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甘粕正彦(6)居直って満州を支配 [読書・言葉備忘録]

mansyu1_1.jpg 昭和4年2月に帰国した甘粕は、その夏に満州に渡った。「私の置かれたる数奇にして特異なる境遇と地位とを利用して~」。まぁ、大変な居直り。開き直るどころか、やってもいない大杉一家虐殺の残忍イメージをも利用した甘粕の後半生の始まぁ~り。

 佐野眞一は、満州の甘粕を三期に分類。満州建国を画策して暗躍した第一期。満州国の陰の実力者と恐れられ始めた半公然活動の第二期。満州映画協会理事長から青酸カリ自殺の最期までが第三期。

 第一期は、甘粕を満州に誘った大川周明との密接な関係のなかで、彼は母の旧姓・内藤から「内藤機関」を名乗り、関東軍特務機関の別動隊長となって暗躍。主な活動は日本軍出兵の口実づくりにハルピンの日本総領事館、新聞社、銀行などを中国人が襲撃したように見せかけて、侠客の子分を引き連れて爆弾を投げ込んだこと。

 昭和6年、関東軍は天津に逼塞中の溥儀を脱出させ、汽船を乗りついで遼東半島のつけ根「営口」へ。ここに甘粕が待機していて、溥儀を馬車や満鉄に乗せて湯崗子温泉へ。要するに正規軍人では出来ぬ陰謀を、軍人並み実力を有した甘粕が担当。かくして溥儀を執政とした満州国が昭和7年に誕生。千葉刑務所~パリ生活で鬱積の日々を送っていた甘粕が開き直って完全燃焼。人は居直ると人格も変る。

 第二期は、満州国が誕生して民生部警務局長(秘密警察トップ)に就任。その座を二代目に譲って、昭和9年に「大東公司」を設立・運営。これは満州の工事現場に流入する膨大な労働者管理。ここから入る多大な金を関東軍に貢ぎ、また自身の諜報工作資金にした。次第に「満州の昼は関東軍、夜は甘粕が支配」とまで言われるようになる。

 昭和14年、「大東公司」が満州労工協会に統合されると、今度は「大東協会」設立。理事からスタッフまで甘粕人脈で固め、さながら満州の梁山泊。日本から逃げてきた転向左翼も多数抱えた。排英工作、蒙古工作、チベット工作などなど。無趣味の甘粕が「趣味は陰謀」と云うほど。昭和12年、幼年学校の教官・東条英機が関東軍参謀長に就任すると、甘粕を「協和会」総務部長に抜擢。(彼は死ぬまで協和会服を着ていた)。昭和13年、満州国の訪欧使節団の副団長兼事務総長として約5ヶ月に渡るヨーロッパ諸国歴訪。ムッソリーニ、ヒットラー、フランコらと会見。

 第三期は、満映の理事長就任から終戦で青酸カリ自殺まで。満映・理事長時代の甘粕はいろんなところで書かれているから割愛。

 さて、角田房子「甘粕大尉」、佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」備忘録を綴ってきたが、正直に申せば関東軍、満州国、さらには朝鮮併合など己の無知甚だしく焦ってしまった。まず満州の地図が浮かばぬ。日清・日露戦争、朝鮮併合の経緯がわからぬ。 「おまいさん、このクソ暑いのに外出したら死んじゃうよぅ」の声を背に、新宿・紀伊国屋(本屋)に走って本を購い、また図書館通いをした。隠居のにわか勉強なり。


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