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春夫と潤一郎その後(佐藤邸付記) [佐藤春夫関連]

bunkagakuin2_1.jpg 昨日の続き。「関口フランスパン」で買ったサンドイッチとフランスパンを食べながら机に向かえば、今度は佐藤春夫・谷崎潤一郎家その後の「ハッピーとアンハッピー」の重なりに、ちょっと驚いてしまった。まずお目出度は、昭和14年に66歳の泉鏡花夫妻の媒酌で鮎子さん(24歳)と佐藤春夫の甥・竹田龍児さん(姉の子、31歳、東洋史家)が結婚。佐藤、谷崎の両家がめでたく結ばれ、錚々たる文学者が華燭の宴に列席。

 鮎子さんが生まれるまでを簡単に振り返る。谷崎潤一郎は学生時代に伝法肌の芸者・初子と深間になった。しかし初子は自分に旦那がいることから、妹の石川千代さんを彼に勧めた。二人は結婚し、鮎子が産まれた。しかし潤一郎は、千代と鮎子を実家に預けて、自分は千代さんの妹で15歳のせい子と同棲。「痴人の愛」のナオミはせい子がモデル。潤一郎は姉妹や母娘を愛す癖がある。彼の女性関係は頭がクラクラするほどに複雑だ。

 写真は神田駿河台「文化学院」のアーチ校舎一部。佐藤・谷崎家の華燭の宴が行われた頃の佐藤春夫は、文化学院(西村伊作が大正10年に創立)の文学部長(昭和11年~)で、その就任年にこのアーチ校舎が完成。アーチ状が多い佐藤邸と同じだ。

 さて、佐藤・谷崎両家が現代(平成19年~)になって突然に不幸が襲った。潤一郎の次女(松子夫人の連れ子)恵美子さんは能楽師の観世栄夫さんと結婚していたが、平成19年に観世さん(79歳)が中央高速・八王子辺りで交通事故。助手席の女性マネージャー(73歳)が死去。観世さんは逮捕されるも体調不良で釈放されて同年死去。

 一方、佐藤家では平成22年に長男・佐藤方哉さん(慶応義塾大名誉教授、77歳。名付け親は谷崎潤一郎)が京王線新宿駅ホームで酔った男にぶつけられて電車とホームに挟まれて死去。間もなく5月6日「春夫忌」です。★参考:野村尚吾「伝記 谷崎潤一郎」(六興出版)、「鑑賞日本現代文學 谷崎潤一郎」他。


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春夫と潤一郎の最晩年(佐藤邸付記) [佐藤春夫関連]

 佐藤春夫邸を拝見した時に、道路を渡った向こう側に目白台アパート(現・目白台ハイツ)があった。ここに谷崎潤一郎が約10ヶ月の仮住まいをしたのが昭和38年、78歳の時だった。眼の前の佐藤邸では亡くなる1年前の71歳の佐藤春夫がいた。その33年前のこと、谷崎・佐藤・千代子の三人連名による挨拶状(細君譲渡事件・昭和5年)を「あまりに可笑しければ」と荷風さんが「断腸亭日乗」に書き写している。さっそく、その日記をひもといてみた。

「拝啓。炎暑之候尊堂益(ますます)御清栄奉慶賀候。陳者(のぶれば)、我ら三人この度合議を以て千代ハ潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成、潤一郎娘鮎子ハ母と同居致すべく、素(もと)より双方交際の儀ハ従前の通につき右御諒承の上一層のご厚誼を賜たく、何(いず)れ相当仲人を立て御披露に可及(およぶべく)候へども不取敢以寸楮(とりあえずすんちょをもって)御通知申上候。敬具。昭和五年八月」

 さて、潤一郎は目白台アパートに来る前年に「瘋癲老人日記」を完成。同作は狭心症と老いに蝕まれた老人が、息子の嫁の颯子の足を舐めまわすなど痴呆化した異常性欲を晒す内容で、まさに変態・潤一郎の真骨頂発揮作。同作を仕上げ、自身の心臓発作予防に全冷暖房の家(湯河原)を着工。その家が完成するまでの約10ヵ月の目白台暮し。このアパートに決めたのは、昭和35年に次女・恵美子(松子夫人の連れ子)が、観世栄夫と結婚して、ここに暮していたため。

takatobasi1_1.jpg 目白台では一日30分ほどの散歩が体にも呆け防止にもいいってことで、潤一郎は毎日のようにすぐ傍の江戸川公園、新江戸川公園を散歩した。元気がいい時は孫と、調子が悪ければ車に乗って公園まで通ったらしい。同アパートに住んでいた瀬戸内晴美(寂聴)が、雑誌対談で「すごい大きな自動車が毎朝お迎えにきて、谷崎先生と奥さんを乗せて、目白台のすぐ下が江戸川公園で歩いても一分とかからない。それを公園まで自動車でわざわざ遠まわりなさってお二人でそこらを散歩して、また自動車に乗って帰ってくる」と語っている。

 翌年5月6日。目白台の佐藤邸では、72歳の佐藤春夫が心筋梗塞で死去。その二ヶ月後に、潤一郎は目白台アパートを去り、完成した湯河原「湘碧山房」に移った。彼もまた、その1年後、昭和40年7月30日、80歳で死去。共に葬儀は青山斎場。

 追記挿入:瀬戸内寂聴が入った目白台アパートの部屋の最初の入居者は嵯峨三智子とアイ・ジョージで、二人の愛の巣だったとか。(平成24年11月28日の東京新聞、同氏エッセイ「足あと」にそう書いてあった。) あたしはアイ・ジョージに「忙しい先生」なぁ~んておだてられて仕事をしたことがあるも、ノーギャラでおわったことがあった。

 あたしにとって江戸川公園は散歩圏内。しかも公園沿い神田川のちょい上流(写真のマンションの15畳程のルームバルコニー付き〇号室)に住んでいたこともあり、最晩年のお二人がこの辺を散歩していたかと思うと、ちょっと身近に感じてしまった。目白台から坂を下る途中の「関口フランスパン」に寄って家に帰った。(続く)


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巣落としの創痍カラスや今朝も啼き [私の探鳥記]

karasu1_1.jpg 佐藤春夫邸調べをしている間のこと。ベランダから鳥を見ていると、昨年も同時期に営巣して「巣落し」されたカラスが、また営巣を始めた。このカラス、昨年に「創痍カラス」と名付けた羽抜けカラス。疥癬だろうか、羽が抜けて羽軸(うじく)だけが残るスケスケ翼の♀カラス。

 あっちのハリエンジュに針金ハンガーが集まり出したら、産座も出来ぬ前に素早い「巣落し」。造園業者だろう。ついで?に見事に剪定もした。

 ややして、今度はこっちの欅に針金ハンガーが集められた。今どき針金ハンガーは少なかろうに、どこから集めてくるのか。そう思って見ていれば、またも「巣落し」で、ついでに欅も丸ハダカの剪定。いずれも産卵前の素早い撤去。見ていると目下は三度目の巣作り中。疥癬?がうつったか、♂カラスの翼もボロボロになってきて、この番カラスが飛んでいると悲壮感が漂っている。

 3年前には雛が孵った。昨年はこの辺に「オナガ」が居付いて営巣しかけたが、このカラスが追い払った。うむ、コヤツとは3年越しの付き合いか。佐藤春夫邸の長い歴史を探ったが、このカラスにも物語はある。今朝も5時に彼らの哀しげな啼き声が響き渡って眼が覚めた。吉原の都都逸じゃないが「三千世界のカラスを殺し~ぬしと朝寝がしてみたい」。写真下の右が羽抜け♀カラス。

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佐藤春夫邸の謎、その答はFOU(佐藤邸9) [佐藤春夫関連]

satoutei5_1.jpg 前回、佐藤春夫邸の設計者・大石七分の横顔を探ってみた。七分は関東大震災のすぐ後にフランスから帰国して、兄・伊作が借りた麹町の家に落ち着いた。この時期に、佐藤春夫は七分からフランス滞在談をたっぷり聞き、その話を「F・O・U」(大正15年発表)に仕上げた。翌年11月に目白台に七分設計・佐藤春夫邸が完成ゆえ、二人は何度も逢って話し合っていたと思われる。井上靖は「端倪すべからざる氏の才筆。いま読んでもみても新しい。氏は一度もパリには行っていないが、幻想が幻想として、それなりに定着して、現実感を持って迫ってくることは驚くべきことである」と同作を激賞しているが、これは七分の実話がベースにあったワケで、その評価の半分は七分に向けたくなってくる。

 その「F・O・U」を要約する。舞台はパリ。マキ(七分)がレストランから出ると、自分のシトレインのそばに美しいロオルス・ロイスがあった。乗ってみたい。マキはハンドルを握るとコンコルド広場からボア・ド・ブウロニュへ走った。ここで悪ガキが言う。「この車は君のかね」「いや、おれの車の横にあったから、ちょっと乗ってみたかったんだ」「持ち主に返した方がよさそうだね」「おれもそう思う」。

 ロオルス・ロイスの持ち主は、車から降りる彼の笑顔に何事もなかったように走り去った。近藤富枝「本郷菊富士ホテル」に掲載された七分の写真から、彼の天使のような笑顔が浮かんでくる。車は走り去ったが、彼は警官に腕を掴まれ、署に連行された。「あなたに知り合いのフランス人がいますか」に、彼はフロオランスの名をあげた。彼女が来て「わたしの可愛いマキ」と微笑む。そして署長にそっと指で「Fou」(狂人)と書いて見せる。マキは問われて、自身のことを語る。「私の一家は、きっと日本に客で来ているらしく(兄・伊作も日本人離れした風貌をしている)、日本政府から嫌われて、私の叔父は殺されてしまった(大逆事件で叔父・大石誠之介が刑死)。それで兄にフランスに行こうと言ったが、わたしだけがこの国にきた」

 かくして13日間、精神病院暮し。退院後にマキとフロオランスの甘い同棲生活が始まった。マキは日本に残した妻(いそ)と子(窓九)の写真を見せる。「まぁ、可愛い。わたしたちの子にしましょう」。マキは妻に手紙を書く。「今、シャトーを持つフランス女性と同棲している。子供の母親になりたいと言うから、お前がこっちに来れば乳母になります。兄貴にお金を送ってくるように言って下さい」。無邪気が残酷な手紙になる。これを読んだ兄(伊作)は「また病気が始まったようだ」と弟の妻を慰める。

 話が長くなりそうなので、結末だけ記す。最後はマキが描いた31枚のフロオランス、仙女の絵の<遺作>展が開催されるところでEND。天使のように純真無垢な夢想家は、現実に生きる者には時に残酷になり、遺せるのは作品と甘美な死。佐藤春夫はそんな事を書きたかったのだろう。文化学院を創立した伊作に比し、デキはわるいが弟・七分に通じる自分を見たか。そんな七分が設計した佐藤邸。現在の現実離れしたユニークな佐藤邸もまた七分設計だろうと勝手に納得。その現実離れの謎の答えは・・・「F・O・U」。

 これにて、佐藤邸シリーズ終わり。最後に参考にした本は以下です。川本三郎「大正幻影」、佐藤春夫「小説永井荷風伝」、日本文学全集「佐藤春夫集」(集英社版と新潮社版)、「佐藤春夫全集」第11巻、加藤百合「大正の夢の設計~西村伊作と文化学院」、黒川創「きれいな風貌~西村伊作伝」、「愉快な家~西村伊作の建築」、近藤富枝「文壇資料 本郷菊富士ホテル」、「ドキュメント日本人2~悲劇の先駆者」収録の西村伊作「我に益あり」、芳賀善次郎「新宿の散歩道」、野田宇太郎「改稿東京文学散歩」、新宿区「新宿文化絵図」など。


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佐藤邸設計・大石七分の横顔(佐藤邸8) [佐藤春夫関連]

kikufuji_1.jpg <佐藤春夫邸>も8回目で、やっと設計者・大石七分に辿り着いた。七分(しちぶん)はいかなる人物か。加藤百合と黒川創の両著より、西村伊作の末弟・七分について記された部分をピックアップしてみた。

 明治24年、濃尾大地震で両親が亡くなった。「伊作・真子・七分」の三兄弟はどうなったか。父の弟・誠之助が米国から帰国し、伊作を手許に引き取り、七分を余平姉・くわの家に預けた。明治36年、叔母くわと共に真子・七分は京都に移って同志社普通学校に入学。この時期に伊作は、米国に帰る宣教師から紀伊・山田で自転車を買い取り、その足で京都に弟たちに逢うべく走った。往復300キロ。明治に凄いサイクリストがいた。

 明治39年、真子がロサンゼルスに留学。翌40年、七分はマサチューセッツ州のハイスクールに留学。明治42年、伊作はヨーロッパ各国を巡って太平洋を渡り東海岸へ。ボストンで七分に逢い、彼が通う郊外の小さな町の高校・校長と面談。伊作はさらに西海岸へ移動して真子と逢う。真子と彼が内緒で買ったオートバイ(家一軒が買える価格)共に船で帰国。明治44年、叔父・大石誠之助が「大逆事件」で処刑。

 大正3年、七分帰国。大正5年、七分は本郷「菊富士ホテル」で、「いそ」(カフェ女給)との生活を開始。同ホテルは大正3年に帝国ホテル、日比谷ホテルに次ぐ3番目のホテルとして開業。地下1階・地上3階で30室。七分は気が合う友人、大杉栄と伊藤野枝のカップルを隣の部屋に呼んだ。しかし、この時に大杉・神近市子の「日陰茶屋事件」が起きた。サザンが「鎌倉物語」で♪~砂にまみれた 夏の日は言葉もいらない 日影茶屋では~ の「日陰茶屋」。これは大杉を巡る妻・愛人・野枝・神近の四角関係のもつれ。同ホテルから遊びに行った神奈川・葉山「日陰茶屋」で、神近市子は言葉も発せず大杉の喉を短刀で切った。絶えず警察の尾行が付いた大杉栄、しかも四角関係のもつれとなれば、マスコミが放っておかぬ。常に伊作の影にいて表に出ぬ七分だが、この時ばかりはマスコミに注目された。二人を同ホテルに呼び寄せた大石七分もまた、「いそ」をピストルで撃つなどの騒動を起こしたりして話題は膨らむばかり。結局、大杉・野枝はホテル代を一文も払わぬまま他の下宿屋へ。その全滞在費を七分が払ったそうな。

 この事件で同ホテルは一躍有名になり、以後は文壇ホテルの呈をなして行く。この辺は近藤富枝著「文壇資料 本郷菊富士ホテル」(写真)に詳しい。西村伊作関連書ではお目にかかれなかった七分と、妻「いそ」の写真が、なんと同書に掲載されていて、初めてその風貌に接することが出来た。兄・西村伊作に似て日本人離れしたクールな美男。同ホテル滞在の文人らのほとんだがだらしない着物姿だが、彼だけが洒落たスーツでピンホールのシャツでビシッと決めている。本文中には粗い写真ながら、お腹が大きくなった妻「いそ」と共に立つ二人の写真も掲載されていた。

 そんな七分だが黒田創著「西村伊作伝」には、こんな記述があった。「七分は絵がうまく、建築の設計も上手にこなすので、伊作はそうした腕前を買っていた。だが、アナキストの大杉栄らと付き合いながらも、金持ちの末弟としての自分を持てあましていたのか、彼は派手な暮らしを好み、金が尽きるて窮まると、気がふれたような言動も現われて、病院に入ったりする」

 大正7年7月~11月、雑誌「民衆の芸術」の編集・発行人となる。

 関東大震災後しばらくして、伊作が麹町に日本家屋を借りた。そこに2年ほど滞在していたフランスから七分が米国経由で帰国し、この麹町の家に腰を落ち着かせた。彼がフランスで同棲の女性を妻にすると言うも、伊作が彼にフランスに戻る金を与えず。七分は諦めて妻・いそ、子・窓九を麹町の家に連れてきて一緒に暮した。

 震災から3年後、大正15年に伊作は阿佐ヶ谷に土地を借りて、七分の設計・監督による一家が揃って住める家を建てた。昭和34年12月、七分は満69歳で長男夫婦、孫たちに最期を看取られて死去。晩年まで家の設計図をよく描き、絵も描いたという。七分でわかったことは、これだけ。(続く)

 山崎様へ:コメント機能うまく使えずく、ここで返信します。素敵なおじい様(の御兄弟を含めて)ですね。佐藤春夫関連の他に、山田新一著『素顔の佐伯雄三』を読んでいましたら、川端画学校の画友として赤いバイクで通ってくる七分氏のことが紹介されていました。コメントありがとうございました。


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伊作邸から生まれた春夫作品(佐藤邸7) [佐藤春夫関連]

isakuhon1_1.jpg 「西村記念館」見学を終えて熊野速玉大社へ行くと、そこに明治2年築・昭和60年移築の佐藤春夫邸がある。ここでは加藤百合著「大正の夢の設計家~西村伊作と文化学院」より、佐藤春夫の小説がいかに伊作からインスパイアーされたかの記述を拾ってみる。著者はそもそも佐藤春夫「田園の憂鬱」を調べる過程で西村伊作を知った、と「あとがき」で書いてい、佐藤作品もよく分析している。

 まず、こう断言する。「佐藤春夫の初期作品に、建築家・伊作の影は無視できないほど大きい。伊作から知識を得、また着想を得ることなくして、作家・佐藤春夫の開花はなかった」。

 「西班牙犬の家」の「入口は家全體のつり合ひから考へてひどく贅澤にも立派な階段が丁度四級(段?)もついて居るのであった」は、これまさに伊作邸玄関だと指摘。洋館が少ない時代に、いくつもの小説にそんな家を設計する男が登場している。これは西村伊作の姿、及び彼の建築関連書などのディテールが参考になったに違いないとも記す。

 佐藤の初期代表作「美しい町」もまた、伊作が大正8年に西村家の遺産を相続して「小田原に二千坪の購入して芸術家が住む田園都市を作る」と熱く語る伊作からヒントを得たのだろうと記す。伊作は実際に谷崎潤一郎や北原白秋らと土地探しをしている。ちなみに谷崎は小田原時代に妻の妹・せい子に夢中で、妻・千代子を冷遇。見かねた佐藤春夫が夫人をもらうと約束。そう決まってから手放すのが惜しくなって潤一郎が「離婚中止宣言」。これに佐藤が激怒して谷崎と絶交。この騒動がかの「小田原事件」。

 佐藤春夫は、そんな悶着の中で、伊作の「田園計画」を、夢想家三人の「美しい町」に仕上げた。夢が現実化することより夢想を純化させて「夢想家である自分が芸術家として如何に現実の中で生きたらよいか」という姿勢を探った作品。佐藤春夫にとって、谷崎の妻・千代子もまた夢想で純化されたきらいがないでもなかろう・・・とはあたしの推測。夢想家・佐藤に比して、西村伊作は夢の実現に積極的に動くが、これが「文化学院」創立にすり替わって具現する。夢想家(小説家)と現実を生きる両者比較に絶好のテーマ。

 また加藤百合は佐藤の「F・O・U」は、諸資料から伊作の弟・七分の実話そっくりで、聞いた話をそのまま書いたのではないかと記す。同小説を読めば、佐藤春夫邸設計の大石七分の天真爛漫かつ自由な天使のような人柄が浮かんできて、移築された佐藤邸、現在のちょっと妙な佐藤邸も彼ならではと思えてくる。どうやら結論が見えてきたようです。(続く)


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紀伊新宮と大久保の糸(佐藤邸6) [佐藤春夫関連]

bungalow_1.jpgisakubungalow_1.jpg 明治38年、伊作はシンガポール半年の滞在から帰国すると、新宮の丘に日本初の「バンガロー風の家」を建てた。その写真を「愉快な家~西村伊作の建築」より(田中修司氏所蔵の「美しき住宅」の表紙に添えられたバンガロー住宅」。※無断転載ごめんなさい。)で見ると、これが、まぁ、あたしの伊豆大島の海小屋(写真下)にそっくりで、思わず笑ってしまった。

 伊作が日本初のバンガローを建てた翌年10月、伊作の叔父・誠之助が大久保・百人町の幸徳秋水宅を訪ねている。「ありゃ、また大久保だ!」。幸徳は同年6月に米国から帰国し、9月20日から百人町1-8-24で「平民新聞」の準備に入っていた(芳賀善次郎著「新宿の散歩道」)。同地は旧職安通りのコリアンタウン外れの長光寺脇。ちなみに同寺は島崎藤村が生活苦で三人の子を失い(明治38・39年)、また夫人を葬った(明治43年)墓地で、お墓は大正期に故郷・長野に移葬。昭和26年に野田宇太郎が「新東京文学散歩」執筆時に同寺を訪ね、住職が島崎藤村を知らぬも、過去帳をひもといて三人の子、妻の埋葬記録を探り出している。

 明治40年1月には堺利彦が「平民新聞」創刊号の編集を終えると、刷り上がりを待たず二日を要して新宮の誠之助を訪ねた。きっと印刷代の金策らしく、誠之助は100円を渡している。そして幸徳秋水は同年10月に高知県中村町に帰郷し、翌41年7月末の上京途中で新宮・誠之助宅に半月滞在。8月15日から大久保は北新宿1-30-25(大久保駅から小滝橋通りを越え、さらに直進して右側辺り)に住んだ。後に佐藤春夫も大久保に住んだことを含めて、紀伊・新宮と大久保には、なにやら見えない糸がありそうな。

 この頃だろうか、佐藤春夫は新宮中学五年生で、誠之助の助力で与謝野寛、石井柏亭、生田長江らを招いて夏休みに「学術演説会」を開催。春夫は演説で“虚無思想”や“教育の害”などを口走って、社会主義者とみなされて「無期停学」通知。これは不当弾圧だと誠之助はじめが猛抗議して、無事に卒業している。誠之助が幸徳らと危険な親交を深めるなか、伊作は明治40年に津越光恵と結婚。コテージを丘から移築し、二階建てに直して欧米風家庭生活を開始。

 そして明治43年、大石誠之助は「大逆事件」で「紀州グループ」首魁(しゅかい)者として逮捕、東京に連行。伊作は弟・真子が米国から持ち帰ったバイクを神戸まで運んで、ここから毛皮のコート姿でバイク激走で上京。しかしピストル所持で29日間も拘置されている。翌44年、「大逆事件」の12名処刑。佐藤春夫は「スバル」に「愚者の死」と題する風刺詩で「新宮の町は恐懼(きょうく:おそれかしこまる)した」と書いた。

 大正4年、伊作は「スイスのシャレ―風」本格洋館を完成。この伊作邸は、やがて東京からの文化人も集うサロンとして活況を呈し、若い佐藤春夫は毎日のように伊作邸の食卓の一員になって彼らの話に耳を傾けていたという。ここで聞いた話や体験が「西班牙犬の家」「美しい町」「F・O・U」などの小説に昇華。伊作もまた大正8年の初著作「楽しい住家」で脚光を浴びる。やっと奇妙な佐藤邸の謎に近づいて来たような気がする。(続く)


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佐藤に影響を与えた西村伊作(佐藤邸5) [佐藤春夫関連]

isakuden_1.jpg 目白台の奇妙な佐藤春夫邸を語るには、彼が育った明治末から大正初期の和歌山県新宮まで遡る必要がありそう。いったい、そこで何があったのだろう。川本三郎「大正幻影」を置いて、今度は加藤百合「大正の夢の設計家~西村伊作と文化学院」(1990年刊)と、黒川創「きれいな風貌~西村伊作伝」を持って、いざ、紀州・新宮へ。

 東京8:10発「のぞみ15号」に乗って、名古屋9:51着。ここから「特急ワイドビュー南紀3号」で13:25に新宮駅に着。紀伊半島は「熊野」と「紀伊勝浦」の間。大正2年に勝浦からの鉄道が敷かれるまでは「陸の孤島」。だが熊野川河口で紀州木材の集散地ゆえ海運が発達。海から「ハイカラ」が入って、アメリカ移民も多かった。駅を降りて新宮城跡方向に歩いてすぐ右側に、大正4年築の「スイスのシャレ―風洋館」が見える。ここが西村伊作記念館。

 今も斬新さを失わない伊作邸を見学しつつ、兩著より、まずは伊作の父・余平の人生から探ってみよう。彼は大石家の長男で、末弟が大石誠之助。余平がに新宮に教会を建てたのが明治17年。余平夫妻の三人の息子が「伊作・真子・七分」。子らは端から洋服で西洋風(宗教的)に育てられた。余平は、その熱心な信心ゆえ、全財産を喜捨しかねないと親族に見放され、一家は名古屋へ移住。明治24年の濃尾大震災でチャペルの煉瓦煙突が崩落して夫妻共に死亡。 

 遺された子らの波乱が始まった。7歳の伊作は母方の下北山の山林王・西山家を継ぐべく祖母のもとで山村暮し。明治28年、余平の弟・大石誠之助がアメリカ暮しから5年振りに帰国して医者になった。28歳の彼が伊作が呼び寄せた。彼はカレーライスなど旨い料理が出来ると屋根に旗を揚げた。これを見て、佐藤春夫の父・豊太郎が大石家の食卓を加わった。春夫の父は、誠之助より5歳年長で、明治19年から医者をしていたが、医院経営が安定すると北海道・十勝に百町歩の土地を借りて農場経営を企てて開拓に着手。北海道と新宮を行き来する生活だったとか。

 当時の新宮には中学がなく、伊作は広島の叔母に預けられた。中学の5年間、誠之助もしばしインド・インドネシアへ。伊作が中学を卒業して戻ってくる頃には、誠之助は再び新宮で医院を再開。堺利彦らの社会主義啓蒙の「家庭雑誌」に洋食に関する原稿を書き始めていた。明治37年、日露戦争開始の年、誠之助と20歳になった伊作、沖野牧師で「太平洋食堂」を開業。写真で見ると西部劇に出てくるしゃれた建物風の洋食レストラン。伊作が英文字で「パシフィック・リフレッシュメント・ルーム」と書いた。社会主義とキリスト教の啓蒙誌などを閲覧するコーナーもあり。佐藤春夫は、このレストランを「一種清新な気」と感じ入った。だが同レストランは誠之助の厳しいテーブルマナーなどで、一般町民になじまず2年を経ずに閉鎖。ちなみに東京で洋食レストランが身近になるのは大正時代で、西村伊作らの「太平洋食堂」はいかにも早過ぎた。

 明治38年、伊作に召集令状が来て日本脱出。シンガポールに約半年滞在。写真の「きれいな風貌」表紙写真はシンガポールで撮られた21歳の伊作。(続く)


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「美しい町」の幻影(佐藤邸4) [佐藤春夫関連]

taisyo1_1.jpg 川本三郎「大正幻影」に戻ってみよう。同書で川本はこう記している。「佐藤春夫は建築が好きだった。自分で図面を書き、家を建てることを考えるのが好きだった。よく原稿用紙を方眼紙に見立て家のデッサンをした。佐藤春夫はそれを“普請道楽”と呼んだ」。

 彼の“普請道楽”は、洋館風住宅とみていいだろう。彼の小説には、そうした非現実系の家の小説が多いとか。小生は今まで永井荷風がらみ、谷崎潤一郎がらもで佐藤春夫を読んできたので、彼の小説は詳しくないのだが、年代順に洋館登場の小説は「薔薇」「西班牙犬の家」「指紋」「田園の憂鬱」「美しい町」「海邊の望楼にて」「更生記」などらしい。これに庭、植物、調度品などの微細表現が蔦のようにまつわるのだろう。とりわけ27歳の作「美しい町」が秀逸とか。読めば、あの佐藤邸が建ったワケが探れるかも知れぬゆえ再読した。物語を要約してみれば・・・

 画家Eの回想仕立て。なんと、この画家は大久保在住だった。Eは幼少時代の友人で米国で暮していたハーフの川崎君にSホテルに呼び出される。彼はテオドオル・ブレンタノと名乗っている。彼は父の遺産を投じて、百ほどの家を作って「美しい町」を作りたいと言う。Eが設計図から完成画を描く。まずは五千坪ほどの土地探し。二ヶ月を経て、司馬江漢の銅版画「東京中州之景」に出逢う。「Lucky idea!」。「美しい町」は隅田川中州に決定した。そして建築技師募集。20名ほどの応募者のなかで白羽の矢が立ったのは、最後に来た老建築家だった。彼は鹿鳴館時代の建築を学ぶべく巴里に留学し、帰国してみれば欧化時代は去って仕事がない。依頼主のいない夢の家を一軒一軒づつ紙上設計して、気付けば老人になっていた。老技師が設計、Eが完成図、彼が模型を作る。三人はホテルの一室で、夢中になって夢の「美しい町」作りに没頭した。

 この町の住人は商人ではなく、役人でもなく、軍人でもなく、それぞれが最も好きな職業を選んで、それで身を立てていて、犬か猫か小鳥を飼っている人。住人設定もされた。三人それぞれが今まで夢想していた家作りに熱中した。そんな幸せな日々が3年続いて、ついに模型が完成。その夜、テーブルにシャンパンが用意されてEが言った。「実は僕に遺された財産は僅かで、僕にはこの夢の町を現実にするお金がない。もう明日にでも日本を去らねばならない」。しかしEも老技師も、心の中ではどこかに「美しい町」が現実になることを望まなかったような気がする。幸せだった3年の日々を胸にホテルを出て行く。

 以上があたし風の物語要約。佐藤春夫はここで、夢想家は現実のなかに生きるのに憂鬱を抱き、それがまた文学者の道・・・と言っているようである。川本三郎は「美しい町」をこう総括している。・・・彼の「普請道楽」はあくまで家を作る過程を楽しむ。いわば夢の行為。形としてあらわれた建築よりも、その背後にある夢のほうが重要なのだ。佐藤春夫にとって家を作ることは現実的行為というより、あくまでも詩的行為なのだ。だから自分の住む家を南欧風の桃色の家というおよそ浮世離れした、現実と調和しない家を作ってしまうのである。 そして「大正幻影」をこう結ぶ。・・・現実より虚構、内実より見せかけのほうに美しさや意味を見ようとする態度・趣味が私のいう「大正幻影」である。

 これで、なんとなく佐藤邸の謎が少しわかってきた。だが、佐藤春夫は何故に洋風住宅だったのか。日本の洋館風住宅の歴史を探ってみると、なんと、また「西村伊作」が浮上してきたではないか。佐藤春夫が育った明治末から大正初期の和歌山県新宮市に何があったのだろう。(続く)

 写真は川本三郎「大正幻影」表紙。隅田川中州の「美しい町」を彷彿させて、なかなか愉しいイラスト。このカバー装画は森英二郎とあった。


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大久保の佐藤春夫と大杉栄(佐藤邸3) [佐藤春夫関連]

satouharuohon1_1.jpg 佐藤春夫邸の設計者・大石七分の叔父は大逆事件で処刑された。七分もまた憲兵大尉・甘粕正彦に殺害された大杉栄と生活を共にしたことがあったとか。佐藤春夫はそうした危険で勇気ある男たち(当時の社会主義者、無政府主義者)に眼を逸らして、夢想の世界だけに生きてきたのだろうか。

 そう思って佐藤春夫全集・第11巻をひもとけば「吾が回想する大杉栄」なる随筆があった。「新家庭を大久保に移したころのこと」の書き出し。これを調べてみれば、彼は大正4年8月から翌5年5月まで「大久保町大字西大久保403」に住んだとあった。現・大久保2、3丁目辺り。女優・川路歌子と同棲中で、神奈川・中里村へ移るまでの時期だろう。

 大杉栄は伊藤野枝と甥の橘宗一(6歳)と共に憲兵・甘粕に連行されて殺害されたが、連行された地が新宿・柏木の自宅近くは周知のこと。だが佐藤春夫の同文によれば、大杉もまた大久保に住んでいたと書いてあった。これも調べれば、柏木の自宅はフランスから帰国後のことで、1912年(明治45年・大正元年)に鎌倉より大久保百人町353番地(現在の百人町)で暮していたらしい。共にご近所同士。ははっ、あたしんチの近所だぁ。

 佐藤春夫の大久保の家には、新進作家・荒川義央が居候してい、彼は堺利彦を「おやぢ」と言い、大杉栄に心酔していた。荒川が毎日のように大杉宅に寄っていたことで、佐藤も大杉も互いの家を行き来した。そんな或る日、同じく大久保在住の加藤朝鳥(翻訳・文芸評論家)と共に大杉宅で文学論を交わした。加藤が「日本の小説はもっと社会的意識を覚醒させねばならぬ」と言い、佐藤はこう反論した。「四十五十になってつぶさに世相を見てこそ、社会的の観察も正確になる。普通の境涯の青年作家に出来ることは、先づ詩人的なロマンティシズムの情熱か、一人の主人公を取扱った心理的なものであるのが当然である。社会的意識から生れるいい小説といふのものは結局もう少し気永く待たないでは、反ってつけ焼刃にすぎないだらう」。彼にそう思わせた教訓的な何かがあったような気がしてならない。この時、大杉は「うむ」とだけ言った、と書いている。

kasawagiatari_1.jpg この年、佐藤春夫は二科展に「自画像」「静物」が入選。その2年後に、あの「西班牙犬の家」を発表。内面的な自己批判の心理小説ではなく、まずは絵を描くように夢想の洋館を細部描写して新たな小説をものにした。その前年に書いた「薔薇」も洋館登場とかで、彼のなにやら尋常ではない洋館的住宅へのこだわりが垣間見える。(続く)

 とまれ、明治末から大正時代に社会主義、無政府主義、アジア主義の男たち、そして若き作家らの多くが大久保在住だったことも再確認できた。写真は大杉栄が憲兵・甘粕に連行された新宿・柏木の自宅辺り。隣に文芸評論の内田魯庵が住んでい、その日、魯庵夫人は大杉栄と伊藤野枝が外出する姿を裏庭から見ていた。また大杉・魯庵宅の西側が西条八十旧宅。八十の父はこの辺の大地主で、百人町の撮影所付き梅屋庄吉邸も西条八十の父から土地を買っている。


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佐藤邸大逆事件の翳も秘め(佐藤邸2) [佐藤春夫関連]

ireihi1_1.jpg 川本三郎「大正幻影」は、佐藤春夫論といっても過言ではないだろう。「佐藤春夫が大逆事件に衝撃を受けなかった筈はない。刑死した大石誠之助は同郷(和歌山)の先輩だったのだから。佐藤春夫は大石誠之助を唱った詩「愚者の死」を書いてアイロニカルに強権への憤りを表明したが、しかしその憤りはついにストレートな形をとることなく、やがて視線をビーダーマイヤー的な小宇宙へと移していった」

 川本は見逃したか、気付かなかったか。佐藤邸の設計は、文化学院の創立者にして建築家、画家、陶芸家の西村伊作の弟・大石七分である。伊作・七分兄弟の叔父が大石誠之助。叔父は米国から帰国後にクリスチャンの“赤ひげ先生”的医者で、生活改善などを訴える過程で社会主義者への弾圧「大逆事件」に巻き込まれ、明治44年に処刑された12名の一人。和歌山県の小さな田舎町から刑死者が出て、佐藤春夫は同郷どころか、肌も震える怖さを感じていたはず。この時、春夫、19歳。彼の父もまた医者で親同士の交流もあったろう。伊作・七分の兩兄弟からも強い影響を受けつつ青年期を過ごしていたのではなかろうか。

 川本三郎が記す「ビーダーマイヤー的」を簡単に説明すれば、歴史の動きに眼をそむけ、身近な微細なものをとらえようとすることらしい。川本は「佐藤春夫は強権、官憲に眼をそむけて建物、調度品、植物に関心を注ぎ、幻影の世界に分け入ったのではないか」と指摘する。同じ世代の谷崎潤一郎も芥川龍之介も現実世界とは別の幻影の世界を夢みようとしていたと記す。大正幻影、大正ロマン、大正モダンなる言葉がチラつく。

yocyocyo_1.jpg 「世に眼をそむける」という意では佐藤春夫、芥川龍之介より13歳上、谷崎潤一郎より4歳上の永井荷風も同じだ。彼は32歳の時に自宅・余丁町から慶応義塾へ出勤途中に、目の先の市ヶ谷刑務所(東京監獄)を出入りする大逆事件の囚人馬車を見ていたし、間近の刑務所で12名の処刑が執行された。荷風は、文学者でありながら何も発言できぬことを恥じて「花火」にこう書いた。

 「自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れをさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた」。

 その荷風が谷崎潤一郎を激賞し、佐藤春夫は荷風を師と仰いだ。川本三郎が指摘するように、佐藤春夫は現実から眼をそむけて建築、調度品、花に没頭して、かくなる家を建てたのか。いや、まだそれでは説明が足らぬだろう。(続く)

 ★写真下は、抜弁天から曙橋へ下る「余丁町通り」。写真右の木々が「余丁町児童公園」の入口で、その奥続きの「富久町児童公園」の片隅に「東京監獄 市ヶ谷刑務所 刑死者慰霊塔」(冒頭写真)が、忘れ去られたようにひっそり建っていた。この碑には説明文が一切なく、ただ「昭和三十九年七月十五日建立 日本弁護士連合会」とあるだけ。野田宇太郎著「改稿東京文学散歩」には「これでは一般の刑死者慰霊塔としか思えないが、それが幸徳事件の処刑者の慰霊塔であることはいうまでもない。そのことを何故刻まなかったのだろうか」と記し、「幸徳秋水をはじめ、大石誠之助その他は社会主義というだけで、事件とは直接関係がなかったのも事実である。ただ社会主義は天皇制を危くする思想として、その指導的人物が理不尽にも無実の罪名を被せられて殺された恐怖的事件であった」と結んでいる。写真の「余丁町通り」先方左側に永井荷風旧居がある。(続く)


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佐藤邸西班牙犬の家のまゝ(佐藤邸1) [佐藤春夫関連]

satouharuotei_1.jpg 白蓮が暮した宮崎滔天邸から目白通りに戻って、東に走る。椿山荘辺りで左の路地へ。或いはキングレコード・スタジオの反対側の路地を入った所に、写真のユニークな佐藤春夫旧居跡在り。佐藤春夫は昭和2年から終焉の昭和39年までここで暮した。当時の邸(やしき)は昭和60年に生地・和歌山県新宮市に移築・保存。その移築邸をネットで見れば、アーチ状の門と窓、塔、桃茶色の壁。現在の家も旧邸と同コンセプトで建てられていることがわかる。

 当時の邸の様子を知るべく、まずは日本文学全集「佐藤春夫集」の井上靖の解説文より佐藤邸説明文より・・・。「関口町のお宅は朱色の塀の廻った中国風ともスペイン風とも見える、なかなかしゃれた邸宅であった。(略)。暖炉のある洋間の暖炉ぎわに畳が敷かれた小区域があり、主人は客にそこで応接するようになっている。その部屋の調度品は(略)異国趣味、ハイカラ趣味というと厭味に聞こえるが、それは氏一流の気難しい鑑定を経たものばかりで、(略)洗練された調和を作り上げていた。(略)。短編の傑作「西班牙犬(スペインいぬ)の家」の作者の応接間なのである」

 川本三郎「大正幻影」には西脇順三郎が記した佐藤邸の文が紹介されている。「目白台に南欧風のすばらしい家をたて、三田山上(慶応大)にあった文学部の課業をやったヴィカス・ホールの壁をおおっていた黄赤色の『のうぜんかずら』を家にはわせ、巴里のマロニエを前庭に植えたり、日時計や噴水を作った。家は伊太利の田舎によくみられるような濃い桃色にぬられていた」。(佐藤春夫は永井荷風が亡くなった時に、庭のマロニエの花を手向けている)

 川本三郎「大正幻影」には・・・「『更生記』のなかに、避雷針のある八角形の屋根のある洋館が出てくるが、この家は、大正十四年以来、佐藤春夫が住んだ小石川区音羽町(現在の文京区関口町)の家をモデルにしている」なる文があるが、これは大きな間違い。大正14年から住んだのは音羽通りから小日向台に向かう小石川区音羽町9丁目18番地。その家のことは随筆「吾が新居の事」(佐藤春夫全集・第十一巻)に書かれている。そして昭和2年から住んだのが写真の旧邸跡で、音羽通りより目白台の地で住所は文京区関口町。東京散歩の達人とは思えぬ間違い。

 それはさておき、このユニークな建物を見ていると、佐藤春夫は何故にかくなる家を建てたのだろうかと考え込んでしまった。(続く)


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白蓮の筆一本で冬を耐へ(白蓮4) [読書・言葉備忘録]

harukomanikki_1.jpg 佐藤春夫邸に行く前に、宮崎邸に逃げ込んだ吉原・長金花の春駒こと森光子の「春駒日記」を読んだので、(白蓮4)として同著「廓を脱出して白蓮夫人に救わるるまで」の章を紹介。

 春駒は「苦界=生地獄」の日々に、白蓮が次々に発表する歌や原稿に希望と励みを抱いていた。梅毒と肺病と心臓病で吉原病院に二ヶ月半入院。母の危篤で故郷に戻るも、娼妓の身ゆえ葬儀に出ることままならず。再び廓の日々から遂に脱出決行。吉原病院での隔日注射の際に龍泉寺通り~路面電車~上野~省線で目白駅下車。五、六人に道を尋ねて白蓮邸へ走った。

 対応に戸惑った宮崎夫妻だったが、居合わせた岩内が「労働運動のつらさにくらべたら、あなたを救うことは何でもありません」と助け舟。同書には当時の新聞切り抜きも掲載で、以下は大正15年4月27日の東京朝日新聞より。

 「二十六日の午前十時半頃、折からのしう雨(驟雨)をついて一台のほろを深くした車が突然宮崎家の門に着いた」。本人記述は徒歩だが、新聞は人力車。大阪の朝日新聞は「東京目黒の~」。当時の新聞の信ぴょう性を疑うが、先を続ける。「来合せたのが龍介の友人で労働総同盟の紡績組合長・岩内善作氏であった。夫妻の打ち明け話と春駒の涙ながらの話を聞いた岩内氏はよし僕が立派に廃業させてやらうと引き受け即座に春駒に命じて日本堤警察署あての自由廃業届と楼主あての手紙を書かせ~」

 また昭和2年1月15日の東京朝日新聞も掲載。これは春駒にならって今度は「千代駒」が吉原を脱走し、芝公園の日本労働合同組合本部で重要会議中の岩内氏のもとに助けを求めた記事。

 話をちょっと戻す。白蓮は蟄居先で関東大震災に遭った。その避難先に宮崎滔天の門下生が火のなかをくぐり抜けて握り飯と衣類を持って参上。白蓮を預かる中野家はこれに感動し、白蓮を龍介の許に帰した。この頃の龍介は結核再発で病臥。白蓮はひたすら原稿を書きまくって生活を支えた。この大量露出の原稿が、廓の春駒にも届いたのだろう。当時の宮崎邸には官憲から逃げた運動家や、自由廃業を目指す吉原の娼妓たち大勢の食客がいて、白蓮の筆一本で支えられていたとか。白蓮の項これにて終わり。★参考は永畑道子「恋の華」(藤原書店)、80年振りの復刻で朝日文庫刊の森光子「春駒日記」より。


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白蓮の終焉の家春うらら(白蓮3) [新宿発ポタリング]

miyazakirei_1.jpg 品川ポタリングで白蓮が乳母に育てられた立会川辺りを巡り、今度はご近所、目白通りから池袋方向に入って、白蓮終焉の宮崎邸に走ってみた

 大久保の映画撮影所併設の広大な梅屋庄吉邸は当時の面影を残していないが、梅屋が資金援助をしていたという宮崎滔天(とうてん)邸は閑静な住宅地に今も残っていた。隣にマンションと別棟を並築で現存。白蓮は大騒動から柳原家に蟄居の身になって竜介の子を産み、大正12年に晴れて宮崎家の人になった。この閑静な屋敷から、その後の白蓮の落ち着いた生活が伺えた。

 白蓮と竜介が初めて逢ったのは大正8年。白蓮が書いた詩劇「指鬘外道(しまんげどう)」が雑誌「解放」に掲載され、上演希望が殺到して単行本化へ。それにあたって「解放」の責任編集だった竜介が「序文」を求めて福岡に白蓮を訪ねた。この詩劇は間もなく邦枝完二の演出で上演されて、白蓮も上京した。この頃から二人の逢瀬が始まって700通もの恋文が交わされたとか。

 この時、邦枝完二は大久保・百人町に移住の3年前で、帝国劇場文芸部に入った年。邦枝演出は間違いなかろう。宮崎竜介と白蓮のその後の人生は省略するが、白蓮は昭和42年・81歳で、竜介はその4年後に78歳で亡くなるまで、この宮崎邸で暮らしていた。

 永畑道子「恋の華」の藤原書店版の解説(尾形明子)に興味深い一文があった。尾形は日本橋高島屋で開催「柳原白蓮展」の展示資料を見るために平成20年に宮崎邸に向かいつつ、かつて三人の女性が同じように歩いていた姿を想う。一人は大正12年の白蓮。一人は翌13年に足早に歩いていた森光子。最後の一人は昭和56年に白蓮の取材で宮崎邸を訪ねた永畑道子。この森光子はあの女優ではなく、吉原の花魁・春駒。苦界・吉原を脱出して宮崎邸に逃げ込んだ。竜介は弁護士、白蓮は婦人運動に尽力で、苦界の女性たちの駆け込み寺にもなっていたらしい。森光子「春駒日記~吉原花魁の日々」が朝日文庫から出版されているので、これも読んでみたい。

 さて、あたしは宮崎邸から目白通りに戻って、椿山荘近くの佐藤春夫旧居跡にペタルを向けた。


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ペダルこぎ品川宿の河岸の花(白蓮2) [新宿発ポタリング]

sinagawajyuku1_1.jpg 過日の品川ポタリング写真を見ていたら、かつて某の撮影に帯同し、そのスタジオ脇の路地に井戸があり、路地を抜けると品川宿だったことを思い出した。妙に懐かしい風景が甦って、また品川を走ってみたくなった。

 新宿から外苑東通りで田町、品川から旧東海道・品川宿に入った。あの井戸は、荏原神社脇の目黒川河口寄りの路地にあった。旧東海道を新馬場駅~青物横町~鮫洲~立会川と辿って鈴ヶ森刑場跡辺りまで走って引き返した。 立会川には若き坂本竜馬が詰めた土佐藩の砲台があった。それは写真の「勝島運河」辺り。埋め立て前は海。この河岸に佇めば、先日読んだ永畑道子著「恋の華 白蓮事件」に、白蓮=柳原燁子(あきこ)が子供時分にこの辺で暮していたとあった。

 燁子の父は華族柳原前光。妹・愛子が明治天皇に見初められ大正天皇の母になった。愛子の従女に美貌の「梅」がい、前光は「梅」を本邸に呼んで妻妾同居。次に前光が伊藤博文と競って得たのが柳橋芸者「おりょう」。この時分に女ったらし・伊藤博文は葭町「濱田屋」の貞奴を水揚げ。4月8日に明治座で石川さゆり「貞奴 世界を翔る」(脚本・なかにし礼)を拝見したが、冒頭舞台が「濱田屋」前で貞奴が伊藤博文に水揚げされる報に歓ぶシーンだった。

 話を戻す。で、「おりょう」さんが燁子の生母。生後七日で引き離されて柳原家の子になった。正妻初子は立会川のほとりの種物屋・増山くにを燁子の乳母として7歳まで預けた。燁子は柳原家に戻ると、今度は9歳で北小路家の養女に。北小路随光が女中に産ませた資武と夫婦にさせられた。資武の好色にさらされ15歳で結婚。男児を産んで二十歳で離婚。26歳で福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚。気に入った娘がいれば従女にしてから伝右衛門の妾にした。そして自分は36歳で帝大生・宮崎竜介の許に出奔。まぁ、どこもかしこも妾妻同居の乱れよう。晩年の白蓮は、7歳まで過ごした品川での暮らしが最も懐かしいと訪ねている。

 品川への再度ポタリングが、ひょんなことで白蓮の幼児期訪ねにすり替わった。往復40㎞。両脚に乳酸を貯めてやっと新宿に帰還。これで白蓮も終わりと思いきや、今度は白蓮が宮崎竜介と過ごした終焉の地・西池袋の宮崎滔天宅が今もあると知った驚いた。行かねばなるまい。


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頬掠め鳴き声残し遠ツバメ [私の探鳥記]

tubame1_1.jpg 4月4日のツバメ初認から、ベランダに立ち、ツバメのシャープな飛翔を眺める愉しみが増えた。換わっていつまでもベランダのミカンを求め来ていたメジロが、やっと姿を消した。満開の桜に場所換えしたのだろう。

 ツバメの飛翔は素早く、なかなか目で追えぬ。見失った瞬間に、頬を掠め飛び、彼方上空で鮮やかなターンをして見せる。時に「キチキチッ」という鳴き声を耳元に残して、彼方で鮮やかに飛んでいる。

 例年、二軒隣マンションの地下駐車場入口の天井で営巣していたが、車に糞が落ちたのを嫌った奴が巣を落としたそうな。もう、この街にはツバメが戻ってくるのを歓迎する人は少なく、今日の稼ぎが気になる異国の言葉が飛び交っている。今年のツバメはどこで営巣するのだろう。


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妖艶な白蓮の恋乱れ揺れ(白蓮1) [花と昆虫]

byakuren2_1.jpg 新宿御苑で「白木蓮」の白い妖艶な花が咲き誇り、風に揺れていた。「白木蓮」は中国原産で20㍍に達する高樹。同じ科の「木蓮」は同じく中国原産で暗紅紫色の花。「コブシ」は日本種で高さ8~10㍍。

 先日、大久保の梅屋庄吉夫妻が、大正の世を騒がせた「白蓮」の恋を陰で支えていたと記したので、簡単に説明を・・・。白蓮の本名は柳原燁子(あきこ)。伯爵柳原前光の次女。父の妹・愛子は大正天皇の生母。16歳で北小路子爵に嫁(か)すも、男児を産んで21歳で離婚。27歳で52歳の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚。豪勢な暮らしと歌集「踏絵」などで筑紫の女王。大正10年、出奔して帝大生・宮崎竜介の許に走った。この時、白蓮36歳、竜介29歳、伝右衛門への絶縁状が新聞に載って、世は大騒ぎになった。

 この恋の陰に大久保の梅屋庄吉がいた。竜介は辛亥革命の仲間・宮崎滔天(とうてん)の息子で、親子共に資金援助し続けてきた縁で、手助けしたらしい。身のまわりのことも人任せだった白蓮を、梅屋の妻トクが別荘で一ヶ月の花嫁修業をさせたとか。(小坂文乃「革命をプロデュースした男」)。 なお、竜介は結核で伏せ、白蓮が筆一本で生活を支えた時期もあったそうだが、後に竜介は弁護士で活躍。池袋の宮崎滔天宅で夫妻仲良く暮らし、戦後は婦人運動、平和運動に尽力した。昭和42年、81歳で没。

 昭和6年に夫婦で中国旅行なる記述。「もしや」と思って、車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」をひもとけば、梅屋の備忘録に中国から帰国して関西滞在中に「昭和6年8月、宮崎竜介・燁子夫婦来る」があった。白蓮の恋は著述業者の絶好ネタ。同時代の長谷川時雨をはじめ、今も多くの作家が書いている。

 永畑道子「恋の華 白蓮事件」を読んだ。新事実を次々に掘り起こし、白蓮の人間象を浮き彫りにして一気読了。読み応えのある本だった。白蓮の略年譜、生母奥津家・柳原家・北小路家・伊藤家・宮崎家の略系図付き。藤原書店2008年刊だが、これは1982年に新評論より刊行された版とか。小坂文乃や車田譲治の梅屋本はまだ世に出ていなかったのだろう、梅屋庄吉への言及は一切なかった。


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ツバメ来てツリーとサンの逢瀬かな [東京スカイツリー]

44asahi1_1.jpg 昨日、東京スカイツリーの後ろに朝日が昇った。昨年も同時期に同じような写真を撮った。頭が悪いゆえ、よくわからぬが朝陽は夏至(6月21日)が最も北寄りで、冬至(12月22日)が最も南寄りから昇る。約60度の移動。南から北に寄り、元の南寄りに戻って1年。その中間が春分の日(3月21日)と秋分の日(9月23日)で真東から朝陽が昇る。夕陽が沈む方位は、この逆になる。

 かくして我が家から見て東京スカイツリーと朝陽が交わるのは往復の二回で、今と秋は9月10日頃。年に二回の交わり。昨年は4月6日に撮って<入学日ツリー真上に朝日祝>と詠んだ。今年も明日が公立学校の入学式だが、もうひとつ、愉しいことがあった。

 かかぁの「おまいさん、ツバメが来たよう」の声にベランダに立てば、4羽のツバメがあのシャープな飛翔を展開していた。自宅からのツバメ初認は09年が4月11日、10年が14日、11年が19日だった。今年のツバメは一昨日の「爆弾暴風」の南風に乗ってきたか、えらく元気がいい。<ツバメ来てツリーとサンの逢瀬かな>


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勝西郷日本の春を拾い上げ [新宿発ポタリング]

katusaigo_1.jpg 昨日の続き。・・・人生初の東京タワーを諦めたら、増上寺は「徳川家霊廟公開日」。畏れ多くも徳川家のお墓を掃苔後、第一京浜を走った。ややして田町・薩摩屋敷跡(現・三菱自動車本社前)に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟会見之地」の碑。

 「この屋敷裏の海岸は、落語<芝浜>で革の財布を拾った舞台です」なる説明文。400字にも満たぬ碑文に勝・西郷会談の説明を割いても、碑文の書き手は<芝浜>を加えたかったらしい。ったくもう、この会談をなんと心得るかと呆れたが、あたしも「芝浜」は大好きだ。志ん朝の「芝浜」を聴くってぇと、棒手振(ぼてふ)りの魚屋・熊さんが五十兩拾ったシーンが目に浮かんでくる。しゃ~ない、こっちも勝海舟・西郷隆盛の会談と「芝浜」をごっちゃにした一句。 <勝西郷日本の春を拾い上げ>

 「勝・西郷の会談地」からちょい先が忠臣蔵「泉岳寺」。義士のお墓がずらっと並んでいたが、「オヤッ」と思ったのが「首洗井戸」。「吉良上野介義央の首をこの井戸にて洗い以って主君の墓前に供う」と書かれた井戸をよくよく見れば、囲い石に「川上音二郎建立」の文字。先日の大久保・梅屋庄吉の項で、梅屋が音二郎一座の「本郷座・大楠公」の芝居を本郷座裏の空地で撮ったと記したばかり。石川さゆりも目下「貞奴」を明治座で熱演中。なぜか「音二郎」とキーボードを叩きづいている。

kubiarai_1.jpg で、品川駅は港区なんですね。駅周辺を散策してUターン。皇居辺りに戻れば、例のランナー群は男女共にファッショナブルなタイツ姿。自動車禁止の車道はこれまた自慢のロード+レーサーファッションのサイクリストたちが華やかに競い走っていた。安物自転車+ボロジーンズ+老体のあたしは、彼らの邪魔にならぬよう脇をそっと走って新宿に戻った。初めて尽くしの愉しい24㌔ポタリングこれにて終了。


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春めきて寺とタワーの風を切り [新宿発ポタリング]

atagoyama1_1.jpg 「おまいさん、死ぬ前に東京タワーに昇ってみるんじゃなかったのかえ。いい陽気だよ」

 って声で、自転車を駆った。あたしは東京生まれだが、東京タワーに昇ったことがない。東京生まれなんて、そんなもんだ。加えて東京は城北生まれで、城南方面が疎い。城南の入り口が芝、高輪辺りだろう。まずは、これも初めて「愛宕山」に登った(写真上)。あの急階段を下りると、こんな写真が撮れた。「青松寺と愛宕フォレストタワー」。

 新旧象徴の図も、青松寺は慶長5年(1600)に当地に移ったそうだが関東大震災で焼失し、昭和4年に鉄筋コンクリートになったとか。この辺りの大きな寺院は概ね同じで、震災か空襲で焼失して鉄筋コンクリート造りで再建。増上寺もそうで、ちょっと味わいに欠ける。ここで一句。<春めきて寺とタワーの風を切り> ふふっ、いい句だね。深みも重さもなく薄っぺら。隠居の身じゃなきゃ詠めぬ風のように軽い句だ。 

tera&moribibuil_1.jpg 東京タワー下の録音スタジオを某がよく利用していたので、何度も取材で通ったが、東京タワーは見上げるだけだった。さぁ、いよいよ我が人生初の東京タワーだ。おっと、そうは問屋が卸さなかった。春休みとタワー人気でか、家族連れが長蛇の列。

 まだ死ぬまで多少の時間はあろうからと東京タワーを諦め、あたしは品川に向かってペタルをこいだ。(続く)


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大正13年、戸山アパッチゴルファー現る [大久保・戸山ヶ原伝説]

apache1_1.jpg 大正12年9月1日に関東大震災が襲った翌年の1月、岡本綺堂が越して来る数ヶ月前の「東京日日新聞」に左記の記事が載った。世に言われる「戸山アパッチゴルファー」の報。題して「戸山ヶ原のゴルフ老人」。写真は「戸山ゴルフクラブの花形・明石雷一氏の夫人」。本文はこうだ。

 この十数年間、雨が降らうが雪が降らうが一日として戸山ヶ原に姿を見せぬことのない鳥羽老人は、わがゴルフ界の先覚者として且運動精神を眞に體得した人として稱されてゐる。老人がゴルフに親しみ出したのは持病の心臓病で餘命幾ばくもないと医師から宣告された明治四十年の春であつた。職業柄洋服仕立ての見本に送られた写真で外人がゴルフに親しんでゐるのを見て自分も一つやつて見ようと思ひ立ち苦心の末やつとクラブと球を手に入れ病身を運んで戸山ヶ原に立つた。無論クラブのにぎり方も打球方法も知らう筈がなく、数葉の写真を参考に兎も角球を打つことを練習した。姿勢の不恰好は當時から評判もので更に~」

 この新聞コピーは、あたしが有栖川公園の都立中央図書館でマイクロフィルムをコピーしてもらったもの。全文読む機会は滅多になかろうから全部引用です。ただしコピー不鮮明にて旧字、誤字はご諒承下されたし。

 「奇妙なのは手の握り方が普通の人と全然反體に左手を前にして握る。恐らく寫眞で見た打球後の姿勢を打球前の姿勢と感(勘)ちがへして手の入れちがつたままを真似た為であらうが、癖になってしまつた氏は今に自説を固執し決して握りをかへようとはしない元々運動に素養がないから技術は遅々として進まず長年間の研究で得た結果はドライブの最長距離が三十ヤードから四十ヤード程度で、若手の後進が二三百ヤードを平気で飛ばすのにくらべると十分の一にも及ばない。ただ草中に見失はれた球を逸早くさがし出すことが大の得意でこゝとにらんだ場所には百発百中決して球から五インチと離れたことがない。併し氏の目的は技術の進歩ではなく、短命を宣告された健康状態を運動によって回復して見せようとするにあり、この目的は見事に達せられた。心臓病は一年足らずのうちに奇麗に回復して医師をおどろかせた。併しそれにもまさるよろこびは従前の悲観的な気分があかるい世界にかはり仕事の能率が倍にも三倍にも上つたことだ。斯うして運動の有難味を体験した氏は十数年間一日も欠かさず起き抜けに原野に現れあけの烏や早起きの茶屋の婆さんをおどろかせながら日に三時間野原のかなたこなたと球を打ちまはった。最近この老運動家を中心に新しいゴルフ倶楽部が生まれたが、保土ヶ谷や駒沢のリンクが五百圓から千圓の入會金を〇しブルジョア気分をほこつてゐるに對しこの倶楽部は何こまでも地味に運動愛好の初心者を集めゴルフをもつと一般的なものにしようとしてゐる。なお入會希望者は市外戸塚町諏訪〇〇方ゴルフ倶楽部へ連絡すれば誰でも歓迎するとのこと。」

 なお、井上勝純著「ゴルフ、その神秘な起源」によると、鳥羽老人の姿を認めた洋行帰りの同好の士らが次々に加わって、次第にシュートコースが出来たとか。また球拾い名人は鳥羽老人ではなく原老人で、当時のボールは新品で1個2円(今日の1万円)也。ここで生まれた「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」の発会式は同月13日に行なわれ、会員80名が参加したとある。陸軍練兵場の兵隊がいない時間にもぐり込んでプレイする訳で、称して戸山ヶ原のアパッチゴルファー。しかし人数が多く、かつ大っぴらにやられるようになって、陸軍もついに黙認できずにゴルフ禁止と相成った。締め出された同倶楽部員たちは、やがて「武蔵野カンツリー倶楽部」設立に動き出すことになる・・・と書かれていた。

 大久保・戸山ヶ原は大衆ゴルフ発祥の地でもあったんですねぇ。多くの画家がスケッチをし、文士が散歩をし、時に梅屋庄吉の映画会社が野外撮影をした大正時代の戸山ヶ原でした。


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百人町上空ツェッペリン低飛行す [大久保・戸山ヶ原伝説]

kunieda1_1.jpg 岡本綺堂は関東大震災で麹町を焼け出され、1年3ヶ月の大久保暮しだったが、同じく麹町から移って約7年を百人町で過ごしたのが邦枝完ニだった。永井荷風に私淑し、荷風推薦で処女作「廓の子」が「三田文学」に掲載。同誌編集にも携わった。江戸の風情・情緒を主にした娯楽小説で人気作家へ。彼の長女で、俳優・木村功と結婚した木村梢が、少女時代を回想した「東京山の手昔がたり」(世界文化社刊)で「大久保時代」を書いている。

 麹町三宅坂で新婚生活を送った邦枝完二だが、母(姑)と嫁の仲が悪く、嫁と二人で大久保に移転。関東大震災の約半年前のこと。寂しくなった母は、嫁いびりをあやまって大久保に押しかけてきたとか。場所は大久保百人町で岡本綺堂宅の隣と書いてある。邦枝が先だから、後から岡本綺堂が引っ越してきたってことだろう。隣とは東西南北のどっち隣だったのだろう。「すぐ裏は陸軍練兵場の戸山ヶ原が見渡す限り広くあり、江戸の頃より躑躅の名所と言われただけあって、何処の家にも躑躅の花が美しく咲き競う町であったという」。

 大震災は「大揺れに揺れた家は壁に隙間が出来たり、茶棚のもの全てが落ちて割れたりはしたが、誰も怪我もなく無事であった」そうな。梅屋庄吉邸の震災被害も少なく、この辺は地盤が固いのかも。そのうちに襲って来るという大地震に、ちょっと安心なり。さて、著者はそこで大正15年11月に生まれた。産まれたのは市ヶ谷・一口坂の産院。梅屋庄吉といい、なぜか「市ヶ谷・一口坂~大久保」の縁が重なる。

 著者が大久保暮しではっきり思い出せるのは、ツェッペリン(235mの飛行船)だと書いてあった。「近所におせんべ屋があり、そこの娘さんが私を可愛がってくれて、その日も遊びに行っていた。二階から物干台に出ていた時、私たちの真上を大きな灰色のものが空一面を覆うようにゆっくりゆっくりと横切って行った」。余りの驚きでひきつけを起こして、母に抱きかかえられて医者に行ったとか。昭和4年の夏、世界一周の途中で霞ヶ浦飛行場に降りたツェッペリイ伯号だろう。

 なお邦枝家の先祖は、徳川慶喜公と共に駿府に行き、江戸は麹町平河町に戻ってきた旗本らしい。昭和5年に平河町に戻った国枝完二は昭和6年「歌麿をめぐる女達」をはじめで流行作家へ。永井荷風全集には彼の「おせん」の序文や、「偏奇館雑談」(荷風・邦枝)が収録されている。

 次回は邦枝完二が大久保に越してきた数ヶ月前の「東京日日新聞」に載った「戸山アパッチゴルファー」の記事を紹介。


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