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佐藤に影響を与えた西村伊作(佐藤邸5) [佐藤春夫関連]

isakuden_1.jpg 目白台の奇妙な佐藤春夫邸を語るには、彼が育った明治末から大正初期の和歌山県新宮まで遡る必要がありそう。いったい、そこで何があったのだろう。川本三郎「大正幻影」を置いて、今度は加藤百合「大正の夢の設計家~西村伊作と文化学院」(1990年刊)と、黒川創「きれいな風貌~西村伊作伝」を持って、いざ、紀州・新宮へ。

 東京8:10発「のぞみ15号」に乗って、名古屋9:51着。ここから「特急ワイドビュー南紀3号」で13:25に新宮駅に着。紀伊半島は「熊野」と「紀伊勝浦」の間。大正2年に勝浦からの鉄道が敷かれるまでは「陸の孤島」。だが熊野川河口で紀州木材の集散地ゆえ海運が発達。海から「ハイカラ」が入って、アメリカ移民も多かった。駅を降りて新宮城跡方向に歩いてすぐ右側に、大正4年築の「スイスのシャレ―風洋館」が見える。ここが西村伊作記念館。

 今も斬新さを失わない伊作邸を見学しつつ、兩著より、まずは伊作の父・余平の人生から探ってみよう。彼は大石家の長男で、末弟が大石誠之助。余平がに新宮に教会を建てたのが明治17年。余平夫妻の三人の息子が「伊作・真子・七分」。子らは端から洋服で西洋風(宗教的)に育てられた。余平は、その熱心な信心ゆえ、全財産を喜捨しかねないと親族に見放され、一家は名古屋へ移住。明治24年の濃尾大震災でチャペルの煉瓦煙突が崩落して夫妻共に死亡。 

 遺された子らの波乱が始まった。7歳の伊作は母方の下北山の山林王・西山家を継ぐべく祖母のもとで山村暮し。明治28年、余平の弟・大石誠之助がアメリカ暮しから5年振りに帰国して医者になった。28歳の彼が伊作が呼び寄せた。彼はカレーライスなど旨い料理が出来ると屋根に旗を揚げた。これを見て、佐藤春夫の父・豊太郎が大石家の食卓を加わった。春夫の父は、誠之助より5歳年長で、明治19年から医者をしていたが、医院経営が安定すると北海道・十勝に百町歩の土地を借りて農場経営を企てて開拓に着手。北海道と新宮を行き来する生活だったとか。

 当時の新宮には中学がなく、伊作は広島の叔母に預けられた。中学の5年間、誠之助もしばしインド・インドネシアへ。伊作が中学を卒業して戻ってくる頃には、誠之助は再び新宮で医院を再開。堺利彦らの社会主義啓蒙の「家庭雑誌」に洋食に関する原稿を書き始めていた。明治37年、日露戦争開始の年、誠之助と20歳になった伊作、沖野牧師で「太平洋食堂」を開業。写真で見ると西部劇に出てくるしゃれた建物風の洋食レストラン。伊作が英文字で「パシフィック・リフレッシュメント・ルーム」と書いた。社会主義とキリスト教の啓蒙誌などを閲覧するコーナーもあり。佐藤春夫は、このレストランを「一種清新な気」と感じ入った。だが同レストランは誠之助の厳しいテーブルマナーなどで、一般町民になじまず2年を経ずに閉鎖。ちなみに東京で洋食レストランが身近になるのは大正時代で、西村伊作らの「太平洋食堂」はいかにも早過ぎた。

 明治38年、伊作に召集令状が来て日本脱出。シンガポールに約半年滞在。写真の「きれいな風貌」表紙写真はシンガポールで撮られた21歳の伊作。(続く)


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