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チャリ日和閑地(あきち)巡りの夢幻かな [新宿発ポタリング]

ohkubo1_1.jpg 先日、永井荷風「日和下駄」は第八章「閑地(あきち)」に書かれた「戸山ヶ原」と「鮫ヶ橋」を自転車で彷徨った。

 これは24日の朝日新聞「東京撮影所物語」最終章に「孫文の支援者として知られる梅屋庄吉が、JR大久保近くに映画スタジオを明治42年(1909)に建設~」の記事に、思わず「オォ!」と唸ってしまったのが発端だった。

 かつて<戸山ヶ原・戸山荘伝説>なるタイトルで地元の歴史調べをしたが、迂闊にも見逃していた大事実。さっそく図書館で車田譲治著「国父孫文と梅屋庄吉」、小坂文乃「革命をプロデュースした日本人」を借りてきた。撮影所が併設された梅屋邸は、その北側が戸山ヶ原に隣接する現・百人町2丁目23番地の約三千坪。この梅屋邸にはとんでもないドラマは展開されていた。

 梅屋邸調べの最中に、大久保に撮影所が作られた27年前の明治15年、山岡鉄舟が四谷に移転して「春風館道場」を併設した屋敷が、現・迎賓館横の学習院初等科の地だったことも知った。同地を確認してみたかったのと、学習院初等科前の道を下れば「南元町公園」で、その辺りが「鮫ヶ橋」。学習院、迎賓館、赤坂御用地に隣接してかつての貧民窟があったとは・・・。その谷底を彷徨えば信濃町辺りに「滝沢馬琴終焉の地」があるはずだが。いやはや、そのどれも史跡案内などはなくて、曖昧模糊とした江戸・明治巡りになった。ポタリング終え、地元・大久保からご近所・四谷辺りの歴史書などを、改めて読み漁ることに相成候。

 地元・大久保でさえ、今は降って沸いたようなコリアンブームで商店街は歩けぬ程の賑わい(写真)で、地価まで上昇した。江戸・明治は限りなく遠くなった。 <チャリ日和閑地(あきち)巡りの夢幻かな>


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