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瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」(その5) [読書・言葉備忘録]

 甘粕憲兵大尉は懲役10年の判決だったが、なぜか大正15年、2年10ヶ月で出所。甘粕は妻を伴ってフランス(留学)へ旅立った。費用は陸軍から受け取った。やはり「裏」があったとしか考えられぬ。彼は昭和5年に帰国後、満州へ渡って関東軍を背景に特務工作などで暗躍し、影の支配者的存在になる。最期の肩書は「満州映画協会理事長」。昭和20年にロシアが攻め込んで来る直前に青酸カリで自殺。辞世句は「大ばくち身ぐるみ脱いですってんてん」。その「大ばくち」が「甘粕事件」から満州事変~関東軍暴走~満州国設立なら、それによって命を落とした人々の数知れず。

 話を「甘粕事件」に戻そう。大杉栄・伊藤野枝・橘宗一君の虐殺から53年後、甘粕自決から31年後の昭和51年8月26日「朝日新聞」に、当時の「死因鑑定書」が発見された報が載った。これは事件の解剖命令が鷹津軍医正に下ったそうだが、鷹津少尉は病理学専攻で実際は田中軍医正が担当。「死亡鑑定書」の一部を鷹津軍医正の名を記して提出し、もう一通を田中軍医正夫人に預けたことで、これが世に出てきたもの。大杉栄著「自叙伝/日本脱出記」(岩波文庫)1982年の第10刷が手許にあるが、解説に「死因鑑定書」のことが追記されていた。

 同鑑定書によると大杉・野枝共に胸骨完全骨折なる「頗ル強ナル外力(蹴ル、踏ミツケル等」を加えられたのち「前頸部ヲ鈍体ヲ以テ絞圧」されたことが判明。これで当時の供述も公判もすべてが偽りだったことが分かった。偽りと分かったが、詳細は不明・・・。大杉栄38歳、伊藤野枝28歳、橘宗一6歳のお墓は静岡県・沓谷霊園に。もうひとつ宗一君のお墓は名古屋にあって、今も墓前で彼らを偲ぶ会が持たれているとか。

 瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」は大杉・野枝の人生を軸に、同時代の多くの人々の人生を絡み描いて、大正のもうひとつの顔を描いていた。大正わずか15年。大正デモクラシー、大正ロマン(浪漫)、大正モダン・・・。これらは民主主義、自由主義、個人の解放、女性の自立や主張、都市化、技術革新、メディア発達など新しい時代を象徴した言葉だろうが、その裏に帝国日本、軍国主義偏向の経緯があって、至るところで不条理、歪みがあったということだろう。考えるまでもなく団塊世代あたりの両親は、明治末から大正生まれ・育ち。大正の底は限りなく深く、読書はこの時代を描いたものが断然おもしろい。(おわり)

 ★瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」を読んだ後に、図書館で当時(明治中期~大正)の新聞縮刷版をひもとく面白さも知った。伊豆大島に大正13年発行「島の新聞」があった、ひょんなことからお借りすることが出来て、コピー・製本でタブロイド版で分厚い5冊を所蔵している。これをひもとく楽しさは格別だ。図書館には各紙縮刷版が揃っていよう。で、うれしいことに新宿中央図書館が、なんだか来年か再来年に我が家近所の廃校跡にメディア云々のハイカラな名称になって移転してくるらしいのだ。あたしの老後の姿が見えてくるね。婆さんの「今日も図書館かえ。美味しいコーヒーをポットに入れておきましたから持って行きなさいよ」。なぁ~んて声に送り出されて図書館入りびたり。


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瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」(その4) [読書・言葉備忘録]

ohsugiiji_1.jpg 「甘粕事件」は大杉夫妻が行方不明になった2日後、大正12年9月18日「報知新聞」に「大杉夫妻と長女を麹町分隊に留置」とスクープされた。そして5日後の「朝日新聞」に、大杉外2名の虐殺が伏せられたまま、陸軍当局談で「憲兵司令官懲戒」の見出しで、東京憲兵隊分隊長甘粕正彦が9月16日職務執行の際、違法の行為を敢てしたるに依り(実際に何をしたかは伏せられたまま)、部下監督不行届きの責任上、憲兵司令官陸軍少尉・小泉六一、歩兵第一旅団陸軍少尉・柴山重一、東京憲兵隊憲兵大佐・小山介蔵、憲兵大佐・三宅篤夫などの更迭が発表。

 9月25日になって、昨日ブログアップした「甘粕憲兵大尉 大杉栄氏を殺す その他某々2名も共に」の記事。しかし事件詳細は未発表で、大杉栄と甘粕憲兵少尉、小泉少将のプロフィール紹介のみ。「軍法会議は公開するか否か」とあった。写真は大杉栄がパリから帰国して東京駅に着いた時の親子3人シュット。

amakasikouhan_1.jpg 翌9月26日「朝日新聞」には大杉・野枝の遺された4人の子供らの写真が掲載。瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」には、柏木自宅の遺骨の前で、両親が虐殺されたことが理解出来ずにはしゃぐ子らの姿が哀しく描かれていた。

 10月8日、青山第一師団司令部内軍法会議室で第一回公判。傍聴者の大混雑を見込んで一個中隊で取り締まると発表。9日は「悪びれもせず甘粕大尉出廷」の見出し。予備調書で、夫妻が甥・宗一君を連れて自宅近くに戻ってきた所で彼らを連行。淀橋署から憲兵分隊に運んで、甘粕が一人ずつ柔道の手で首を絞め、死体を菰に包んで古井戸に投げ込んだとの供述が発表。そして塚崎弁護士の「子供を殺すとは帝国軍人の恥である」などの熱烈な説諭で「子供を殺したのは私ではありません」と甘粕。決着かと思われた軍法会議は、予想を覆らせて次回公判に持ち越された。写真は公判中の甘粕憲兵大尉。

 数日後、上部から説得されたかで鴨志田、本多上等兵が「私が橘宗一を殺しました」と自首。いずれにせよこの事件の供述も公判も、瀬戸内寂聴が感じた通り釈然としない内容のまま、甘粕正彦が懲役10年、森曹長3年の判決。上層部の更迭は、単なる人事異動程度で終わった。(続く)


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瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」(その3) [読書・言葉備忘録]

sannsaikiji5.jpg 焦熱地獄となった関東大震災。不穏な朝鮮人の動き、その背後に社会主義者や無政府主義者らがいる・・・の「ダブル流言」。

 ちなみに荷風さんも大久保の母を訪ねるが、不審者と思われて戸を開けてもらえぬ。戸を叩くこと数時間。見かねた隣人が窓から覗いて「怪しい風体じゃない」と忠告。これでやっと門を開けてもらっている。同家から母方の下谷・鷲津家の安否確認に弟の妻と出かけることになるが、そこで自警団に「怪しい奴」と囲まれる。弟の妻の必死の説明で難を逃れると、今度は疲労困憊で歩けない。弟の妻に背負われてやっと帰還。荷風さん、自分の情けない姿は「断腸亭日乗」には書かぬが、真相はどこかから漏れる・・・。

 そんな荷風さんに私淑する邦枝完二は、震災当時は大久保・百人町在住。茶棚の物が落ちた程度で被害なし。同じく大久保で撮影所付き邸宅を持つ梅屋庄吉は、千葉の別荘で避暑中だったが、若者7名にコメを背負わせて上京。「亀戸」から徒歩で大久保に戻っている。邸宅の被害は僅少。大久保の地盤は強固らしい。

 これは後日に報じられるのだが、実は「亀戸」でとんでもない事件が起きていた。10月11日「朝日新聞」(写真上)に「復も社会主義者九名、軍隊の手で刺殺さる」の記事。亀戸署では近衛騎兵隊第十三連隊に応援を求め、震災当日から三日までの間に検束者一千三百余名で、銃剣を以って九名を刺殺。死体は石油を注いで直ちに焼却とあった。

amakasu1_1.jpg そんな物騒ななか、大杉夫妻は9月16日に産まれたばかりのネストル(初の男児)、ルイズ(1歳)、エマ(2歳)、魔子(6歳)を近所に預けて、鶴見の弟の安否と、弟が預かっている妹・あやめ(米国在住も病気療養で帰国中)の子・橘宗一(6歳)を引き取りに出かけた。その後姿を隣の内田魯庵夫人と魔子が見ていて、魔子が「あれはパパとママよ」と得意げに言ったとか。

 それが魔子が見た両親最期の姿だった。大杉夫妻は、出かけたまま行方不明。9日目に震撼の報が新聞(写真左)に載った。(続く)


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瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」(その2) [読書・言葉備忘録]

tune5_1.jpg  写真は中村彜(つね)「エロシェンコ氏の像」(集英社刊「現代日本美術全集」より)。大正8年、神近市子出所を出迎える車が、新宿・中村屋に寄ってエロシェンコ氏を乗せた。中村彜がこの絵を描いたのは、神近出所の翌年。エロシェンコ氏は大正10年に危険思想ゆえ国外追放されている。ちなみに中村彜は中村屋・相馬黒光の長女・俊子の半裸像を多数描くなど恋仲だったが、結婚を相馬夫妻に反対された。俊子はボースと結婚し、中村は傷心の伊豆大島暮らし。帰京の大正5年に目白(下落合)にアトリエを新築。大正13年クリスマスイブに永眠。37歳だった。

 話を「諧調は偽りなり」に戻そう。神近市子の入獄期に大杉・野枝を監視していたトップは警視庁刑事課長・正力松太郎。彼は後に権力欲から安全性より性急に原発を促進した初代原子力委員長で、読売新聞を使って世論操作などもしていた。(有馬哲夫著「原発・正力・CIA」より)。

 また脱線したが、瀬戸内の小説も大杉・野枝を軸に同時代の人々を次々に織り込みつつ進行・・・が特徴。神近市子の入獄中の、島村抱月のスペイン風邪による急逝と、松井須磨子の後追い心中も描いている。出獄した神近市子は、4歳下の鈴木厚と結婚。落着いた生活を求めるがままならぬ。大正10年「大杉栄は実際の労働を知らないじゃないか」と反発した反大杉派は「労働者」を旗揚げ。神近の新居に居座って編集部にした。

 大正11年、大久保・百人町の荒畑寒村宅で日本共産党の結成準備委員会がもたれた。この時期に、寒村ら社会主義者の多くがロシアに渡っているが、大杉栄もまたベルリンの国際アナーキスト大会から招待状を受け取って同年12月に上海へ。中国人留学生名義の旅券でヨーロッパへ。パリのメーデーで演説して、パリの優雅な監獄暮らし約一ヶ月。

 先日の神田ポタリングの際に、古本街で名著「寒村自伝」と、大杉栄「自叙伝・日本脱出記」(共に岩波文庫)を入手した。彼らの渡欧詳細は、後日の読書に委ねる。

 一方、瀬戸内寂聴は隠遁者のようにひっそりと比叡山で暮す野枝の元夫・辻潤の日々も詳細に描いている。大正12年7月、大杉栄の帰国を報じる「朝日新聞」に、有島武郎と「婦人公論」記者・波多野秋子の心中死体発見の報の載っていた。有島は豊かな遺産を継いでい、大杉のパリ行きの千円をはじめ、多くの運動家らが彼にカンパをせびっている。同年8月、大杉・野枝は内田魯庵の隣の新宿・柏木の借家に転居。そして9月1日、関東大震災。(続く)


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瀬戸内寂聴「諧調は偽りなり」(その1) [読書・言葉備忘録]

ohsugihikage.jpg 瀬戸内寂聴は、甘粕憲兵大尉の供述・公判に疑問を感じて「美は乱調にあり」を、神近市子の大杉栄刺傷「日陰の茶屋事件」で筆を止めた。そして16年を経て、昭和56年に再度挑戦で「諧調は偽りなり」に取り組んだ。

 冒頭は自作「京まんだら」の大阪舞台公演の記者会見場から。物語の舞台となった祇園・お茶屋「みの家」で行われ、モデルになった女将も登場。彼女が女中をしていた17歳の時、甘粕が満州から帰国した際の酒席のお気に入りで、恋文まがいの手紙をもらったと告白。女将役の小暮実千代も、満州最後の「満映」関係夫人のパーティで、宝石箱より取り出した青酸カリの袋を一人ずつ彼からもらったことを、また「あの方が自決なさったのは、その次の日でした」と述懐させている。

 ここから改めて16年前に書いた「美は乱調にあり」を要約し、「日陰の茶屋事件」当日から物語を再開する。同事件の人々の驚きとうろたえから、神近市子の八王子女監収監、その後の大杉・野枝の極貧生活を一気に描いて行く。★読むばかりではなく、自分でも調べてみようと事件当時の「朝日新聞」(縮刷版)をひもといた。大正5年11月10日(事件翌日)の紙面に事件詳細が報じられていた。瀬戸内とはまた別の記述で、事件が立体的に浮かび上がってきた。(クリック~拡大で読めましょうか。写真下は11日の報)

 大正8年、神近市子が2年の刑を終え、出迎えた三人のなかに、中村屋から盲目のエロシェンコ氏が来ていたのには驚いた。中村彝(つね)「エロシェンコ氏の像」でお馴染みだが、神近市子や秋田雨雀らも中村屋(相馬夫妻の)サロンの常連で、彼は神近市子に好意を寄せていたとか。★目白の中村彝アトリエは、新宿区で保存が決定。目下は工事壁で囲まれている(続く)。


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新宿から金環日蝕

kinkan5_1.jpg 金環日蝕、観ました? 

 自宅ベランダから東の空。左手でフィルターをカメラの前にかざし、右手で標準レンズのカメラ。片手の手持ちシャッター。

 いいかげんな撮り方で、手振れで金環が太くなった。まぁ、観たという証拠。ISO200、Sec0.5 F5.6。

 雲が被った瞬間に、危険を顧みず(馬鹿だねぇ。眼、大丈夫かしら)フィルターなしで望遠レンズを向けてしまったのが下の写真。雲被りで金環ではなく、銀環になった。ISO100、F5.6、これまた手持ちゆえシャッターを早くしてSec1/2000。

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瀬戸内寂聴「美は乱調にあり」 [読書・言葉備忘録]

biwa1_1.jpg 瀬戸内寂聴の48歳作「遠い声」は、「大逆事件」刑死の唯一の女性・管野スガに成り切って、ズシツと重い作品だった。それより5、6年前、40歳になったばかりの瀬戸内が取り組んだのが、同じ流れ(社会主義、無政府主義)の憲兵・甘粕による「大杉栄・伊藤野枝・6歳の甥の橘宗一虐殺事件」の、野枝を主人公の「美は乱調にあり」だった。

 憲兵・甘粕による「虐殺事件」に迫るかと読み進めたが、同作は大杉栄の三股、四角関係による「日陰茶屋事件」で終わってしまった。大正時代の女性運動家らの愛欲相姦物語の感に止まった。力不足だったか。最後まで書き切れなかったことを、著者は「瀬戸内寂聴全集・拾弐」の自身解説で、こう記していた。

 「甘粕の供述は、何か奥歯に物の挟まったような感じがつきまとい、真実味がないように感じられた。出来るだけ資料をあさり尽くしたが、私はどうしても漠然とした疑惑から解放されなかった」

 同作はまず伊藤野枝が明治44年、大逆事件・処刑の二ヶ月後に、上野高等女学校に入学して教師・辻潤と出逢うところから始まる。野枝は五年生の夏休みに、親の言う通りに結婚。式だけ挙げて夫を寄せ付けぬまま再上京。野生的な魅力を発する野枝17歳、知的で控えめなダダイスト辻潤28歳は師弟愛で結ばれる。野枝は「新しい女」で脚光を浴びる『青踏』に投稿。平塚らいてう(明子)は、ちょっとふっくらした知的な美貌もあって、若い女性らに同性愛的憧れの的。野枝は才が認められて編集委員になり、神近市子がモーパッサンの翻訳で投稿してくる。

 そのなか、平塚らいてうは若い燕(美少年の画学生・奥村博史)に夢中になって愛の巣に籠る。『青踏』は人気凋落。同誌を一人で編集する野枝にアナキスト・大杉栄が接近。大杉には姉さん女房の堀保子(堺利彦の妻の妹)がいるが、無政府主義ならではのフリイラブを説く。野枝が第二子出産で辻と実家に帰省中、大杉は神近市子と情交。やがて野枝も辻の許を去って大杉に走る。四角関係、大杉の三股。フリイラブは相互自立が前提も、結局は婦人記者、翻訳でまともに働いている神近市子が三人の金銭面倒をみる。大杉と野枝が、西村伊作の弟で佐藤春夫邸設計の大石七分の世話で「本郷菊富士ホテル」へ。ここから執筆に向かった葉山「日陰茶屋」の大杉の首に、神近市子の短刀が落ちた。

 同作をここで終えて、大きな宿題になった。それから16年、出家から8年後の昭和56年、瀬戸内寂聴59~60歳にかけて再び同テーマ「諧調は偽りなり」に取り組む。彼らを虐殺した憲兵甘粕を、大正時代を、女性らの闘いをどう捉えるか・・・。(続く)


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下町や業平タワーに惹かれこぎ [新宿発ポタリング]

tree1_1.jpg きのうの続き。・・・夏場所で賑わう両国・国技館の向こうに東京スカイツリーが聳えていた。惹き寄せられるように、ツリーに向かって自転車をこいだ。

 2年前の春、かかぁと濹堤お花見に行った際に「行ってみようじゃないか」とスカイツリーを目指して歩いたことがる。まだ第一展望台が出来る前で、業平辺りは工事現場の様相。2年振りに訪れた「業平」はかくのごとく変貌していた。「業平橋」駅も「とうきょうスカイツリー」駅になった。表題句は季語なしも「業平忌」(5月28日)が夏の季語で、「業平」を強引に季とした。さて、未だ「東京タワー」にも登っていないあたしに、スカイツリーに登るチャンスがありましょうか。

 両国橋を渡った隅田川の散歩道・壁面に、昭和29年の言問橋上空から上流に向かって撮った「隅田川ボートレース」の絵葉書(写真下)があった。左側が吉原に抜ける今戸川か。焦土から立ち上がったばかりの下町で、高いビルはない。

sumidagawa1_1.jpg 昭和29年は、日本中が力道山VSシャープ兄弟のプロレスに湧いていた。あたしは近所の板橋と北区の境界の改正道路際の街頭テレビか、ソバ屋のテレビで入場料換わりのヴャリースオレンヂを握りしめて観ていた。東京タワー竣工はまだ4年も後。ポタリングも遠くまで行くと帰りが辛い。振り返るも永い人生を振り返りつつ家路のペタルをこぎ続けた。


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川向ふ鬢付け含む初夏の風 [新宿発ポタリング]

natubasyo1_1.jpg 昨日の晴天に誘われて自転車を駆った。神田で古本漁りと思っていたが、身体がまだ走りたがっていたのでペタルを踏み続けた。テレビでよく観る「ガッツおじさん」の「たいこ茶屋・おさかな本舗」があった。寄ろうと思ったが「食べ放題千円」の「食べ放題」が好きじゃないからスルーして大川を越えた。

 初夏の陽に、ツンッと鼻を突く香り。お相撲さんらが彼方此方で歩いていて鬢付け油の匂い。そう、両国は夏場所なり。国技館前では「入り」の相撲取りに「いよ、頑張れ」などの掛け声と拍手。遅い午後には幕内力士らの「入り」でもっと賑わうのだろう。

 写真下は隅田川沿い散歩道の壁画(印刷)で、昔の国技館「大鉄傘」。明治43年印刷の「東京名所之内 両国大相撲国技館之図」とあった。チンチン電車、自動車、馬車、人力車、自転車が走っていた。明治43年と云えば「大逆事件」で全国の社会主義者や無政府主義者ら数百人が一斉検挙され、翌年に12名が処刑、12名が無期懲役になった年。明治42年には新宿大久保に撮影所を設けた梅屋庄吉が板垣退助の要請を受け、この「大鉄傘」で「大西郷一代記」を上映した。

ryougoku1_1.jpg 国技館の向こうに東京スカイツリーが聳えていた。日々、大久保のマンション7Fからスカイツリーを観ているが、近くで仰ぎ見ると迫力がある。吸いつけられるようにペタルをこぎ続けた(続く)


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遠足の親御らの笑み四十路越へ [散歩日和]

ensoku1_1.jpg 先日の新宿御苑ウォークでのこと。時期なのでしょう、苑内の彼方此方で小学1年生らしき遠足の光景で賑わっていた。ウチの子も小学1年生の遠足は新宿御苑だった。で、ちょっと腰を抜かすほど驚いた。

 遠足に付き添う親御さんらと擦れ違えば、なんと云うことでしょう、皆さま、早や中年の容貌です。あたしらが子供だった時分の母親ってぇのは、容姿も貧富もさまざまなれど、誰もが「若くピチピチしたお母さん」だった。それが母のイメージだったが、擦れ違う親御さんらを横目にする度に、そんな概念がグラグラと崩れて行った。

 年増なんてもんじゃなく、皆さんすでに立派な中年。今や晩婚の世。30代半ばで結婚して子を産み、子らが小学1年生になれば、既に40代じゃありませんか。アラフォーなんて言葉が流行っていて、皆さん、それぞれおしゃれにしていますが、すでにピチピチの張りは遠い昔で、人生折り返しに入った容貌です。時代は、日本は、かくも変ったかと考え込んでしまった。

 ちなみに内閣府2011年6月発表の「子ども・子育て白書」データでは、2010年の女性初婚年齢は28.8歳。第一子出産年齢は29.9歳。これは全国データだから都心ではさらに高齢になっていよう。あたしが産まれた時分の母らの初婚平均年齢は23歳ほど。

 追記★平成24年(2012)6月6日の新聞:「厚生労働省は5日、2011年の人口動態総計を公表した」とあった、女性が第1子出産の平均年齢は30.1歳と初めて30歳を越え、晩婚化の傾向が進んだとあった。


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内藤といふ唐辛子苗を植ゑ [花と昆虫]

naitout1_1.jpg きのう、かかぁが四谷まで出かけて「内藤とうがらし」の苗をいただいてきた。話を聞くと徳川家康の家臣・内藤家が新宿に屋敷を構え(今の新宿御苑)、彼らの地元の唐辛子を栽培。これが江戸野菜となって内藤新宿から大久保辺りまでの畑が一面に真っ赤になったとか。かくして「内藤とうがらし」。八房トウガラシといふ品種らしい。夏に白い花が咲き、秋に赤い唐辛子が天を向いて実るそうな。

 かつて伊豆大島の「アオト」を育てたことがある。島暮しの帰りに苗を持ち帰り、ベランダで育てた。やはり三苗で、たわわに実った。これは一つの実の数ミリを刻むだけで、昇天したくなるほどの辛さ。島では必需品(実)で、時期になれば島の野菜即売所で青い実が売り出される。一掴みほどの実を冷凍保存して、小出しに使えば1年はもつ。さて、内藤とうがらしです。かかぁは実がなったら、来年は種から苗作り・・・と張り切っている。

 ちなみに芳賀善次郎著「新宿の散歩道」(昭和48年刊)によると・・・内藤屋敷敷内の畑地では「八房とうがらし」が栽培された。それがもとになって宿場付近で盛んに栽培されるようになり、「内藤とうがらし」と呼ばれて有名になった。さかりのころになると宿場周辺から大久保にかけての畑は真っ赤に色どられて美しかったという。文政、天保ころの川柳につぎのようなものがある。~八房をつけた内藤の駒は出る ~四房の数珠八房をさして行き 狂歌では~下枝は紅葉せしかと見ゆるなり 唐からし干す四谷新宿 


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瀬戸内晴美「遠い声」 [佐藤春夫関連]

kannosuga1_1.jpg 「大逆事件」の大石誠之助をテーマに、少女コミックのようなフィクションを重ねてワルツでも踊っているかのように辻原登は「許されざる者」を書いた。しかも事件が起こる前に大石誠之助を渡米させて小説を終えた。比して瀬戸内晴美「遠い声」は、大石と同じく刑死の管野スガを、獄中の彼女の脂汗、冷汗、体液をも舐めとるように彼女になり切って、絞首刑執行まで寄り添って描いていた。瀬戸内晴美48歳、昭和45年発表作。

 「まだ夜は明けない。重苦しい目覚め。今日もまた生きていた。いつまでか・・・」。書き出しは入獄して8ヶ月。明治44年1月24日。数え年31。最後の日のモノローグ構成。この日、11名が処刑され、管野スガの処刑だけが明日にのびていた。

 5歳の時の母の思い出、容貌コンプレックス。とりとめもない回想。16歳、継母が仕込んだ強姦。17歳で継母の許を離れたくて東京・深川の商家に嫁ぐ。夫と姑が通じていた。飛び出して大阪の宇田川文海(35歳上)と暮らして文章修業。京都で新聞記者になった。取材先の立命館・館長の中川小十郎と関係し、異母兄とも情交。泥沼から逃げ出すように紀州・田辺の「牟婁(むろ)新報」へ就職。主筆・毛利紫庵の入獄中に編集主任となって6歳下・荒畑寒村と同紙を預かる。この地で大石誠之助と出逢う。新宮の遊郭設置問題に切り込んだ寒村を、紀州から身を引かせるべく説得しつつ寒村の若い性を貪る。その後に「六大新報」主筆で僧侶の清滝智竜と深間になるも彼の執着、そして紫庵が「牟婁新聞」に戻ってきたことで、逃げるように京都へ帰る。京に呼んだ寒村とたっぷり情を交わした後に、二人は新宿柏木に所帯を持った。寒村は赤旗事件で千葉監獄へ。その間に幸徳秋水の「自由思想」発行の情熱の惹かれて一緒に暮しだす。同紙罰金が重なって換金刑で入獄。

 ここで「寒村自伝」より管野評一部を紹介。・・・彼女は私に六歳の年長で、色こそ白かったがいわゆる磐台面(ばんだいづら)で鼻は低く、どうひいき目に見ても美人というには遠かったが、それにもかかわらず身辺つねに一種の艶治(えんや)な色気を漂わせていた。後日、久津見蕨村が「管野という女はちっとも美人じゃないのだが、それでいてどこかに男をトロリとさせるような魅力をもっている」といったように、実に不思議な魔力をもっていたらしい。

 換金刑で入獄の1週間後に「大逆事件」が発覚。彼女は予期せず「大逆事件」重要犯になった。事件にかかわったのは宮下太吉、新村忠雄、古川力作、幸徳秋水、管野スガ。子供だましのような計画だったが、これに検察が待っていましたとばかりに飛びついて全国の社会主義や無政府主義者ら数百人を一斉検挙。24名を強引に「第73条」に結び付けて死刑判決。無関係の人々を死刑、無期に巻き込んで、彼女は個人的なめめしい感傷ではなく、事件の真相を書き遺さねばと二冊目になった獄中日記「死出の道艸」を書き始めた。

 その書き出しは「死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上る前まで己を飾らず偽らず自ら欺かず極めて率直に記し置かんとするものなれ」。彼女はここで事件の真相と、同志を救えなかった悔しさと権力への走狗となる検事や判事たちを糾弾。社会主義者や無政府主義者の一斉検挙から24名の死刑判決。12名を処刑した後に、陛下の思召しで12名を無期懲役のシナリオを描いたのは山縣有朋、平沼騏一郎か・・・。ちなみに天皇を現人神(あらひとがみ)とした第七十三条は「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太子孫ニ対シ危害ヲ加へントシタル者ハ死刑ニ処ス」。

 読むのも辛いズシリと重い「遠い声」。実は瀬戸内晴美(寂聴)を読むのは初めてで敬服した。「私も正義感が強いから、これは世のため人のためと思うと命なんか要らないんですね。そういう馬鹿なところがある。管野須賀子も伊藤野枝(大杉栄と共に虐殺された)にしたって非常に単純な女で、しかも情熱があり余っていたんですよ。私はその情熱に感じるものがある。彼女は決して魔女でも妖婦でもなくて、あの時代に一生懸命に生きた結果があの事件につながった立派なひとでした」とどこかで語っていた。瀬戸内晴美は「遠い声」の前に伊藤野枝の生涯を描く長編伝記小説「美は乱調にあり」と「諧調は偽りなり」を書いている。

 写真は代々木(西新宿・甲州街道を西参道へ左折する角)の正春寺の管野スガ慰霊碑。「くろかねの窓にさしいる日の影の移るを守りけふも暮しぬ」(幽月女史獄中作)が刻まれている。裏には「革命の先駆者 管野スガここにねむる」と「大逆事件の真相を明らかにする会」建立と記されていた。誰が手向けたか、赤いスイートピー。


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佐藤春夫のランブラー [新宿発ポタリング]

 志賀直哉が「切支丹坂」を自転車「ランブラー」で下ったのは有名な話だが、なんと佐藤春夫も「ランブラー」に乗っていた。「わんぱく時代」(昭和33年発表)に、こう書かれていた。明治34年、満9歳。和歌山の新宮第一尋常小学校4年で来年から高等小学校へ。

 「僕の父はその二、三年前から、往診に自転車を利用してゐた。(略:橋板にぶつかって故障)。その後、自転車は破損を直したまま、しばらく捨ておいてあったのを、僕は夏休みのたいくつまぎれにひっぱり出した。父の車は<ランブラー>といって車体はエビ茶にぬられてゐた。まだ国産車の広くは出なかったころ、一般には貴重品あつかひされた時代で、町では、めづらしいもの好きな父の一台のほかはなかったと思ふ。もっともほんの二、三年のうちに町でも一般に大流行になった。そのころになっても、父の車は車体こそふるびてしまってゐたが、機械はまだしっかりして、四、五年は僕の愛用にたへるものであった」

 ランブラー(Rambler)はアメリカ製。志賀直哉は明治28年頃、10円あれば一ヶ月暮せた時代に、160円のデイトナという自転車を祖父にせがんで、自転車狂になった。それが痛んで、下取りに出してランブラーを買った。明治35年には、そのランブラーで中村春吉が世界無銭旅行に出発している。

 「はじめは辰吉(車夫)にサドルを持って歩いてもらったが、やがて坂の道でサドルを一押ししてもらふと・・・(略)。足はまだペダルにとどかないが、背のびして無理に踏んでひとりでに乗れるやうになると、坂から広場に出た」

 間もなく佐藤少年は満10歳になって高等小学校に入る。身長も伸び、自転車乗りも上達して小学校の一周約100㍍の運動場を50周もできるようになる。サドルの上で中腰で立ったり、ハンドルの方に背中を向けた逆乗りもできるようになった。高等小学校2年を好成績で終了して中学校へ。遠い中学には時に自転車で行った。

 「父のランブラーはほとんど乗りつぶしてその中古と交換に<ピアス>の総ニッケルといふ最高級の軽快なのを買ってもらつてゐた」。「自転車は小使小屋のわきにおつぽり出しておいたが、それをさへ盗まれる心配のないほど町はまだ純朴であった」。 この<ピアス>もアメリカ製で、明治33年に絹織物などを輸出入する貿易業の石川商会が、横浜本店を新築した時に初めて輸入した自転車。同商会は後に「丸石自転車」になる。

 佐藤春夫が新宮中学を卒業して慶応義塾大学予科文学部に入学したのは明治43年。神田須田町で「大逆事件の逆徒判決の号外」で、新宮で父の医者仲間・大石誠之助の死刑に驚愕する。★参考は佐藤春夫「わんぱく時代」、志賀直哉「自転車」、「自転車文化センター」?のサイト。


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辻原登「許されざる者」の虚構 [佐藤春夫関連]

yurusa2_1.jpg 久々に「小説」を読んだ。辻原登「許されざる者」(毎日新聞社、2009年刊)。数十頁、スカスカで細い線で描かれた少女コミックのよう。こんな調子で、この長編を読むのはイヤだなぁと思ったが、読み進むと物語が動いて一気に読了。読後感はなんだか虚しかった。

 ここに登場するのは「紀州新宮」ではなくて架空の「森宮」で、大石誠之助ではなく虚構の人物「槇隆光」。著者がどこかのマスコミ・インタビューに応えて、こう言っていた。・・・「西村伊作」を「西千春」と「若林勉」の二人に分けて描いたんです」。うひゃ~、小説ってぇのはそういうのがありなんだ。そう思って読めば管野スガも「左巴君江」と「金子スガ」の二人に描き分けられているような気もしないでもない。ゆえに小説家は主人公がアメリカ留学中にジャック・ロンドンと友達になっていて、インドから帰国中の船で中央アジア学術探検隊の大谷光瑞(小説では谷晃之)に逢わせ、淡路島に夢幻の宗教拠点を作ったり・・・。むろん本物の大石誠之助にそんな事実はなく、日露戦争に軍医として戦場にも行ってはいない。大連で森鴎外にも逢っていないし、八甲田山雪中行軍で亡くなった水野忠宣は同家長男で、そのさらに兄が小説で永野忠庸の名で登場したりする。小説ってぇのは、まぁ~「なんでもあり」なんでございますね。読後感の虚しさは、この作り物の虚しさなんだと気が付いた。

 同小説があると知ったのは、先に紹介の熊野新聞社編「大逆事件と大石誠之助~熊野100年の目覚め」で、この小説を機に大石誠之助を新宮市の名誉市民にという運動が動き出したらしい。同書から辻原登の散らばったコメントを強引に一つにまとめてみると、こうなる。

 ・・・僕は、小説家というのは、軽薄でね、何か面白いことがないかといつも探している。最初は西村伊作を書くつもりだった。しかし読めば読むほど伊作は小説の主人公には物足りない。伊作は建築もデザインもできる才人でしたが、本質的に自分が楽しければよいというエピキュリアンだから、叔父さんのほうに鞍替えした。大石誠之助に鞍替えしたが、今度は「大逆事件」が避けられない。「大逆事件」を小説にするのは難しい。加えて大石像は「大逆事件」というフィルターを通した人物像になりがりで、そのフィルターを外して大石誠之助を見ると、大らかで頼まれるとイヤといえない開放的な人物像が出てくる。そこで小説家として、そんな大石を中心に、同時代の人々にはこういう恋もあり、戦争もあり、幸せになる人もあれば・・・と書いた」

 さらにこうまで念をおす。「でも、それはあくまで小説の世界ですよ、という考えです」。芥川賞をはじめ各文学賞受賞の作家らしいが、なんてぇ~か、こういう小説家・小説はあたしにはダメだなぁと思った。


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長谷寺の刹那教へる牡丹哉 [新宿発ポタリング]

botan1_1.jpg 連休は読書三昧だが、飽きたら小一時間ほどのご近所ポタリング。これは下落合の東長谷寺 薬王寺。奈良の長谷寺と同じ舞台作りで、その下の斜面に牡丹が咲き誇っていた。牡丹は鎌倉・長谷寺から拝領の百株が千株に殖えたとか。

 フリルのような大輪・牡丹が美しいのは一瞬のこと。水気を失うと、大輪ゆえに無残な姿を晒すことになる。そんな刹那を教えてくれているようでした。

 昨日は代々木・正春寺の、管野スガの慰霊碑の掃苔?に自転車を走らせた。彼女は「大逆事件」処刑者12名のうち唯一の女性。30歳で命を絶たれた。管野スガについては後日・・・。


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新宮の百年のトゲ今もあり [佐藤春夫関連]

kumanohon_1.jpg 目白台の佐藤春夫邸調べから、和歌山県新宮が妙に身近になってしまった。同市は佐藤春夫の故郷。彼の父・豊太郎は「毒取る=ドクトル大石誠之助」と医者仲間だったし、大石と彼の甥・西村伊作から多大な影響を受けた。明治44年「大逆事件」で12名処刑、12名無期懲役。新宮から6名の犠牲者が出て大石誠之助と成石平四郎が処刑。この時、佐藤春夫19歳。この大石誠之助と西村伊作(のちに文化学院を創設)が実に魅力的な人物なのだ。

 新宮市には西村伊作が大正4年設計・建築の「スイスのシャレー風洋館」が保存され、昭和2年に伊作の弟・七分設計の佐藤春夫邸も移築されている。両邸の北側に熊野川。眼を閉じれば、かつて熊野に清新な気を放った「太平洋食堂」が、町全体が恐懼した大逆事件が・・・と時代それぞれに変化した新宮が見えてくる。

 同書は「大逆事件から100年。熊野に刺さったトゲを抜くべく大石誠之助を名誉市民に」という運動を報じた「熊野新聞」記事をまとめたドキュメント。「はしがき」に、このような記述。「日の出の帝国主義に非戦、自由、平等を唱える幸徳秋水や大石誠之助らは目の上のたんこぶだった。天皇制国家の完成を目指す藩閥政府は弾圧の機会をうかがっていた。大逆事件は日本の民主化の流れを止め、軍国主義への曲がり角になり、熊野の反骨と自由闊達の精神も失われた。大石誠之助が処刑されて100年。彼を名誉市民にすることで、熊野に刺さった最大のトゲを抜こうという運動を報告する。

 詳しくは掛けぬが、昭和36年に市立図書館長が「大石誠之助特集」を組んで辞職に追い込まれている。市には未だ「逆賊」と捉える人々がいて、顕彰ままならぬ。同書は2011年1月発行だが、さて大石誠之助は名誉市民になったのだろうか。今それをネット調べをしたが要領を得ぬ。うむ、小生なら佐藤春夫、西村伊作記念館があるなら、ちょっと立派な「太平洋食堂」を復活させて大石誠之助記念館&熊野文化発信基地にしてみたいが・・・。

 ともあれ三者の魅力から次は佐藤春夫の自伝小説「わんぱく時代」(全集5巻に収録)、辻原登「許されざる者」、田中伸尚「大逆事件」、森長英三郎「禄亭大石誠之助」へと読書は続き、さらに新宮に惹かれて行く。


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連休は伊豆大島と新宮へ [週末大島暮し]

habu_1.jpg 連休は混雑を避けて家ん中。いや、貧乏で遠出する余裕もない。ってことで読書とご近所ポタリング。図書館には、事前に「新宿区立図書館」所蔵検索をする。読みたい本があれば、それが区内9図書館のどこにあるかがわかる。あの本はこっちで、この本があっちと自転車で各図書館巡り。読む本は概ね古い本だから「閉架」にあって、調べた書籍番号を受け付けに提示する。

 この連休は、いつもと違ってフラッと新宿中央図書館に遊びに行った。地域資料を次々閲覧して、開架の本をのんびりと眺め歩いた。秋廣道郎著「波浮の港」と、熊野新聞社編「大逆事件と大石誠之助」が目に止まった。

 東京生まれで馴染みの「地方」がないが、ひょんなことで伊豆大島にバンガローを建てた。もう20年余も前。大島関連書はすでに読み漁ったが、「波浮の港」は平成22年刊。近年島に行くと、波浮の彼方此方にやたらと歌碑が建って「波浮の港を愛する会」の名がある。気になっていたが、著者はそのNPO法人の理事長。東京で弁護士をなさっている。名前から伺えるが、波浮港を拓いた秋廣平六さんの子孫で、第一部は波浮の名家の秋廣家の子供が、戦後の波浮でどのように育ち暮したか」が綴られていた。第二部は「私の平六伝」。

 伊豆大島は六ヶ村で成り立ち、それぞれ村誌が編纂されている。各村の歴代村長などの名を見ると、現在の島もそれら家系の方々が多いのに気付く。島は否応なく「地縁」の側面を有す。大田南畝は江戸が百万人都市になって「大江戸」「江戸っ子」の意気を吐いたが、今は1300万人都市。地縁どころか江戸っ子は芥子粒みたいな存在になってしまった。あたしが住む大久保はコリアンタウンになった。マンションのゴミ出しルールは、日本語は肩身が狭くハングル文字、英語、中国語が併記されている。東京はもはやコスモポリタン、無国籍の都市。その意では人口2万に至らぬ島の「地縁」は想像を越えた濃さと言えよう。

 大久保から大島を思えば、東京都とは云えあまりに遠く、懐かしく、悠久の自然と歴史に満ちている。時にお邪魔する「島暮し」には謙虚が肝心と改めて思った。同書は数時間で読了。おぉ、そう云えば波浮に幾つもの与謝野晶子の歌碑が建っているが、与謝野夫妻は紀州・新宮の常連客で大石誠之助、甥の西村伊作と親交が深く、伊作の文化学院創設にも参加している。そして次に手にしたのは、その新宮の本。最近の佐藤春夫邸調べから、眼を閉じると新宮の明治~大正の風景が浮かび、現在の新宮マップも浮かんでくる。熊野新聞社編「大逆事件と大石誠之助~熊野100年の目覚め」から、新宮の100年を彷徨った。(続く)


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