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儒者の墓(5)「大塚先儒墓所保存会報告書」 [朱子学・儒教系]

funboari_1.jpg 次に紹介は『大塚先儒墓所保存会報告書』。口絵写真に「鳩巣室先生之墓」「尾藤二洲先生之墓」があって、なんと!推測通り、墓碑裏に丸い石囲いに芝で覆われた墳墓がしっかりと写っていたじゃないか。「尾藤二洲先生之墓」の白黒写真から着色したスケッチをアップ。同報告書からは以下の二項目の概要を紹介。

<木下順庵先生等の移葬> 大正三年二月を以て本会の趣旨に基き木下順庵先生及び貞簡先生等の墳墓を府下荏原郡池上村より移葬せり。従来の墳墓地は千束郷と云う幕府より賜はりし控屋敷。明治維新の際に裔孫が所有申告を逸して割烹の所有へ。店主は散在した順庵先生以下の墳墓を一カ所に聚(あつ)め、かつ墳墓に接して家屋を建設したる為に兆域(墓所)甚だ湫隘で展墓する者皆慨せり。よって快諾していただき移葬せり。

<墓地の整理及び建碑> 垣墻(垣根)を繞(めぐ)らしてbisyusensei_1.jpgjyunan_1.jpg四至(しいし、四方の境界)を明らかにし荊棘を除きて新たに樹木を植え道路や水道を導いて盥嗽(かんそう、手を洗い口をすすぐ)の便などを設け、東方一帯の崖地に石を築き、墓所の入口に石段を築いた。古賀茶渓先生の墓所には木標あるのみだったので新たに墓碣(ぼけつ、墓碑)を建て碑陰に文を刻せり。

 又柴野、古賀、岡田の三家の墓域中には墳墓はあるが碑碣のなきものもあった。岡田家の如きは寒泉先生を除くの外はたゞ土饅頭あるのみだった。墳墓の頽(くず)れたるのも之を修め、墓碑無きものは石を建てたり~ と整備したことが記されていた。ここまで勉強したら、あとは実際に「大塚先儒墓所」を訪ねてみたい。(続く)

 写真下左は現状の「尾藤二州先生之墓」。右は移葬された「木下順庵先生之墓」で墓碑は「木恭靖先生之墓」。〝恭靖〟は氏の諡(おくりな)。

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儒者の墓(4)「史蹟大塚先儒墓所沿革」 [朱子学・儒教系]

senjyuzenkei3_1.jpg 「都中央図書館」で「史蹟大塚先儒墓所沿革」(二つ折りチラシ)と小冊子『大塚先儒墓所保存会報告書』と併せて閲覧。

 共に発行は、大正10年に国史蹟指定で、翌11年(1922)に東京市が管理者に指定された頃と思われる。『史蹟大塚先儒墓所沿革』はネット未公開だろうゆえ、原文で紹介。

 初め水戸藩の儒者、人見道生その私邸を埋葬地とす。次で享保十九年室鳩巣、駿河臺の賜邸に没するや、遺志に従ひ此地に葬る。寛政年中柴野栗山、岡田寒泉、尾藤二洲連署し當地に儒葬の儀伺書を差出し、許可を得て葬地となせり。

senjyuzenkei1_1.jpg 後又古賀精里、此地を儒葬地と為すを許さる。是に於て人見、室、柴野、尾藤、岡田、古賀の六氏相並びて墓所を此處に設け、子女をも併せ葬る。(人見氏の墓所は後他に移轉し、今なし)時人称して儒者棄場と云へり。

 斯の如く由緒深き先儒墳墓も、明治維新後子孫世變に遇ひて家門衰ふるあり、或は他に移れるあり、為に漸く荒廃し、都下西郊の一名蹟も將に煙滅に帰せんとせり。

 明治三十年頃、帝国大學文科大學長外山正一同教授島田重禮氏等荒廃を慨し、之が保存を考究せしも、事成らずして両氏共に歿す。明治三十四年、東京帝國大學總長濱尾新氏深く之れを惜しみ、二氏の遺志を継ぎて、大塚先儒墓所保存會を組織す。大正二年男爵濱尾新氏より、宮内大臣に大塚先儒墓所保存會組織の事を申陳し金千圓を御下賜の御沙汰書を賜ふ。

kansen1.jpg_1.jpg 大正三年保存會の趣旨に基き、木下順庵の墳墓を、府下荏原郡池上村より移葬せり。

 同四年五月、維持資金二千圓を添へ、之を東京市に寄附し以て、永久維持保存せらるゝに至れり。大正五月十二月二十四日保存會に於て祭典を修し、報告を為す。大正十年三月一日史蹟名勝天然記念物保存法に依り、史蹟として指定せられ、次で同十一月、内務大臣より本市に其管理者に指定せらる。

 同年春、市に於て参拝道路を新設し、植込みをなし庭園風とせしも、墳墓は總て奮位置に存し、只其區劃と風致とは大いに面目を改むるに至れり。

 なお、国会図書館デジタルコレクションで大正5年刊『岡田寒泉伝』(重田定一著)を見ると、当時の「小石川地籍絵図」が掲載。そこから推察すれば、当初は儒者各々が同地域に墓地を購ったらしく「岡田氏墓56坪+山林70坪=計126坪」の記入。その先が山林で、その奥に室氏墓、柴野墓などが認められる。上記沿革以前の状態が記録されていた。長くなったので、ここで区切る。(続く)

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儒者の墓(3)大塚先儒墓所とは [朱子学・儒教系]

ohtukaryakuzu_1.jpg 江戸時代は「檀家制度」で寺に埋葬が規則ゆえ、儒教者らは「林氏墓所」のように拝領地片隅に埋葬。明暦2年(1656)、林羅山は別邸・上野忍ヶ岡で夫人の儒葬を行った。その14年後、寛文10年(1670)に林羅山の門人・人見道生(水戸藩初代儒者)が自身の邸内(現・大塚5丁目)で儒葬された。これを機に同地は林氏外の錚々たる儒者らの墓所「大塚先儒墓所」になった。

 同墓所沿革については後述するが、儒葬は神道や仏教のような葬儀を行わずに遺体埋葬が主で、近辺の人々は同地を「儒者捨場」と言ったそうな。荒廃した同墓所が明治後期の保存運動で整備され、大正10年に史蹟指定。(隣接の天皇皇后を除く皇室専用墓所=豊島岡御陵は明治6年から)

ohtukaenkaku_1.jpg 永井荷風が「大塚先儒墓所」を訪ねて「日乗」に記したのは昭和12年3月26日。「晴れて風甚寒し。午後大塚坂下町〝先儒捨場〟を見る。往年荒涼たりしさま今はなくなりて、日比谷公園の如くに改修せられたり。路傍に鐵の門を立て石の柱に先儒墓所と刻したり。境内に桜を植えたるなど殊に不愉快なり」。(川村三郎『荷風と東京』では〝儒者捨場〟掃苔を見落としている)

 荷風さん、日頃から江戸風情が次々に西洋化される様へ苦言を呈しており、同墓所も整備改修されて日比谷公園のようになるのを危惧したのだろうが、実際は逆で今も人知れずひっそりと在る。または「寛政の改革」で弾圧された戯作者らが好きだった荷風さんのこと、松平定信配下の儒者らが嫌いだったとも考えられる。

 小生、フリーランサーになった20代半ばから同墓所至近の大塚3丁目交差点際の写植屋さん(活字とDTPの間)を懇意にして何年も通っていたが、迂闊にもその〝坂下〟に「大塚先儒墓所」があるとは気付かなかった。

 同墓所を訪ねるネット記事を拝見すると「墓石の後ろにミニストーンサークルのような丸い石が~」などと記す例もあるが、とんでもない。それは墳墓(土饅頭)を囲む石ではなかろうか?

 さて、同墓所を訪ねたくも天候芳しくなく、その前に有栖川公園の都中央図書館(地元・文京区図書館に蔵書なし)で『史蹟大塚先儒墓所沿革』(東京市役所発行)と『大塚先儒墓所保存会報告書』(共に東京市が管理者に指定された大正11年頃の発行)を閲覧することにした。

 そこで小生、思わず膝を打った。『保存会報告書』の墓所略図にはちゃんと墓石後ろに各墳墓が描かれ(クリック拡大で確認を)、さらに口絵写真にも芝で覆われた墳墓がしっかりと写っていたじゃないか。我が推測通りなり。写真は「報告書」の墓所略図と「沿革」チラシの表紙。(続く)

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儒者の墓(2)林氏墓地へ [朱子学・儒教系]

hayasisibosyo_1.jpg 「林氏墓地」場所は市ヶ谷山伏町。大江戸線「牛込柳町」駅近く。幾度が鉄柵門から覗いたが初めて入った。新宿歴史博物館ボランティアガイドが丁寧に説明して下さり、資料チラシ、さらにボランティア氏メモも写真コピー、資料『国史跡林氏墓地調査報告書』が図書館にあることも教えて下さった。それらから簡単にまとめてみた。

 林羅山は徳川家康に仕え、寛永7年(1630)に拝領した上野忍ヶ岡の別邸で家塾を設けた。明暦2年(1656)に羅山夫人没で別邸内に埋葬。その際に羅山は中国資料(詳細不明)で調べ、それに倣った儒葬を行った。その詳細を二世・鷲峰(長兄・次兄は夭逝)が『泣血餘滴』に記録していた。以下、そのポイントを要約する。

jyusou1_1.jpg まず壙(あな)を穿ち、穴の周囲を板で囲って、檜板の棺で埋葬(穴や棺の寸法などは省略)。その上に土を盛って墳墓とする。高さ約76㎝で形は「臥斧、馬鬣封の如し」。斧のような、馬のたてがみのような形で、崩れないように芝を植える。その前に高さ約48㎝の台石の上に、45㎝四方・高さ約76㎝の石碑(頭は四角錘)を立てる。(林氏墓地は、さらに石で墓城を囲んでいて、この形式も詳細記述)

 「林氏墓所」内の8代述斎~11代復斎の4基が、ほぼ上記の「儒葬形式」で写真の通り現存。だが4基共に石碑後の墳墓がなく、木が育っている。これは永い年月・風雨に墳墓が崩れた後に木が植えられた(育った)のだろう。

 では姿なしの墳墓「臥斧、馬鬣封のごとし」とは。これは羅山夫人葬にならったという水戸光圀公の墓(常陸太田市瑞龍山)のネット写真を見ると概ねの形がわかる。天下の光圀公ゆえ台座・墓碑も豪華誂えで、強固に拵えられた墳墓だが、そこから形が伺える。儒教の影響を受けた大名級の墓に、このような形が多い(カット参照)。林氏墓所の墳墓も当初はこんな形の土墳で、芝で覆われていたように推測される。

mitukunihaka_1.jpg 同墓所の変遷についても簡単に記す。羅山夫人が儒葬された上野忍ヶ岡の別邸は元禄11年(1698)の大火に遭い、その後に牛込の地(現・新宿区市ヶ谷山伏町)に2090坪の屋敷地を拝領。同屋敷北西端に羅山夫人、羅山、2世鷲峰らの墓をここへ改葬(墓石のみ)。同墓所は明治以降、徐々に縮小。最後は約20㎡の狭隘な敷地に約80基の墓碑・墓標等が林立。儒式原型をとどめるは前述4基。雑草樹木が繁茂の荒廃で、昭和6年に東京市が修築して永久保存。その後は新宿区が文化遺産保護で墓地を公有化。

 「林氏墓地」を訪ねたら、都内のもう一つの儒者墓地「大塚先儒墓所」(当時の通称〝儒者捨場〟)も訪ねてみないといけない。そちらは昭和12年に永井荷風も訪ねていた。(続く)

 追記:小島毅著『儒教が支えた明治維新』(晶文社)にこんな記述があった。~地方の大名の中には、より積極的に朱子学を受け入れ、仏教に代わる教学として位置づけようとする動きもあった。~として野中兼山、保科正之、池田光政、徳川光圀、前田綱紀らが神儒一致を唱えて朱子学式の葬送儀礼の実施を企てた、と記されていた。それぞれの墓をネットで見れば、彼らの墓所は多少の違いはあれ儒式だった。また、野中兼山は母の葬儀と墓制を朱熹の『家礼』に遵って実施した、と記されていたゆえ、林氏の儒式も『家礼』に遵ったように推測される。

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儒者の墓(1)掃苔を振り返って [朱子学・儒教系]

hakuseiitimon_1.jpg 小生の儒者掃苔を振り返る。

 まずは永井荷風の外叔父・鷲津毅堂(元尾張藩儒者)の天王寺墓地(谷中墓地隣接)を掃苔。円墳上に長い角柱が聳えていた。どう解釈しても儒式ではなく神式だった。同じ谷中墓地の徳川慶喜の神式の墓に似ていた。鷲津は儒者と云うより漢学者のイメージ。

 貝原益軒『養生訓』筆写にあたって益軒をお勉強した。仏教を捨てた益軒の墓は、福岡・金龍寺にあってネットで写真を見れば〝ほぼ仏式〟の墓だった。

 次に「千駄ヶ谷シリーズ」新宿御苑・千駄ヶ谷門辺りの屋敷で亡くなった儒者・新井白石調べで、中野区上高田の高徳寺の墓地を掃苔。低い四角柱の墓石で「新井源公之墓」(写真上が一族の墓。下が白石夫妻の墓)。浅草の寺から相当に圧縮改葬されたのだろう、儒葬の面影は全くなかった。

hakusekihako_1.jpg かくして儒者の墓が神式、仏式、低い四角柱などで小生には「儒者の墓(儒葬)」が全くわからなく成り申した。

 手元に岩波書店『日本思想大系/貝原益軒・室鳩巣』がある。同書によると貝原益軒も室鳩巣も新井白石も木下順庵の門下(木門)で、林羅山一族の昌平黌に対する陣を張った存在だったと説明されていた。

 貝原益軒は若い時分に江戸へ出た際に、林家二世・鷲峰を訪ねで儒学の道を進み、後の京都勉学中は木下順庵が幕府招聘されるまで相往来する仲だった。室鳩巣は20年余も順庵の指導を受けた。新井白石は順庵が幕府招聘されてからの門人で、後に林家三世の大学頭・林凰岡と職務を二分(張り合った)した存在。

 そして木下順庵、室鳩巣ら江戸の錚々たる儒者らは〝儒者捨場〟と呼ばれた「大塚先儒墓所」で眠っているらしい。同墓所は明治維新で昌平坂学問所が廃止された後に荒廃し、大正3年に整備されて都史跡へ。現在も湯島聖堂棋文会主催で年1度の「先儒祭」が行われているとか。

 一方、幾度か扉から覗いたことがある市ヶ谷山伏町「林氏墓所」は、狭い敷地に墓碑・墓標が林立。林氏墓所ならば昌平黌(昌平坂学問所、現・湯島聖堂)に最も縁が深いと思われるも、ここは新宿区の管理で湯島聖堂とは関係ないらしい。

 かく「儒者の墓」が分からず仕舞いだった小生だが、ここで一気にそれら疑問を解く機会が巡ってきた。新宿歴史博物館主催で「儒学者林羅山とその一族の墓81基」の年1度の特別公開で、林家の墓81基のなか8代述斎~11代復斎の4基が「儒葬形式」を留めた貴重な文化遺産とあった。さっそく訪ねてみることにした。(続く)

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