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大久保・梅屋邸で孫文・栄慶齢の結婚披露宴 [大久保・戸山ヶ原伝説]

imeyahon1_1.jpg 昨日の続き。・・・梅屋庄吉は映画ビジネスで稼いだ金を、孫文の革命に注いだが、孫文は明治44年(1911)の挙兵に失敗。だがこれが起爆剤になって革命のうねりが生まれた。孫文は逃亡先のロンドンから帰国し、明治45年1月1日に臨時大統領に就任。清は276年の幕を閉じ中華民国が樹立。しかし北京には未だ清朝政府があり、孫文は和議をすすめる袁世凱と対立。孫文が辞表を出して、袁が第二代臨時大統領に。孫文、わずか45日間の就任だった。

 一方、梅屋も慌ただしい日々を過ごしていた。小会社乱立の映画界を強固にすべく、4社連名で「日活」設立に奔走。だが明治45年の明治天皇崩御で株価暴落。取締役を辞任。日活のお家騒動が始まった。彼は改めて「Mカシー商会」の名で映画事業を再開。一方の孫文は袁派に追われて日本に亡命。梅屋邸の庵(屋敷と撮影所の間の、梅屋が盆栽を楽しんだ庵。梅屋は昭和4年に中国から国賓として招待された際に、孫文像と共にこの庵も送った<贈った>そうな。これは同年3月3日の「東京毎夕新聞」に載っているらしいから、縮刷版で読めそう)に隠れた。やがて日本政府も亡命黙認で、孫文は同庵と原宿の“中山寓”を行き来して、さらなる革命への準備に奔走。

 その間に、梅屋庄吉はインド革命で亡命中のバラカトゥラーと孫文を自邸で逢わせたりもした。インドからの亡命仲間の一人が、新宿・中村屋にカレーを伝えたボース。ここでまた余談・・・彼は中村屋店主・相馬愛蔵・黒光の娘・俊子と結婚して帰化したが、その前に俊子をモデルに日々絵を描き続け、彼女との結婚を切望するも黒光に拒否されたのが画家・中村彝(つね)だった。彼は傷心の伊豆大島暮らし(島の露天混浴風呂“浜の湯”脇公園に胸像有り)、島から帰った後の目白のアトリエは目下、新宿区が保存・記念館に準備中。また愛蔵の浮気に苦しむ黒光に恋し、彼女の苦悩を彫刻で表現したのが日本のロダンこと荻原碌山。両手を後ろに跪いて天を仰ぐ顔・・・、あの「女」像は余りに有名だ。

 大正4年(1915)11月、孫文は前夫人と離婚し、27歳下の財閥・宋家次女でアメリカ留学のキャリアを有し、孫文の英文秘書をしていた宋慶齢と結婚。仲人は梅屋夫妻で、結婚・披露宴は大久保の梅屋邸で行われた。犬養毅など錚々たる要人が列席し、大久保は時ならぬ華燭の賑わい。宋慶齢は孫文亡き後に「中華人民共和国副主席」。自身が亡くなる直前に「中華人民共和国名誉主席」の称号が授けられている。ここ大久保・百人町には、中国革命と日中友好のかくも重要な地といえましょう。

 この事実や梅屋の業績は、残念ながら日本・中国に知れ渡ってはいない。それは彼の遺言・・・「ワレ中国革命ニ関シテ成セリハ、孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関係スル日記、手紙ナド一切口外シテハナラズ」によって、遺族や関係者が秘めて来たため。辛亥革命100周年を経て、ようやく日が当たりだしたばかり。2010年8月の上海万博の日本館で「孫文と梅屋庄吉展」が開催。同年9月には北京で「孫文、宋慶齢と梅屋壮吉展」開催の運びになった。なお宋慶齢の妹・美齢は蒋介石夫人。蒋介石亡き後はアメリカに移住。むろん蒋介石も大久保・梅屋邸に足を運んでいた。

 また梅屋夫妻は大正10年に世を騒がせた柳原白連(歌人・びゃくれん)と東京帝大生で宮崎滔天(とうてん)の息子・宮崎龍介との恋も陰でバックアップしていたことが、梅屋壮吉の曾孫・小坂文乃(現・日比谷松本楼の取締役)により平成21年刊「革命をプロデュースした日本人」で明らかにされている。大正時代に長谷川時雨によって書かれた「近代美人伝」の白蓮の記に、今の世に著された小坂著をもって、はじめて白蓮の恋の真相も明かされた感がある。

 梅屋庄吉はその後、千葉・岬町の別荘で昭和9年に67歳で亡くなった。その別荘暮しは百人町・梅屋邸に某が借り住んでいたたためと小坂著に書かれているが、車田著には実名が載っていた。某は昭和11年の「二・二六事件」の理論的首謀者として処刑。梅屋邸は昭和21年に処分されたらしい。

 今は韓流ブームで湧く大久保だが、この地にはかくも偉大かつ壮大な日中のドラマが眠っていたのですね。詳しくは写真の両著をぜひどうぞ。


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