SSブログ

大久保に梅屋庄吉の映画撮影所が・・・ [大久保・戸山ヶ原伝説]

umeyatei1_1.jpg 先日の公示地価で、新大久保のコリアンタウンが1.6%上昇。ブームが地価を上げるとは稀有なりとニュースが報じていた。街は様変わりして異国のようになってしまった。昔の大久保・戸山ヶ原を偲んで、かつてホームページで「戸山ヶ原・戸山荘伝説」と題した地元の歴史調べをしたことがある。当ブログでも改めて「大久保・戸山ヶ原伝説」のカテゴリーで復活させることにした。その第1弾は、明治42年にできた百人町の梅屋庄吉・大久保撮影所物語。参考は車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」(六興出版)、小坂文乃「革命をプロデュースした日本人」(講談社)、田中純一郎「日本映画発達史(1)」(中央公論社)。

 「大久保駅」際から北へ。現・社会保険中央病院に突き当たるまでの細長い地が、新宿区百人町2丁目23番地。明治42年(1909)、梅屋庄吉がこの地を詩人・西条八十の実父から1500坪(車田著では3000坪)を購入して邸宅と映画スタジオを作った。武蔵野風景そのままの地で、林を刈って千坪ほどを撮影用にした。現在のキリスト教関係の施設「学生の家」と「テニスコート」、隣の「スポーツ会館」辺り(写真)に現像所、大小道具倉庫、化粧室、弁士や技師や楽士らが住む寮とオープンセット。その南側(大久保駅寄り)邸宅は玄関が大理石の門柱4本と重厚な門扉。入ると大型外国車2台、洋風二階建てに森や池を配した庭。梅屋庄吉の家族と門下生、撮影所スタッフなど百人が住んだとか。

 ここで梅屋庄吉のプロフィール。長崎で貿易・精米を営む梅屋家の養子。子供の頃から侠気発揮で武勇伝いろいろ。明治25年に一攫千金を賭けた事業で失敗し東南アジアに逃亡。シンガポール、香港で写真館を経営。ここで中国が植民地化されるのを防ぐために清朝(しんちょう)打倒を図る孫文と出逢って盟友の契り。資金援助を約束した。写真館は革命の梁山泊と化した。梅屋庄吉はシンガポールでの映画上映で成功し、明治38年(1905)に帰国。パテー社から輸入した極彩色映画フィルムを4、50巻を持ち帰って各芝居小屋で映画興行。本格的に映画ビジネス参入の「Mパテー商会」を設立。当初の屋敷・社屋は千代田区九段北・一口坂。事務所、現像所、弁士養成所などを設け、十数の配給館を設けた。同社制作映画は明治41年の中村歌扇「曽我兄弟狩場の曙」。その一帯は「Mパテー横丁」と呼ばれるほど活気を呈したらしい。

 ここで余談(1)・・・永井荷風の少年期に俳句や小説面で啓発した蘇山人こと羅臥雲は大清公使館の通史官の息子で、清国に帰国するも胸疾で日本で療養。明治35年に亡くなった。荷風は「日和下駄」の最後を眉目秀麗の清客・蘇山人への別れの句で締めくくっている。忘れ得ぬ畏友だった。これまた当時の清国の逸話。 余談(2)・・・昭和53年に一口坂にポニーキャニオンが移転して同社の全盛期を迎えたことがあった。アイドルから人気ロッカー、実力派ミュージシャンが出入りし、周囲に関連会社も出来たりしての活況。あたしも同社に入り浸っての仕事が長く「あぁ、明治の一口坂にも同じような活況があったか」と面白く思った。同社創業者らは映画畑出身者が多かったと聞き及んでもいる。

 話を梅屋庄吉に戻そう。彼はオッペケペー節の川上音二郎の「本郷座・大楠公」の芝居を、本郷座裏の空地で撮って大ヒット。貞奴もこの芝居、映画を観たのだろうか。併せて浅草に映画常設館も続々誕生。ニュース映像を撮ったり、英国から記録映画「旅順開城の実況」を輸入するなどの事業発展で手狭になったこと、自社撮影所を持つために新宿・百人町への移転だった。それまでは市外で撮影したり、戸山ヶ原などで野外撮影していたらしい。

 大久保撮影所の第一号作品は、板垣退助の要請で明治42年に両国・国技館(大鉄傘)で上映の「大西郷一代記」。さらに白瀬中尉の南極探検にカメラマンを帯同させて、明治45年に全国公開。この収益金で探検費、隊員と船員の手当ても賄ったとか。梅屋庄吉はこれら映画ビジネスをはじめの収益を、孫文の辛亥(しんがい)革命の軍費や武器調達に惜しげもなく注いでいた。話が長くなったのでまた明日~。

 追記:国会図書館デジタルコレクションの大正1年「東京市及接続郡部地籍地図・下巻」の「豊多摩郡」の目次より「大久保村百人町」より「大久保村大字大久保百人町字仲通北側西部」に<Mパテ撮影部>有り。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。