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岡本綺堂、1年3ヶ月の大久保暮し [大久保・戸山ヶ原伝説]

kidounikki.jpg 大正12年9月1日、関東大震災。この時、百人町の梅屋庄吉は避暑で千葉の別荘にいた。9日になって梅屋邸の様子がわかる。「瓦、壁落ちるも母屋、倉庫、盆栽、フィルム全部無事」。13日になって若者7名に米を背負わせて上京。亀戸からは徒歩になった。(車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」)

 この大地震で、麹町元園町(元園町1丁目19番地=現・麹町2丁目12番地)の家が焼失し、17歳からの日記、蔵書、家財を失って大久保に引っ越してきたのが岡本綺堂だった。その地は大久保百人町三百一番地。綺堂53歳、大正13年3月18日だった。「生まれて初めての郊外生活なり」と日記に書いた。百人町の家の下見がこう書かれている。「駅から遠くないところで、靴屋の横丁をゆきぬけた左の角、家の作りはなかなかよい。九畳、八畳、四畳半二間、三畳三間で、庭は頗る広い。家賃は百三十円、少し高いやうにも思はれるが、貸屋普請でないのと、庭が広いのが気に入って、これを借りることにほぼ決定。」 ガーデニングも愉しもうと鋤・鍬も買って、18日に引っ越し。

 同文の後に括弧括りで子息・岡本経一氏がさらに克明な説明を記している。「山の手線新大久保駅を降りて中央線の大久保駅にむかって二つ目の横町を右折して行くと戸山ヶ原に突きあたる。その左側か大久保百人町三百一番地である。庭が百坪以上もあり、玄関脇に桜の大木があって、その花盛りには目印になるようであった。五月になると大久保名物のつつじの色が一円を明るくした。江戸以来のつつじ園はもう一軒も残っていないが、どこの家にも庭があって、いろいろなつつじの花色がめざましかった。(中略) 家の裏側から北に見渡される戸山ヶ原には、尾州候の山荘いらいの遺物のような立木の中に、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦の建物と、明治製菓会社の工場にそびえている大煙突だけが目立った。季節によって変化のある郊外風情であったが、いまは新宿区百人町二丁目十二番地、戸山ヶ原もすっかり開発されて、昔を偲ぶ夢もない」

 なお岡本綺堂は明治5年、高輪泉岳寺生まれ。父は佐幕党で奥州白河から横浜・居留地に潜伏して、英国公使館のジャパニーズ・ライターになる。公使館が麹町に移って、岡本家も明治14年に麹町に移転。「半七捕物帳」の三浦老人の住居を大久保に設定したのは偶然だったらしい。百人町の暮しは、麹町元園町に新築の家が完成と同時に終わっているが、その間の人気作家の日々の暮しが日記に書かれていて興味深い。★参考は昭和62年青蛙房刊の「岡本綺堂日記」(編集・発行は子息・岡本経一)。写真は同書の写真ページ。★百人町の岡本綺堂宅があった辺りの写真は「2011-12-22」に掲載。


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大久保・梅屋邸で孫文・栄慶齢の結婚披露宴 [大久保・戸山ヶ原伝説]

imeyahon1_1.jpg 昨日の続き。・・・梅屋庄吉は映画ビジネスで稼いだ金を、孫文の革命に注いだが、孫文は明治44年(1911)の挙兵に失敗。だがこれが起爆剤になって革命のうねりが生まれた。孫文は逃亡先のロンドンから帰国し、明治45年1月1日に臨時大統領に就任。清は276年の幕を閉じ中華民国が樹立。しかし北京には未だ清朝政府があり、孫文は和議をすすめる袁世凱と対立。孫文が辞表を出して、袁が第二代臨時大統領に。孫文、わずか45日間の就任だった。

 一方、梅屋も慌ただしい日々を過ごしていた。小会社乱立の映画界を強固にすべく、4社連名で「日活」設立に奔走。だが明治45年の明治天皇崩御で株価暴落。取締役を辞任。日活のお家騒動が始まった。彼は改めて「Mカシー商会」の名で映画事業を再開。一方の孫文は袁派に追われて日本に亡命。梅屋邸の庵(屋敷と撮影所の間の、梅屋が盆栽を楽しんだ庵。梅屋は昭和4年に中国から国賓として招待された際に、孫文像と共にこの庵も送った<贈った>そうな。これは同年3月3日の「東京毎夕新聞」に載っているらしいから、縮刷版で読めそう)に隠れた。やがて日本政府も亡命黙認で、孫文は同庵と原宿の“中山寓”を行き来して、さらなる革命への準備に奔走。

 その間に、梅屋庄吉はインド革命で亡命中のバラカトゥラーと孫文を自邸で逢わせたりもした。インドからの亡命仲間の一人が、新宿・中村屋にカレーを伝えたボース。ここでまた余談・・・彼は中村屋店主・相馬愛蔵・黒光の娘・俊子と結婚して帰化したが、その前に俊子をモデルに日々絵を描き続け、彼女との結婚を切望するも黒光に拒否されたのが画家・中村彝(つね)だった。彼は傷心の伊豆大島暮らし(島の露天混浴風呂“浜の湯”脇公園に胸像有り)、島から帰った後の目白のアトリエは目下、新宿区が保存・記念館に準備中。また愛蔵の浮気に苦しむ黒光に恋し、彼女の苦悩を彫刻で表現したのが日本のロダンこと荻原碌山。両手を後ろに跪いて天を仰ぐ顔・・・、あの「女」像は余りに有名だ。

 大正4年(1915)11月、孫文は前夫人と離婚し、27歳下の財閥・宋家次女でアメリカ留学のキャリアを有し、孫文の英文秘書をしていた宋慶齢と結婚。仲人は梅屋夫妻で、結婚・披露宴は大久保の梅屋邸で行われた。犬養毅など錚々たる要人が列席し、大久保は時ならぬ華燭の賑わい。宋慶齢は孫文亡き後に「中華人民共和国副主席」。自身が亡くなる直前に「中華人民共和国名誉主席」の称号が授けられている。ここ大久保・百人町には、中国革命と日中友好のかくも重要な地といえましょう。

 この事実や梅屋の業績は、残念ながら日本・中国に知れ渡ってはいない。それは彼の遺言・・・「ワレ中国革命ニ関シテ成セリハ、孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関係スル日記、手紙ナド一切口外シテハナラズ」によって、遺族や関係者が秘めて来たため。辛亥革命100周年を経て、ようやく日が当たりだしたばかり。2010年8月の上海万博の日本館で「孫文と梅屋庄吉展」が開催。同年9月には北京で「孫文、宋慶齢と梅屋壮吉展」開催の運びになった。なお宋慶齢の妹・美齢は蒋介石夫人。蒋介石亡き後はアメリカに移住。むろん蒋介石も大久保・梅屋邸に足を運んでいた。

 また梅屋夫妻は大正10年に世を騒がせた柳原白連(歌人・びゃくれん)と東京帝大生で宮崎滔天(とうてん)の息子・宮崎龍介との恋も陰でバックアップしていたことが、梅屋壮吉の曾孫・小坂文乃(現・日比谷松本楼の取締役)により平成21年刊「革命をプロデュースした日本人」で明らかにされている。大正時代に長谷川時雨によって書かれた「近代美人伝」の白蓮の記に、今の世に著された小坂著をもって、はじめて白蓮の恋の真相も明かされた感がある。

 梅屋庄吉はその後、千葉・岬町の別荘で昭和9年に67歳で亡くなった。その別荘暮しは百人町・梅屋邸に某が借り住んでいたたためと小坂著に書かれているが、車田著には実名が載っていた。某は昭和11年の「二・二六事件」の理論的首謀者として処刑。梅屋邸は昭和21年に処分されたらしい。

 今は韓流ブームで湧く大久保だが、この地にはかくも偉大かつ壮大な日中のドラマが眠っていたのですね。詳しくは写真の両著をぜひどうぞ。


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大久保に梅屋庄吉の映画撮影所が・・・ [大久保・戸山ヶ原伝説]

umeyatei1_1.jpg 先日の公示地価で、新大久保のコリアンタウンが1.6%上昇。ブームが地価を上げるとは稀有なりとニュースが報じていた。街は様変わりして異国のようになってしまった。昔の大久保・戸山ヶ原を偲んで、かつてホームページで「戸山ヶ原・戸山荘伝説」と題した地元の歴史調べをしたことがある。当ブログでも改めて「大久保・戸山ヶ原伝説」のカテゴリーで復活させることにした。その第1弾は、明治42年にできた百人町の梅屋庄吉・大久保撮影所物語。参考は車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」(六興出版)、小坂文乃「革命をプロデュースした日本人」(講談社)、田中純一郎「日本映画発達史(1)」(中央公論社)。

 「大久保駅」際から北へ。現・社会保険中央病院に突き当たるまでの細長い地が、新宿区百人町2丁目23番地。明治42年(1909)、梅屋庄吉がこの地を詩人・西条八十の実父から1500坪(車田著では3000坪)を購入して邸宅と映画スタジオを作った。武蔵野風景そのままの地で、林を刈って千坪ほどを撮影用にした。現在のキリスト教関係の施設「学生の家」と「テニスコート」、隣の「スポーツ会館」辺り(写真)に現像所、大小道具倉庫、化粧室、弁士や技師や楽士らが住む寮とオープンセット。その南側(大久保駅寄り)邸宅は玄関が大理石の門柱4本と重厚な門扉。入ると大型外国車2台、洋風二階建てに森や池を配した庭。梅屋庄吉の家族と門下生、撮影所スタッフなど百人が住んだとか。

 ここで梅屋庄吉のプロフィール。長崎で貿易・精米を営む梅屋家の養子。子供の頃から侠気発揮で武勇伝いろいろ。明治25年に一攫千金を賭けた事業で失敗し東南アジアに逃亡。シンガポール、香港で写真館を経営。ここで中国が植民地化されるのを防ぐために清朝(しんちょう)打倒を図る孫文と出逢って盟友の契り。資金援助を約束した。写真館は革命の梁山泊と化した。梅屋庄吉はシンガポールでの映画上映で成功し、明治38年(1905)に帰国。パテー社から輸入した極彩色映画フィルムを4、50巻を持ち帰って各芝居小屋で映画興行。本格的に映画ビジネス参入の「Mパテー商会」を設立。当初の屋敷・社屋は千代田区九段北・一口坂。事務所、現像所、弁士養成所などを設け、十数の配給館を設けた。同社制作映画は明治41年の中村歌扇「曽我兄弟狩場の曙」。その一帯は「Mパテー横丁」と呼ばれるほど活気を呈したらしい。

 ここで余談(1)・・・永井荷風の少年期に俳句や小説面で啓発した蘇山人こと羅臥雲は大清公使館の通史官の息子で、清国に帰国するも胸疾で日本で療養。明治35年に亡くなった。荷風は「日和下駄」の最後を眉目秀麗の清客・蘇山人への別れの句で締めくくっている。忘れ得ぬ畏友だった。これまた当時の清国の逸話。 余談(2)・・・昭和53年に一口坂にポニーキャニオンが移転して同社の全盛期を迎えたことがあった。アイドルから人気ロッカー、実力派ミュージシャンが出入りし、周囲に関連会社も出来たりしての活況。あたしも同社に入り浸っての仕事が長く「あぁ、明治の一口坂にも同じような活況があったか」と面白く思った。同社創業者らは映画畑出身者が多かったと聞き及んでもいる。

 話を梅屋庄吉に戻そう。彼はオッペケペー節の川上音二郎の「本郷座・大楠公」の芝居を、本郷座裏の空地で撮って大ヒット。貞奴もこの芝居、映画を観たのだろうか。併せて浅草に映画常設館も続々誕生。ニュース映像を撮ったり、英国から記録映画「旅順開城の実況」を輸入するなどの事業発展で手狭になったこと、自社撮影所を持つために新宿・百人町への移転だった。それまでは市外で撮影したり、戸山ヶ原などで野外撮影していたらしい。

 大久保撮影所の第一号作品は、板垣退助の要請で明治42年に両国・国技館(大鉄傘)で上映の「大西郷一代記」。さらに白瀬中尉の南極探検にカメラマンを帯同させて、明治45年に全国公開。この収益金で探検費、隊員と船員の手当ても賄ったとか。梅屋庄吉はこれら映画ビジネスをはじめの収益を、孫文の辛亥(しんがい)革命の軍費や武器調達に惜しげもなく注いでいた。話が長くなったのでまた明日~。

 追記:国会図書館デジタルコレクションの大正1年「東京市及接続郡部地籍地図・下巻」の「豊多摩郡」の目次より「大久保村百人町」より「大久保村大字大久保百人町字仲通北側西部」に<Mパテ撮影部>有り。


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チャリ日和閑地(あきち)巡りの夢幻かな [新宿発ポタリング]

ohkubo1_1.jpg 先日、永井荷風「日和下駄」は第八章「閑地(あきち)」に書かれた「戸山ヶ原」と「鮫ヶ橋」を自転車で彷徨った。

 これは24日の朝日新聞「東京撮影所物語」最終章に「孫文の支援者として知られる梅屋庄吉が、JR大久保近くに映画スタジオを明治42年(1909)に建設~」の記事に、思わず「オォ!」と唸ってしまったのが発端だった。

 かつて<戸山ヶ原・戸山荘伝説>なるタイトルで地元の歴史調べをしたが、迂闊にも見逃していた大事実。さっそく図書館で車田譲治著「国父孫文と梅屋庄吉」、小坂文乃「革命をプロデュースした日本人」を借りてきた。撮影所が併設された梅屋邸は、その北側が戸山ヶ原に隣接する現・百人町2丁目23番地の約三千坪。この梅屋邸にはとんでもないドラマは展開されていた。

 梅屋邸調べの最中に、大久保に撮影所が作られた27年前の明治15年、山岡鉄舟が四谷に移転して「春風館道場」を併設した屋敷が、現・迎賓館横の学習院初等科の地だったことも知った。同地を確認してみたかったのと、学習院初等科前の道を下れば「南元町公園」で、その辺りが「鮫ヶ橋」。学習院、迎賓館、赤坂御用地に隣接してかつての貧民窟があったとは・・・。その谷底を彷徨えば信濃町辺りに「滝沢馬琴終焉の地」があるはずだが。いやはや、そのどれも史跡案内などはなくて、曖昧模糊とした江戸・明治巡りになった。ポタリング終え、地元・大久保からご近所・四谷辺りの歴史書などを、改めて読み漁ることに相成候。

 地元・大久保でさえ、今は降って沸いたようなコリアンブームで商店街は歩けぬ程の賑わい(写真)で、地価まで上昇した。江戸・明治は限りなく遠くなった。 <チャリ日和閑地(あきち)巡りの夢幻かな>


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子規庵のじゃがたら雀異邦鳥 [私の探鳥記]

sikiann1_1_1.jpg 根岸の「子規庵」に区切りをつけようと思ったが、ひとつ引っかかった。子規が庭の「追込籠」で飼っていた鳥のこと。まずは「青空文庫」でも読める「病牀苦語」の一部を要約・・・。「或人の庭に捨ててあった大鳥籠は、土地に据える円錐形の高さ一丈ほどのもの。これを窓際に設けた。キンパラ二羽、ジャガタラ雀一羽、鶸(ひわ)とキンカ鳥の各番(つがい)、カナリア三、四羽」を入れた。「仰臥漫録」にも「じゃがたら雀が籠からぬけて糸瓜棚松の枝など飛びめぐるをみつける」などの記述あり。

 あたしは鳥撮りだから、知らぬ鳥が気になる。ネット検索すると「雀をジャガタラ雀と呼んで、子規の雀を愛しむ心がみえてくる」なる文章があったりして、「ちょ・ちょっと待ってくれよ」と思う。いくら子規でも、雀を「ジャガタラ雀」とは言わぬだろう。きっとそういう名の鳥がいたに違いない。野鳥サイトを巡れば沖縄で「ジャガタラ雀」を撮っている方がいた。ジャカタル雀、キンカ鳥、キンパラ共に主に東南アジアのスズメ目カエデチョウ科。

 まずキンカ鳥はオーストラリアやインドネシア原産で各国に移入。♂の嘴が鮮やかな赤、喉から脇腹がゼブラ模様。英名はゼブラフィンチ。キンピラ(金腹)は黒の頭・胸で腹は赤茶色。シマキンパラも同じくアジア分布で、胸から腹に鱗(網)模様がある。この模様がさまざまで亜種多彩。インドネシアの亜種が「ジャカルタ雀、アミハラ」などと呼ばれていた。子規の庭には、明治の頃に盛んだった輸入鳥が囀っていたことになる。

 子規は「仰臥漫録」で渡り鳥と記しているが、「留鳥」だろう。日本では「輸入鳥」で、「ジャガタラ雀」は籠抜けして沖縄で繁殖している。同じくアジアからの外来鳥ガビチョウ、ソウシチョウは東京でも繁殖、生き残っている。


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乳搾り滴る白や花馬酔木 [花と昆虫]

asabi1_1.jpg 先日、新宿御苑で「キブシ(木五倍子)」を「馬酔木」と間違えたが、一昨日の墓参りで「馬酔木」を見た。共に花期が同じで、房状・壺形・白・・・と花の感じが似ていた。だが、間違えたらエラいことになる。「木五倍子」の実は「お歯黒」の染料になるが、「馬酔木」の葉には毒がある。馬が食えば足が萎え、別名「馬不喰(うまくわず)」。鹿も食わぬから、奈良公園には「馬酔木」だけが増えているとか。ほ乳類は食べてはいけない。

 正岡子規の根岸短歌会から伊藤左千夫らが創刊したのが「馬酔木」。こちらは「あせび」ではなく「あしび」。手許の本では、どんな理由で「馬酔木」を題名にしたのかがわからず。左千夫は今の「錦糸町駅」辺りで牛乳搾取業をしていた。タコ入道のような風貌に無骨な手をしていたが、歌を詠み、茶の湯をたしなみ、純情小説「野菊の墓」も書いた。<牛飼が歌よむ時に世の中の新しき歌大いにおこる>は有名な歌とか。短歌機関誌に「馬酔木」としたワケは、牛の乳を搾りつつ、その白乳色に馬酔木の花を想ったのじゃないかと勝手に想像した。<乳搾り滴る白や花馬酔木>


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跪き崇め撮らすやイヌフグリ [花と昆虫]

inufuguri1_1.jpg 昨日の「キブシ(木五倍子)」に次いで、これまた変な名の「オオイヌノフグリ(大犬陰嚢)」。日本のイヌノフグリは淡いピンクの3~5ミリの花で、その数ミリの実が犬のふぐり(陰嚢)に似ているそうだが、絶滅危惧種で滅多にお目にかかれない。比してこのオオイヌノフグリはヨーロッパからの帰化植物で大繁殖。その実は、それほど犬のフグリに似ていないそうな。この季節、その淡いブルーの花が一面に咲いている。一日花らしく、散っては次々と次の花が咲く。

 小さな植物だから、花を撮ろうとすれば地に膝をつけ、さらに這いつくばるようにしないと撮れない。大繁殖のオオイヌノフグリより、むしろそんな恰好で写真を撮っている人の方が珍しい、可笑しい。<跪(ひざまず)き崇(あが)め撮らすやイヌフグリ>


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お歯黒の凄艶秘して花木五倍子(キブシ) [花と昆虫]

hanakibusi1_1.jpg 根岸の「子規庵」の次は新宿御苑ウォーク。年間パスの手続きをして門を入った処に、垂れ穂状の花が咲いていた。かかぁが「馬酔木(あせび・あしび)」と言った。「馬酔木」なら子規の根岸短歌会の、伊藤左千夫らが創刊した機関紙。

 花の様子が「馬酔木」に似ていたが、それは「キブシ」だった。「八丈キブシ」らしい。キブシは「木五倍子」と書く。読めない漢字には、曰くがある。調べたら、こうだ。・・・ウルシ科の木の葉の付け根にできる虫の瘤が「付子(ふし)」。これが徐々に膨らんで五倍ほどに大きくなって「五倍子(ごばいし)」。タンニンを含んで、染料の原料になる。そして、この木(キボシ)の実が、「五倍子」の代用で使われたので「木五倍子」。

 で、これが「お歯黒」の染料になったてぇから驚くじゃないか。今度は逆に「おはぐろ」を漢字で求めれば「鉄漿(てっしょう・かね)」、御所では「五倍子水(ふしみず)」とか。「お歯黒」調べはもっと面白いが、長くなるので今回はここまで。


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関口夏央「子規、最後の八年」 [読書・言葉備忘録]

sikibon1_1.jpg 「上質紙80㎏?」 それほどに厚い本文紙。頁をめくると数頁まとめてめくったかと思うが、それで1頁の、かくも「重厚」な本だった。子規最期の8年を描いているが、読み始めは登場人物らの説明が過去に飛んで時系列が複雑で、いささか読むのに難儀した。それでも中盤から終盤にかけて子規の病魔との闘い、子規をとりまく人間模様が伝わってきた。併せて高浜虚子著「回想 子規・漱石」、子規の「仰臥漫録」を読んでいたので、「あぁ、ここもあそこも引用で・・・」と出典探しも面白かった。

 膝を打った個所がひとつあった。子規の元に山本露葉が訪ねてくる。著者は露葉の子の一人が山本夏彦で、彼が74歳で書いた「夢想庵物語」の一文を紹介する。「父(露葉)は句を吟じ、歌を詠んだ。母も歌を詠んだ。それは芸術ではなかった。たしなみであった」。引用はさらに続く。「いったい私たちが歌をよむことを忘れたのはいつごろからだろうか。子規が歌を芸術にしてしまって以来で、それまであれは風流だった、遊びだった、文化だったと私はいまだに残念に思っている」

 同文引用後に、著者はこう書いている。「山本夏彦一流のけれん味を宿した言い分だが、こういいたい人もあるのだということは、記憶しておいてよい」

 いや、あたしは子規の歌や句、虚子の句も「芸術」とはとても思えぬ。あたしの母も叔母も、老いてから歌を詠んでいた。あたしも老いた今、俳句を風流で、たしなみで、慰みで、遊んでいる。俳人じゃないから句集を読み漁ったりはせぬ無知領域のあたしだが、句に狂気した杉田久女の一時期の句には「ある種の気」が漂っていて、こりゃ別格かなと思うが、そんな句は滅多にない。


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迷い入る六区ネオンもセピア色 [新宿発ポタリング]

arizono_1.jpg 根岸・子規庵の机を見て、浅草の京伝机塚へ。石碑裏には大田南畝による山東京伝の略歴が刻まれていた。南畝と云えば永井荷風になる。荷風の「大田南畝年譜」をはじめで南畝好きになった方も多かろう。そして荷風さんの浅草と云えば飯田屋、尾張屋、アリゾナ、ロック座か。あたしは「アリゾナ」(写真)で遅い昼食を食った。

 楽しいポタリングだったが、♪~行きは良い良い帰りは恐い~。下町から山の手への帰りは坂を幾つか越える。ひたすらペタルを漕いでいたら、ふと若き日の浅草体験が甦ってきた。

 昭和40年(1965)のころ。渥美清が浅草から旅立ち、ビートたけしがフランス座で芸人修行を始めるまでの間だろう。母が江戸千家と古流のお師匠さんで、出稽古中心で浅草の芸者衆にも教えていたらしいが、金曜日が家稽古になった時期がある。邪魔になったあたしは、小遣いをもらって外出と相成り候。で、浅草に通った。三本立て映画を観て、芸人が幕間に寸劇をやるストリップを観終わると帰り時だった。<迷い入る六区ネオンもセピア色>

 大久保台地への最後の坂を登りきると我が家に着く。あたしにも20年余も使い込んだ机が待っていた。


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京伝の机碑恋し彼岸かな [大田南畝(蜀山人)関連]

kyodentukue1_1.jpg 「子規庵」から、再び言問通りに戻って浅草へ走った。目指すは浅草神社脇の「山東京伝の机塚」。あぁ、なんと哀しや、駐車場に邪魔な杭でも建っているような、ぞんざいな感じであった。京伝については、このカテゴリーで、すでに登場済。

 この机塚は文化13年(1816)、56歳没の翌年に弟・京山が建立。史跡案内板通り、表面に京伝による「書案之紀」が刻まれている。書案=机。「9歳の時に寺子屋に入った際に、親が買ってくれた天神机で、これを生涯愛用して百部を越える戯作を書いた。50年も使ったのでゆがみ、老い込んださまも哀れだ」の文に、狂歌<耳もそこね あしもくじけて 世にふる机 まれも老たり>と詠まれている。裏面には常に京伝を引き立て続けた大田南畝による京伝略歴が刻まれていた。

 京伝の最初の妻は、吉原の遊女・お菊さんで3年で病死。40歳になった7年後に同じく吉原・玉屋の「玉の井(百合さん)」23歳を落籍。二人は仲睦まじく、京伝はその後に遊里に足を踏み入れなかったとか。小池藤五郎著「山東京伝」によると「机塚の落成は、旧友を塚のほとりの茶屋に招き、供養の宴がはられた。京山が中心になっているが、未亡人の夫恋しさの現われで、費用は全部、京伝の遺産から出された。百合さんにとって京伝は夫・父・恋人の存在」だったと書かれていた。百合さんは翌年に恋しさの余り狂死。

<京伝の机碑恋し彼岸かな>

 子規の机には立て膝の凹みが細工されていて、常に妹・律が傍にいた。京伝の机には両親の愛情が満ち、手鎖50日の刑を励ましたお菊さんが、円熟期を支えた百合さんが傍にいた。


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芋坂の團子頬張り明治かな [幕末維新・三舟他]

goindennozu_1.jpg 「子規庵」から日暮里方面に歩くと薬王寺跡があり、芋坂際に「羽二重団子」があった。薬王寺跡に「御隠殿跡」の史跡案内板があって、ここは輪王寺宮の別邸とあった。「おぅ、彰義隊に擁立された宮様じゃないか」。最後の輪王寺宮(日光輪王寺、浅草寺、上野寛永寺の山主)は、後の北白川宮能久親王。当ブログ<幕末維新・三舟他>で、その数奇な人生をちょっとクローズアップしたことがある。

 「あぁ、こんな所に別邸を持っていたんだぁ」。史跡には写真の「御隠殿の図」があった。今は暗渠の音無川から谷中の崖に向かって描かれた図。この絵を持って谷中側に向けば、三千数百坪の当時の様子が伺える。右端に「芋坂」、左端に「御隠殿坂」が描かれている。輪王寺宮は「御隠殿坂」を経て上野寛永寺の本坊(現・東京国立博物館辺り)と行き来したのだろう。

 芋坂際の音無川のほとりに文政二年から営業していたのが「羽二重団子」。子規は<芋坂の團子屋寝たりけふの月>などを詠んでいる。森まゆみ著「彰義隊遺聞」には同店主人の、次のような話が記されていた。「上野戦争当日、家人は店を閉めて避難していたが、帰ってみるとお山から逃げた彰義隊が食糧を取り、家の野良着に着替えて落ちのびた様子。店にある槍や刀は、彼らが邪魔だと置いて行ったものです」

 あたしは525円のお茶と團子のセットをいただきつつ、慶応4年=明治元年の彰義隊を想った。この時に「御隠殿」も焼けたそうな。<芋坂の團子頬張り明治かな>


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客が来てメジロ遠のき子規の庭 [新宿発ポタリング]

sikian2_1.jpg 子規庵は、JR「鶯谷」北口の根岸2丁目にあった。言問通りを上野桜木を経てJRの陸橋から眺めると、崖の上に墓地が広がり、崖下にラブホテルがひしめいていた。墓地と性の享楽場が渾然とする希有な街並み。そこを縫って子規庵に至った。

 子規が根岸に移ったのは明治25年。現在の子規庵より200㍍ほど離れた陸滑羯(くがかつなん/新聞「日本」社主)の門前だった。すでに近くを汽車が通ていたが、未だ「根岸の里」の面影が残っていた。転居通知に<鶯の遠のいてなく汽車の音>と詠んだ。ホトトギスもクイナも鳴いたそうな。

 江戸時代の「根岸の里」は、大店の別荘と妾宅が多かった。彰義隊の冠になった輪王寺宮の三千坪の別邸もあった。子規もまた<妻よりは妾の多し門涼み>と詠んでいる。「門涼み」は門前に出ての夕涼みで季は夏。旦那と縁が切れた妾らが色街を形成していったのだろうか。今は眼もくらくらするほどのラブホテル街。<死と性のカオスも春や子規の庵>

 今年、子規没後百十年で庭の写真撮影OKとか。子規が日々仰臥して眺めていた庭を、縁側に座って日向ぼっこしつつ観ていると、ウチのベランダと同じく庭木にミカンが刺さってい、メジロが遊びに来ていた。多くの俳人・歌人が集った子規庵。今はもうウグイスは来ぬがメジロでもう一句。<客が来てメジロ遠のく子規の庭> 


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春の陽やペタル巡りの江戸明治 [新宿発ポタリング]

sikian&c7_1.jpg 昨日、春の陽に誘われて今年初のペタリング。気儘な読書遍歴が小沢昭一から正岡子規に移っていたので、まずは根岸「子規庵」へ。

 NAVI自転車ルート探索で8.3㎞、39分、167calと出た。大久保通り~後楽園~言問通り~鶯谷北口で「子規庵」(写真)へ。子規が詠んだ<芋坂も団子も月のゆかりかな>の「羽二重団子」で団子屋へ。団子を頬張りつつ、ここからは気儘な散策。台東区観光パンフを見れば、ひと漕ぎで浅草なり。予てより見たかった浅草神社脇の「「京伝・机塚」へ誘われた。

 言問通りで浅草へ。「京伝・机塚」を見れば碑文に大田南畝の文字。そうなれば、これまた一度は・・・と思っていた荷風さん馴染みの「アリゾナ」で昼食と相成候。帰りは上野から湯島天神の梅を左に見つつ、切り通し坂を頑張ってペタルをこぎ漕ぎして後楽園を経て帰還。約20㎞の充実初ペタリング也。


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太陽の巡る位置こぞ頼りにて [暮らしの手帖]

yoake3_1.jpg 「天変地異」続き。人の模範たる役人、政治家、教師、警官が今は「悪い人」の代表に堕ちてしまった。いったい何を信じたらいいのだろう。

 冬の間、部屋の中に細長く伸びていた日向が、一気に巾広くなった。ブログのページビュー記録を見たら、東京スカイツリーに朝日が絡む写真が閲覧されていて「アッツ」と気が付いた。吾が家から見て、東京スカイツリーに昇る朝日が絡むのは4月5日前後と9月10日前後だった。天変地異、天候不順、そして人の心がいくら変わろうと、これまた「不変」だろう。

 何もかも狂い出した世に、やはり「不易」は頼もしい。と改めて思った。<太陽の巡る位置こぞ頼りにて>


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沈丁花移り香消して朝帰り [花と昆虫]

jincyouge2_1.jpg 「おまいさん、たまには艶っぽい句をお詠みよ」と、かかぁが言った。

<沈丁花移り香消して朝帰り>

 「おまいさん、それはいったい何時のことだぇ」

 沈丁花は(ちんちょうげ)ではなく(じんちょうげ)で季は春。彼方此方で咲き出しました。


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遅き春ねぐせのやうな辛夷かな [花と昆虫]

kobusi1_1.jpg 今年の春は遅い。梅や桜は一ヶ月遅れの開花か。いったいどうしたのだろう。冬の間から綿毛に育まれていたコブシの蕾も、いっこうに綻ぶ気配がない。よく見ると、綿毛が寝癖のように乱れたまま。

 <遅き春ねぐせのやうな辛夷かな> と詠んみて、あたしは改めて「惚れた腫れた」をはじめ人の業・性・肌・情を詠まぬなぁと思った。短歌を詠まぬ故もここにある。泣いたり叫んだりの映画、テレビドラマ、それが得意の俳優も蛇蝎のごとく嫌い。

 テレビは震災を何故にドラマ仕立てにするのだろう。人の不幸や事件・事故・災害がおこると、嬉々とするニュースキャスターもいる。あぁ、嫌だイヤだと思う。


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荷風記す南畝の也有ウズラかな [永井荷風関連]

 ブログ更新せぬも、日々六百程の頁ビュー有り。昨日、二年も前の<揃い踏む南畝荷風のウズラかな>が読まれていて、ちょっとうれしかった。横井也有翁の俳文「鶉衣」を、大田南畝が編・刊していて(共に江戸時代の話)、これを南畝好き荷風さんが言及せぬわけがないと書いた。ネット調べをしたら、それなりに荷風文の引用紹介があるも、どれも出典が記されていない。孫引きなのか。全集を調べたら「雨瀟瀟(しょうしょう)」の中程にあった。その二年前のブログで「その部分を後日に引用紹介する」と記したままだったので、二年越しになったが、改めて無学の私流に( )にひらがな、意味を加えて引用紹介です。

 まずその前に「雨瀟瀟」についてと、以下文に至る経緯を紹介。・・・同作は荷風四十二歳正月脱稿。荷風さんは渡米時代の旧友で、今は某社取締役の彩牋堂なる戯号を有するヨウさんと親交を深めていた。ヨウさんが木挽町で薗八節を習っていて、荷風も共に通い出していた。ヨウさんは色気ではなく、芸を仕込むのも道楽と十九の芸者「小半」を囲った。妾宅の土地探しや普請にも立ち会った荷風さんは、その新築完成祝に「彩牋堂の記」を書くことを引き受けた。それを書こうと思ったのも、平素「鶉衣」の名文を慕う余りに出たもの・・・と也有「鶉衣」の素晴らしさを記したのが以下の文。 

 ・・・鶉衣に収拾せられた也有(横井)の文は既に蜀山人(大田南畝)の嘆賞措(お)かざりし處今更後人の推賞を俟(ま)つに及ばぬものであるが、わたしは反復朗讀する毎に案(机の意だろう)を拍(う)つて此文こそ日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり千年の後と雖(いえど)も必ず日本文の模範となるべきものとなすのである。其の故(わけ)は何かといふに鶉衣の思想文章ほど複雑にして薀蓄(うんちく)深く典故(てんこ:故事)によるもの多きはない。其れにも係はらず読過(読破)其調(そのしらべ)の清明流暢なる實にわが古今の文學中その類例を見ざるもの。和漢古典のあらゆる文辭(文書の言葉)は鶉衣を織成す緯(い:横糸)と成り元禄以後の俗體はその經(けい:縦糸)をなしこれを彩るに也有一家の文藻(文才)と獨自の奇才とを以(もつ)てす。渾成(一つにまとめあげること)完璧の語こゝに至るを得て始て許さるべきものであろう。


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ずるずるとバイオフィルムやシギの餌 [私の探鳥記]

tounen1_1.jpg <ずるずるとバイオフィルムやシギの餌>

 この句というか文言は、俳人には理解不能だろう。昨日の新聞に5段抜きで、「シギ、干潟の膜ペロッ」のタイトルで、シギの仲間が「バイオフィルム」を食べていることがわかったと載っていた。「バイオフィルム」は細菌や微細な藻類などが出すヌルヌル物質。

 研究者が写真(左からトウネン、ヨーロッパトウネン、ハマシギ)のようなシギの採餌観察から、そこにゴカイ系生物がいるワケもなく・・・と調べて、小型シギらが「バイオフィルム」を食べていて、なかには1日の餌の6割強を占めて、まさに主食になっていたことが判明した、とあった。

 そんなことが今頃になってわかったんですねぇ。この分野の研究がいかに遅れているかにも驚いた。今朝の新聞にも「メボソムシクイ」の鳴き声が三種あると疑問に思った研究者が、190万~300万年前に3種に分かれていたことがわかったという記事が載っていた。


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紅梅や咲くと同時に姥になり [花と昆虫]

koubai2_1.jpg 咲いた梅は、どこか水気足らずの乾いた感がある。花弁、オシベ、メシベも干からびたように縮れ気味。艶がない。そう思えば、節曲がった枝も木肌も、他の木にない枯れ切った風情。いかにも隠居好みぢゃないか。<紅梅や咲くと同時に姥になり>

 従って、梅は開花直前の一瞬が色っぽい。<紅梅の朱唇ほころぶ色気かな>

 写真をよく見ればメシバが3本あった。「八ツ房梅」という種はメシベ8本もあって、八つの実が成るそうな。閑ゆえ、そんな観察から次第に「梅好き」となり、自分も枯れ切ってしまう気がした。いや、待てよ。梅は「枯れた艶」ってぇのを具現した花で、観賞に奥が深いのかも知れない。今度は開き干からびた感の写真で、「枯れた艶」を詠んでみようか・・・。


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クロッカス閉じて開いて幾度ぞ [花と昆虫]

crocus4_1.jpg ベランダのクロッカスが咲いた。忘れていた球根が年々春の訪れと共に開花し、それに驚いて詠んできた。最初はまず驚いて・・・<クロッカス有為転変に春を告ぐ> 次が植わったままの球根が次第に小さく衰えているように感じて・・・<クロッカス年々萎(しを)る我が身かな>

 今春、また新たな発見。見事に咲いた翌日は雨で、まぁ、見事に閉じた(写真下)。温度変化でかくも見事に開いたり閉じたりする花と知った。今春のクロッカスの句は・・・<クロッカス閉じて開いて幾度ぞ>

 閉じたり開いたりする花は、他にチューリップをはじめいろいろある。萎れた我が身も、また元気に咲き戻らないかしら。

crocus3_1.jpg


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二分咲きの桜に気早メジロ舞ひ [新宿御苑の野鳥]

sakura&mejiro1_1.jpg 3月3日の御苑散歩。二分咲きの寒桜に、早くもメジロが蜜を求めていた。「メジロもせっかち、撮るあんたもせっかち」とかかぁが笑った。

<せっかちね桜のメジロ撮るあんた> おぅ、よく言うぢゃねぇか。 <二分咲きの桜に気早(きばや)メジロ舞ひ>


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ニワトコや魔力を秘して芽吹きけり [花と昆虫]

niwatoko1_1.jpg 昨日の新宿御苑で春探し。遅い春を待ちかねた感で新芽と蕾を一気に吹き出したニワトコ。蕾はブロッコリーのような緑の塊。ニワトコ・・・どんな字だろう。

 スイカズラ科。「庭常」「接骨木(湿布剤になった)」。古名は「ミヤツコギ=宮仕う木、造木」。なにやら神事に関係あるらしい。御幣(幣束の敬語。お祓いをする時に用いる細い木に紙などを挟んだ祭具)の木。魔除け。薬草。果実酒材料。おや、西洋でも魔系か。興味がないので読まぬが、ハリーポッターの魔法魔術学校の校長が使う魔法の杖が「ニワトコの杖」とか。

 またひとつの植物を知った。やがて白い花が咲き、赤い実をつける。 <ニワトコや魔力を秘して芽吹きけり>


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白黒の世界も一夜江戸の雪 [散歩日和]

sirokuro_1.jpg 東京では、積雪は年に一度あるかなし。珍しいゆえ、もう少し雪を詠む。雪の日は「うるう年のうるう日」で、野暮用で新宿三丁目へ。用を済ませて副都心線に乗り込めば「走りません」の車内放送。歩いて帰った。写真はその際に撮った花園神社。うっすら積もった雪で、にわかに景色はモノクローム。

 今、小沢昭一の著作を数冊読んでいる。芸、芸人の話。「話にさく花」の「あとがき」でこんな風にまとめていた。古代ローマの哲学者セネカ著、茂手木元蔵訳「人生の短さについて」の訳者の要約解説を引用で・・・

「人生は短いが良く使えば長い。すなわち実務を捨て、自然を見つめる暮らしをすればよろしい」。アッという間に過ぎた芸人人生を振り返って、これからは実務(仕事の芸)を止めようと結んでいた。あたしも実務を僅かに引きずっているが、隠居生活に入っている。20代半ばからのフリー生活を振り返れば、ただただ忙しかった。「忙しい=心を亡くした」アッという間だった。

 改めて先日の雪をゆっくり見つめ直して、もう一句・・・ <白黒の世界も一夜江戸の雪>


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カラスらも諍ひ越えてキレてをり [私の探鳥記]

karasu2_1.jpg 自宅ベランダから戸山公園・箱根山(尾張藩下屋敷跡)を見ると、またオオタカらしきが飛んでい、木の枝に止まった。それってんで、カメラを持って家を出たが、また撮れず仕舞い。代わりにカラスの闘いを撮った。

 5、6羽のカラス(撮ったのは2羽VS1羽だが)が、一羽を猛攻撃。見ていて、たじろぐ程の凄さだった。どんな事情があったのだろう。 <カラスらも諍ひ越えてキレてをり>

 キレる原因をちょっと勉強した。甘い物好き⇒大量の糖分処理に⇒すい臓からインシュリン分泌⇒血糖値急低下⇒さらに甘い物が欲しくなる。この悪循環で糖尿病、ホルモン急変化の情緒不安定で「キレ」易くなる。または高血糖値の血が酸性になり、これを中和するのにカルシウム消費。カルシュウム不足で脳細胞に影響⇒「キレ」易くなる。カラスも人の残飯漁りで、糖分摂り過ぎ+カルシウム不足=「キレ」易くなっているのだろうか。そんなバカなぁ。


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春のゆき紅際立ててちょっと降り [暮らしの手帖]

snow1_1.jpg 昨日は雪。あれ程の雪なのに、地下に深く深く潜っている副都心線は90分の遅れ。野暮用で新宿まで出たが、帰りは歩いて帰った。

 この程度の雪が「大変」とは、豪雪に苦しむ方々を思えば、とても言えない。まぁ、こんな程度かなぁ・・・。

<春のゆき紅際立ててちょっと降り>


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