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辻まこと(5)もく星号の宝石収拾  [週末大島暮し]

yamaehon_1.jpg 辻まこと「墓標の岩」は、こう続いている。・・・D(小原院陽子)の家に行くと、「N(西常雄)もきていた。(Dの)血縁は弁護士だという年寄りの叔父さんと妹さんだけだった」。辻はNからDが遭難時に持っていた宝石類リストを見せられる。警察によって発見されたものは全体の5%に過ぎない。二人は大島の警察から品物引き取りかたがた、現場に行って宝石探しをすることにした。

 最初は元村側の登山道から現場に向ったが、二日目からは波浮に宿を移して現場通い。「巾100メートル長さ1キロに亘って何とも形容し難い機体の破片が帯状に散乱している」。現場の惨状が描かれて、「どこからどうやって手をつけていいか迷うばかりだったが、とにかく下から順に見ていくことにした」。

 かくして最初の日にルビー、サファイア、ジルコンの玉を幾つか拾った。ダイヤはもく星号の風防ガラスが砕け散っていて、探すのは絶望的だった。(納得)。2日目からは熊手、ブラシ、ザルを用意。4日目の夕方、遺族が満足するかどうかは別にして「やるだけはやった」で、かなりの宝石類を取り戻した。

 あっさりとした記述だが、見逃してはいけないのは、辻まことの宝石探しの“腕”が筋金入りだということ。彼の年譜にこうある。「昭和12年(1937)24歳、友人の竹下不二彦(画家・竹下夢二の息子)、福田了三(経済学者・福田徳三博士の息子)とともに金鉱探しに夢中になり上信越、東北、北海道の山々を歩く」。

 この「山からの絵本」の「三つの岩」三章の「墓標の岩」の前の章が「黄金岩」で、その書き出しはこうだ。「金鉱さがしに夢中になっていた頃の話だ。」 辻と竹下は岩を砕き、石を拾い、川床から砂礫を採取する係で、福田はそれを分類記録、分析する係だったと記し。「二年間というもの、私は一ヶ月に一度、ニ、三日東京に留まるだけで、あとは山から山を歩いていた」。辻まことは“山師”だったのだ。その山師が撃墜現場で四日間「やるだけのことはやった」「かなりの宝石を取り戻した」は文字通りの成果を得たと理解していいだろう。※西常雄は雑誌「アルプ」(特集 辻まこと)に、それはメンソレータムの空缶一杯ぐらい、と記しているそうな。(宇佐見英治「辻まことの思い出」より)。

 そして最後は、岩に食い込んだルビーのような赤い斑点が二つ。簡単に取り出せない。二人は「(それをそのままに)Dの墓標にしておくか」と頷き合って、「海に向かって山を降りた。」で文章を終えている。

 松本清張による「もく星号」三部作を貪り読んだのはいつだったろう。以来、頭の片隅にあった噂の「ダイヤ収拾」の、ひとつの実際記述に、かくしてやっと辿り着いた。大島・三原山のもく星号墜落現場辺りの岩に、下から覗く位置に水をかけると赤いルビーの輝きが二つ現われるという。あたしの謎解きもその岩に収めて、これにて終わりにしましょ。

 なお、辻まことの父・辻潤も昭和7年「天狗になって二階から飛び降り」て(辻まことは「佯狂」と言い、フランス文学者・平野威馬雄は、自分が勧めたコカイン中毒による天狗事件と言った)、青山脳病院に入院後、佐藤春夫、谷崎潤一郎、萩原朔太郎らが世話人で「辻潤後援会」ができ、そこからの静養費で「大島の湯場」に二十日ほど滞在している。島では騒動をおこさず、おとなしくしていたのだろうか。

 参考書:松本清張「風の息」「一九五二年日航機『撃墜』事件」。西木正明「夢幻の山脈」、みすず書房刊の宇佐見英治著「辻まことの思い出」、同氏編の「辻まことの芸術」、池内紀著「見知らぬオトカム」、平凡社ライブラリーの折原脩三著「辻まこと・父親辻潤」、倉橋健一著「辻潤への愛~小島キヨの生涯」、玉川信明「放浪のダダイスト辻潤」他。

 ※写真は「墓標の岩」の挿画。機体の破片が散乱する現場で宝石を探す二人の姿が、ちょっとパウル・クレーっぽい感じで描かれている。


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