センター辺り)、天満神を崇め奉らせ給ふ。御みやづくり神籬(ひもろぎ)のみありさまよのつねならず(並々ではない)。みかぐら(御神楽)奏し奉るみとゝのゝ(?)うちより、老木松生出たるか。四方に枝さし覆ひたるけしき、又なく面白侍し。茶など商ふ屋などもあり。左に水神の宮、元在郷屋とておかしげに造らし給う。

 <小寺著には、老松が屋根を貫いていたのは「絵馬堂」と記されていた。「水神の宮=水天宮」は社うしろから清水が湧き出して修仙谷へ流れ込んでいたが、光友没の頃に涸れたそうな>

jinkotunohara_1.jpg 「宇野のや地蔵」(絵図左下の「宇津谷地蔵堂」)は、山の中伏に白木造りの御堂にたゝせ給ふ。こゝもはるばるとのどやかに(長閑やかに)見所多し。かけ道(懸け道=険しい山道)をつたひ下りて、右は山、左は地水の清げなるさゞ波もたゝず。只凹なる鏡に向ふこゝちになん。初め見侍りし「随柳亭」を左の方に見なしたるか、風になびくみどりのいとゞ(ますます)王昭君(中国四大美人の一人)のむかし忍びかほなるもおかし。此辺に「在郷屋敷屋敷」ありし。すべて此家のさま、籾なんど敷たるうへに、荒きむしろひろげ敷おほひて、竈は皆ひとつなん(なむ=推量)あるに、黒木柴など取そへてくすほをりたるさま(燻りたる様)也。壁なども手してぬりくろめたるに、松葉なんとやうのもの、そぞろにかきものしたるもおかし。窓なども竹をあらはにのこし、三角丸四角などきわもなく(限りなく)ぬりにぬりたるまゝにこそ見へし。其あたりは竹の荒々しき垣、せんさいにはささけちぞ、春菜の苗手むさげに(適当に)植し。門は黒木をし立て竹のあみ戸しどけなくそまふけられし(杣葺けられし)。はねつるべ(跳ね釣瓶)などいふものありて、井のはたには水汲まふけて(設けて)、泥も浅からぬさまを催し、木履(ぼくり=下駄)のあとなんどいかにもあらあら敷付置(しくおきつけ)たるは、心深(ふこ)ふも数寄造られしにやと感じて過(あやたま)ぬ。『和田戸山御成記』(6)

 <元在郷屋に施された細やかな演出の紹介は、旧仮名・古語の楽しいお勉強になります。「天神山」は天明8年(1788)に「錦明山」と改称。絵図の「両臨堂」は現・戸山ハイツ1号棟辺りか。同1・2号棟は目下、国立病院宿舎建設で解体中。「宇津谷地蔵堂」はそれより一段下がった池側ゆえ写真下の更地辺りか。同地蔵近くに宗春の時代には「鬼の岩屋」があり、奥に木製の鬼がいたらしい。西山ガラシャの小説では、怖がらせる程度をどれほどにするか思案する場面が面白かった。まぁ、お化け屋敷的仕掛けとでも云えましょう。さらにこの地は戦後に人骨騒動もありの大日本帝国陸軍の暗い遺産もあるが、それらは後でまとめて記しましょう。

コメント(0) 

戸山荘⑦眺望の臨遥亭、幻の修仙谷 [大久保・戸山ヶ原伝説]

rinyoutei_1.jpg 松のたくましげなるにうちまじはりて(打ち交わりて)、盛なるもいと見事にも覚えし。少し高き所にのぼらせ給ふ。これぞ「臨遥亭」(絵図中央上)と名づけ給ひ。この御床には菜の蝶の趙昌(北栄の花鳥画家)の筆にて花に遊べる風情なり。唐銅の花入杵の折と名づけられしに、大山連翹ゑびね(レンギョウエビネ。ラン科)を水際きよけに入玉ふ。二條為氏卿(鎌倉中期の和歌の二条家の祖)の古今和歌集、文鎮は唐銅の亀、書院の御床には釣香炉、金紫銅の鱗、硯は列星石、硯屏は寧波(硯屏=硯の傍に立てる塵除け衝立。寧波=中国の地名)、筆は堆朱(彫漆)、筆架唐銅龍、黒い丸形にて、被是ともに唐と大和の古き御調度とも目なれぬさまなんめり(~のようだ)。

rinyotei_1.jpg 御庭は清き芝原にて、むかふの方はおのづからくだり。右の方には四つ目にゆひたる竹垣(縦横四角に隙間を開けて編んだ竹垣)、其内外にやすらかなるさまざまの木立はてしもなくてぞ植つゞけられたり。君にも御目とまりし。彼原には木もなかりしか(なかったのでないか)。中央に老木の柏の梢は、丈(ぢぅう=約3m)にも過ましきか(ないか)。四方の枝は芝をはふて三丈あまりはひろこりて(広ごりて=広がって)、葉も広やかにあさみどりの色つやつやし。むかふの方を見やれば、名におふ目白関口(目白台、神田上水の関口)とやらん遠きちかきさまざまのけしき、若葉の茂りあひたるは、誠に目にも余りたるなんといふもおろかなるぞかし(言うもおろかなり=言い尽くせない)。けふの警固の御為とて、非常のいましめのかしこきに(警備の立派さだが)、往かふ人もなかりし。「修仙谷」を下り玉ふころ、もろこしの仙人集りてもろもろのあやしげなるすさみ(遊び事)などなしけるもかゝる所ならんかしと思ひやられ侍る。(『和田戸山御成記』(5)

anaomiru_1.jpg <享保20年の『戸山御庭記』(吉春「花見の宴」)では「望遥亭」からの眺めは穴八幡、目白台、小石川、さらに筑波山も見ゆると記されていた。そこで著者・久世舎善が詠んだのは「目も遥に民のかまどの長閑さを煙にしるき庭の数々」。そして「きり島山」(キリシマツツジが一帯を覆っていた)の先の天神山(錦明山)を望み、松に〝トキ〟という鳥の巣に居けるを見るとあった。当時はこの地に「トキ」が営巣していたとは驚いた>

 <「臨遥亭」は写真奥の靑色の建物=現・国立予防衛生研究所辺りだろう。今も北側の眺望が良さそうだが部外者は入れない。「尾侯戸山苑図」にそんな遠景が描かれていたのでアップする。平成元年に同所手前のmejirodaiomiru_1.jpg新宿区障害者福祉センター辺りの弥生時代集落・戸山遺跡調査で、そこに〝埋没谷〟があったことを確認。谷幅40m比高差6mと推定。戸山荘絵図には埋没谷=大谷(後に修仙谷)と説明。その周辺に「大谷御数寄屋(後に修谷御茶屋)」や「水神之宮」が建っていた。周囲は紅葉や赤松の大木が多く、夕景もすばらしかったとか。この谷は当初は池で、光友逝去の頃に涸れたらしい。また同地北東(早大敷地内)では縄文土器や江戸時代の地下室や陶磁器、土器が出土したらしい> ★芝生の庭は、平安時代からあったらしい。

コメント(0) 

戸山荘⑥享保&寛政の改革 [大久保・戸山ヶ原伝説]

ryumonnnotaki.jpg ここでちょっと脱線。寛政5年(1793)3月の11代将軍家斉(いえなり)の「和田戸山御成記」が進行中だが、時の尾張藩主は9代徳川宗親(むねちか)。そこで7代藩主・徳川宗春「花見の宴」での「龍門の瀧」はどう紹介されているのだろうかと久世舎善記『戸山御庭記』を読んだ。

kubousama_1.jpg そこでハッと記付いた。吉春と云えば8代将軍吉宗「享保の改革」に逆らった藩主。吉春『恩知政要』(享保17年・1732)は、吉宗の厳しい質素倹約では逆に経済が停滞し、庶民生活・文化も阻害すると説いた。芝居興行の推進(その結果名古屋は〝芸処〟になる)、遊郭営業も許可、盆踊りも盛大に行われ、自らも派手な衣装で練り歩いた。

 享保20年に吉原大夫・春日野を落籍して戸山荘に迎え、華々しく「花見の宴」を展開。清水義範の小説『尾張春風伝』では、荘内の小田原宿を模した町屋で、吉春は瓦版売り、春日野は大根売りの田舎娘に扮して、それは楽しく盛り上がった様子が描かれていた。

 だが4年後の元文4年(1739)、吉宗はついに吉春に謹慎蟄居を命じた。ちなみに吉春に仕えた尾張藩御用人の一人が『鶉衣』の横井也有。吉春の隠居と同時に〝官路の険難しのぎ尽くて〟彼は隠棲して同書を著わした。

 さて吉宗は時代劇とは違って農民に実質2倍の増税、貧民層への差別政策も行ったとか。その吉宗の子・家重が9代将軍。健康芳しくなく田沼意次が献身的に補佐。10代将軍が家治で田沼の老中政治が始まった。家治の子が18歳没で、一橋家の家斉が養子になって15歳で11代将軍になった。

soudaigawa_1.jpg 家斉の実父・一橋治斉が、田沼追放と松平定信の老中首席を画策。尾張藩主・宗睦も定信を推薦した。だが定信の偏執的とも云える「寛政の改革」施策の数々・姿勢に、家斉は成長するに従って嫌悪感を抱き出した。独裁化する定信に、老中らにも反定信派が形成された。そんな折に定信は外国圧力に備えるべく伊豆・相模視察。その最中に行われたのが家斉の「戸山荘御成」だった。そこに宗睦が居ないワケもなく密談もあったと推測するのは当然のことだろう。案の状、4ヶ月後に松平定信失脚。

 かくして「戸山荘」の裏に「享保の改革」や「寛政の改革」が透けて見えて來る。定信失脚に江戸庶民喝采の声が渦巻いた。その後の化政期(文化・化政時代)に江戸文化(町民文化)が一気に開花。ちなみに家斉は妻妾16名で子は55人。性(繁殖)も謳歌。

 かくして小生は「龍門瀧」の激しい瀧つせに、人間性謳歌の叫びを感じてしまうのだが、いかがだろうか。無論こんな指摘は誰もしていないが~。写真上は「絵巻・尾侯戸山苑図」より「龍門の瀧」(国会図書館デジタルコレクション)。写真中は西山ガラシャ『公方様のお通り抜け』表紙(徳川美術館所蔵を使用)。そして写真下は「龍門瀧」があった早稲田大学生会館辺り。

コメント(0) 

戸山荘⑤龍門瀧のドッキリ仕掛け [大久保・戸山ヶ原伝説]

ryumonnotaki_1.jpg さて「鳴鳳渓」とて深き谷の有けるを伝ひ伝ひて下りぬ。爰は大きなる竹のはやし立つづきたるに、木も交りてをくらく(手許も暗く)物すごきさま也。木の根竹の枝などに取りつき下りけるに。いとはやき流れありて、ほとばしる水のするどけなるなんどと詠め侍りける。右の方の「龍門橋」より流れ出る瀧つせ(瀧つ瀬=激流、急流)のさま、誠に白浪高く岩角にあたりて、玉ちるけしき。画(えが)くとも及びがたく、又かたるにも聞人よも誠とも思はし。瀧の音山岳に響き、さゝやけども聞へず。しばしの内に、はじめ渡りし石つたひも、みな白浪の底にしづみて物すさまじあやうし(凄まじ危うし)などいゝて、向ざま(ざま=方向や向きを表す接尾語)の岩のかけ道などやうやうにつたひのぼりて見侍るに、竹林のもとに草といふものは尋ぬれどもなきまでに塵はらひ清められし事のとふとさと感じぬ。此水はわざとたゝへて置てほどよしとて關の板をはづして落し懸たる瀧にて有けると後で聞へ侍りし。

 <戸山荘を代表する龍門瀧。現・早大学生会館建設前の平成10・11年発掘で瀧の石組が出土。その石組が名古屋・徳川公園で再現と知り、小生は名古屋での仕事の際に二度ほど訪ね見たことがある。サイト「徳川園」の(散策案内)クリックで瀧の四季写真がアップされている。

ryumonotaki_1.jpg 左の本の表紙は、その石組と絵。新宿歴史博物館のマップ説明文に、~三上季寛の見聞記として「一行が飛び石をつたって対岸に渡ったのを見計らい、上流の堰板を外し、飛び石を水没させ驚かせるという趣旨の舞台となった場所です」と記されているが、それがこの全文です。前述の西山ガラシャ氏小説『公方様のお通り抜け』では、この瀧の石組、細工、堰板を外すタイミングの実験・本番などが面白おかしく描かれていた。58年前の吉春の「花見の宴」に従った久世舎善をはじめ他の戸山記には〝この瀧のドッキリ仕掛け〟の記述はなく、家斉御成に特別に造られた仕掛けと推測される> 

 右の「竹猗門(ちくいもん)」にはとふとき額あり(尊き2代藩主・光友卿の筆の額)。これぞ君子の出入らせ給ふならん。左の垣根にそふてのぼり行に、右はそことしもなき山路なるか。松楓生茂りてみどり深く、芝きよけ(清げ)に青ミ渡りたるに、紅の躑躅のこく薄き色々ありて藪もわきかたかりけらし(わかりにくいようだ)。高さは丈にも餘りしなんと珍らし。木立しげからず木高からずやすらにふりありて(様子があって)、めなれぬ風情なるか。『和田戸山御成記』(4)

コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。