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白蓮の終焉の家春うらら(白蓮3) [新宿発ポタリング]

miyazakirei_1.jpg 品川ポタリングで白蓮が乳母に育てられた立会川辺りを巡り、今度はご近所、目白通りから池袋方向に入って、白蓮終焉の宮崎邸に走ってみた

 大久保の映画撮影所併設の広大な梅屋庄吉邸は当時の面影を残していないが、梅屋が資金援助をしていたという宮崎滔天(とうてん)邸は閑静な住宅地に今も残っていた。隣にマンションと別棟を並築で現存。白蓮は大騒動から柳原家に蟄居の身になって竜介の子を産み、大正12年に晴れて宮崎家の人になった。この閑静な屋敷から、その後の白蓮の落ち着いた生活が伺えた。

 白蓮と竜介が初めて逢ったのは大正8年。白蓮が書いた詩劇「指鬘外道(しまんげどう)」が雑誌「解放」に掲載され、上演希望が殺到して単行本化へ。それにあたって「解放」の責任編集だった竜介が「序文」を求めて福岡に白蓮を訪ねた。この詩劇は間もなく邦枝完二の演出で上演されて、白蓮も上京した。この頃から二人の逢瀬が始まって700通もの恋文が交わされたとか。

 この時、邦枝完二は大久保・百人町に移住の3年前で、帝国劇場文芸部に入った年。邦枝演出は間違いなかろう。宮崎竜介と白蓮のその後の人生は省略するが、白蓮は昭和42年・81歳で、竜介はその4年後に78歳で亡くなるまで、この宮崎邸で暮らしていた。

 永畑道子「恋の華」の藤原書店版の解説(尾形明子)に興味深い一文があった。尾形は日本橋高島屋で開催「柳原白蓮展」の展示資料を見るために平成20年に宮崎邸に向かいつつ、かつて三人の女性が同じように歩いていた姿を想う。一人は大正12年の白蓮。一人は翌13年に足早に歩いていた森光子。最後の一人は昭和56年に白蓮の取材で宮崎邸を訪ねた永畑道子。この森光子はあの女優ではなく、吉原の花魁・春駒。苦界・吉原を脱出して宮崎邸に逃げ込んだ。竜介は弁護士、白蓮は婦人運動に尽力で、苦界の女性たちの駆け込み寺にもなっていたらしい。森光子「春駒日記~吉原花魁の日々」が朝日文庫から出版されているので、これも読んでみたい。

 さて、あたしは宮崎邸から目白通りに戻って、椿山荘近くの佐藤春夫旧居跡にペタルを向けた。


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