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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録2) [読書・言葉備忘録]

 arahata1_1.jpg・・・前回の続き。明治38年4月、18歳・寒村は赤塗の箱車を牽き社会主義伝道行商に出発。2日目夕に千葉市。成田から竜ヶ崎へ。ここから監視付きで伝道妨害。それでも水戸まで39日間で書籍278冊を売った。帰京した彼を寄食させたのは、当時「平民社」常連の竹久夢二。

 同年5月、木下尚江が衆議院補欠選挙に立候補。東京市人口180万、有権者15万6千人。政府妨害で僅か32票。木下尚江は足尾銅山の鉱毒問題で闘った田中正造の支援で有名だが、同郷(信濃)の新宿・中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻とも交流。黒光(中村屋サロン)関連書には、木下紹介の静座法(下巻に出てくる)で心を癒すシーンがあったかに記憶する。それにしても東京市有権者15万人とは。納税額によっていたか。

 7月、再び伝道行商。草加から栃木県谷中村で田中正造翁に会って感激。(木下尚江の著作を読んでいたのだろう)。日光、白河へ。3週間で47冊。この頃に堺利彦はマルクス唯物史観、価値観などを次々に解説して社会主義の理論固め。同年秋、屈辱的講和(ポーツマス条約)反対で首都騒乱、戒厳令。政府失態批判の新聞はすべて発行停止。「平民社」解散。

 寒村は堺の紹介で紀州田辺の「牟婁(むろ)新聞」記者となる。上司に管野スガが着任。寒村は自著に「管野という女はちっとも美人じゃないが、それでいて男をトロリとさせる魅力をもっていた」との友人弁を紹介するに止めているが、この辺は瀬戸内寂聴「遠い声」が面白い。管野は六つ歳上。しかも大阪で35歳上の宇田川文明と暮らしていたなどで性的に熟れている。寒村少年が彼女によって性の世界に蕩けて行く姿が浮かんでくる。寒村は紀州新宮に遊郭公認の裏ネタを大石誠之助から入手し、牟婁新聞に煽り書いたことで田辺にいられない。この辺は大石誠之助関連書を読むと状況が立体的に浮かんでくる。

 明治39年、西園寺内閣。社会主義への弾圧が緩くなって「日本社会党」結成。東京市街鉄道3社の運賃値上げ反対闘争。1万余の示威行進。投石などで20名余が兇徒嘯集罪で検挙。さらにボイコット運動で各所で電車ぶち壊し事件。94名検挙。

 寒村は反省する。「(その結果)政府は多数私鉄を(高額で)買収して国有化。逆に資本家を肥やした。さらに外債による買収で運賃上昇をも招いた」。稚拙さは、今の民主党もしっかり受け継いでいる。堺は多数検挙者が出たことで寒村を自宅に呼んで啓蒙各誌を手伝わせた。しかし管野に呼び出されると誘惑に負けて京都で蕩ける日々。見かねた境に呼び戻され、管野も上京し、市ヶ谷で同棲。寒村、波乱の10代最後をかく終えた。(続く)

 ※写真は昭和40年初版の筑摩叢書「寒村自伝」。口絵には横須賀海軍工廠時代、明治38年の平民社、「牟婁新聞」時代の寒村写真が掲載されている。


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