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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録4) [読書・言葉備忘録]

asahitaigyaku1_2_1.jpg  寒村が「赤旗事件」で千葉監獄に服役中に、内妻・管野スガと師・幸徳秋水が結ばれた。明治43年2月に出獄した寒村は、怒りと嫉妬にピストルを懐に彼らが滞在の伊豆へ。彼らは去った後。海辺で泣き崩れる。3ヶ月後、全国の無政府主義者、社会主義者の数百人が一斉検挙。大審院特別刑事部は12月より29日の短期間に18回公判。非公開で一人の証人喚問なしで24名に死刑判決。この「大逆事件」は何度も記したので略。

 寒村は管野の遺骸(死顔)を見る勇気なく、こう記した。「(大逆事件は)自身の放恣不検束な生活をまじめに反省し、惑溺した愚行を慚愧する機会を与えた。私は情痴の迷夢からさめて、いわば本心に立返ったのである」

 かくして大日本印刷会社に就職。だが警察干渉で解雇。仲間が雑誌の文藝担当で懸賞短編小説に匿名応募し、その懸賞で食いつなぐ。堺利彦は出獄すると「売文社」設立。自分は銀座の日本蓄音器会社(日本コロムビアの全身)に翻訳係として通勤し、売文社は出獄した仲間の生活の場にしたとか。

 寒村は月給25円で「二六新聞」記者に。洲崎で知り合った11歳上の竹内玉と所帯を持った。彼女は本郷赤門前の旅館の娘だったが、火事焼失で一家没落、10歳で下女奉公、田舎茶屋、吉原に売られ、洲崎の妓楼の新造になっていた。任侠の風のある典型的な江戸っ子。以後、寒村は入獄、貧乏を繰り返す度に玉の健気な気風に支えられ、感謝の文を何度も綴っている。筑摩叢書「寒村自伝」には愛妻・玉の花魁時代の写真が自慢げに掲載されていた。

 大正元年10月、寒村は大久保百人町の大杉栄の裏隣に移転し、大杉と「近代思想」を創刊。同誌は文壇からも注目され、大杉栄は新進評論家へ。寄稿者とエピソードの数々が紹介されるが、そのなかに「山本飼山」が大正2年11月に「戸山ヶ原付近で鉄道自殺」とあった。どの本だが思い出せぬが「戸山ヶ原で鉄道自殺」の文章を読んだ記憶がある。同一人物だろうか。同誌は知識的遊戯から次第にサンディカリズム(労働組合主義)色を濃くして行く。

 大正3年秋、「近代思想」を廃刊し、発展的に「月刊・平民新聞」を創刊するも端から発禁。4号で廃刊。大杉のアナーキー傾向に比し、寒村は労働組合運動に関心を深めて二人の間に溝。そして大杉は伊藤野枝(辻潤夫人)と神近市子と情交。「日陰の茶屋」事件へ発展する。★写真は大逆事件を報じる当時の「東京朝日新聞」。


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