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灼熱に内藤の赤染まり行き [花と昆虫]

naitou2_1.jpg 5月中旬に四谷でいただいた「内藤とうがらし」(八房唐辛子)の3苗が、見事に育って、真夏の日を浴びて次第に真っ赤に染まりつつあります。

 江戸時代は内藤新宿、大久保辺りは、この内藤とうがらしで真っ赤に染まったとか。3苗いただきましたが、1苗に約50個の実が付いて、計150個。半分食べて、半分は種保存で来春にぜひ発芽させてみたく思っています。

 熱い日々です。皆様、ご自愛下さいませ。


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冷房の窓越しにゐるトンボ哉 [花と昆虫]

mugitonbo1_1.jpg 年寄りですから、テレビのニュースが「熱中症で老人がまた亡くなりました」なぁ~んて言うから、怖くなってクーラーの部屋に閉じ籠ってしまう。

 カーテンを薄眼に開けたかかぁが言った。「おまいさん、見てごらんよ。あの枝にトンボが止まっているよぅ」

 「あの枝」とは、春に遊び来るメジロ用に設けた小枝で、メジロが去って撤去しようとしたら、小雀が親雀から餌をもらう枝になったりで捨てられずにいたもの。

 止まったのはムギワラトンボ(シオカラトンボの雌)。さて、今度は何が止まってくれるか。


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小島キヨ(4)子らに看取られて [読書・言葉備忘録]

dada1_1.jpg oriharatuji_1.jpg昭和3年1月、辻潤は長男まことを連れ、読売新聞パリ特置員として渡欧。大阪にいた谷崎潤一郎が自宅で送別会を開いてくれた。一人残ったキヨは「書かなくては」と思うもままならず。酒に手が伸び、飲めば傍に男がいて欲しい。

 昭和4年1月、辻親子がシベリア鉄道で帰国。辻は林芙美子の処女詩集「蒼馬を見たり」序文を書く。辻に生活力なく別居は続く。昭和7年、久し振りに家に戻れば辻は「天狗になって」二階から飛んだ。辻との別れを決意。玉生(たまにう)謙太郎と暮らし、長女を産むが入院費も帰る家もない極貧。それでも必死に「生活」する。

 辻潤は病院と尺八の門付け繰り返しで、昭和19年に餓死。辻潤のダダイズムが遺したのは「混沌と無」だけか。キヨは謙太郎との間に一女二男をもうけ、健気な女房として生き抜いた。昭和48年、日動画廊の中村彝遺作展に行き、自身がモデルの「椅子によれる女」の前に立ち、29歳になった次男に写真を撮ってもらった。作家を夢見て上京し、同画のモデルに。以来53年。同画再会で区切りをつけた直後に体調を崩した。昭和50年に入院。3人の子供の家族らの献身的な介護6年を経て、昭和56年に永眠。78歳だった。

 小島キヨにとって辻潤は何だったのか。倉橋健一は「林芙美子、平林たい子になれなかったが、大正から昭和初期に個に目醒めた時代をひたむきに生きた」と自著「辻潤への愛」で締めくくっている。そう簡単に参らぬのが「辻まことファン」。折原脩三著「辻まこと・父親辻潤」では、辻潤著作が多い玉川信明と自身とのこんな対談を載せている。

 玉川:辻潤は「たたき台」のひとですね。そこを乗り越えて何がでてくるかが問題。折原:辻まことは、そこにスポーツマンシップというものを思想に適用したように、ひじょうに爽やかに生きた。辻潤には「美」の最大要素である「比率」が欠落していた。

 折原は、同著の最期に吉田一穂の新聞インタビュー記事を長々引用で締めくくっている。仏像は「半眼微笑」で、半眼は厳しい認識、微笑は愛。相容れぬ二つが一つになっている。それは調和ではなく比率が問題で云々~。折原は何が言いたかった? 辻まことの「スポーツマンシップ」と「比率」を解明するとしながら、辻親子に自身を重ねることにのたうちまわって、爽やかではなく騒々しく未消化のまま終わった。

 辻まことは父の「混沌・無」に加え、満州国末期の死体処理を見たり、略奪の兵になる経験を経て、再び人生を歩き出した。音楽(名ギタリスト)を、山(山スキーと猟の達人)を、酒を、仲間を、家族を愛し、絵(画家ではなかったが多くの絵)と文章(アフォリズム系の名文)を残した。それでいて何も言わず爽やかな透明感ある佇まいで生き抜いた。比して小島キヨは、辻潤から別れた後は、貧しくも三人の子の母として泥臭くしたたかに「生活」して人生を全うした。

 辻潤の長男・辻まこと、後妻の小島キヨを読み終えれば、次に大杉栄・野枝の子らは? さらに彼らを虐殺して満州の闇を仕切ったその後の甘粕憲兵大尉も気になる。読みたい本は途切れない。

 ※楠井さま、コメントありがとうございます。コメント欄への記入がうまくできず、メールも叶わなかったので、ここに記します。小島キヨ様の記事は、5年前に記したものです。同年4月頃から佐藤春夫邸、大逆事件、大石誠之助、大杉栄、西村伊作、本郷菊富士ホテル、瀬戸内寂聴の〝大逆事件〟関係小説、荒畑寒村、大島・三原山のもく星号、辻まことへ。そして中村彛さんがいて「小島キヨさん」に辿り着きました。次から次へと物語が繋がって、小島キヨさんからも甘粕大尉にもつながって、まさに壮大なドラマが展開です。

 小生は評論家でも作家でもなく、このブログ記事はその壮大展開に惹き込まれて次から次へと各関連書を読み継いだ〝私的抄録〟ですゆえ、間違いの記述をご指摘下されば、いくらでもお詫び・訂正致します。同記事の前後かの記事に参考書名をあげています。小島キヨ様に関しては主に倉橋健一著『辻潤への愛~小島キヨの生涯』の抄録だったと記憶しています。

 伊藤野枝が夫・辻潤と長男(辻まこと)と次男を置いて、大杉栄の許に走り、妻に去られた辻潤の許に小島キヨが入ったと読み知りました。辻潤は相当に乱れた人生を歩まれたようで、律儀なことは大の苦手だったでしょうゆえ、役場へ行って戸籍手続きなどはしなかったように推測しています。むしろ小島キヨさんの方がしっかり者だったように感じていますが、果たして戸籍はどうなっていたのでしょうか、小生にはわかりません。〝後妻〟の表現が間違いでしたら訂正いたします。


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小島キヨ(3)寺島珠雄著「南天堂」 [読書・言葉備忘録]

nantendo1_1.jpg 読書は楽し。なんと、白山坂「南天堂」の歴史を探った本があった。著者は寺島珠雄。皓星社、1999年刊。表紙カバー折り返しに、こうある。・・・大正六年、本郷白山上に開業。一階は書店、二階はカフェー・レストラン。集いし客は(多いので抜粋)大杉栄、和田久太郎。労働運動社、北風会の闘志。岡本潤、壺井繁治、小野十三郎ら詩誌「赤と黒」同人。辻潤、宮崎資夫、中西悟堂、今東光、高見順、菊田一夫、友谷静枝、林芙美子、平林たい子・・・。そこは、夜毎アナキスト、ダダ詩人らが喧噪する酒場であり、時に前衛美術家の展覧会場となり、また「近代名著文庫」や文芸誌「ダムダム」を発行する出版部があり。「南天堂時代」と呼ばれる、伝説の階上喫茶店考。人々とその時代を点綴しつつ、店主・松岡虎王麿の生涯を辿る。

 自転車は楽し。昨日の涼しい午前中に白山坂辺りをポタリングして、改めて界隈の土地勘も得た。同書は460余頁ゆえ、ここでは小島キヨ関連記述のみをピックアップする。小島キヨの物語は、そもそもは大正3年に松岡家(旧南天堂)に間借りして無政府主義の研究会をやっていた渡辺政太郎が、大杉を伴って辻・野枝の家を訪ねたことから始まる。そして大正5年、野枝は夫・辻潤と二人の子を置いて大杉栄の許に走った。翌6年、二階にカフェーレストランを有す「南天堂書房」開業。

 当初の「南天堂」カフェは、アナーキストらの乱酔の呈はなく、パリによくある書店二階カフェの文化色漂う良き雰囲気だったそうな。後に「日本野鳥の会」の中西悟堂も同カフェで処女詩集「東京市」(大正11年)の出版祝いをしたとか。あの新内の岡本文弥も、虎王麿の2歳下で渡辺政太郎の研究会と南天堂に顔を出していたとか。

nantenmise2_1.jpg そして大正12年9月1日の関東大震災。亀戸で<主義者>多数が官憲に殺害され、大杉栄・野枝も虐殺された。アナーキストやダダイストらは行き場を失って、「南天堂」が苛立ち、鬱憤を吐く場になった。夜毎、乱酔でケンカの絶えぬ日々になる。同書「南天堂」には、すでに紹介の倉橋健一著「辻潤への愛」より、夜毎の酒から酒で最後に「南天堂」のケンカで終わる小島キヨの日記文が転載されていた。

 林芙美子は最初の男・田辺若男に連れられて「南天堂」デビュー。彼と別れた後にせっせと「南天堂」通いした。大正13年、ここで知り合った友谷静栄と詩誌「二人」を刊。南天堂で辻潤に「とてもいいものを出しましたね。お続けなさい」と励まされている。オーナー・松岡は「林芙美子は大酒飲みでね、でも誰かしらが金を払ってくれるんだ。“五十銭くれ、キス一回させてやるから”とよく騒いでいた」。彼女はテーブルの上にひっくり返って「さぁ、どうにでもしてくれ」と啖呵を切っていたのはこの頃か。平林たい子も山本虎三、高見沢路直(田河水泡)、岡田龍夫と男遍歴しつつ、やがて自伝小説「砂漠の花」に「みんなひと晩だって、エトワール(南天堂の仮名)に行かなくちゃ寝られないんだから~」と書くようになる。それから数年後、「南天堂」の狂乱喧噪の波は次第に引いて行った。★下写真の真ん中の店舗が現在の「南天堂書房」。★当時は白山通りも本郷通りも、この白山坂(まき町通り)も市電が走っていた。


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小島キヨ(2)「南天堂」ケンカの華か [読書・言葉備忘録]

kojimakiyo_1.jpg 小島キヨはモデルの後に、茅場町の酒屋・升本の事務員になった。呑み放題。後の異名「うわばみのキヨ」の下地をつくった。一方、辻潤は放浪に区切りをつけ、母と子を連れて川崎に一家を構えた。

 大正11年、キヨは月島の労働会館(裏長屋の二階ぶちぬき)で開催の辻潤の講演会に出席。その夜、二人は早くも手をつないで築地のそば屋で酒を酌み交わす。束の間の蜜月。キヨは広島の実家で二人の子・秋生を出産。辻潤は広島へ行く途中の大阪で「野枝・大杉栄虐殺さる」の号外を手にして酒に溺れ、女狂いを始める。蒲田の撮影所裏の長屋に移転するも、おかしな輩が押し掛ける「カマタホテル」となって生活破綻。酒と女狂いの辻潤が生活費を稼ぐわけもなく、キヨも子を潤の母に預けて女給。酒狂い。★写真は倉橋健一著「辻潤への愛」(創樹社刊)

 大杉・野枝が虐殺されて、行き場を失ったアナーキストらが鬱憤を晴らしていた場が白山坂の「南天堂」二階レストランだった。“南天堂”は林芙美子、平林たい子、大杉栄、辻潤らの関連書にたびたび登場。その「南天堂書房」が今もあるから驚いてしまう。

 小生は長い間、田端にある印刷屋に仕事を出していて、都心から白山通り~白山坂を経て田端へバイク疾駆10年余。「南天堂」前は慣れ親しんだ移動中の景色。(Googleのマップに「文京区駒込1-1-28南天堂書房」と打ち込んでズームアップ。写真モードにすると店舗が写っています)

 手許の数冊より「南天堂」をひもといてみる。経営者は松岡虎王麿(トラオウマロ)が大杉栄と付き合っていたことから、二階レストランはアナーキスト、ダダイスト「南天度グループ」の溜まり場になった。出入りした女性は林芙美子、平林たい子、伊藤野枝、そして小島キヨら。

 林芙美子はテーブルの上にひっくり返って「さぁ、どうともしてくれ」と啖呵を切り、ここで知り合った友谷静栄と詩の同人誌「二人」を出した。静栄は南天堂メンバーの岡本潤から小野十三郎と同棲。玉川信明著「ダダイスト辻潤」には「ハレンチ南天堂時代」の項あり。店ではケンカが絶えず、男女の関係もアナーキーだった。(川本三郎)

 小島キヨもあっちこっちで酔っ払っては「南天堂」に顔を出す。行けば常に誰かがケンカをしていた。ケンカっ早いのは宮崎資夫(すけお)。「うわばみのキヨ」はさしずめ修羅場の華か。おっと、近くの図書館に「南天堂」なる書あり。さっそく読んでみた。(続く)


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小島キヨ(1)中村彝のモデルになる [読書・言葉備忘録]

isuniyoreru_1.jpg 伊藤野枝は夫・辻潤と長男(辻まこと)、次男を置いて大杉栄の許に走った。大杉との間に五人の子をもうけ、大正12年の関東大震災直後に甘粕憲兵大尉(軍)に虐殺された。妻に去られた辻潤は、放浪・隠遁者のように暮していたが、ダダイストとして翻訳、エッセイ出版などで注目を浴び、蒲田の松竹撮影所裏の長屋に落ち着いた。そこに転がり込んできたのが小島キヨで、辻潤の三男・秋生を産んだ。

 彼女は広島の洋服屋の娘で、大正9年に師範学校卒。小学校教員になるも二ヶ月で辞め、小説を書きたいと上京した。林芙美子や平林たい子が上京する2年前のこと。神近市子が「日陰の茶屋」で大杉を刺した刑で出所の1年前。神近の出所を迎えたひとりにエロシェンコがいて、小島キヨは上京した大正9年に中村彝(つね)の「椅子によれる女」(写真)のモデルになり、その秋に彼は「エロシェンコ氏の像」を描いた。

 大正時代は、その時代性なのか、振り返る距離がほどよいのか、そこに生きた人々の人生の複雑な絡み合いが、多彩な織物の糸のように実によく見えてくる。倉橋健一著「辻潤への愛」は、小島キヨの丁寧かつ誠実な評伝で、そこから彼女の紆余曲折の人生をほぐし出してみた。

 小島キヨは、上京するとまず谷中の「宮崎モデル紹介所」に行った。同所については種村季弘編「東京百話」より勅使河原純「裸体画の黎明」(日経)に詳しい。「そこは谷中大通りの一乗寺の先の床屋の細い道をウネウネ(通称モデル坂)と上がった突き当り左側の平屋。土間から和室に上がると、そこがモデル選定場で5、60人のモデルと2、30人の作家で身動きできぬほど繁盛していた。(中略)。お菊さんと旦那・幾太郎が仕切っていて、裸体半日45銭、着衣25銭。モデルは紹介所に1人1週間10銭を払うシステム。モデルは常時百数十人。お菊は月8、90円は稼いでいた」。

 小島キヨは何人かの画家のアトリエに通った後で、下落合の中村彝のアトリエに行った。彼はすでに病魔に侵されていて「モデル紹介所」に行けぬ。そこでモデル数人が出向いてキヨが選ばれた。キヨは容貌に劣等感を持っていたが、豊満さと白い肌が自慢。中村彝がそれまで多数の半裸像を描き、結婚を望むも親に反対された中村屋の娘・相馬俊子の豊満な身体に似ていた。俊子がボースと結婚の報に、再び傷心の彼にキヨの身体は眩しかったろう。1週間通って「椅子によれる女」が完成。

 着衣だが俊子の絵と同じくルノアール風タッチ。中村彝はその秋に名作「エロシェンコ氏の像」を描き終えた夜から絶対安静。逝ったのはその4年後、38歳だった。(鈴木秀枝著「中村彝」より)。

 余談1:その下落合のアトリエは目下、新宿区が保存計画中。 余談2:淡谷のり子が、同モデル紹介所を訪ね、裸婦モデルを始めたのは、その数年後と思われる。あたしは20代の終わり頃、池袋のキャバレーに出演の淡谷のり子を取材したことがある。エレベーターの中で「女は下着におしゃれをするのよ」と耳元でささやいたのを、今も覚えている。(小島キヨの項、まだ続く)。


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辻まこと(5)もく星号の宝石収拾  [週末大島暮し]

yamaehon_1.jpg 辻まこと「墓標の岩」は、こう続いている。・・・D(小原院陽子)の家に行くと、「N(西常雄)もきていた。(Dの)血縁は弁護士だという年寄りの叔父さんと妹さんだけだった」。辻はNからDが遭難時に持っていた宝石類リストを見せられる。警察によって発見されたものは全体の5%に過ぎない。二人は大島の警察から品物引き取りかたがた、現場に行って宝石探しをすることにした。

 最初は元村側の登山道から現場に向ったが、二日目からは波浮に宿を移して現場通い。「巾100メートル長さ1キロに亘って何とも形容し難い機体の破片が帯状に散乱している」。現場の惨状が描かれて、「どこからどうやって手をつけていいか迷うばかりだったが、とにかく下から順に見ていくことにした」。

 かくして最初の日にルビー、サファイア、ジルコンの玉を幾つか拾った。ダイヤはもく星号の風防ガラスが砕け散っていて、探すのは絶望的だった。(納得)。2日目からは熊手、ブラシ、ザルを用意。4日目の夕方、遺族が満足するかどうかは別にして「やるだけはやった」で、かなりの宝石類を取り戻した。

 あっさりとした記述だが、見逃してはいけないのは、辻まことの宝石探しの“腕”が筋金入りだということ。彼の年譜にこうある。「昭和12年(1937)24歳、友人の竹下不二彦(画家・竹下夢二の息子)、福田了三(経済学者・福田徳三博士の息子)とともに金鉱探しに夢中になり上信越、東北、北海道の山々を歩く」。

 この「山からの絵本」の「三つの岩」三章の「墓標の岩」の前の章が「黄金岩」で、その書き出しはこうだ。「金鉱さがしに夢中になっていた頃の話だ。」 辻と竹下は岩を砕き、石を拾い、川床から砂礫を採取する係で、福田はそれを分類記録、分析する係だったと記し。「二年間というもの、私は一ヶ月に一度、ニ、三日東京に留まるだけで、あとは山から山を歩いていた」。辻まことは“山師”だったのだ。その山師が撃墜現場で四日間「やるだけのことはやった」「かなりの宝石を取り戻した」は文字通りの成果を得たと理解していいだろう。※西常雄は雑誌「アルプ」(特集 辻まこと)に、それはメンソレータムの空缶一杯ぐらい、と記しているそうな。(宇佐見英治「辻まことの思い出」より)。

 そして最後は、岩に食い込んだルビーのような赤い斑点が二つ。簡単に取り出せない。二人は「(それをそのままに)Dの墓標にしておくか」と頷き合って、「海に向かって山を降りた。」で文章を終えている。

 松本清張による「もく星号」三部作を貪り読んだのはいつだったろう。以来、頭の片隅にあった噂の「ダイヤ収拾」の、ひとつの実際記述に、かくしてやっと辿り着いた。大島・三原山のもく星号墜落現場辺りの岩に、下から覗く位置に水をかけると赤いルビーの輝きが二つ現われるという。あたしの謎解きもその岩に収めて、これにて終わりにしましょ。

 なお、辻まことの父・辻潤も昭和7年「天狗になって二階から飛び降り」て(辻まことは「佯狂」と言い、フランス文学者・平野威馬雄は、自分が勧めたコカイン中毒による天狗事件と言った)、青山脳病院に入院後、佐藤春夫、谷崎潤一郎、萩原朔太郎らが世話人で「辻潤後援会」ができ、そこからの静養費で「大島の湯場」に二十日ほど滞在している。島では騒動をおこさず、おとなしくしていたのだろうか。

 参考書:松本清張「風の息」「一九五二年日航機『撃墜』事件」。西木正明「夢幻の山脈」、みすず書房刊の宇佐見英治著「辻まことの思い出」、同氏編の「辻まことの芸術」、池内紀著「見知らぬオトカム」、平凡社ライブラリーの折原脩三著「辻まこと・父親辻潤」、倉橋健一著「辻潤への愛~小島キヨの生涯」、玉川信明「放浪のダダイスト辻潤」他。

 ※写真は「墓標の岩」の挿画。機体の破片が散乱する現場で宝石を探す二人の姿が、ちょっとパウル・クレーっぽい感じで描かれている。


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辻まこと(4)「墓標の岩」 [週末大島暮し]

yamakaraehon1_1.jpg 辻まことによる、三原山のもく星号事故のダイヤ収集記は、「山からの絵本」(創文社、昭和41年刊)にあった。辻まこと53歳の著作。カラー、モノクロの1頁挿画に軽妙なエッセイの構成。「三つの岩」と題された三章のひとつが「墓標の岩」。

 短いエッセイゆえ全文紹介したいが、著作権があろうから叶わぬ。かいつまんで紹介する。書き出しはこうだ。「木(ママ)星号が墜落したとき、私は乗鞍でスキーをしていた。連休を挟んで十日間、位ヶ原山荘でスキー研究会の合宿があって、賑やかな毎日だった。後半から参加した連中が、事件のニュースを下界から運んできた」。辻まことはスキーのフレンチ・メソッドを日本に導入(翻訳)した一人で、指導員を指導する山スキーの達人だった。

 「(合宿が終わって)松本へきて飛騨屋に荷をあずけ、食事に街へでて歩いている途中で急にドキンとするものがあった。日航機で九州に立つといっていたD(小原院陽子)のことをおもいだしたからだ。鯛万の店にはいるとすぐ新聞を借りて遭難機の乗客の名前をたどった。そして紙面にDの名前を発見してしまった」。「彫塑をやっているN(西常雄)と私はしばしばDの家を訪れたものだ」で、辻はDの家での酒と音楽と話で朝まで盛り上がった幾夜を回想している。

 ここで松本清張が最期まで書き綴った「一九二五年日航機『撃墜』事件」を再びひもときたくなってくる。彼の最期の書は、米機の仮想敵機としての補助翼タブ命中による撃墜ではないかという追及に加え、新たに接収ダイヤの米軍将校らの横流し・換金事件が大きなテーマになっていて、D(彼の小説では烏丸小路万里子)の正体解明に多くの頁を費やし、その途中で筆を折っている。こんな記述があった。

 彼女に渋谷の家の離れを貸した夫人の弁で、「週に一度ぐらい、彼女の部屋に集まる常連がいました。文化人というのですか、画家とか、その仲間とかが四、五人くらい・・・」。その中のひとりが辻まこと、西常雄で、彼女に絵を教えていたのが朝倉摂(松本清張小説では浅木佐津子)で、朝倉描く彼女の似顔絵や部屋のスケッチを掲載。さらに甲府の仙峡ホテル階上を占領軍司令官・官邸として借り上げられていた頃の、将校オンリーだった彼女を同ホテル・ママが撮った実際写真まで入手して同書に掲載するに至ったが・・・。

 辻まこと「山からの絵本」は昭和41年刊で、松本清張の同書は平成4年刊。無関係の両著が小原院陽子でクロスするのが、なんともおもしろい。清張はまた貴重な資料を見落としていたか。さて、話を「墓標の岩」に戻そう。(続く)


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辻まこと(3)西木版:もく星号のダイヤ [週末大島暮し]

mokuseigou2_1.jpg 西木正明「夢幻の山脈」より、辻まことが三原山・裏砂漠で「もく星号」のダイヤを拾う場面。

 ・・・昭和27年、辻まことは西常雄と小原院陽子宅で明け方まで酒を飲み、彼女の急な思いつきで湯河原の温泉に行った。その20日後の4月9日、二人は小原院陽子が乗った「もく星号」事故を知って、銀座のバー「ルパン」で落ち合う。「陽子女史にはずいぶん世話になった。現場をたずね、お線香を上げかたがた、彼女の遺品を探してやろうじゃないか」 「早く行かないと、死体収容作業に携わっている地元の連中や、アメリカ軍の奴らに横取りされるかもしれない。よし、明日の夜の船で、大島に行こうじゃないか」。

 二人は12日午後10時、東海汽船・菊丸で竹芝桟橋から大島に向かった。元村の「商人宿」に投宿して、御神火茶屋から屍臭する現場へ。サン写真新聞を参考に陽子女史が横たわっていた地点で宝石探し。五日間に渡ってメンタムの缶がいっぱいになるほどのダイヤを回収。小原院陽子宅で留守を守っていた彼女の妹に手渡した、と書いてあった。

 さて、当時も今と同じ竹芝桟橋だったのか。大島町公式サイトを見ると「昭和28年に各島航路が竹芝桟橋になる」とあり、未だ竹芝桟橋は開業していない。松本清張の書にも「遺体は東海汽船の菊丸で月島桟橋に帰ってきた」とある。昭和11年10月29日、東海汽船の前身・東京湾汽船が越前堀(霊岸島)から芝浦埠頭に移転して新社屋(待合室など)・新桟橋の盛大な披露イベントを行っていて、橘丸が新埠頭から初出航している。竹芝ふ頭は戦後に米軍接収だが、昭和27年はどうなっていたんだろう。

 また「商人宿」もしっくりこぬ。ちなみに大島観光に火をつけた『波浮の港』ヒットは昭和3年で、昭和7年の観光客は15万人。翌8年には観光協会設立。当時の「島の新聞」には元村旅館組合の旅館広告がズラッと載っている。とうに観光島で「商人宿」はそぐわない。

 西木記述にはあれもこれも首を傾げたくなって、辻まこと本人記述に辿りたくなった。有栖川公園の東京都立図書館にある「辻まこと全集」(全5巻+補巻1)をひもとく他にないかと思った時に、ネット検索でそれが辻まこと「墓標の岩」に書かれていると判明。さらにそれは「三つの岩」と題された章の一つとか。改めて<辻まこと「三つの岩」>検索で、昭和41年、創文社刊「山からの絵本」収録とわかった。かくして新宿図書館で借りることができた。

 なんと「破棄」の朱印があるも、かろうじて保存のボロボロの書なり。しかし頁をひもとけば、そこには素晴らしい絵と文章が広がっていた。(続く)


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辻まこと(2)西木正明「夢幻の山脈」 [週末大島暮し]

mugen_1.jpg 瀬戸内寂聴「美は乱調にあり」「諧調は偽りなり」は、甘粕事件で虐殺された大杉栄、伊藤野枝の評伝。野枝の少女~学生時代、辻潤との出逢い、結婚生活、「青踏」参加、そして大杉栄との暮しのなかで葉山「日陰の茶屋」事件、甘粕憲兵大尉(軍部)による虐殺。その後の辻潤の隠遁者のような比叡山の暮しなどが描かれていた。その辻潤と野枝の子が「辻まこと」で、彼が伊豆大島・三原山に撃墜された「もく星号」乗客・小原院陽子が持っていたダイヤを拾い集めたというのである。

 まずは西木正明「夢幻の山脈」(中央公論社刊)を読んでみる。同書は辻まことの評伝小説だが、いささか品がない。例えば平気でこんなことを書く。「イヴォンヌがひときわ大きな声をあげ、男の胴に両脚を巻き付けた。おとこの尻に緊張感がみなぎり、ぐっと深く押し込んだまま静止した」。 実名小説でここまで書く神経がわからぬ。

 イヴォンヌは、辻潤の友人・武林夢想庵(小説・翻訳家)の娘。昭和3年に辻親子が新聞社文芸特派員としてパリ滞在中に、武林親子と交流。昭和3年といえば「寒村自伝」で記したばかりで、共産党員が多数検挙された「3・15事件」の年。上記エッチ描写は、辻まことが昭和20年1月、父・辻潤が淀橋区落合で餓死の報に一時帰国し、満州の東亜新報社宅に戻った時の、妻・イヴォンヌの浮気現場。

 辻夫妻は帰国後に離婚。昭和23年、辻は満州時代の絵の友人・西常雄と銀座で再会し、小原院陽子を紹介される。西は彼女の横顔を、こう紹介する。「渋谷を仕切る大安組組長安藤覚の娘。噂では甲府に駐留のミルズ少佐がパトロンで、その筋から米軍に食い込み宝石類を売り込んでいるらしい宝石デザイナー」。以後、二人は渋谷の焼け跡を縫った先の瀟洒な洋館を訪ねて、しばしば酒宴。

 松本清張「風の息」では「小原院陽子」は相善八重子の名で、「一九五二年日航機『追撃』事件」では烏丸小路万里子の名で登場する。 比して西木正明「夢幻の山脈」では小原院陽子、彼女に絵の手ほどきをしたのが朝倉摂と共に実名登場。それでいて「渋谷を仕切る大安組組長安藤覚の娘で、本名は安藤陽子」と記す。渋谷を仕切るなら安藤昇だろうが、彼は大正15年生まれで、彼の娘設定なら年齢的に合わぬ。安藤覚といえば新聞記者から衆議院議員を5期務めた人物で、彼とも無関係。実名と虚構の入り混じりの無茶な記述。「辻まことファン」にはちょっと納得いかぬだろう。

 まぁ、読みかけたゆえに、辻まこと・西常雄が三原山の裏砂漠でダイヤを拾う場面まで読んでみよう。(続く)


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辻まこと(1)松本清張「もく星号」3部作 [週末大島暮し]

tujimakoto1.jpg 荒畑寒村は管野スガを幸徳秋水に寝取られ、幸徳とスガは大逆事件で処刑された。辻潤は妻・伊藤野枝を大杉栄に取られ、大杉と野枝は甘粕事件で虐殺された。

 辻潤と伊藤野枝の子が「辻まこと」。ウィキベディアによれば詩人、画家、文明批評的なイラストで知られるとあり、その年譜に昭和27年(1952)、39歳。もく星号事故で小原院陽子が事故死し、西常雄と共にその遺品の宝石を採取した」とあって、腰を抜かすほど驚いてしまった。

 伊豆大島の裏砂漠へは2006年に「月と砂漠ライン」ができて、車で砂漠入口まで行けるようになった。ブッシュ混じりの坂道を抜けると、誰もがアッと息を呑む異様で荒涼たる三原山裏砂漠の景色が広がる。その砂漠とっつきに<「もく星号」遭難の地>の看板と碑(写真:看板上方に白い柱碑)がある。

 こう書かれている。「昭和27年4月9日、わが国最初の旅客遭難機となった日本航空<もく星号>は乗員4名、乗客33名を乗せ大阪経由福岡行きとして羽田空港を飛び立ちましたが、事故当日の天候は極めて悪く視界ゼロに近い状況であったため、この地に激突したとされています。乗客乗員37名がその犠牲になりました」

 松本清張は昭和35年に「日本の黒い霧」の一篇に「運命の『もく星号』」を書いた。その8年後、昭和49年に長編「風の息」(単行本は上・下、文春文庫は上・中・下)で、もく星号は米軍機に仮想敵機として攻撃「撃沈」されたと書いた。

 松本清張はそれでも満足できず、亡くなる直前の平成4年に『一九五二年日航機「撃墜」事件』を書いた。「風の息」に全面的に手を加えての改稿で、前作を破棄する・・・とまで記したが、満足できぬ無念を遺したまま逝った。同機には軍に接収されたダイヤがGHQに渡り、そこから闇ルートでダイヤ売買をしていた美女・小原院陽子が乗ってい、ダイヤが紛失した。三作目の同書には彼女の写真、渋谷の自宅室内スケッチも載っていたが、松本清張は新たに何を書こうとしていたのだろうか。小生は彼の謎解きに、当時の大島・波浮に米軍沿岸警備隊が駐留していたことを見逃したために迷宮に嵌ったと思っているのだが。ちなみに昭和39年(1964)の「島の新聞」に、波浮駐屯の米兵が磯釣りで海に転落した人を助けたという記事があり、彼らは随分と永い間波浮に駐屯していた。

 まぁ、そんなことで島に初めて来た友人には裏砂漠を案内し、もく星号墜落の碑の辺りで、この松本清張の話をするのが常になっている。話が終わった後で、必ずこう付け加える。「まだ散乱したダイヤがあるはずだが・・・」。すると誰もがキラキラと光るスコリア(火山噴出の黒っぽい軽石)に「おや、ダイヤかしら」と石拾いを始める。

 辻まことは、本当に三原山でダイヤを拾い集めたのだろうか。(続く)


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今日もまた子育てかしらクマんバチ [花と昆虫]

hati2_1.jpg 窓際で読書の日々。ふとベランダを見れば、毎日のようにクマバチがやってくる。集団行動嫌いで単独生活、かつ穏やかな性格と云えば、ふっ、あたしと同じぢゃないか。

 調べれば、この時期は母ハチが羽化(うか)した子にセッセと花粉や蜜を与えるとか。都会のマンション7階の小さなベランダだが、春にはメジロが集い、今は小雀が親雀から餌を貰い、3軒隣マンションの地下駐車場天井で孵ったツバメらが頬を掠め飛んで行く。

 クマバチも、この時期この場所近くに巣があるのなら、来年も再来年も訪れて欲しい。そのために、来年はもっと花を咲かせましょうかと思案する。 50ミリのマクロレンズ。ISOを1600に上げ、sec1/2000でやっと羽ばたきが止まった。


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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録ラスト) [読書・言葉備忘録]

kansonjisei_1.jpg 寒村は震災後の軍の暴走に身を案じ、長岡の温泉宿に潜んだ。大正13年秋、共産党解党。昭和2年、第二次共産党結成。寒村は福本イズムと徳田球一、佐野(学・文)らが信じられぬ。昭和3年、共産党員大検挙(1千名逮捕、3百人起訴)の「3・15事件」。同年12月、7党合同の「日本大衆党」成立。予想通り内紛続き。寒村は「もう何もかも面倒臭くなり(略)、服毒自殺を企てた」。自伝では数行記述で見過ごしたが、現代日本文学大系・第22巻には、堺利彦が「荒畑寒村の『自殺未遂』始末」と題し、遺書6通を紹介していた。場所は新宿1丁目の東京ホテル。カリチモン服毒も発見・処置が早かった。

 昭和2年末、雑誌「労農」創刊。共産党とは天皇制解釈にズレ。両派共に右派左派あって、ややこしいこと。昭和6年、満州事変勃発。昭和6年、反戦を叫び続けた師・堺利彦が死去。寒村の妻も軽症ながら脳出血。病状が良くなった昭和12年末、理由なき検挙。淀橋署留置場暮しで、刑務所暮しより辛い1年だった。戦時体制強化で、数年前の「労農」で治安維持法違反とか。昭和13年12月に巣鴨刑務所へ。翌年春に出所すると、留守を守ってきた妻の緊張が解けたか、昭和16年に死去。66歳だった。日米開戦。

 妻を亡くし、空襲を逃げつつ仲間の家を転々とする無収入生活。大島で東京湾汽船の食堂経営の旧友・石田勝三郎が帰京の度に小遣をくれ(石田とはいかなる人物や。大島や東海汽船の歴史調べをしたことのある小生にはちょっと気になる)、土木事業の小堀甚二が経済援助。やがて東京大空襲。

 戦後、労働組合運動を再開。寒村はスターリン嫌いになって「共産主義者なんか犬にくわれるがいい」と記す。終戦後の初総選挙で社会党から立候補して当選。再婚。昭和22年の2回目総選挙も当選。社会党140議席で第一党。「ブルジョア政党との連立内閣」で、当然のこと公約果たせず。今の民主党と同じですね。歴史はどこまで繰り返すのか? 議員を2期務めた後は評論活動。昭和56年に93年の生涯を閉じた。

 写真は現代日本文学大系・第22巻の「荒畑寒村」の項の口絵。60代に詠った「死なばわがむくろをつつめ戦いの塵にそみたる赤旗をもて」の直筆。これにて「寒村自伝」私的抄録終わり。


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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録5) [読書・言葉備忘録]

tikumakanson_1.jpg 大正4年、堺利彦がマルクス主義標榜の月刊「新社会」創刊。ロシア革命で同誌も革命一色。大正7年、「米騒動」勃発。寒村は米騒動感想を「法治国」に寄稿し、新聞紙法違反で罰金30円。

 この頃の記述で面白いのは、「青服事件」服役で体調を崩した寒村が、妻に食事管理されるも戸山ヶ原でこっそり今川焼などを食っているところを、尾行してきた妻に見つかって大目玉を食らうシーン。あたしも目下ダイエット中。二日で2㎏落とすが、その後がままならぬ。炭水化物抜きから今は菜食に切り替え中。

 大正9年、寒村は大阪で「日本労働新聞」編集。労働組合のゴタゴタ続き。読むのも嫌なら、寒村も嫌だったのだろう、サンディカリズム(労働組合主義)からコミュニズム(共産主義)へ改宗。これは労働者が工場占領して自ら生産管理をするも、資本主義国家内では生き抜けなかったイタリーの工場例を知ってのこと。そう寒村は記すも、ロシア革命に影響されてのことだろう。丸ごと労働者階級国家にせねばと思う。

 「労働新聞」の資金探しに、株屋の顧問弁護士・徳田球一が近づいてきた。「鐘紡にストライキを起こせば、株暴落で儲けた金を出す」と。寒村は以後、共産党で付き合うことになる徳田を終生信用せぬ。

 大正10年、「京都赤旗事件」で服役6か月。京都刑務所の寒いこと。大正11年夏、第1次共産党を秘密裏に組織。11月に北京へ行ってソビエト共産党と接触。大正12年春、ソビエト潜入。上海から満鉄でハルピン、国境の満州里。馬車でソビエト領の駅からシベリア鉄道。8日間走ってモスクワへ。クレムリンでロシア共産党第12回大会に出席。スターリン、トロッキーらの演説。寒村も仲間に手伝ってもらった英文原稿で挨拶。1週間後のメイデーを見学。帰りはウラジオストックへ。ここに日本の党より亡命を命じられた佐野学、近藤栄蔵、高津正道らがいて共同生活。寒村はひとり、木材を積んで上海に帰る英国船に乗って上海から長崎へ。このロシア密航紀行は「寒村自伝」のなかでも出色。※写真は筑摩叢書「寒村自伝」。多くの写真掲載。岩波文庫「寒村自伝」巻末には、ロシア密航の地図付き。

 震災から3ヶ月後、大久保の我が家に帰宅。軒も傾かず瓦も落ちていなかった。妻が当時を報告する。「空地で幾夜を過ごして家に落着くと、大杉栄が末の子を乗せた乳母車を押しつつ訪ねてくれて“お玉さん、僕がついているから心配することはないヨ”と励ましてくれた」と。大杉、野枝、甥っ子が虐殺されたのは、その翌日だった。(続く) 


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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録4) [読書・言葉備忘録]

asahitaigyaku1_2_1.jpg  寒村が「赤旗事件」で千葉監獄に服役中に、内妻・管野スガと師・幸徳秋水が結ばれた。明治43年2月に出獄した寒村は、怒りと嫉妬にピストルを懐に彼らが滞在の伊豆へ。彼らは去った後。海辺で泣き崩れる。3ヶ月後、全国の無政府主義者、社会主義者の数百人が一斉検挙。大審院特別刑事部は12月より29日の短期間に18回公判。非公開で一人の証人喚問なしで24名に死刑判決。この「大逆事件」は何度も記したので略。

 寒村は管野の遺骸(死顔)を見る勇気なく、こう記した。「(大逆事件は)自身の放恣不検束な生活をまじめに反省し、惑溺した愚行を慚愧する機会を与えた。私は情痴の迷夢からさめて、いわば本心に立返ったのである」

 かくして大日本印刷会社に就職。だが警察干渉で解雇。仲間が雑誌の文藝担当で懸賞短編小説に匿名応募し、その懸賞で食いつなぐ。堺利彦は出獄すると「売文社」設立。自分は銀座の日本蓄音器会社(日本コロムビアの全身)に翻訳係として通勤し、売文社は出獄した仲間の生活の場にしたとか。

 寒村は月給25円で「二六新聞」記者に。洲崎で知り合った11歳上の竹内玉と所帯を持った。彼女は本郷赤門前の旅館の娘だったが、火事焼失で一家没落、10歳で下女奉公、田舎茶屋、吉原に売られ、洲崎の妓楼の新造になっていた。任侠の風のある典型的な江戸っ子。以後、寒村は入獄、貧乏を繰り返す度に玉の健気な気風に支えられ、感謝の文を何度も綴っている。筑摩叢書「寒村自伝」には愛妻・玉の花魁時代の写真が自慢げに掲載されていた。

 大正元年10月、寒村は大久保百人町の大杉栄の裏隣に移転し、大杉と「近代思想」を創刊。同誌は文壇からも注目され、大杉栄は新進評論家へ。寄稿者とエピソードの数々が紹介されるが、そのなかに「山本飼山」が大正2年11月に「戸山ヶ原付近で鉄道自殺」とあった。どの本だが思い出せぬが「戸山ヶ原で鉄道自殺」の文章を読んだ記憶がある。同一人物だろうか。同誌は知識的遊戯から次第にサンディカリズム(労働組合主義)色を濃くして行く。

 大正3年秋、「近代思想」を廃刊し、発展的に「月刊・平民新聞」を創刊するも端から発禁。4号で廃刊。大杉のアナーキー傾向に比し、寒村は労働組合運動に関心を深めて二人の間に溝。そして大杉は伊藤野枝(辻潤夫人)と神近市子と情交。「日陰の茶屋」事件へ発展する。★写真は大逆事件を報じる当時の「東京朝日新聞」。


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