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荷風の中洲(2)中洲病院 [永井荷風関連]

kusamorikafu1_1.jpg 中洲病院(1)を記していて、4年前に読んだドカ弁級の分厚さ・重さを有した草森紳一『荷風と永代橋』(写真、青土社2004年刊)を思い出した。確か中洲病院の写真があったよなぁと。蔵書せぬ主義ゆえ、近在図書館を我が書庫と思ってい、あの本はあの図書館のこの本棚辺りと覚えている。さっそく幾度目かの同書借り出しと相成候。「あった、あった、中洲病院の詳細写真が」。(写真)。

 氏は古本書店発行の書目より「最新建築設計叢書」の小冊「中洲病院」を入手。昭和2年当時は斬新建築ゆえ専門誌も注目したのだろう。設計図に豊富な写真で、草森さんは小躍りの歓びよう。『荷風と永代橋』に4頁に渡って正面全景、待合室、エレベーター、手術室、日光浴室(サンルーム)、屋上庭園の写真、また同冊掲載文をも転載。まさに荷風さん記す「ホテル」のよう。

 正面全景も荷風さんスケッチも三階のようだが実際は地上四階、地下一階。玄関上の文字をルーペで見れば「NAKAZU HOSPITAL」。「中洲」は「なかず」。荷風さん、「お歌」もここに入院させている。

kusamorinakazu_1.jpg 病院長・大石貞夫は荷風さんより4歳下なれど、昭和10年1月に53歳で没。追悼句「福寿草梅より先にちりにけり」。主治医を亡くした自分を嘆いて「木枯に笠も剥かれし案山子かな」。 これは私にもわかる。両句ともに駄句。

 「断腸亭日乗」には大石病院長亡き後、中洲病院ではなく「土州橋」と記されるようになる。「土州橋」の位置は「goo」の地図で<古地図・日本橋・明治>でしっかり把握できる。中洲に架かるのは上流から「男橋」「女橋」。箱嵜町に架かるのが「土州橋」「永久橋」「汐留橋」。「土州橋」辺りが今は「東京シティターミナル」になっている。

 ここまで調べたら「越前堀」と同じく実際に行って見たくなる。今回は勝鬨橋を渡って佃島、中央大橋より越前堀(霊岸島)に入り、豊海橋から日本橋中洲へ。まずは「清洲橋」を途中まで行って、中洲に振り向いて荷風スケッチのような写真を撮った。(前回写真)。

 次に清洲橋を戻って首都高6号向島線(箱崎川埋め立て地)手前際に「金刀比羅宮\慈愛地蔵尊」を見つけた。中洲の歴史を語る何かがあるかと立ち寄れば、まずは玉垣が飛び込んできた。かつて華やかし時代を語る中洲の料亭・割烹の名がズラッ。ひと際「葭町芸妓芸妓組合」が目立っていた。


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荷風の中洲(1)そこは産科・婦人科 [永井荷風関連]

nakasugyouin_1.jpg 永井荷風の「越前堀」調べで遊んだら、その上流隣の「中洲」も知りたくなってきた。荷風さんは主治医・大石国手(国手は名医、医師への敬称)の中洲病院に性病検査、脚気注射、ホルモン注射、薬代支払とまぁ、毎週のように通っている。その帰りに浅草、玉ノ井、荒川放水路、越前堀(霊岸島)などへ足を延ばすことが多い。その意では荷風散策の出発点とも言えるかも。例えば昭和7年「中洲病院にて薬を求めた後、清洲橋をわたり、乗合自動車にて砂町終点に至る。」 いつもこんな按配だ。

 「大石君は中学校の頃余が亡弟貞次郎と同級なりき。余が始めて大石君の診察を受けたるは大正五年の夏なるべし。」 20年に渡る主治医関係。かくして「断腸亭日乗」には頻繁に中洲病院、大石医師、土州橋が登場。しかし悲しいかな「隅田川の中洲」がよくわからぬ。わからないと調べる楽しさに変わる。

 加藤郁乎「俳人荷風」を読んだことで、久し振りに「断腸亭日乗」をひもとけば中洲病院のスケッチを見つけて「おぉ」と釘付けになった。清洲橋脇の交番横の建物が「中洲病院」で隣が倉庫。その日記文は以下の通り。(写真上がスケッチ。写真下が現風景。マンションが並んでいる)

nakasubyouin1_1.jpg 昭和7年18日「晡下中洲に往く。いつもの如く清洲橋をわたり、萬年橋北詰の小道に入り、柾木稲荷を尋ねる~」。スケッチは隅田川対岸から中洲病院を描いたとわかる。

 中洲病院とは・・・。大石病院長・大石貞夫は大正3年に欧州留学から帰国して日本橋・鎧橋際に開院し、大正8年に中洲病院を開く。関東大震災で被災し、昭和2年に再建。同年5月18日の「日乗」にこう書かれている。

 「病院新築既に竣成す。五階つくりにてエレベーターにて昇降す、廊下廣く屋根の上に花壇を設く、萬事ホテルの如き体裁なり。」

 中洲病院は震災からいち早く復興し、こんなに立派な病院になった。繁盛病院だったに違いない。で、実は同病院は「産科・婦人科・女子泌尿器科」。荷風さんがせっせと通っていたのは、そういう病院なんだ。

 同年4月4日の日乗を読むと、中洲病院繁盛のワケがちょっとわかる。「正午中洲河岸に大石不鳴庵(俳号、なかずは中洲のもじり)を訪ふ。尿中の蛋白既に去れりと云ふ。中洲病院より深川清住町に渡るべき鐡橋の工事半成るを見る。」 清洲橋は翌年3月に開通。そして「かつての中洲」を説明。

 「往時中洲の河岸には酒亭軒を連ね又女橋のほとりには真砂座といふ小芝居あり、その横手の路地には矢場酩酊屋あり、白晝も怪しげなる女行人の袖を引きたり、震災後今日に至りては真砂座の跡もいづこなりしや尋ね難くなりぬ。」 そんな歴史を有する地で、そうした姐さん方や近くの葭町、柳橋の花柳界がらみの大繁盛と推測したが、いかがだろうか。


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荷風の越前堀(2) [永井荷風関連]

oiwainari1_1.jpg 今度は永井荷風「訪問者」の白井・常子の愛欲の隠れ家、お岩稲荷の横丁の煙草屋の二階らしき場所を探してみた。簾がさがって、植木鉢が並んで、三味線の音が聴こえそうなところ。

 同地は艶っぽい要素も有していたか。篠田鉱造「明治百話」より「明治の新橋芸妓」を読んでいたら、こんな記述があった。・・・芸者になりたくて「も」組の頭が「霊岸島」で、つまり「蒟蒻島」で芸妓屋をしていた。私は17歳一杯は「蒟蒻芸者」で、18歳から「新橋芸者」になったんです。「蒟蒻芸者」とはちょっとエロっぽい。

 「霊岸島(越前堀)」は「蒟蒻島」か。ネット調べをすれば「埋め立てが容易に固まらず、歩くと揺れたことから蒟蒻島。蒟蒻島には女郎屋だけではなく、引手茶屋もあって、わりあい高級な岡場所だった」とあった。

 しかし現在の新川一帯はビル街で自転車でぐるっと走るも、なかなか「お岩稲荷」が見つからぬ。尋ねても首を傾げる方が多く、地元の人も少ないのだろう。諦めずに走っているってぇと、まぁ、時代に取り残され感の「お岩稲荷」(写真)があった。正しくは「於岩稲荷田宮神社」。

 百数十坪ほどの苔むした緑の境内に小さな社。ここだけが荷風さんの時代と変わらぬ雰囲気で、なんだかうれしくなってきた。案内板に「社地は初代市川左団次の所有地であったと伝えられ、花柳界や歌舞伎関係などの人々の参拝で賑わいました」。また「お百度参り」の石塔側面に「大正三年 大阪浪花座興行記念 四代目市川右團次」と刻まれていた。初代左団次は市川小團次の養子で、実子は初代右團次。歌舞伎の家系は複雑でよくわからない。

oiwainari3_1.jpg 荷風は二代目左団次と昵懇の間柄。左団次から「お岩稲荷」について聞かなかったか。そしてお岩稲荷の隣の二階屋(写真下)を見れば「訪問者」に書かれた・・・簾がさがって、植木鉢が並んで、三味線の音が聴こえたりして、まんざらではない」の文章ぴったり。「訪問者」の位置記述とは若干異なるが、まぁ、こんな雰囲気の二階屋と思っていいだろう。顔をあげると空を遮るマンションとオフィスビル、佃の高層マンション群も意匠を凝らした中央大橋も見える。ここだけが昭和初期の雰囲気を遺していた。

 なお、荷風さんと二代目左団次については近藤富枝「荷風と左団次~交情蜜のごとし」に詳しい。二人の交情30年。昭和15年に左団次没で、荷風の追悼句は「つきぢ川涙に水もぬるむ夜や」 「行雁や月はしづみて夜半の鐘」。そして日乗の余白に「散りぎはゝ錦なりけり蔦紅葉」があったとか。同書は荷風没後50年の平成21年刊。今なお新たな荷風本が次々にでてうれしいですね。あたしも、もう少し荷風さんの足跡を追ってみましょう。


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荷風の越前堀(1) [永井荷風関連]

reiganjima1_1.jpg 昭和10年前後の永井荷風の霊岸島(越前堀)散策を読めば、やはり行ってみたくなる。荷風さんが越前堀を歩くには2コースあり。毎週のように通う中洲病院の帰りに「豊海橋」から入る場合と、銀座から出発して「南高橋」から入るコース。

 9月半ば。未だ真夏日ゆえ早朝6時に自転車を駆った。まずは銀座から歌舞伎座。建て替え急ピッチなり。そういえば荷風さん、二十歳の頃に歌舞伎座の立作者・櫻痴居士門弟として見習い約1年間。歌舞伎座に通っていた。その後も大正4年に築地に、大正6年に木挽町(銀座八丁目辺り)に借り住まい。銀座っ子だな。

 築地本願寺を左に、右に築地魚河岸を見れば勝鬨橋へ。荷風さんが歩いた頃に橋はなく(昭和15年完成)、その上流の佃大橋(昭和39年完成)もない。「わたし」があるのみ。

minamitakahasi_1.jpg 隅田川沿いに遡行すると湊町の「鉄砲洲稲荷神社」。その向かい辺りに鬼平こと長谷川平蔵が5~19歳頃に住んでいたとか。すでに埋立られて橋名標だけの「稲荷橋」があり、そこを右折で「南高橋」に至る。

 「断腸亭日乗」昭和9年6月26日。晴れてむしあつし。午後執筆。黄昏銀座に行き銀座食堂に夕食を食す。七時過満月、松坂屋の高き建物の横手に現はる。舊暦五月の望なるべし。歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車を降り、南高橋をわたり越前堀倉庫の前なる物揚場に至り石に腰かけて名月を観る。石川嶋の工場には燈火煌々と輝き業務繁栄の様子なり。水上に豆州大島行の汽船ニ三艘泛びたり。波止場の上には月を見て打語らふ男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節をかたる船頭の聲す。 ・・・面白いことに「南高橋」脇の史跡案内板に、この文が引かれていて「断腸亭日乗」昭和9年7月とあり。正しくは6月26日。どうしてこんなことを間違えるのだろう。

toyomihasi1_1.jpg ついでに中洲から入る「豊海橋」へ。案内板にまたも荷風「断腸亭日乗」より 「豊海橋鉄橋の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈火を見渡す景色、今宵は名月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり、清々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり」。 こちらは年月の記なし。

 しゃれた散策用「隅田川テラス」を歩けば佃島の高層マンション群、そこへ伸びる中央大橋(平成5年完成)。もう荷風さんが歩いた越前堀の面影はすっかり失われていたが、この「南高橋」と「豊海橋」だけは荷風さんをしっかり記憶していた。(写真上は中央大橋から望む東京湾汽船の霊岸島発着場があった辺り。写真中は「南高橋」、写真下は「豊海橋」)


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東京湾汽船・霊岸島発着場(2) [週末大島暮し]

jyoukisen_1.jpg 新たな知識を得て、再びネット検索。中央区立図書館の資料で齋藤むさし作・木版画2点がヒット。「明治の車蒸気船の図 東京湾汽船霊岸島発着場」。同木版画を私流模倣スケッチ(写真上)。木製桟橋が伸びて、水車状推進機の船舶。この船で外洋に出るにはちょっと不安。房州行「東京~館山」航路の船だろうか。

 もう1点は「昭和11年2月4日 東京湾汽船霊岸島発着場の火事」。これは画面いっぱいに炎と煙で、建物や桟橋の様子がよくわからぬ。 大島観光は昭和3年『波浮の港』でブームになり、翌年「東京~波浮」の日航開始。昭和9年の大島観光客は年間21万2千人。「葵丸」に次ぎ昭和10年6月に「橘丸」就航。その直後に火事があったのだろう。

toukyouwan3_1.jpg 「江戸港発祥跡」史跡にも「昭和11年まで伊豆七島など諸国への航路があった」と過去形。その後に月島、芝浦埠頭に移ったか。昭和12年、日中戦争とインフレで同社経営逼迫。昭和16年に東海汽船となり、昭和28年に現在の芝浦桟橋完成。

 そして写真が1点。これも私流模写スケッチ(左)。建物の壁に「房州行」「八丈島行」の文字看板と人力車が写っているが、アップ写真ゆえ全貌がわからない。

 霊岸島発着場がここまでわかるも、未だハッキリせぬ。そうだ、小説を書くにあたって作品舞台を入念調べする荷風さんがいるじゃないかと「断腸亭日乗」を改めてひもといた。「あった、あった」。火事寸前の昭和10年10月29日に、なんと東京湾汽船の待合所、新造船を描いたスケッチ入り(写真下)記述があり。「水上に大きな汽船の泛べるを人に問えば大島通ひの新造船にして四千五百トンなりと云ふ」。

reiganjima2_1_1.jpg スケッチの待合所らしき建物裏に新造船が描かれている。「橘丸」は昭和10年6月3日に霊岸島から初航海。このスケッチと文は「橘丸」に間違いない。小生が中学の大島遠足で乗ったのも「橘丸」だった。同船は1772トンで、荷風さんの4500トンは聞き間違いだろう。

 ずいぶん大きく間違えたなぁと思ったら、これまた驚きの新事実を知った。今、東海汽船では4500トンならぬ5700トンの新造船を平成26年6月完成予定で造っていて、これを懐かしの「橘丸」に命名するとか。

 ★追記1:当時の『島の新聞』をひもとけば、東京湾汽船の発着場は昭和11年11月29日号まで「越前堀」の告知で、次号の12月6日号から「芝浦」に変わっていた。「芝浦桟橋御案内」として★市電芝浦二丁目又は札の辻で下車 ★省線、田町駅裏口及び市電芝橋よりバスあり金五銭・・・とあった。また翌12年1月に「大島・元村桟橋工事着工」の記事あり。

 ★追記2:昭和11年11月8日「島の新聞」は東京湾汽船、芝浦新築移転披露の特集だった。一面は同新築社屋と桟橋の組み写真、2面に社長、横山東京府知事、牛塚東京市長はじめの祝辞が全文掲載。この項の締め括りとして、後日に改めて(3)として記す。


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東京湾汽船・霊岸島発着場(1) [週末大島暮し]

reiganjima1_1.jpg 加藤郁乎「俳人荷風」シリーズがちょっとくたびれたので、気分を変えて「東京湾汽船の霊岸島発着場」調べ。かつて伊豆大島の歴史、東海汽船の歴史を調べたことがあるも、同社前身・東京湾汽船の霊岸島発着場がどこに、どのようにあったかズッと気になっていたんです。

 まずは永井荷風「訪問者」。妻子がいるも作家を夢見る白井が、隣の後家・常子(蛇屋の娘)との愛欲の隠れ家を、越前堀はお岩稲荷の横町二階に設けてい、そこに荷風さんが訪ねる場面あり。ちょっと円朝の怪奇噺のよう。 「それは煙草屋の二階で、簾がさげてあったり、植木鉢が置いてあったり、三味線の音が聞えたりしてまんざらではない処。目の前の大川の倉庫先は大嶋へ行く汽船乗り場で、片側にさびれた宿屋が四五軒~」。 えぇ、それは間違いなく東京湾汽船の霊岸島発着場じゃないか。

 同じく荷風『冬の蠅』の「町中の月」。・・・わたくしが月を見ながら歩く道順は、佃のわたし場から湊町の河岸に沿ひ、やがて稲荷橋(鉄砲洲通りにあって、すでに埋立られている)から其向ひの南高橋をわたり、越前堀の物揚場に出る。(略)。この河口は江戸時代から大きな船の碇泊した港で、今日でも東京湾汽船會社の桟橋と、船客の待合所とが設けられ、大嶋行きの汽船がこの河筋ではあたりを圧倒するほど偉大な船體と檣と烟突とを空中に聳やかしてゐる。

 ここまでわかって現・中央区新川辺り(写真上が現地図。「現在地」印がちょうど発着場)の歴史調べ。江戸時代に越前福井藩主・松平越前守の屋敷地があり、三方が入り堀に囲まれていたことから越前堀。また明暦3年の江戸大火で焼失するまで霊厳寺があって、同寺はその後に深川へ移転。深川の霊厳寺は知っていて、「でも深川に東京湾汽船の発着場って云うのはおかしいよなぁ」と思っていたが、これで納得なり。そう、お岩稲荷だって本当は新宿・四谷でしょ。これも明治はじめに歌舞伎役者らが芝居小屋近くにも欲しいってんで建てたとか。

edokounohi_1.jpg さて、この地の隅田川テラスに「江戸港発祥跡」(写真下)の碑があるとか。「慶長年間江戸幕府がこの地に江戸港を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和11年まで伊豆七島など諸国への航路の出発点としてにぎわった」と書かれている。

 gooの地図検索「古地図」で中央区・明治を見れば、そこに「東京湾汽船會社」の文字しかとあり。同社は既存4社併合で明治22年(1889)11月設立。住所は旧京橋区新船町将監河岸。当時はこの辺を将監河岸とも言ったとか。これで概要がわかった。当時の絵、写真でも確認してみたい・・・。(続く)


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加藤郁乎「俳人荷風」(7)枯葉、虫、雪 [永井荷風関連]

 加藤翁は「枯葉の記」「雪の日」に飛ぶが、こちらは各章を愉しむ。「浅草公園の興行物を見て」。昭和12年頃の浅草興行評。まず新舞踊の普及に驚いて浅草通いを始めたと記し、オペラ館の芝居は京伝黄表紙、南畝洒落本を読む興味に似て、花柳小説とも言ってよいだろう。しかし他座の芝居は大阪風のあくどい臭みがある。あたしも二十歳の頃に浅草通いをした。ビートたけしがフランス座に出る6、7年前のことだ。芝居がらみの句・・・「お花見は舞臺ですます役者哉」(昭和12年)、「夏芝居役者にまけぬ浴衣かな」(大正7年)。

m_kafuseika1_1[1].jpg 「冬の夜がたり」は7、8歳(明治19、20年)に、鹿鳴館衣装の西洋婦人が箱馬車で小石川金剛坂に母を訪ねて来た思い出。初めて見た外人。「門前の道路は箱馬車一台でも、その向きをかへるには容易ではない狭さで・・・」。ほんと、大変だったろうにと頷いた。写真は「荷風旧居跡」の金剛坂。

 次は「蟲の聲」。夏から秋への蟋蟀の鳴き声について。荷風句に「蟲の聲」が多い。「わが庵は古本紙屑蟲の聲」 「こほろぎや古本つみしまくらもと」 「蟲の音も今日が名残か後の月」(後の月:十三夜=新暦で10月中・下旬)。昭和24年になると「停電の夜はふけ易し虫の聲」。あたしも停電が多かった時分を覚えている。いつもは聴こえぬ電車の音、鐘の音、虫の音がふと聴こえたりして・・・。

 「雪の日」は、竹馬の友・井上唖々と向島・百花園から言問辺りまで戻ってきたところで雪になり、掛茶屋で一杯の思い出。唖々が「雪の日や飲まぬお方のふところ手」に、「酒飲まぬ人は案山子の雪見哉」。渡し舟が終わるも、蒸気船が七時まであると知って「舟なくば雪見がへりのころぶまで」 「舟足を借りておちつく雪見かな」。

 45歳で亡くなった唖々さんを偲んだ後は、冬になると余丁町の家に飛んで来る山鳩を見て「雪が降る」と言った母の思い出。江藤淳は「荷風散策」で、私の育った大久保百人町では山鳩を見たことがない。昭和10年代後半には、山鳩はもうこの辺りには来なくなっていたと書いた。そんなこたぁない。今でも新宿御苑に行けば眼にする。

 そして朝寐坊むらくの弟子時代。深川・常磐亭で大雪になり、下座の三味線の娘と支え合って歩き帰るも幾度も転び、蕎麦屋で大人ぶって燗酒を飲めば酔いが加わって娘の肩が頼り。二十歳の甘酸っぱい思い出に、当時はヴェルレーヌもじりの詩を詠んだとか。だが昭和19年・65歳になると「ふり足らぬ雪をかなしむ隠居かな」。

 『冬の蠅』の最後は「枯葉の記」。冒頭に江戸の富豪・細木香以が老いて木更津にかくれ住んだ時の句「おのれにも飽きた姿や破(やれ)芭蕉」。荷風さん、自宅流しから外の無花果の枯葉をみて「なんときたないのだろう」。芭蕉の葉がずたずたに裂かれた姿は泰然自若だが、自分は無花果の枯葉がお似合いと記す。 加藤翁はこの句から後に「長らへてわれもこの世を冬の蠅」が生まれた、で『冬の蠅』の章を終えた。


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加藤郁乎「俳人荷風」(6)嵐雪と荷風の西瓜 [永井荷風関連]

kafutamanoi2_1.jpg 「寺じまの記」は、ほぼ全編が玉ノ井ガイド。まず雷門前からバスに乗り、乗り降りする人々の観察、次々に変わる景色、玉ノ井車庫下車で「ぬけられます」の看板を次々縫って路地や建物、女たちの様子や事情の詳細見聞記。安岡章太郎「私の濹東奇譚」でも、玉ノ井への案内は同小説より「寺じまの記」の方が役立つと。写真は「断腸亭日乗」に書かれた荷風さんの玉ノ井地図メモ。マメな荷風さんです。

 「町中の月」は、銀座から始まる月見ウォーク。佃のわたし場から湊町へ、稲荷橋の河口は東京湾汽船会社の大島行き桟橋と待合所あり。稲荷橋欄干に身を寄せれば為永春水「春暁八幡佳年」(天保7年作)の若旦那と猪牙舟の船頭との月夜の会話を思い出すと、その一節を紹介。読んでいると同じコースで月見ウォークしたくなる。荷風さんの月見句・・・「枝刈りで柳すヾしき月見哉」 しかし東京大空襲直前の昭和19年になると「月も見ぬ世になり果てゝ十三夜」。

 「郊外」は三頁に満たぬ超小品。廣津柳浪「秋の色」の叙景文が引かれている。現在の早稲田鶴巻町の一帯は田圃で、関口のほとり、神田川、芭蕉庵辺りの長閑な景色。小生、そのちょい上流の高戸橋際に住んでいたこともあって身近なり。とは云え廣津柳浪の同作は明治35年頃の実景。さらにその33年後の昭和10年末の荷風が「もう、そのような景色は利根川、荒川上流まで行かなければなるまい」。ははっ、平成の今はどこまで遡れば、そんな景色が見えるのか。

 次が「西瓜」。冒頭に「持てあます西瓜ひとつやひとり者」。壱居獨棲の弁に加え、繁殖行為と避妊について得々と語っている。それはさておき、嵐山光三郎「悪党芭蕉」を読んでいたら嵐雪句「身ひとつもてあつかへる西瓜哉」があって、「あんれぇ、荷風さん、これをもじったな」。加藤翁は荷風句を「俳味諧謔の玄人好みの一句」と記すが、翁は確か飯島耕一との共著「江戸俳諧にしひがし」で、其角(江戸座)詳細を解説していた。嵐雪の同句に気付かなかったか。

 また、この荷風句は、川村三郎の亡き妻へのオマージュ「いまも、君を想う」冒頭に引かれていた。今はスーパーに行くってぇと、老人や晩婚お一人様のために八つ切りスイカも売っている。


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加藤郁乎「俳人荷風」(5)俳味の深さ [永井荷風関連]

housuiro3_1.jpg 『冬の蠅』次は「十六七のころ」。加藤翁は荷風の俳句初学をうかがわせて興味深い文章と記す。「荷風全集」第二十九巻の「俳句拾遺」掲載の二十四句はその頃の一級資料とし、そこから「流し呼ぶ揚屋の町の明け易し」をあげる。残念ながら小生の「荷風全集」は全二十八巻。その句は知らぬ。

 さらに昭和13年刊「おもかげ」は写真二十七葉掲載で、表題短篇「おもかげ」には吉原の夜景写真があり「よし原は人まだ寐ぬにけさの秋」が添えられていると紹介。これまた抱一の俳味をそのまま拝借したような句と記す。ふん、あたしの蔵書にはその写真もない。

 加藤翁は「十九の秋」「岡鬼太郎の花柳小説を讀む」を飛ばして、「鐘の音」「放水路」「寺じまの記」も俳句の話題がないと飛ばしている。そんなワケはなかろう。あたし流に続けてみる。

 「十九の春」は父の転勤に従って上海で暮した頃の思い出。支那人の生活にある強烈な色彩美について書き、父の漢詩で締める。異邦人感覚もまた俳味とみた。 「岡鬼太郎の花柳小説を讀む」は、芸妓の恋愛局面を描いたものは多いが、芸妓を主人公に描いたのは彼の花柳小説だけと評価。老いた芸妓の心に俳味あり。荷風句の芸妓がらみ句を拾う。「焼きもちの老妓に狎れて今朝の冬」(大正4年)、「つま弾や竹の出窓のほたる籠」(昭和17年)、「初かすみ引くや春着の裾模様」(昭和17年)は季重なりか。

 「鐘の聲」は今や騒音で聴こえぬ鐘の音だが、激しい木枯しがぱたっとやんだ一瞬にふと聴こえることがあると記し、今は昔に聴いた鐘の音とは違って、それは<忍辱と諦悟の道を説く静かな音>として聴こえてくると記す。深いねぇ~。ゆえに鐘の音の句も多い。「しみしみと一人はさむし鐘の音」(昭和13年)。東京大空襲の3年前、63歳の句は「粥を煮てしのぐ寒さや夜半の鐘」。 吉田精一「永井荷風」は、「おもかげ」の中の逸品は小説より随筆「鐘の音」(『冬の蠅』では「鐘の聲」)の重厚典雅な文章にとどめをさすであろうと書いていた。

m_kyouryukyou_1[1].jpg 次が「放水路」。大正3年から幾度も歩いた荒川放水路散策を振り返っている。昭和5年には深川から扇橋、釜屋堀を経て歩いた際に朽廃した小祠で「秋に添(そう)て行(ゆか)ばや末は小松川」の芭蕉翁の句碑を見つけた歓び。さらに今の自分の放水路散策は、河川の美観や寺社墳墓を訪ねるのではなく、<自分から造出す儚い空想に身を打沈めたいがため。これは寂莫を追及して止まぬ一種の欲情を禁じ得なくて>歩くのだと書く。これまた深い。「初潮や蘆の絶間を鉦の聲」(大正15年)。どこかで秋祭りでもあったのだろう。 「夏の雲わたし場遠き蘆間かな」(昭和7年)。50歳を越えた荷風さんが一生懸命に歩いている。

 写真上は、昭和7年2月に荷風さんがスケッチした放水路堤防端ノ図。そして今の荒川河口はこんな景色(写真下)になってしまった。手前が荒川、対岸が若洲海浜公園で、その向こうに恐竜橋こと東京ゲートブリッジ。


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加藤郁乎「俳人荷風」(4)衒気匠気なし [永井荷風関連]

 こんな調子で書いていたら、いつまで経っても終わりそうにない。まぁ、荷風好きの道楽ゆえ愉しみましょ。 『冬の蠅』次は「井戸の水」。井戸の思い出が、次第に井戸がらみ怪談になり、「下闇や何やらすごし倉の壁」で締められている。壁にお化けの影・・・の意だろうか。荷風さん、金剛坂の屋敷に住んでいた子供時分から井戸が怖い。加藤翁は「日和下駄」に幽霊屋敷巡りがあってもよかったと軽く流している。

 次は「深川の散歩」。荷風さんは昭和初期の清澄橋辺りの散歩から六間堀に沿った東森下の裏長屋に住んだ井上唖々の思い出を書いている。・・・彼の裏長屋に潜みかくれた姿は、江戸固有の俳人気質を傳承した眞の俳人として心から尊敬・・・と追慕。そして散歩の足は冬木町の弁天社(永代通りで隅田川を越えたら左の葛西橋通りに入ってすぐ左側)へ。ここに知十翁の句碑「名月や銭金いはぬ世が戀ひし」があると記す。

 加藤翁は高橋俊夫(優れた荷風書が何冊もある)が「荷風文学閑話」第五話で「荷風と岡野知十」の章を立てていると記す。あたしは国書刊行会「日本文学研究大成 永井荷風」収録の高橋俊夫「小説『来訪者』の詩情」を読んだ。高橋先生は「荷風の越前堀・お岩稲荷界隈(現・日比谷線「八丁堀」から新川二丁目へ)の景情を叙した一節を読むと<テーマがどうの、思想性がどうの、構成がどうのと、こちたき議論にのみ現を抜かしているような手合いには、荷風文学の醍醐味は風馬牛である>と痛快極まる言。荷風書にはそんな<手合い>の書も数あって、買ってから「ウヘェ~」もまま有り。先日もそんな古本を購ってしまった。高橋先生の文をもっと紹介したいが、まずは先を急ぐ。

 『冬の蠅』 次は「元八まん」。加藤翁はこれをも飛ばす。息切れしたか。あたしは荷風さんの「元八まん」が見たくて自転車を駆ったことがある。今はまぁ、住宅や倉庫ひしめく一画の、園児の賑やかな声満ちる場所に立派な「元富岡八幡宮」が再建されていた。

m_imadobasi_1[1].jpg 加藤翁は次の「里の今昔」でやっと筆をとる。荷風さんの書き出しは・・・昭和二年の冬、酉の市へ行った時、山谷堀(写真は山谷堀最下流の今戸橋)は既に埋められ、日本堤は丁度取崩し工事中だったと記し、初めて吉原に行った明治30年春を思い出す。江戸座の「はや悲し吉原いでゝ麥ばたけ」 「吉原へ矢先そろへて案山子かな」の実景を思い出すが、今は近世的都市の騒音と燈火とがこれら哀調を滅ばしてしまったと嘆いている。(今は一部がネオンと客引き賑やかな特殊浴場街になっている)。

 ここで加藤翁は、荷風さんが木村錦花(歌舞伎の研究家・狂言作者)の富子夫人の随筆集「浅草富士」へ頼まれた序文代わりに旧句十句を与えたと記し、その中の「西河岸にのこる夕日や窓の梅」 「里ちかき寺の小道や春の霜」を紹介。荷風句には風流を解する者に通ずればよしとする矜持が俳味になっていると言い切る。

 そう、加藤翁は荷風句をひとこと「衒気匠気なし」とも記している。衒う気持ち、句会を主宰する宗匠の臭さがないの意。テレビなんかで此れ見よがしの着物姿で登場する宗匠ら・・・。おっと、加藤翁も俳誌主宰とか。まさか若い時分に着流し姿で新宿あたりを呑み歩いてなんかいなかったよなぁ。


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加藤郁乎「俳人荷風」(3)『冬の蠅』の俳味 [永井荷風関連]

akigakafu_1.jpg 本題の加藤郁乎「俳人荷風」(岩波現代文庫、平成24年7月刊)に入る。第一章は<『冬の蠅』の俳味>。 『冬の蠅』は秋庭太郎著(写真)に「私家版は昭和十年四月に京屋印刷所で千部刷り、八月下旬に完売。百八十円の利益也」と書かれていた。加藤郁乎は「荷風全集」の『冬の蠅』には、私家版にない俳誌「不易」発表の「枯葉の記」「雪の日」が収められたと解説。(★余談:昨日、高田馬場・ビッグボックス古本市で秋庭太郎著の荷風本全4冊セットが6500円で売っていた。欲しかったが貧乏と本棚いっぱいなんで諦めた)

 以下、「荷風全書」の『冬の蠅』(随筆21篇収録)と加藤郁乎「俳人荷風」を併読しつつ記して行く。 加藤先生、まずこう絶賛する。・・・荷風随筆集のなかでも最も俳味に富む一本であろう。折ふし自他の句を引きながら友人、女、文学、四季の風物を述べて流麗淡々渋滞なき筆致。荷風の筆はこびは冴えわたる。回顧趣味のことごとくは巧まざる俳文に思えてくるから妙である。

 確か半藤一利「其角俳句と江戸の春」の最終章も「永井荷風と冬の蠅」だった。『冬の蠅』が其角句「憎まれてながらへる人冬の蠅」からとったこと、また其角句を下敷きにしただろう荷風句をピックアップして、「日和下駄」も其角が詠んだ江戸風情句を辿って歩いているようだとも指摘していた。加藤郁乎はその其角句は、正しくは「ながらふる人」と訂正。小生は早くも呆け始めているが、両翁は80代にして冴えている。

 『冬の蠅』第一章「断腸花」は、冒頭に籾山庭後が大正6年に詠んだ「心ありて庭に植ゑけり断腸花」が引かれている。加藤翁は、同句が詠まれた頃の荷風は慶応義塾大教授と「三田文学」編集を辞して籾山庭後、井上唖々と雑誌「文明」を発行、余丁町・断腸亭に戻った時期と解説するが、同句は籾山のち梓月(しげつ)の句集に、「文明」に見出せぬ不思議を記し、文末の荷風句「長雨や庭あれはてゝ草紅葉」には言及せず。

kasiku_1.jpg 『冬の蠅』第二章「枇杷の花」を飛ばして、次の「きのふの淵」をとりあげている。荷風さん、ここでは芸者・富松の思い出を書いている。明治42年に富松と逢って深間になり、荷風さんは左の二の腕内側に「こう命」と彫り、富松はどこに彫ったか「壮吉命」と彫り合った。だが富松は1年余で落籍されて二人の仲はジ・エンド。荷風さん「富松の奴、近眼だから文字が大きくて・・・」とこぼすことしきり。大正6年に富松が亡くなったと知り、谷中三崎町・玉蓮寺に香花と共に「晝顔の蔓もかしくとよまれけり」の句を手向けたと書いている。

 加藤翁、この句は江戸俳諧と見紛(みまご)うばかり。抱一(酒井抱一で、狂歌名は「尻焼猿人」)の吟と見做(みな)しても通じる佳句であると評し、「かしく」は確かに昼顔の蔓に似通っていると筆文字?(写真)を紹介。その説明と、「かしく」は「かしこ」の転で、女性(加藤翁は遊女がと記す)が手紙末尾に書いて敬意を表する語と知って、初めて句の意がわかった次第。「わかる」ってうれしいねぇ。


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加藤郁乎「俳人荷風」(2)巴里の「おもかげ」 [永井荷風関連]

omokage.jpg 本題の加藤郁乎「俳人荷風」(岩波現代文庫、今年7月刊)になかなか入れぬが、そもそも同書を得たのは角田房子、佐野眞一の「甘粕正彦」を読んでい、己が余りに満州、関東軍、朝鮮併合などに無知で、焦り慌てて新宿・紀伊国屋に走ってのこと。読書は古本か図書館本がメインで、滅多に新刊書店には行かぬが、上記関連本を探すなかで新刊「俳人荷風」に気が付いた。そんなワケで本題前に甘粕正彦が最期に読んだろう「おもかげ」が気になった次第・・・。

 さて、「おもかげ」は前回記した「浅草のおもかげ」の他に、「ふらんす物語」収録の巴里の「おもかげ」もあり。フランス暮しの経験ある甘粕には、こっちがふさわしいか。

 荷風さん、夢見るカルチエラタンに着いた夜、カフェに入った。隣へ座った女に「あなたは日本の方ぢゃ有りませんか」と話しかけられた。巴里には何歳かわからぬ化粧上手な女が多い。荷風さん、ちょいとカマをかけてみた。「あなたは大分日本人にお馴染みがあるとみえますが・・・」。彼女は某画家と夫婦のように暮した時期を懐かしがって「これがあの方から頂戴した指輪です」。二朱金が指輪に細工されていた。荷風さん、その某画家が十年ほど前に巴里留学をし、今は日本で大家然としていて彼が描いた「裸婦美人」を思い浮かべる。

 「別れた後は泣いてばかりでは生きて行けませんから、また前のような商売に出ました」。そして次々に出てくる巴里留学の日本人名。荷風さん、そうした彼らが日本に帰ると、強いて厳かな容態を作り、品位を保とうと務めている顔・顔を思い浮かべる。姐さんの名は「マリリン」。

 甘粕正彦は「おもかげ」を読んだ後に青酸カリで自決。54歳だった。それから67年後、今年5月に加藤郁乎さんが初の荷風俳句論の校正を終え、「あとがき」執筆中に心不全で亡くなった。83歳没。その加藤さんが同書でそれとなく教えてくれた。「君、当時、甘粕に『おもかげ』を渡したってことは、その表題がついた短編集のことだよ」。

 「濹東綺譚」刊の翌年、昭和13年に「おもかげ」が岩波書店より刊。秋庭太郎著「考證 永井荷風」をひもとけば、こう書かれていた。・・・これは短編小説「おもかげ」「女中のはなし」、歌劇脚本「葛飾情話」、小品文「鐘の音」「放水路」「寺じまの記」「町中の月」「郊外」、随筆「西瓜」「浅草公園の興行場を見て」、俳句「荷風百句」の諸篇を収め、写真版二十四葉、菊版二百四十七頁、著者装丁の貼函入の美本である。

 あぁ、ならば甘粕さんも「荷風百句」に眼を通したんだ。 それで「大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん」などという戯れ句を書き遺したか。して、その初版を見てみたいと検索すれば、2001年に初版本復刻「おもかげ」が出ていて、なんと定価7,770円とか。


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加藤郁乎「俳人荷風」(1)浅草の「おもかげ」 [永井荷風関連]

kafuhaiku1_1.jpg 本題は加藤郁乎「俳人荷風」だが、まずは甘粕正彦が最期に読んだろう荷風「おもかげ」から入る。甘粕正彦が満映理事室で青酸カリで自決した時に、机上の「濹東奇譚」に遺書三通が挟まれていた。自殺前日に「何か軽い読み物を」と求め、スタッフが荷風「おもかげ」を渡した。甘粕の最後の読書が永井荷風だったとは、なんとなく愉快なり。そんなワケで、本題に入る前に、ちょいと荷風「おもかげ」から。えぇ、本番前の前戯ってこと。

 「おもかげ」は21頁ほどの小品。その内容を知る人も少なかろう。久々に本棚の奥から「荷風全集・第九巻」を引っ張りだして再読。物語は吉原・門外で客待ちの辻自動車・運転手の豊さんのモノローグ。

 豊さん、大使館の二号さんがお得意だった時分に、そこの小間使い・おのぶさんに惚れて所帯を持った。間もなく新宿の洋食屋で食った牡蠣フライが当たって、おのぶさんだけがあっけなく逝った。おのぶさんが恋しくてたまらねぇ。そんな折、浅草の歌劇館の踊り子に、おのぶさんそっくりの女を見つけた。歌劇館通いが始まった。踊り子の名は萩野露子。

 そんな或る日、歌劇館に向かう途中で「豊ちゃん」の呼び声。年増のお妾さん・玉枝さんぢゃないか。女給時分に酔い潰れた彼女をよく送っていったもの。誘われるまま家に上がるも口説かれそうで、踊り子に夢中なんだと打ち明けて外に出た。

 するってぇと小走りに走る露子さんがいるぢゃないか。無我夢中で追いかけた。喫茶店に入って踊り子仲間と談笑する露子さんをうっとり見つつコーヒーを手にすると、袖口に血がつき腕時計がない。ズボンを探れば財布もない。掏摸にやられた。「車に戻ってお金を持ってきます」と店を出たが、玉枝さんちが近い。玉枝は婆やに金を払いに行かせて、結局は炬燵で差しつ差されつ。深間、いや旦那の眼を盗むツバメになってしまった。

 しかし露子さんが忘れられぬ。やがて劇場プログラムから露子の名が消えた。半年後、松戸を流していて彼女の踊り子仲間を乗せた。露子さんは舞台で血を吐き、相当に悪いそうな。「彼女をを恋人にしていたら、おのぶと同じ哀しい別れになったに違いない。俺はつくづく女に縁がないなぁ」。そう思うと、むやみに女を買い散らすようになってしまった・・・、そう述懐したところで、吉原の空は暗いも東の空がうっすら明るくなってきたで終わっている。

 甘粕正彦は青酸カリで自決する前夜に、ほんとうにこんな「おもかげ」を読んだのかしら。


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