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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録3) [読書・言葉備忘録]

 heiminsya2_1.jpg明治40年1月、日本社会党の機関紙「日刊・平民新聞」創刊。社屋は京橋新富町。新富座からお囃子が聞こえてくる。社員24名。編集部15名に寒村も入って大はりきり。しかし創刊号編集を終えると、堺は刷り上がりを待たず、紀州のドクトル大石誠之助の許へ金策。寒村青年は、そんな内情を知る由もない。

 2月、足尾銅山で数千の鉱夫がダイナマイトで建物破壊、軍隊出動。寒村は雪の足尾銅山を取材。帰京すると新宿柏木の自宅で、管野スガの妹・秀子が病状悪化で逝去。スガもまた肺結核を病んでい、寒村はこう記す。「それから4年後の絞首刑に至るまで、この病苦が彼女を捨て鉢にした影響がないとは言えぬだろう」。

 5月、懲役検査。社会主義者だと威張って海軍水兵4年。懲役3年に1年の懲罰付き。横須賀海兵隊入営の厳格検査に、隠し持つカプセルを呑んで心臓鼓動激しく兵役免除。6月、幸徳がその後の社会主義運動分裂を誘う問題演説。以下、演説概要・・・。

 「ドイツ社会党は議員選挙に傾倒の結果、80名の議員を確保も、ひとたび議員になると、たちまちブルジョア政治の雰囲気に感染して地位、名誉、利益を欲っして腐敗堕落。ドイツ武断専制国家を変えるに至らず。議会重視に失望せり。今や社会主義労働者は直接行動を~」。かくして社会主義に硬派(無政府主義)を生む。幸徳演説で「平民新聞」発禁、そして「社会党」解散。あたしは「~」文中の(ドイツ社会主義議員)を、現在の数頼みの(民主党議員)に読み替えて、そのていたらくを嗤った。「維新の会」躍進が取り沙汰されるも、それも数頼みじゃ同じ轍なり。

 寒村、この時期に「谷中村滅亡史」を書き上げるも発禁。同年9月、山口孤剣の出獄祝に大杉栄と共に赤旗に「無政府共産」の白文字を縫い付けて参加。この旗が騒動の元で「赤旗事件」。男9名・女4名が留置場へ。大杉と寒村は裸にされて引きまわされ、殴られ蹴られて悶絶。大杉2年半、寒村1年半の千葉監獄暮し。大杉の自叙伝と同じく、寒村の獄中もそれなりの工夫があって暗くないのが救い。彼らが獄中にいる間にシャバでは大事件が起こっていた。(続く)

 写真は筑摩叢書「寒村自伝」トップ頁口絵で、新富町の「平民新聞」。図書館で借りた本。鉛筆メモがあったので、消しゴムで消したら活字も消えた。昭和40年初版の第5版で昭和45年刊。昔々の本。あたしは組合運動も学生運動も無縁で、同書刊の頃はカンディンスキー「点と線から面」などバウハウス系を読んでいたから、寒村よりも同書装丁の原弘(日本デザインセンターの創立メンバー)の方に関心があった。


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雀の子独り立ちだと最後の餌 [私の探鳥記]

suzume1_1.jpg ベランダのローズマリーに毎春遊びに来るメジロ用に設置の小枝がある。メジロが去って、次第に目障りになって来た。「来春まで外しておきましょうか」。そんな会話をしていたら、昨日、スズメの子が止まった。チッチッチと満腔の啼き声。身体は一人前だが、よく見れば嘴が未だ黄色。そこに親スズメが来て餌を与えていた。部屋の中からガラス越しにカメラを構えると、三度ほどそんなシーンを展開して、親子スズメはどこかに飛び立った。

 三軒隣マンションのツバメの巣にも五羽の雛が孵ってい、そろそろ巣立ちだなぁと思っていたら、昨日一羽もいなくなっていた。一昨年だったか、巣立ちしたツバメ一家が、夕暮れのビル狭間の植え込みの枝に集っていた。今年も、彼らが旅立つまでに、どこかでもう一度逢えるかしらと思っている。

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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録2) [読書・言葉備忘録]

 arahata1_1.jpg・・・前回の続き。明治38年4月、18歳・寒村は赤塗の箱車を牽き社会主義伝道行商に出発。2日目夕に千葉市。成田から竜ヶ崎へ。ここから監視付きで伝道妨害。それでも水戸まで39日間で書籍278冊を売った。帰京した彼を寄食させたのは、当時「平民社」常連の竹久夢二。

 同年5月、木下尚江が衆議院補欠選挙に立候補。東京市人口180万、有権者15万6千人。政府妨害で僅か32票。木下尚江は足尾銅山の鉱毒問題で闘った田中正造の支援で有名だが、同郷(信濃)の新宿・中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻とも交流。黒光(中村屋サロン)関連書には、木下紹介の静座法(下巻に出てくる)で心を癒すシーンがあったかに記憶する。それにしても東京市有権者15万人とは。納税額によっていたか。

 7月、再び伝道行商。草加から栃木県谷中村で田中正造翁に会って感激。(木下尚江の著作を読んでいたのだろう)。日光、白河へ。3週間で47冊。この頃に堺利彦はマルクス唯物史観、価値観などを次々に解説して社会主義の理論固め。同年秋、屈辱的講和(ポーツマス条約)反対で首都騒乱、戒厳令。政府失態批判の新聞はすべて発行停止。「平民社」解散。

 寒村は堺の紹介で紀州田辺の「牟婁(むろ)新聞」記者となる。上司に管野スガが着任。寒村は自著に「管野という女はちっとも美人じゃないが、それでいて男をトロリとさせる魅力をもっていた」との友人弁を紹介するに止めているが、この辺は瀬戸内寂聴「遠い声」が面白い。管野は六つ歳上。しかも大阪で35歳上の宇田川文明と暮らしていたなどで性的に熟れている。寒村少年が彼女によって性の世界に蕩けて行く姿が浮かんでくる。寒村は紀州新宮に遊郭公認の裏ネタを大石誠之助から入手し、牟婁新聞に煽り書いたことで田辺にいられない。この辺は大石誠之助関連書を読むと状況が立体的に浮かんでくる。

 明治39年、西園寺内閣。社会主義への弾圧が緩くなって「日本社会党」結成。東京市街鉄道3社の運賃値上げ反対闘争。1万余の示威行進。投石などで20名余が兇徒嘯集罪で検挙。さらにボイコット運動で各所で電車ぶち壊し事件。94名検挙。

 寒村は反省する。「(その結果)政府は多数私鉄を(高額で)買収して国有化。逆に資本家を肥やした。さらに外債による買収で運賃上昇をも招いた」。稚拙さは、今の民主党もしっかり受け継いでいる。堺は多数検挙者が出たことで寒村を自宅に呼んで啓蒙各誌を手伝わせた。しかし管野に呼び出されると誘惑に負けて京都で蕩ける日々。見かねた境に呼び戻され、管野も上京し、市ヶ谷で同棲。寒村、波乱の10代最後をかく終えた。(続く)

 ※写真は昭和40年初版の筑摩叢書「寒村自伝」。口絵には横須賀海軍工廠時代、明治38年の平民社、「牟婁新聞」時代の寒村写真が掲載されている。


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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録1) [読書・言葉備忘録]

kansonjiden2_1.jpg 自伝は出自から。明治20年(1887)生まれ。里親に育てられ、5歳で親元へ。両親は横浜市永楽町の遊郭の「台屋」(妓楼に収める料理。台の物の仕出し屋)を営業。数年後に「引手茶屋」に転業。廓界隈の風習、風情、芸事、物売り、祭り、子供の遊び、芸人・・・。寒村の秀逸な筆で、明治の横浜遊郭の暮しが絵に描かれるように浮かんでくる。

 「どこかで読んだ情景だなぁ」と思った。山口瞳の小説「血族」か・・・。山口は自分の出自調べで、母の生家が横須賀の公娼街「柏木田」の重松楼と突き止めて、幼児期を回想する。場所は横浜と横須賀の違いも、まぁ同じような暮らしがあったのだろう。

 7歳で日清戦争。明治36年、高等小卒。父の「商人に学問はいらん」で横浜・山下町の貿易商オフィスボーイから横須賀の海軍造船工廠の見習職工へ。日露戦争への戦備で昼夜勤務。同年末、「万朝報(よろずちょうほう)」の幸徳秋水、堺利彦は同紙が主戦論になったことに反発し、週刊「平民新聞」を創刊。明治37年、寒村少年は彼らの演説会に感動して社会主義協会に入会。

 寒村はここまで記し、社会主義運動の当初をこう振り返る。「日本の資本主義さえ未発達。平民新聞創刊当初の社会主義も未だ幼稚素朴。非戦論で結束した感が強かった」。明治37年、日露戦争。寒村は「横浜平民結社」を作って研究会、演説会などを開始するも、無職の身を案じられて満州軍倉庫庫手へ。日露戦役最年少(17歳)で内勤従軍。だが満州の冬に感冒。軍医の「子供にゃ満州の極寒は無理だろう」で内地後送。

 帰国すれば「週刊・平民新聞」は弾圧厳しく発禁続きで1月に廃刊になってい、明治38年4月、寒村は赤塗の箱車に社会主義啓蒙書を積み、伝道行商に旅立った。この伝道活動はすでに多くの青年達が実施。西村伊作の評伝本にも、彼が宣教師から買った自転車で紀州から京都まで伝道行商したことが紹介されていた。伊作が乗った自転車もランブラーだったか。(続く)


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荒畑寒村「寒村自伝」まで [読書・言葉備忘録]

kansonjiden1_1.jpg 荒畑寒村「寒村自伝」上巻を読了。読書備忘録を記す前に、まず日本の社会主義運動の活き証人と言うべき荒畑寒村の自伝を読むに至った経緯を記しておきたい。

 学生運動、労働組合運動、メーデー無縁。おまけにベースアップやボーナスも無縁のフリー稼業で隠居に至った身で、なぜに「寒村自伝」なのか。そもそも坊主頭でガキ風貌のあたしが、本を読むなんて信じぬ友もいる。近所の自転車屋オヤジは「その歳で、読む本なんてあるのかぇ」と言う。同じマンションンの創価学会のオバサンは「図書館に行くって、まぁ、太宰治でも読むのかねぇ。アッハッハッハ」と笑う。

 さて、同書に辿り着く端から記す。まず新聞で地元・大久保に映画スタジオが明治42年に建設されたとの記事を見たのが最初だった。映画スタジオを作った人物は梅屋庄吉。彼の評伝、小坂文乃「革命をプロデュースした日本人」、車田譲治「国父孫文と梅屋庄吉」を読む。彼は博多で事業失敗して東南アジアへ。シンガポールでの映画上映で当て、帰国後に映画会社を設立。儲けた金を、アジア時代に盟友の契を結んだ孫文の辛亥(しんい)革命支援金に惜しげもなく注いだ。

 梅屋は大正10年に世を沸かせた柳原白蓮と宮崎滔天の息子・東京帝大生の宮崎竜介との恋を陰で支えていたとか。そこで白蓮の人生を記した永畑道子「恋の華」を読んだ。白蓮と竜介は晩年まで目白の宮崎滔天宅で暮したが、そこに吉原の花魁が逃げ込んだ。同花魁の手記「春駒日記」を読む。

 宮崎滔天宅が今もあるというので目白界隈をポタリング。目白通りから池袋方向に入ったところに、当時の面影を残す滔天宅があった。目白通りに戻って関口(目白台)の佐藤春夫邸へ。近くに瀬戸内寂聴や谷崎潤一郎らも住んだ(仕事場にした)目白台アパートもあり。佐藤春夫邸のモダンな建物の設計は大石七分。この妙な邸宅が出来る経緯を知りたく佐藤春夫全集をひもとく。彼は故郷・和歌山の新宮で、父と同じ医者仲間だった大石誠之助、大石の甥・西村伊作らの影響を受けつつ少年期を過ごした。しかし大石誠之助は「大逆事件」で刑死。西村伊作は建築家になり、後に文化学院を創立。ここで加藤百合「大正の夢の設計者~西村伊作と文化学院」、黒川創「きれいな風貌~西村伊作」を読む。佐藤邸設計の大石七分は伊作の弟と知る。

 西村伊作を読めば、和歌山・新宮を震撼させた「大逆事件」が改めて気になる。あたしんチの近所、余丁町には東京監獄の処刑場跡に12名処刑者慰霊碑がある。近くに住んでいた永井荷風は、彼らの護送姿を見て何も発言できぬことから、江戸時代の戯作者に身を落とすことを決意した。かくして熊野新聞社「大逆事件と大石誠之助」、大石を主人公にしたフィクションで辻原登「許されざる者」を読む。それでも「大逆事件」がよくわかったとは言えず、唯一の女性刑死者・管野スガの獄中の述懐から刑死までを克明に迫った瀬戸内寂聴「遠い声」を読む。新宿西口にある管野スガの慰霊碑を掃苔。これで明治・大正の社会主義者らの厳しい闘いが少しわかってきた。菅野スガは、夫の寒村が「赤旗事件」で獄中の間に、幸徳秋水と結ばれた。荒畑は出獄後にピストルを懐に彼らの後を追った。

 社会主義運動は「大逆事件」で静かになったが、荒畑寒村は大久保・百人町の大杉栄の裏隣に移転し、大杉と共に「近代思想」を創刊。佐藤春夫は大久保在住時に大杉と逢って文学論を交わしている。佐藤邸設計の大石七分は、フランスから帰国後に逗留したホテル隣室に大杉栄・伊藤野枝を呼んだ。同ホテル滞在中に二人は葉山「日陰の茶屋」に出かけて、大杉は神近市子に刺された。同ホテルの文壇資料として書かれた近藤富枝「本郷菊富士ホテル」を読み、彼女にそれを書かせることになった瀬戸内寂聴「鬼の栖」も読む。

 瀬戸内寂聴は野枝(と大杉栄)の人生を「美は乱調にあり」で書く。野枝はダダイスト辻潤と結ばれ、「青踏」に参加。野枝は平塚らいてうが若いツバメにうつつを抜かして人気凋落した「青踏」を預かる。そこに大杉栄が接近。野枝を辻潤から奪う。大杉は妻・保子、野枝、神近市子とフリイラブ。瀬戸内はその後の甘粕事件に納得できずに、大杉が神近市子に刺されたところで筆を置いた。彼女は16 年後に改めて甘粕による大杉、野枝、甥っ子虐殺までを「諧調は偽りなり」で書ききる。(を読む)。

 そして評伝ではなく、これら登場者らの本人著作を読むに至る。まずは大杉栄「自叙伝/日本脱出記」。そして荒畑寒村「寒村自伝」へ。同著は明治・大正・昭和に渡っての社会主義運動の活き証人の自伝。軍政、官憲に挑む社会主義運動の変遷、同時にそこに織り成す人間模様、暮しが描かれた名著。毎日出版文化賞、日経図書文化賞、朝日文化賞を受賞。


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八房や白から緑そして赤 [花と昆虫]

naitou1_1.jpg 江戸時代に内藤新宿から大久保辺りの畑一面を、真っ赤に染めたという内藤とうがらし(八房唐辛子)。江戸野菜を復活させようという団体?からいただいた三苗が順調に育っている。

 花が咲く前の一苗に油虫が群がり、慌てて有機系除虫剤を散布したが、現在は三苗共に写真のような白花が咲き、そこから可愛い緑の角、牙状の実がニュキニョキと出てきた。これがやがて天に向い立つ赤いとうがらしとなる。

 かかぁは「食べたりしませんよ。来春は種撒き、苗作り。成功したら近所に配ります」と愛でている。小さなベランダの小さな楽しみでございます。


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新宿の生まれを知るやツバメの子 [私の探鳥記]

tubame5_1.jpg 三軒隣マンションの地下駐車場入口天井にツバメの雛が孵っていて、ちょっと驚き、嬉しかった。この営巣場所は平成21年(2009)より観察も、一昨年のこと、車に糞が落ちるのを嫌ったヤツが棒で巣を突くなどしたそうで、以来、ここで営巣しなくなっていた。また明治通り沿いビルの駐車場天井にも巣が出来たが、やはりツバメより車が大事の輩が巣を落としていた。

 それでも永年ここで育っただろうツバメ一族は、季節になれば、必ずこの近所に舞い戻ってくれる。今年の初認は4月4日。近所の円形駐車場ビルの高層階辺りに営巣した様子だった。ツバメの巣を棒で突っつく輩がいる場所より、そっちの方が安全だろうと、その見事な飛翔を愉しんで来た。

tubame3_1.jpg そんなワケで、従来巣(空き巣が三つもある)での営巣はないと思っていたのだが、先日のこと、眼の前をスイッとツバメが横切って例の巣に入った。で、覗いたら、いつの間にか写真の通り5羽の雛が孵っていたってわけ。かくしてこの辺りの彼方此方でツバメが営巣・繁殖中。概ね5羽の雛が孵り、2番子の繁殖もあるわけで、我が家近所のツバメは年々個体数を殖していると思われる。

 写真下は7階ベランダで頬を掠め飛ぶツバメ飛翔。素早い飛翔ゆえ望遠レンズでフォーカスままならず。標準レンズで被写体深度を深くし、ファインダー見ずにマニュアルで高速連写。この撮影がけっこう愉しい。そろそろ子ツバメたちの巣立ちでしょう。

 6月19日の朝日新聞に「ツバメが消えゆく街~再開発で巣が減少」なる記事が載っていた。ちょっと前にはスズメ減少が話題になっていた。あたしんチ辺りはスズメも多い。


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大杉栄「自叙伝/日本脱出記」(2) [読書・言葉備忘録]

 大杉栄「日本脱出記」は、フランスのアナーキストからベルリン開催の国際無政府主義大会の招待状が届くところから始まっている。渡欧資金を有島武郎から調達し、まずは尾行をまいて神戸へ。ここから上海へ渡って中国名でフランス入り。パリのアジトは5.6階建てが連なる薄汚い街にあった。小屋掛けの芸人、汚いホテル、貧しい人々。時は大正12年(1923)。

 先日のブログで、大杉・野枝が監獄暮しを繰り返しつつ五人の子を次々に生んだことに比し、現日本の少子化・晩婚化データをもって嘆いたが、大杉は同書に当時のフランス家庭の収入・支出詳細を、人口統計から結婚数・出産数の低下、子供の死亡率急増データを記していた。大杉はそんなパリのメエ・デエに飛び入り演説して収監、国外追放へ。「日本脱出記」はそこで終わっているが、彼は帰国してすぐの関東大震災後に野枝、甥っ子と共に憲兵・甘粕に虐殺された。

 さて、これを読んでも未だ大杉像を把握できたとは言えず、そこで当時のパリ調べをしてみることにした。ヘンリー・ミラーのパリ暮しの貧しき日々を思い浮かべて、これを調べてみれば彼のパリ暮らしは、大杉より7年も後のことだった。次にパリの獄中記と云えばジャン・ジュネで、これまた大杉より後。1923年といえば未だサルトルは18歳で、ボーヴォワールと出逢う5年も前なり。

 大杉栄の今も新鮮な文体から、そんなに昔のように思わなかったがヘンリー・ミラーやサルトルよりずっと前の事と再認識した。そういえばアメリカでくすぶっていたヘンリー・ミラーをロシア文学(ドストエフスキー)やパリに誘ったのはアナーキスト、エマ・ゴールドマンの演説ではなかったかと思い出した。ここで「アッ」と声を上げた。大杉・野枝の次女(生まれてすぐ大杉・妹の養女になった)、三女の名は「エマ」じゃなかったかと。そう、エマ・ゴールドマンより「エマ」と命名。野枝はエマ女史の「婦人解放の悲劇」も翻訳(大杉が手伝ったか、いや前夫の辻潤が手伝ったか)していた。またエマはNYで「大逆事件」の抗議集会を開いていたとか。エマ・ゴールドマンから大杉栄、伊藤野枝、そしてヘンリー・ミラーへとアナーキズムが流れていたとはちょっと驚き注目した。

 ここで、あたしは若き日々のヘンリー・ミラー耽読を思い出した。「北回帰線」「南回帰線」「サクセス」「プレクサス」「ネクサス」「暗い春」、そしてあのオレンジ色のヘンリー・ミラー全集。真っ黒装丁のジャン・ジュネ全集。そんな危ない本ばかりを読んでいたから、あたしは企業、組合、団体、上司、同僚、ボーナス知らずのフリー人生を歩き出したとも言えなくもなく・・・。大杉栄から、学生時分に耽読のヘンリー・ミラーに辿り着くとは思ってもいなかった。


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大杉栄「自叙伝/日本脱出記」(1) [読書・言葉備忘録]

ohsugisakae1_1.jpg 神田の古本街で、大杉栄「自叙伝/日本脱出記」岩波文庫の1982年第10版を入手。初版は1971年で、発表は「自叙伝」が1921年「改造」連載で、「日本脱出記」は1923年に虐殺された後に遺稿として出版。

 「自叙伝」は生まれ育ちから「日陰の茶屋」事件まで。香川県丸亀連隊少尉・大杉東の6人兄妹の長男。父の転任で新潟・新発田で少年時代を過ごす。ガキ大将。強い相手がいれば即、ぶん殴りに行く。14歳、本籍の名古屋の陸軍幼年学校に入学。軍人学校の規律が守れぬ傍若無人発揮で禁足処分。中村某を殴ったら、殴られながら笑っていた彼と友達になるも、中村はその後に肺病で亡くなる。二期後輩で中村の弟が入ってきて、それが後の洋画家・中村彜(ツネ)だったの記述にちょっと驚いた。

 「軍人の家に生れ、軍人の間に育ち、軍人教育を受け、その軍人生活の束縛と盲従とを呪って~」。明治36年、外国語学校仏語科入学。「万朝報」を去って社会主義と非戦争を標榜した秋水、堺の「平民新聞」に出入り。明治37年、日露戦争開始で旅順に大隊長として出征の父を見送る。その後は激しい闘争と入獄の繰り返し。新聞紙条例違反2回、治安警察法違反、兇徒聚集罪、そして赤旗事件で官吏抗拒罪・治安警察法違反で2年半の獄中生活。「一犯一語」で入獄の度に新たな言葉を勉強。最初の獄中で学んだのはエスペラント。赤旗事件で入獄中に「大逆事件」の一斉検挙から無茶な裁判で12名死刑執行、12名無期懲役。獄中にいて難を免れた。東京。巣鴨、千葉の各監獄暮しの記述が続く・・・。

 社会主義、共産主義とも決別した頃に神近市子、伊藤野枝と情交。極貧生活に内務大臣・後藤新平に直訴して300円を貰う。妻・保子にお金を渡し、野枝に新しい羽織を買って、「本郷菊富士ホテル」から葉山「日陰の茶屋」へ原稿書きに行った。ここで神近市子に寝込みを襲われたところで終わっている。快活な述懐と文体。今読んでも新鮮な記述で、アナキストに至る小難しい説明一切なし。大杉栄像を掴むに至らぬまま、続いて「日本脱出記」を読んだ。(続く)。


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老暮し青条三条蝶の舞ひ [花と昆虫]

aosuji1_1.jpg 先日の「新宿御苑」散歩で、アオスジアゲハ他を見た。すでに隠居暮らしゆえ、青筋立て怒りつつ仕事するなんて事もなく、気が向けばのんびりと公園散歩です。ワーカホリック的に働いていた時分には気付かなかっただろう蝶の舞ひにも眼が止まる。あれは何蝶だろうかと調べる余裕もある。かくして散歩カメラに収まったのはニワナナカマド(庭七竈)の葉に止まったアオスジアゲハ(青条揚羽・写真上)、コミスジチョウ(小三条蝶・写真下)、ナミアゲハ(並揚羽)だった。

 梅雨時分にはアオスジアゲハが多いのだろうか。野暮用(やだねぇ、まだ少しだけ仕事をしている)で「田端」の印刷屋へ行ったら、前を歩く女子の肩にアオスジアゲハが止まって、本人気付かぬまま駅の改札口を入って行った。一瞬、夢幻を見た。

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少子化に負けるな鳰の浮巣かな [御苑カイツブリ物語]

nio1_1.jpg 大杉栄「自叙伝」を読んでいたら、かかぁが「おまいさん、本ばっかり読んでいるとブタになっちまうよぅ」ってんで、新宿御苑ウォークをすることにした。

 今年は、その様子がなかったので繁殖なしと思っていたカイツブリだったが、いつの間に「浮き巣」ができ、親の羽の中から雛が顔を出していた。じっくり観察しなかったのでわからぬが、何羽孵ったのだろうか。

 寝転がって読んでいた「自叙伝」の大杉栄は、葉山の「日陰の茶屋」で神近市子に刺された翌年(大正6年)に、伊藤野枝との間に長女・魔子が生まれている。大正8年に次女・エマ、大正10年に再びエマ、大正11年にルィーズ、大正12年に長男・ネストルが生まれた。自叙伝を読めば、刑務所に出入りする人生だったのに、まぁ次々とよく子を生んで立派だったこと。

 一昨日(6日)の新聞に、昨年(2011年)の人口動態総計の結果発表があった。女性の第1子出産の平均年齢が30.1歳。初めて30歳を越えたとあった。瀬戸内寂聴は「美は乱調にあり」執筆に先立って「甘粕事件」で両親を失った遺児を福岡に訪ね、素敵な人生を歩まれている魔子さんらに逢っている。子は親がいなくも逞しく美しく育つが、日本はいつからか少子化、晩婚、高齢出産になってしまった。かく言うあたしんチも一人っ子で晩婚で、孫の顔を見ぬ。新宿御苑の鳰ことカイツブリの浮巣を見つつ、日本の末を考え込んでしまった。


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谷崎・佐藤夫人に第三の男あり [佐藤春夫関連]

 先日、荷風さんが「日乗」に書き写した「谷崎潤一郎・佐藤春夫・千代子夫人連盟の挨拶状」(細君譲渡事件、昭和5年)をアップした。谷崎は芸者・初子と深間になり、初子は旦那がいるからと妹・千代を彼に勧めて二人は結婚。鮎子が産まれると二人を実家に預け、千代の妹・せい子と同棲。谷崎に冷遇される千代に佐藤春夫が惚れた。谷崎はせい子と一緒になりたく、千代と鮎子を佐藤に譲ることことを了とした。しかし後になって千代を手放すのが惜しく約束を反古。佐藤が激怒して絶交。これが「小田原事件」。それから10年を経て、上記三名連盟の挨拶状で細君譲渡となった次第。

 まぁ、これが定説。多くの谷崎評伝書もそう記されている。「いや、実は千代夫人には第三の男がいた」と調べ書いたのが瀬戸内寂聴「つれなかりせばなかなかに」。大意はこうだ。 ・・・三者が亡くなった後、平成5年に両者の未発表手紙群が発見された。その中に昭和4年の谷崎から佐藤春夫宛で「千代さんが別の男と結婚する云々~」の手紙あり。これについて、谷崎の末弟・谷崎終平が昭和63年に「文学界」に「兄・潤一郎と千代夫人のこと」を発表し、これに加筆して平成元年「懐かしき人々~兄潤一郎とその周辺」を出版。誰も注目せぬが、そこに「別の男・第三の男」について書かれた記述があると指摘して真実に迫って行く。

 瀬戸内は、そこに登場する和田六郎(終戦後に「大坪砂男」の名で推理小説でデビュー)を調べ出す。六郎は谷崎が神戸で生活をしていた時期に内弟子風に滞在してい、そこで8歳上の千代夫人と情交。これを谷崎は黙認し、数ヶ月の胎児を流産・堕胎?した。瀬戸内寂聴は和田六郎の子息、和田周氏に逢って当時のことを取材。周氏によるイニュシャル手記の形で回想させている。「仰せのように、父とC子夫人の恋愛関係は昭和3年が白熱状態だったと思われます」。そして昭和4年の谷崎の手紙「千代はいよいよ先方に行くことにきまった」に至る。この手紙をもらった佐藤春夫は驚いて谷崎家に飛んで行き、千代夫人と一晩寝ずに語り合った。これを見た終平が、気の合う和田六郎にご注進。六郎はカッとなって千代夫人に決別の手紙を送りつけた。

 これが真相で、関係各氏は「和田六郎」のことは口にチャックしたまま「三者連盟の細君譲渡の挨拶状」に至ったらしい。なお、和田六郎(大坪砂男)氏の著作は澁澤龍彦が気に入り、二冊本全集が出ているそうな。また瀬戸内寂聴は、千代夫人は控えめでめそめそ泣いているような女性ではなく、けっこう逞しい女性だったと記し、和田六郎、佐藤春夫、谷崎潤一郎が先立った後、昭和56歳に84歳で大往生したと結んでいる。


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自転車通学の祖・・・三浦環 [新宿発ポタリング]

 瀬戸内寂聴の小説から、明治期の自転車話が得られるとは思わなかった。「お蝶夫人~小説三浦環」に自転車が出てくる。こうだ・・・。「万人に一人の美声、素質。ぜひ上野の音楽学校に進学しなさい」の女学館・教師の勧めで、その気になった柴田環に、父が条件を出した。「芝から上野まで毎日俥で通わせるわけにはいかん。自転車通学をしなさい」。

 時は明治33年、環(たまき)16歳。かくして自転車がいまだ一般化される前に、長い袂をひるがえし、袴をつけ、編上靴で颯爽と自転車で走る環の姿が登場した。芝から一ツ橋、神田、本郷を抜けて上野・池之端へ往復の日々。その姿を見ようと沿道に野次馬が列をなす。新聞に度々「自転車美人」と掲載されて、絵葉書の芸者より「自転車美人・環」の名は東京中に知れわたる。この影響で、女学生らが一斉に自転車に乗り始めた。明日、世界のオペラ・プリマドンナとなる若き三浦環は、まさに自転車普及の立役者なりぃ~。

 明治34年2月の「読売新聞」に、「梅笑ふ向島へ自転車の美人隊~さすが二十世紀の姫御前」なる記事があるとか。また明治36年2月から9月までの「読売新聞」連載小説、小杉天外「魔風恋歌」の書き出しは自転車に乗る女学生の描写から始まっているとか。「鈴の音高く現れたのはすらりとした肩の滑り、デートン色(深紅色)の自転車に海老茶の袴、髪は結流しにして、白きリボン清く着物は矢絣の風通(ふうつう)、すそ袂長ければ風に靡(なび)いて、色美しき品高き十八九の令嬢」とか。(同作は著作権切れで、ネット検索すると閲覧が可能です)

 さて、図書館に「読売新聞」の明治の縮刷版がありましょうか。連載小説なら毎号挿絵付きでしょうから、女学生の颯爽とした自転車姿がコピーできるかも。入手できれば、あとで画像挿入。

 そう、瀬戸内寂聴「お蝶夫人」は、寂聴らしく性愛が三浦環のパッションのひとつとばかりに、世界のプリマに駆け昇り、老いて亡くなるまでが男遍歴絡みで描かれていた。62歳の環を看取ったのは30余歳下の愛人・三浦素夫。


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本郷菊富士ホテル跡 [新宿発ポタリング]

kikufuji2_1.jpg 前月、佐藤春夫関連で近藤富枝「本郷菊富士ホテル」を読んだ。同書に辿り着いたのは、佐藤春夫邸設計・大石七分がフランスから帰国後に同ホテルに滞在し、隣の部屋に友人の大杉栄・伊藤野枝を呼んだことから。

 その後、瀬戸内寂聴の同ホテルをテーマの「鬼の栖」を読んだ。こんなことが書かれていた。・・伊藤野枝の取材(「美は乱調にあり」だろう)で、同ホテル経営者の姪で東京女子大同窓の近藤富枝に取材セッティングを頼んだ。彼女は資料集めから取材、小説が完成するまでを垣間見たこと、かつ級友の私が小説家になったことで、自分も文筆に目覚めたのだろう、名著(それほどでもない)「本郷菊富士ホテル」を上梓した・・・と。

 同ホテルは大正3年に帝国ホテル、日比谷ホテルに次ぐ3番目のホテル(高級下宿屋)として建って、多くの文人が止宿。石川淳、宇野浩二、宇野千代、尾崎士朗、坂口安吾、谷崎潤一郎、直木三十五、広津和郎、正宗白鳥、竹久夢二、中條百合子、湯浅芳子、大杉栄、伊藤野枝・・・などなど。

 瀬戸内寂聴「鬼の栖」は、同ホテル止宿の文人模様を描いているが、途中から「塔の部屋」で繰り広げられる安っぽい情痴フィクションが加わって、あたしは興醒めして読むのを止めた。彼女の全集解説では「伝記的世界に虚構小説をミックスさせて新たな小説世界を構築云々~」とあったが、あたしには読むに堪えなかった。

kikufuji_1.jpg 同じく瀬戸内寂聴「孤高の人」は、日本のレスビアンの祖みたいな湯浅芳子と宮本百合子がソビエトから帰国した昭和5年に同ホテルに止宿の経緯が描かれていた。読書三度で「本郷菊富士ホテル」が登場ゆえ、一度は同ホテル跡地を見ておかねばと、夕食前の涼しいひと時に同界隈をポタリング。

 この界隈は樋口一葉がらみ(例の井戸、終焉の丸山町、桜木の宿の法真寺、さらには石川さゆり『一葉恋歌』キャンペーンイベントなど)で何度も訪ねているも、同ホテルのことは知らなかったんです。写真上は同ホテル跡の記念碑。写真下は菊坂から見上げた跡地。現在は「KIKUFUJI」なるマンションが建っているが、同ホテルは「塔の部屋」を有して地下1階、地上3階の30室。きっとこの写真よりさらに立派に聳えていただろうが、位置的にはこんな感じだったと思われる。


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