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甘粕正彦(7)大ばくちすってんてん [読書・言葉備忘録]

kantougun_1.jpg 満州、関東軍、朝鮮併合のにわか勉強は後にして、甘粕の最期まで・・・。昭和20年8月9日、ソ連軍が国境を越えて満州に侵入。甘粕は満映の理事室に立てこもった。日本敗戦翌日に、満映の日本人職員千人を集めて、こう挨拶した。「この会社が中国共産党か国民党のものになるかはわかりませんが、そのために機材を大切に保存して下さい。私は元軍人ですが不忠不尽の者ですから日本刀で死ぬには値しないが、別の方法で死にましょう」。

 甘粕は銀行から満映の預金6百万円を引き出して社員の退職金にし、関東軍に交渉して満映社員とその家族の新京脱出の列車も手配。満映の全職員と家族を集めた最後の大パーティの夜、理事長室の黒板に「大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん」の戯歌、辞世句が書かれていた。8月20日、青酸カリで自殺。甘粕の口をこじ開けたのは映画監督・内田吐夢。

 テーブルの上には永井荷風の「濹東綺譚」の頁に挟まれて三通の遺書。自決前夜には赤川次郎の父・赤沢孝一と寝ずの番(自殺しないように)をしていたロシア文学者・長谷川に「何か軽い読み物を」と求め、これまた荷風の「おもかげ」が渡されたとか。甘粕が最期に永井荷風を読んでいたとは愉快なり。

 なお満映撮影所は今も残されていて、満映人が移り作った東北電影では、中国人スタッフにしっかりと技術を継承したそうな。満映残党らが引き揚げて、何社かの吸収合併で「東映」誕生。映画のことは、まぁ、どうでもいいや。

NONONHAN_1.JPG 甘粕の最期が立派だったことに比し、半藤一利「ノモンハンの夏」を読むと三宅坂の三階建て白亜の殿堂「大本営陸軍部」の参謀や、関東軍参謀(特に辻政信参謀。彼は太平洋戦争でも同じ過ちを犯し、戦後は代議士になった)らの愚かさを怒りを込めて描いていた。幼年学校・士官学校・大学校試験を通過し、子供の頃から社会的に目隠しされたまま栄進してきた連中に、確かな戦略が立てられるワケもなく、責任を負わされそうになれば、さっさと逃げる。満州では部下を置いて逃げた将校もいたとか。まっ、今の官僚と同じだな。 

 満州の戦場では月給に戦地増酬がつき大将545円、大佐345円、大尉145円で1・2等兵は12円とか。兵隊らはひそかに「将校商売、下士官道楽、お国のためは兵隊ばかり」と歌っていたとか。一銭五厘の赤紙で召集され、命を失う男らはたまったものじゃない。ノモンハン事件で戦死、戦傷、戦病、生死不明の計は1万9768名。国策による満州移住農民約30万人をはじめ、兵士を加えれば100万を越える人々が満州に渡っていた。引揚げの悲惨さも筆舌に尽くし難し。

 陸軍参謀らの愚かさに比し、満映社員に退職金を渡し、引揚げ列車まで手配した甘粕を褒めたが、彼とて満州国誕生の大ばくち、陰謀を率先。褒められたものじゃない。

 これにて甘粕正彦の項を終える。今なにかとモメている日中、日韓だが、甘粕を読みつつ満州、関東軍、朝鮮併合関連書約10冊を読んで歴史勉強をさせてもらった。


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甘粕正彦(6)居直って満州を支配 [読書・言葉備忘録]

mansyu1_1.jpg 昭和4年2月に帰国した甘粕は、その夏に満州に渡った。「私の置かれたる数奇にして特異なる境遇と地位とを利用して~」。まぁ、大変な居直り。開き直るどころか、やってもいない大杉一家虐殺の残忍イメージをも利用した甘粕の後半生の始まぁ~り。

 佐野眞一は、満州の甘粕を三期に分類。満州建国を画策して暗躍した第一期。満州国の陰の実力者と恐れられ始めた半公然活動の第二期。満州映画協会理事長から青酸カリ自殺の最期までが第三期。

 第一期は、甘粕を満州に誘った大川周明との密接な関係のなかで、彼は母の旧姓・内藤から「内藤機関」を名乗り、関東軍特務機関の別動隊長となって暗躍。主な活動は日本軍出兵の口実づくりにハルピンの日本総領事館、新聞社、銀行などを中国人が襲撃したように見せかけて、侠客の子分を引き連れて爆弾を投げ込んだこと。

 昭和6年、関東軍は天津に逼塞中の溥儀を脱出させ、汽船を乗りついで遼東半島のつけ根「営口」へ。ここに甘粕が待機していて、溥儀を馬車や満鉄に乗せて湯崗子温泉へ。要するに正規軍人では出来ぬ陰謀を、軍人並み実力を有した甘粕が担当。かくして溥儀を執政とした満州国が昭和7年に誕生。千葉刑務所~パリ生活で鬱積の日々を送っていた甘粕が開き直って完全燃焼。人は居直ると人格も変る。

 第二期は、満州国が誕生して民生部警務局長(秘密警察トップ)に就任。その座を二代目に譲って、昭和9年に「大東公司」を設立・運営。これは満州の工事現場に流入する膨大な労働者管理。ここから入る多大な金を関東軍に貢ぎ、また自身の諜報工作資金にした。次第に「満州の昼は関東軍、夜は甘粕が支配」とまで言われるようになる。

 昭和14年、「大東公司」が満州労工協会に統合されると、今度は「大東協会」設立。理事からスタッフまで甘粕人脈で固め、さながら満州の梁山泊。日本から逃げてきた転向左翼も多数抱えた。排英工作、蒙古工作、チベット工作などなど。無趣味の甘粕が「趣味は陰謀」と云うほど。昭和12年、幼年学校の教官・東条英機が関東軍参謀長に就任すると、甘粕を「協和会」総務部長に抜擢。(彼は死ぬまで協和会服を着ていた)。昭和13年、満州国の訪欧使節団の副団長兼事務総長として約5ヶ月に渡るヨーロッパ諸国歴訪。ムッソリーニ、ヒットラー、フランコらと会見。

 第三期は、満映の理事長就任から終戦で青酸カリ自殺まで。満映・理事長時代の甘粕はいろんなところで書かれているから割愛。

 さて、角田房子「甘粕大尉」、佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」備忘録を綴ってきたが、正直に申せば関東軍、満州国、さらには朝鮮併合など己の無知甚だしく焦ってしまった。まず満州の地図が浮かばぬ。日清・日露戦争、朝鮮併合の経緯がわからぬ。 「おまいさん、このクソ暑いのに外出したら死んじゃうよぅ」の声を背に、新宿・紀伊国屋(本屋)に走って本を購い、また図書館通いをした。隠居のにわか勉強なり。


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甘粕正彦(5)陰鬱なる獄中~パリ暮し [読書・言葉備忘録]

 そんな甘粕大尉が、なぜに軍(や警察)による大杉栄、伊藤野枝、甥っ子の橘宗一君虐殺の罪を背負うはめになったか。軍上層部が甘粕をスケープゴートに選んだ理由は? 独身だったから。「未ダ稚気ヲ脱セナルヲ遺憾トス」性格ゆえか。はたまた朝鮮での「憲兵警察の廃止」建言で赤池濃を激怒させたためか。

 関東大震災、大杉事件当時の赤池は警視総監。内務省警保局長・後藤文夫。内務大臣・水野練太郎。この「赤池~後藤~水野」のラインが戒厳令を発動で、彼らが大杉一家虐殺を甘粕に仕組んだか・・・。

 かくして甘粕は事件の罪を一人で被った。その憲法会議供述は、53年後の昭和51年に発見された「死亡鑑定書」によって、フィクション(作りごと)だったことが判明している。罪を被って懲役10年。彼は大杉栄、荒畑寒村らも収監された千葉刑務所に入った。

 たびたび収監される主義者らは、例えば大杉栄は「一獄一語」として収監を語学習得の場にするなど、それなりに有意義に過ごしたものだが、甘粕はただただ拗ね・愚痴るのみ。それでも当初から決められていたらしき2年10ヶ月で出所。だが時を経ても大杉一家虐殺のインパクトは凄く、マスコミの取材が殺到する。結局、ホテルで憲兵上官に挟まれて各社合同記者会見。

 甘粕は出所9ヶ月後の昭和2年夏、新妻を伴ってフランスに旅立った。全経費、陸軍持ち。「マスコミがうるさく出国させた」(真相がバレるのを恐れて)、「軍が慰安旅行させた」の両説あり。

 だが甘粕のフランス生活は「なんとも憂鬱」に尽きた。フランス語がしゃべれぬからご近所との交際なし。軍から金が入ると競馬でスルなどで常に貧乏。子供が出来るも夫婦仲が好くもなし。「心がスネて、とても駄目なような気がする」と日記に記す。

ohsugisakae1_1.jpg 一方、大杉栄(写真)や荒畑寒村らの密航パリ、モスクワ行きはなんとも胸躍る旅だった。寒村はモスクワの共産党大会、メーデーに大興奮(「寒村自伝」)。大杉はパリのメーデーに飛び入り演説して収監されるも、その獄中記の明るいこと。長女・魔子にこんな戯歌を作っていた。「魔子よ 魔子 パパは今 世界に名高い パリの牢屋 ラ・サンテ。だが魔子よ 心配するな 西洋料理の御馳走たべて チョコレートなめて 葉巻スパスパ ソファーの上に。(略) おみやげどっさり うんとこしょ~」(大杉栄「自叙伝」)。快活で明るく愛らしい大杉栄の姿が浮かんでくる。

 甘粕が監獄と変わらぬ陰鬱な1年7ヶ月のパリ生活を切り上げて帰国したのは昭和4年2月だった。


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甘粕正彦(4)横顔その2 [読書・言葉備忘録]

asahiamakasu1_1.jpg 朝鮮から東京に戻った甘粕は、憲兵練習所に入って翌年卒業と同時に大尉昇進。市川憲兵分隊長になった。ここでも気になる逸話を残している。甘粕が「野田争議」を仲裁したとか。これまた両著ともに「どう仲裁したか」には言及せぬが、料亭代金を会社側が勝手に払ったことに激怒し、自分の分は自分で払ったと記していた。甘粕の潔癖さはよくわかったが、労資争議をどう仲裁したかには言及していない。甘粕はそんなに立派な大人になっていたのだろうか?

 小生の手許に瀬戸内寂聴「諧謔は偽りなり」を読んだ際に、図書館で当時の新聞縮刷版より「大杉事件」関連記事をコピーした20枚ほどがある。おそらく甘粕が初めて新聞登場だろう大正12年9月21日の「東京朝日新聞」(写真)に、彼の横顔がこう記されていた。

 小見出しは「問題の甘粕大尉」。・・・軍法会議に附された問題の中心となった甘粕大尉と最も親しく往来してゐた従姉で前内務省社會局嘱託・呉なべ子夫人を雑司ヶ谷の自宅に訪ふと(略)・・・正彦は今年三十二。伊勢山田の生まれですが先年父が死んだので母と八人の兄弟をつれて東京に移りました。経歴は幼年学校、士官学校を出ると直ぐに朝鮮憲兵分遣隊附きとなり、司令官副官、市川分隊長を経て現職(渋谷憲兵分隊長で麹町憲兵分隊長を兼務)になったのですが、上官からの受けもよく昇進も早い様でした。私の口から云うのも変ですが真面目で無口で読書好きです。(略)・・・憲兵は人事を司るのだからと云って随分新しいものも読んでゐた様で、司令官副官当時と思ひますが協調會の社会政策講習会に入って第一回の卒業生です。

 協調會をネット検索すると、渋沢栄一らが設立した労資協調のための財団らしく、甘粕はここで得た知識をもって「野田争議」を仲裁したと納得した。

 もうひとつ「理想の憲兵将校」の小見出しで、彼と同期生で第一師団司令部参謀の某大尉のコメント。・・・甘粕大尉は、士官学校時代は非常に真面目な勉強家で学科も実技も出来がよく将来を期待されてゐた。憲兵隊に入ったのは中尉の時で、この当時の石光憲兵司令官の副官となったのです。元来は歩兵でしたが足を悪くした為め転科したので、憲兵隊でも謹厳過ぎる程の人で酒も飲まず道楽もなくいい憲兵だと噂されてゐた程です。家庭的にも何もなかったと思ひますが、よく人の家庭のことまで心配してくれるというふやうな所もありました。あの甘粕大尉が不法行為をしたとどうしても思はれぬ程です。

 そんな彼が、なぜに大杉栄一家虐殺の罪をひとりで背負うことになったのだろう。


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甘粕正彦(3)横顔その1 [読書・言葉備忘録]

 甘粕は名古屋・陸軍士官学校卒業後の明治43年、19歳で陸軍士官学校に入学。教練班長は東条英機。同校歩兵科505人中34番の優等生。見習い士官から少尉任官。陸軍戸山学校の訓練中(乗馬が苦手?)に足負傷で歩兵を断念、憲兵になった。

 佐野眞一は平成2年に解体業者を経て国立図書館・憲政資料室所蔵になった「茶箱一杯分」の甘粕資料より、大正元年末に憲兵少尉に任命された翌年の「考課評価」を探り出す。「温良篤実ニシテ機敏着眼頗ル良好ナルモ、青年ナルカ故ニ時々或ル抑戻ナルノ風アリ、未ダ稚気ヲ脱セナルヲ遺憾トス」

 佐野は「抑戻」なる言葉は辞書になく、「過剰なるまでの正義感」と解釈して、そこを軍の上層部に巧みに利用されたとみることもできると記している。小生は、ここに正義感なる言葉はないから、文字通り「稚気に戻る」の意だろうと解釈する。「温良篤実」にして「稚気に戻る」とはどんな人物や。同期生らは口を揃え「甘粕は奇行と篤行の人」と回想しているとか。ウ~ン、どこか「変な奴」はわかるが、その姿がなかなか浮かんでこない。

 大正7年、甘粕は朝鮮京畿道揚州憲兵分隊長になった。この頃の甘粕逸話(1):角田は甘粕の同期の弟の弁で「彼が兄の許へ遊びにくると、烈しい口調で軍を批判していたから、大杉事件が発覚した時に、彼が大杉に同調して事を起こしたかと思った」を紹介。根っからの皇国軍人として成長した彼に、軍の実情を嘆く批判眼が芽生えていたか・・・。逸話(2):甘粕の道揚州憲兵分隊長時代は朝鮮の「独立運動」盛り上がりに日本官憲が銃火鎮圧の血なまぐさい風が吹き荒れるも、甘粕は着任早々に地元民とのコミュニケーションを密にしていて同地を平穏に収めたとか。角田・佐野両著ともそれは記すも、甘粕が地元民に「なんと言って」平穏に収めたかに言及していない。

kankoku2_1.jpg しょうがないから勝手に想像してみた。「朝鮮独立の気持ちはよくわかる。しかしいま日本帝国が手を引けば、また清(中国)やロシアやイギリスが入って来よう。今は朝鮮の体制を盤石に、国力がつくまで待とうじゃないか」・・・と言ったかどうか。(日本帝国敗戦後は南北分断から北朝鮮(中国・ソ連)と韓国(米国・国連軍)の戦場になった)。

 甘粕はこの功績によって朝鮮憲兵司令官の副官に抜擢。彼はいつの間にか単なる「皇国憲兵」からクールな分析・批評眼を有した男に成長していたか。しかし佐野眞一は「この時に甘粕は朝鮮に於ける憲兵警察撤廃案を提言して、時の警務局長・赤池濃(あつし)の逆鱗に触れた」と記す。

 呉善花「韓国併合への道 完全版」(文春新書)を読むと「日本は三・一独立運動を招いたことを反省して、それまでの武断的な統治を大きく改め、文化統治へと重点を移していった」とあり、その改革のひとつに「憲兵警察の廃止」を挙げていた。甘粕の建言が実現されている。甘粕は変に目立っちゃったようだな。


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甘粕正彦(2)大杉・甘粕の陸軍幼年学校時代 [読書・言葉備忘録]

sanoamakasu2_1.jpg 角田房子「甘粕大尉」は、まず大杉栄虐殺事件を二人の軍人の眼を通して描く。大震災の東京警備の命を受けた金沢憲兵隊所属・中村上等兵の眼。大手町の東京憲兵隊本部に着くと麹町分隊所属に配属。分隊隊長が甘粕正彦だった。

 二人目は甘粕家と親交あった市川・鴻之台野戦重砲兵第一連隊・遠藤中隊長の眼。彼は帰省中の米沢から戒厳令下の市川に帰隊。朝鮮人討伐の凄まじさに、亀戸警察署長に朝鮮人の保護を承諾させるが、同署では「復(また)も社会主義九名 軍隊の手に刺殺さる」と「東京朝日新聞」(当ブログ5月26日にアップ済)が報じた通り残虐事件後で、「王希天」も殺害後だった。角田は「あとがき」で「王希天殺害事件」も書きたかったと記していた。

 角田は昭和48年に甘粕の弟妹に会って取材。取材時の実弟・二郎は、三菱信託銀行社長~会長~相談役で78歳。三郎は元陸軍大佐。四朗は元満鉄調査部上海事務所業務課長。五郎は「甘粕家の人々」を書いていた。甘粕の親戚は陸軍中将・甘粕重太郎、考古学者・甘粕健、社会学者・見田宗介など優秀人材を輩出。角田は大杉虐殺事件の項を、弟・二郎の「兄は軍の陰謀の犠牲になったとしか考えられない」で締めくくっている。

 角田、佐野両著ともに大杉事件を記述後に、甘粕正彦の少年時代、名古屋の陸軍幼年学校時代を振り返っているが、幾つかの逸話を紹介だけで甘粕少年像に突っ込んだ取材なし。甘粕の人間形成に最も重要な時期だろうが、ここを曖昧にしたために、その後の甘粕像がとても見え難くなっている。

 と思うのは、大杉栄も同じ名古屋・陸軍幼年学校入学で、この辺は大杉栄「自叙伝」で実にイキイキと描かれているからだ。大杉少年は丸亀連隊少尉の子。軍人家庭、軍人環境のなかで育つもケンカ好きのガキ大将。幼年学校の束縛・盲従に我慢ならずに暴れまくって放校。そんな大杉少年像が目に浮かぶように描かれている。彼はそんな窮屈な時代に、危険を顧みずに自分の考えを発言し続ける社会主義者らの勇気に感動し、次第に左翼化して行った。

 一方、警官の子で小柄な甘粕はどんな少年に育ったか。大杉の6年後に同じ陸軍幼年学校入校で、どっぷりと「皇国少年」に染まったとか。角田は幼年学校、士官学校時代の甘粕は“帝国陸軍”に目もくらぬほどののぼせ方で、弟・二郎の「兄の心酔ぶりと強制的な口調に反発を覚えたほど」の弁を紹介。程度を越えた皇国少年に育ったらしい。同じ名古屋・陸軍幼年学校で、大杉と甘粕を比較するに絶好のシチュエーションと思われるが、両著とも突っ込みが足りない。ノンフィクションってのは事実の積み重ねのみで、人間を描かぬか。(続く)


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甘粕正彦(1)角田房子版と佐野眞一版 [読書・言葉備忘録]

amakasu_1.jpg 角田房子「甘粕大尉」(ちくま文庫)読了。瀬戸内寂聴「美は乱調にあり」「諧調は偽りなり」に比し、ノンフィクションならではの緻密な調査、取材に敬服。昭和49年「中央公論」連載で著者60歳作。「私が甘粕を書いた目的は、まっ正直な日本人の典型と思われる甘粕正彦の軌跡を追いたかった」。書き出しは当然「大杉一家虐殺事件」から。

 同書の後に平成20年刊、佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮文庫)読了。角田版より文庫で約220頁多い。「あとがき」に、自身のスタッフ2名と「週刊新潮」編集部スタッフとのチーム取材で、「地を這うような取材と資料収集」と記していた。「週刊新潮」連載(150枚)を元に、約千枚の描き下ろし。角田版に比し資料・取材は幾倍か。甘粕正彦に関わる人ならその兄弟、同級生、友人、子供、孫、甥までに取材や資料を求める執拗さ。地を這うアメーバ―的なしつっこさが取材信条か。

 とは言え大杉栄事件、その軍法会議、獄中とフランス生活、満州での暗躍、満映理事長時代など「基本資料は」概ね共通。佐野眞一は角田版にない「新たな何を」探り出そうとしたのだろう。

 佐野は書き出し部分で、こう記している。・・・甘粕について書かれた評伝では、角田房子「甘粕大尉」が有名である。同書ではあまり筆が及ばなかった後半生の満映時代については、山口猛の「幻のキネマ満映」が詳しい。いずれも労作の名に恥じない。しかし、前者が軍人としての甘粕の記述に偏り、後者の記述が満映のフィルモグラフィーに偏ったきらいがあるのは否めない。両著に最も欠けているのは、満州における甘粕の豊富な資金源と、地下茎のようにからみあった複雑な人脈である。甘粕はいつしか、満州の昼は関東軍が支配し、満州の夜は甘粕が支配すると囁かれるまでになった。「満州の夜の帝王」という異名をほしいままにしたその力の源泉こそ、甘粕最大の謎であり、私が甘粕に惹かれた最大の理由だった。

 今まで一度も書かれなかった大杉事件前の甘粕資料(平成2年に解体業者から国立図書館・憲政資料室所蔵となった茶箱一杯分)を発見したこと、さらに甘粕の長男・忠男氏の全面協力を得たことも本書を書く大きな動機と追記している。(続く)


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江戸狭しスカイツリーの遠花火 [東京スカイツリー]

toohanabi.jpg 昨夜、オリンピックのサッカー「日本VSエジプト」を観よってんでテレビのめぇに座ったら「おまいさん、花火が見えるよぅ。隅田川花火は終わったてぇのに、あちこちで大きな花火だよぅ。屋上で観ておいでよ」「てやんでぇ、サッカーが始まるじゃねぇか」「なに言ってんだい。始まる始まるといいながら、なかなか始まらないのがテレビじゃないか」「そりゃそうだ。んじゃ、ちょっくら屋上に上ってくらぁ」

 かくして撮ったのが左の写真。位置的に「江戸川花火大会&市川市民納涼花火大会」らしい。もう一ヶ所、もっと北よりでも上がっていて、それは松戸の花火らしい。

 撮ったのは新大久保の9階建マンション屋上。江戸は狭めぇや。比して国民と政治家との距離は絶望的に遠い。


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