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辻まこと(4)「墓標の岩」 [週末大島暮し]

yamakaraehon1_1.jpg 辻まことによる、三原山のもく星号事故のダイヤ収集記は、「山からの絵本」(創文社、昭和41年刊)にあった。辻まこと53歳の著作。カラー、モノクロの1頁挿画に軽妙なエッセイの構成。「三つの岩」と題された三章のひとつが「墓標の岩」。

 短いエッセイゆえ全文紹介したいが、著作権があろうから叶わぬ。かいつまんで紹介する。書き出しはこうだ。「木(ママ)星号が墜落したとき、私は乗鞍でスキーをしていた。連休を挟んで十日間、位ヶ原山荘でスキー研究会の合宿があって、賑やかな毎日だった。後半から参加した連中が、事件のニュースを下界から運んできた」。辻まことはスキーのフレンチ・メソッドを日本に導入(翻訳)した一人で、指導員を指導する山スキーの達人だった。

 「(合宿が終わって)松本へきて飛騨屋に荷をあずけ、食事に街へでて歩いている途中で急にドキンとするものがあった。日航機で九州に立つといっていたD(小原院陽子)のことをおもいだしたからだ。鯛万の店にはいるとすぐ新聞を借りて遭難機の乗客の名前をたどった。そして紙面にDの名前を発見してしまった」。「彫塑をやっているN(西常雄)と私はしばしばDの家を訪れたものだ」で、辻はDの家での酒と音楽と話で朝まで盛り上がった幾夜を回想している。

 ここで松本清張が最期まで書き綴った「一九二五年日航機『撃墜』事件」を再びひもときたくなってくる。彼の最期の書は、米機の仮想敵機としての補助翼タブ命中による撃墜ではないかという追及に加え、新たに接収ダイヤの米軍将校らの横流し・換金事件が大きなテーマになっていて、D(彼の小説では烏丸小路万里子)の正体解明に多くの頁を費やし、その途中で筆を折っている。こんな記述があった。

 彼女に渋谷の家の離れを貸した夫人の弁で、「週に一度ぐらい、彼女の部屋に集まる常連がいました。文化人というのですか、画家とか、その仲間とかが四、五人くらい・・・」。その中のひとりが辻まこと、西常雄で、彼女に絵を教えていたのが朝倉摂(松本清張小説では浅木佐津子)で、朝倉描く彼女の似顔絵や部屋のスケッチを掲載。さらに甲府の仙峡ホテル階上を占領軍司令官・官邸として借り上げられていた頃の、将校オンリーだった彼女を同ホテル・ママが撮った実際写真まで入手して同書に掲載するに至ったが・・・。

 辻まこと「山からの絵本」は昭和41年刊で、松本清張の同書は平成4年刊。無関係の両著が小原院陽子でクロスするのが、なんともおもしろい。清張はまた貴重な資料を見落としていたか。さて、話を「墓標の岩」に戻そう。(続く)


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