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客が来てメジロ遠のき子規の庭 [新宿発ポタリング]

sikian2_1.jpg 子規庵は、JR「鶯谷」北口の根岸2丁目にあった。言問通りを上野桜木を経てJRの陸橋から眺めると、崖の上に墓地が広がり、崖下にラブホテルがひしめいていた。墓地と性の享楽場が渾然とする希有な街並み。そこを縫って子規庵に至った。

 子規が根岸に移ったのは明治25年。現在の子規庵より200㍍ほど離れた陸滑羯(くがかつなん/新聞「日本」社主)の門前だった。すでに近くを汽車が通ていたが、未だ「根岸の里」の面影が残っていた。転居通知に<鶯の遠のいてなく汽車の音>と詠んだ。ホトトギスもクイナも鳴いたそうな。

 江戸時代の「根岸の里」は、大店の別荘と妾宅が多かった。彰義隊の冠になった輪王寺宮の三千坪の別邸もあった。子規もまた<妻よりは妾の多し門涼み>と詠んでいる。「門涼み」は門前に出ての夕涼みで季は夏。旦那と縁が切れた妾らが色街を形成していったのだろうか。今は眼もくらくらするほどのラブホテル街。<死と性のカオスも春や子規の庵>

 今年、子規没後百十年で庭の写真撮影OKとか。子規が日々仰臥して眺めていた庭を、縁側に座って日向ぼっこしつつ観ていると、ウチのベランダと同じく庭木にミカンが刺さってい、メジロが遊びに来ていた。多くの俳人・歌人が集った子規庵。今はもうウグイスは来ぬがメジロでもう一句。<客が来てメジロ遠のく子規の庭> 


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