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岡本綺堂、1年3ヶ月の大久保暮し [大久保・戸山ヶ原伝説]

kidounikki.jpg 大正12年9月1日、関東大震災。この時、百人町の梅屋庄吉は避暑で千葉の別荘にいた。9日になって梅屋邸の様子がわかる。「瓦、壁落ちるも母屋、倉庫、盆栽、フィルム全部無事」。13日になって若者7名に米を背負わせて上京。亀戸からは徒歩になった。(車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」)

 この大地震で、麹町元園町(元園町1丁目19番地=現・麹町2丁目12番地)の家が焼失し、17歳からの日記、蔵書、家財を失って大久保に引っ越してきたのが岡本綺堂だった。その地は大久保百人町三百一番地。綺堂53歳、大正13年3月18日だった。「生まれて初めての郊外生活なり」と日記に書いた。百人町の家の下見がこう書かれている。「駅から遠くないところで、靴屋の横丁をゆきぬけた左の角、家の作りはなかなかよい。九畳、八畳、四畳半二間、三畳三間で、庭は頗る広い。家賃は百三十円、少し高いやうにも思はれるが、貸屋普請でないのと、庭が広いのが気に入って、これを借りることにほぼ決定。」 ガーデニングも愉しもうと鋤・鍬も買って、18日に引っ越し。

 同文の後に括弧括りで子息・岡本経一氏がさらに克明な説明を記している。「山の手線新大久保駅を降りて中央線の大久保駅にむかって二つ目の横町を右折して行くと戸山ヶ原に突きあたる。その左側か大久保百人町三百一番地である。庭が百坪以上もあり、玄関脇に桜の大木があって、その花盛りには目印になるようであった。五月になると大久保名物のつつじの色が一円を明るくした。江戸以来のつつじ園はもう一軒も残っていないが、どこの家にも庭があって、いろいろなつつじの花色がめざましかった。(中略) 家の裏側から北に見渡される戸山ヶ原には、尾州候の山荘いらいの遺物のような立木の中に、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦の建物と、明治製菓会社の工場にそびえている大煙突だけが目立った。季節によって変化のある郊外風情であったが、いまは新宿区百人町二丁目十二番地、戸山ヶ原もすっかり開発されて、昔を偲ぶ夢もない」

 なお岡本綺堂は明治5年、高輪泉岳寺生まれ。父は佐幕党で奥州白河から横浜・居留地に潜伏して、英国公使館のジャパニーズ・ライターになる。公使館が麹町に移って、岡本家も明治14年に麹町に移転。「半七捕物帳」の三浦老人の住居を大久保に設定したのは偶然だったらしい。百人町の暮しは、麹町元園町に新築の家が完成と同時に終わっているが、その間の人気作家の日々の暮しが日記に書かれていて興味深い。★参考は昭和62年青蛙房刊の「岡本綺堂日記」(編集・発行は子息・岡本経一)。写真は同書の写真ページ。★百人町の岡本綺堂宅があった辺りの写真は「2011-12-22」に掲載。


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