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荒畑寒村「寒村自伝」(私的抄録5) [読書・言葉備忘録]

tikumakanson_1.jpg 大正4年、堺利彦がマルクス主義標榜の月刊「新社会」創刊。ロシア革命で同誌も革命一色。大正7年、「米騒動」勃発。寒村は米騒動感想を「法治国」に寄稿し、新聞紙法違反で罰金30円。

 この頃の記述で面白いのは、「青服事件」服役で体調を崩した寒村が、妻に食事管理されるも戸山ヶ原でこっそり今川焼などを食っているところを、尾行してきた妻に見つかって大目玉を食らうシーン。あたしも目下ダイエット中。二日で2㎏落とすが、その後がままならぬ。炭水化物抜きから今は菜食に切り替え中。

 大正9年、寒村は大阪で「日本労働新聞」編集。労働組合のゴタゴタ続き。読むのも嫌なら、寒村も嫌だったのだろう、サンディカリズム(労働組合主義)からコミュニズム(共産主義)へ改宗。これは労働者が工場占領して自ら生産管理をするも、資本主義国家内では生き抜けなかったイタリーの工場例を知ってのこと。そう寒村は記すも、ロシア革命に影響されてのことだろう。丸ごと労働者階級国家にせねばと思う。

 「労働新聞」の資金探しに、株屋の顧問弁護士・徳田球一が近づいてきた。「鐘紡にストライキを起こせば、株暴落で儲けた金を出す」と。寒村は以後、共産党で付き合うことになる徳田を終生信用せぬ。

 大正10年、「京都赤旗事件」で服役6か月。京都刑務所の寒いこと。大正11年夏、第1次共産党を秘密裏に組織。11月に北京へ行ってソビエト共産党と接触。大正12年春、ソビエト潜入。上海から満鉄でハルピン、国境の満州里。馬車でソビエト領の駅からシベリア鉄道。8日間走ってモスクワへ。クレムリンでロシア共産党第12回大会に出席。スターリン、トロッキーらの演説。寒村も仲間に手伝ってもらった英文原稿で挨拶。1週間後のメイデーを見学。帰りはウラジオストックへ。ここに日本の党より亡命を命じられた佐野学、近藤栄蔵、高津正道らがいて共同生活。寒村はひとり、木材を積んで上海に帰る英国船に乗って上海から長崎へ。このロシア密航紀行は「寒村自伝」のなかでも出色。※写真は筑摩叢書「寒村自伝」。多くの写真掲載。岩波文庫「寒村自伝」巻末には、ロシア密航の地図付き。

 震災から3ヶ月後、大久保の我が家に帰宅。軒も傾かず瓦も落ちていなかった。妻が当時を報告する。「空地で幾夜を過ごして家に落着くと、大杉栄が末の子を乗せた乳母車を押しつつ訪ねてくれて“お玉さん、僕がついているから心配することはないヨ”と励ましてくれた」と。大杉、野枝、甥っ子が虐殺されたのは、その翌日だった。(続く) 


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