SSブログ

夢枕獏「大江戸釣客伝」(4) [読書・言葉備忘録]

turikyaku2_1.jpg 前回の続き。・・・紀伊国屋文左衛門の呼びかけで「投竿翁」の生前を知るべく捜索開始。浅草の呉服問屋・岡田屋が名乗り出た。「それは私の店に一時勤めていた“なまこの新造”です」。夢枕獏の嘘(フィクション)の腕のみせどころ。

 ・・・15年前に店先で倒れていた。介抱すると、お礼に大工仕事。腕がいい。雇い入れようと身元を訊いた。子供や嚊ァが病気でも、仕事があっても釣りに行く。“狂”の付く釣り好きで身を崩したとか。雇うと当初はよく働いたが、裏に小屋を作ると籠ってしまった。釣りの研究・実験・執筆。そして『釣秘伝百箇條』を書きあげると腑抜けになった。10年ほど前に釣りに出かけたまま帰ってこなかった男です。 その翁が、死してなおキスを釣った竿を握りつつ笑みをうかべたまま死んだ。

 元禄6年(1693)、今度は朝湖が捕まった。ここからは嵐山光三郎『悪党芭蕉』を併せひく。・・・其角と親しかった画家の英一蝶(朝湖)は、元禄6年に入牢して二ヶ月で釈放されて謹慎の身だった(嵐山)。どういうことだろう。(夢枕に)読み替える。

 ・・・朝湖は御城坊主になった。大名らが一番喜ぶのが中(吉原)の話。朝湖は放蕩仲間の医師・村田半兵衛、仏師・宮部と共に大名をお忍びで吉原で派手に遊ばせた。しまいに綱吉の生母・桂昌院の甥に千両の大金を使わせて遊女を身請けさせた。幕府は彼らを「本朝牛馬合戦記」の作者じゃないかと別件逮捕。牛馬になにを語らせた戦記か書かれていないが、後に真犯人(作者)が捕まって元禄7年に斬首。朝湖らは釈放されて命拾い。

 一方、其角は元禄7年(1694)10月、大阪で師・芭蕉の死に立ち会っていた。死を前にした芭蕉句<この道や行く人なしに秋のくれ>。芭蕉が作った俳諧の道を何人が歩い行くかの意。最後の句は<旅病んで夢は枯野をかけ廻る>。「病んで」は「yan」で一音一拍。妄執句。「枯野」は幽界か。そして其角の追悼句<なきがらを笠で隠すや枯尾花>。

 江戸に戻った其角は朝湖に、芭蕉が死の床にあってもなお自分の句を改稿していたと報告。朝湖は「死してなお竿を握っていた投竿翁と同じだな。悪い死に様じゃねぇ」。芭蕉最期と其角については嵐山『悪党芭蕉』が力を込めて描いている。テーマ違いだが併せ読むと愉しさが立体的になる。(続く)


コメント(0) 

夢枕獏「大江戸釣客伝」(3) [読書・言葉備忘録]

turikyaku1_1.jpg 前回の続き。・・・能の小鼓方筆頭・観世新九郎が羽田沖で釣りをして、伊豆大島5年の流刑。新九郎は大島でも釣りを愉しんだろうか。あたしも釣り好きだが、大島の磯前にロッジを持ってより、好きな時に釣りができると思ったら何故か意欲が失せた。勤めが忙しいから釣りに焦がれる。「釣り禁止」ゆえ釣りに焦がれる。釣りってぇのは、そんなところもある。

 今回の島暮しではこんな出逢いがあった。防風林でアケビを採る先輩老人がいて、訊けば我がロッジより奥の大別荘主。かなりの釣りキチらしく、今年の正月に陸に運べぬほどのメジナを釣ったとか。釣り三昧を夢見ての大島別荘か。

 さて、手元資料で観世新九郎の流人生活を探ってみた。八丈島や三宅島の流人記録は充実も、大島は幾度の大火で古文書焼失。ろくな記録なし。『大島通史』に<元禄6年(1693)、江戸落語開祖の鹿野武右衛門、御料馬云候事により大島流刑>とあった。小石房子『江戸の流刑』(平凡新書)によると、<御料馬云候事>は「生類憐令」違反のこと。同違反で死罪や流刑で離散した家族、なんと数十万人とあった。とんでもねぇ悪法だ。

 鹿野武右左衛門をネットの「朝日日本史人物事典>で調べる。・・・馬が人語を発するという流言あり。その馬のお告げで疫病(コレラだろう)除け札や薬の処方が売れた。元禄6年に流言の張本人を取り調べると、武右衛門の『鹿の葉巻』(1686)の咄より示唆を得たと告白。これで武右衛門が流罪。(参考文献:延広真治「舌耕文芸」)。ひでぇとばっちり。これで江戸落語の発展が止まった。

 夢枕獏『大江戸釣客伝』に戻る。紀伊国屋文左衛門の音頭で『釣秘伝百箇條』を著した「投竿翁」を探そうと釣り仲間が一堂に会す。朝湖は同席で小説冒頭シーンで37節の名竿を握ったまま笑みを浮かべて死んだ老人が「投竿翁」と知った。どんな人物や。全員の興味はさらに募る。

 その席に招かれた津軽采女は、釣り禁止で釣りができぬなら自分も「釣り指南書」を書こうと決意。これが後に日本初の本格釣り指南書『何羨録』(かせんろく)となる。(続く)


コメント(0) 

夢枕獏「大江戸釣客伝」(2) [読書・言葉備忘録]

hirosigenakasu_1.jpg 前回の続き。・・・其角と朝湖が釣り船ん中で「安宅丸の祟り」を話している。巨大軍船・安宅丸が中洲のちょい上流、「新大橋」東岸辺りに巨船ゆえ無使用のまま50年間も係留。その解体を仕切ったのが大老・堀田正俊。処分で得た大金を懐にした。

 堀田はその2年前、家継の容態悪化で大老・酒井忠清が有栖川宮を将軍に迎えようとしている隙を突き「家継の遺言を聞いたぞぉ~」と主張し、綱吉を将軍に据え、酒井派を追い出して自ら大老になった。その3年後、今度は堀田は殿中で刺殺された。綱吉が堀田をうとんじたらしい。酒井、堀田両大老を滅ぼして綱吉の天下。かくしてこの辺りに幽霊が出る。「安宅丸の祟りじゃぁ~」

 写真は広重「名所江戸百景」より「みつまたのわかれ淵」。三俣=中洲の向こう側に釣り船が描かれている。同小説の風情はおそらくこんな感じだろう。広重が描いたのは安政5、6年で、安宅丸解体から174年後だが、さほど変わっていないだろう。この浮世絵、先日の穴八幡「早稲田古本市」で百円で買った。

 話を戻そう。将軍が綱吉になると「生類憐令」の世となる。最初は犬だが、在位25年間に135の発令。しまいにゃ「釣り禁止令」に及ぶ。元禄2年、江戸で唯一の鮒寿司を食わせる日本橋・大津屋主人らがしょっぴかれた。江戸城の堀や溜池で獲られた鮒を仕入れたらしい。密猟者らと店主9名が打ち首。江戸中震撼。

 津軽采女は吉良上野介の次女・阿久里を娶るが、妻は約1年で病死。義父・吉良はその後も采女を引き立てて綱吉の側小姓にした。元禄5年(1692)、采女は綱吉の堀田を殺害した悪夢乱心で左足を斬られてお役辞退。再び釣りができる自由の身になるも釣り禁止の世だった。

 其角と朝湖はそれでも隠れて舟を出す。其角より順調な朝湖の釣果。錘を光らせ微妙な誘いの竿さばき。いぶかしがる其角に、朝湖は懐から手書きの釣り秘伝書『釣秘伝百箇條』を出す。著したのは「投竿翁」。神田の古書店・大黒屋に大年増が売りにきたとか。同書の噂は釣り仲間にパッと広がった。

 元禄7年(1694)、釣り仲間の観世新九郎(能の小鼓方筆頭)が羽田沖に釣りに出て捕まった。『江戸真砂六十帖』(作者不詳、江戸中期の珍事を記録)にこうあるそうな。・・・伊豆大島へ遠流仰せ付けらるる。船頭も同罪なり。然しながら新九郎は死刑に当たるといへども、名人の家によって御免遊さるるよしにて、五年すぎて召し帰さるるとなり。

 あたしは1週間の大島暮しから帰ってきたばかり。大島通いは20年余。流刑とはいえアッという間の5年だったと思われる。大島の流人生活はどうだったのだろうか。(続く)


コメント(0) 

夢枕獏「大江戸釣客伝」(1) [読書・言葉備忘録]

kikakukayabacyu_1.jpg 過日の荷風足跡をたどって越前堀、中洲をポタリングした帰りの永代通りは茅場町辺りで、「其角住居跡」の碑を見た。今泉準一『其角と芭蕉と』の巻末年譜をみると、其角は元禄13年(1700)、40歳の春に「茅場町に住居を定む」とあった。その2年前の南港(芝であろう)に家を新築しながら12月10日に類焼、一切を失った。火災8日前に親友・多賀朝湖(英一蝶)が三宅島流刑。これは「生類憐みの令」によるとか。

 ちなみに其角が茅場町に移転の2年後が赤穂浪士の吉良邸討ち入り。其角はその5年後、1707年2月に47歳で没。2年遅く、多賀朝湖が綱吉死去(1709)の将軍代替わり大赦で12年振りに江戸に戻ってきた。すでに58歳。英一蝶の名で再び活躍。

 そんなことを改めて頭に入れていたら、其角、多賀朝湖(ちょうこ)らを中心とした釣り好き仲間を主人公にした小説があると知った。夢枕獏『大江戸釣客伝』(講談社2011年刊)。

 物語は宝井其角(25歳)と多賀朝湖(34歳)が、佃島沖でハルギス釣りをしている場面から始まる。ここで私流「其角プロフィール」。寛文元年(1661)、日本橋生まれの江戸っ子。少年時分から才気発揮で、14歳にして芭蕉に認められた。有名俳人の多くが田舎者だが、其角らの江戸俳諧は野暮を嫌って粋が信条。芭蕉が禁欲的なら、江戸の俳人はまぁ不良が多かった。粋な無頼・放蕩の輩といったらいいだろうか。<十五から酒をのみ出てけふの月> <闇の夜は吉原ばかり月夜かな>。

 冒頭場面に戻る。二人は土左衛門をかけた。ひきよせた腕が竿を握っていた。その竹竿、逸品なり。一瞬浮かんで沈んだ貌は老人で、大物をかけた笑みを浮べていた。突然死らしい。朝湖が言った。「悪いくたばり方じゃねぇなぁ」。

 次のシーン。津軽家を継いだ小普請組・津軽采女(うねめ・19歳)が、深川八幡宮を参拝した帰りに、中洲(そう、荷風の中洲病院の、元禄時代の中洲)で七人の釣り師が沙魚の鉤(はり)勝負をしているのを見た。釣り勝負の横で紀伊国屋文左衛門が芸者はべらせた宴で盛り上げる。

 あたしの初めての釣りは、父に「東雲」に連れられて教わった沙魚釣りだった。竹竿の穂先から伝わるブルルッという魚信。そんなワケであたしは今も磯の大物釣り、フカセ釣りより沙魚、キス、マゴチなどの小物釣りが好きだ。荷風が釣りをしたかは定かじゃないが、荷風句<鯊つりの見返る空や本願寺>ってぇのが無性にでぇ好きだ。(続く)


コメント(0) 

薪仕度急ぐがいいと百舌が鳴き [伊豆大島の鳥たち]

mozu2_1.jpg ロッジ・ベランダ前電線にモズが止まった。若い時分はダイビング、ゴルフ、テニス、釣りと遊びに熱中だったが、今はベンチに寝転がって読書三昧。本を読みつつ、手の届く所に双眼鏡、望遠レンズの一眼レフを置いておく。ヒヨ、スズメ、コジュケイは聴き流すが、その他の鳴き声には読書中断で双眼鏡に手が伸びる。そうして撮った電線のモズ。

 ♪アンサは満州へ行っただよ 鉄砲が涙で光っただ~。『もずが枯れ木で』は昭和10年のサトウハチローの詩が、戦後に厭戦歌ニュアンスに変えられて歌声運動で歌われたとか。この詩の裏に関東軍、満州事変、甘粕がロシア侵攻に「大ばくち身ぐるみぬいですってんてん」と戯句を詠って自害した満州国崩壊、太平洋戦争がある。どれだけの血が流されたか。

 日本は良くなっただろうか。復興、高度成長はしたが、その後はなんだか節操なく無茶苦茶になってしまった。モズが「キチキチキチッ」と歯ぎしりしているように鳴いた。 さて、薪ストーブの薪をどう入手しようか。

 百舌鳴くや赤子の頬を吸うときに  其角が二歳になった次女・三輪を詠った句。三輪は六歳で死んだ。その年が明けた宝永四年(1707)二月三十日、其角は「釣がしてえ、兄さんよぅ・・・」とつぶやきなから死んだ。兄さんこと、多賀朝湖(英一蝶)はまだ流刑の三宅島にいた。(夢枕獏『大江戸釣客伝』より)。


コメント(0) 

春までの留守を託すかジョウビタキ [伊豆大島の鳥たち]

jyobitaki1_1.jpg 大島を去るべくロッジ戸締りをしていたら、玄関脇にジョウビタキ(尉鶲)♂が飛んできた。都心では正月頃から目にする冬の代表野鳥だが、早くも十月中旬に初認とは。渡り途中だろうか。いや、島の越冬個体かもしれぬ。次に大島に来るのは年末か椿まつりか・・・。それまで尉鶲にこの地の主になってもらいましょうか。

 尉鶲の「尉」を「じょう」と訓読みすれば、老翁、おきな。能では老翁の役。また炭火の白い灰の意。写真でもわかる通り頭部の白(銀)色ゆえの命名。ジョウビタギの白髪を見みながら、こう思った。

 ・・・40代後半かに白髪(しらが)が気になった際に、長髪から坊主頭にした。なんと清々しいことよ。今はおおかた白髪だから、再び長髪に戻せば白髪ふさふさに、丸い黒縁眼鏡もいいかも。そう云えば、かかぁが腹を抱えて笑いやがった。「あんたはガキジジイらしく、その坊主頭がお似合いだよぅ」。


コメント(0) 

大波や西風たへて島が在り [週末大島暮し]

bigwave5_1.jpg 「島に行ったら、旨いキンメの煮付けを食おう」と思っていたが、海が荒れて十日余も漁に出られずとか。店に地魚はなかった。昨夜のテレビニュースで、八重山諸島では船便欠航続きで食糧、ガソリンが底をついたと報じていた。

 十月中旬の大島の海も一見穏やかそうに見え、周期的に大きなウネリが襲っていた。昨年5月、水墨画や浮世絵に描かれる崩れようとする波頭(雪舟波)をカメラに収めたこともあって、この大波も撮ってみようと思った。

 欠航、大波、家をも吹き飛ばさんばかりの西の風。不便と自然への怯え。一方、鳥のさえずりや花々に穏やかな気に包まれる長閑さもあり。

 大波を撮りながら、・・・ゆえに島だなぁ、島の営みだなぁと思った。厳しさに助け合うことを知る島の人々に、また助けられつつのしばしの島暮し。もっと島を好きになろうっと。


コメント(0) 

中折れもどふにか立つて冬仕度 [週末大島暮し]

 entotu2_1.jpg中古車を島へ送ったのを機に、久々の「島暮し」。海ロッジはかろうじて建っていたが、物置は台風に飛ばされ倚れ傾いていた。必死に数センチずつ動かして数メートル別の位置に直した。

 痛い腰をさすっていれば、島通いの友人H(読んでいるブログ「つくって、つかって、つないで」)が現われた。「その煙突はどうしたのよぅ」。 これまた1年前の台風で薪ストーブ煙突落下のまま無残な姿を晒していた。かくも海からの風(西風)は、わがロッジを破壊して行く。

 ストーブ煙突落下直後にネット検索で「20ミリ径シングルタイプL型部材」を見つけて注文するも「たぶん付かない、無理でしょう」の返答で、20年余の炎を愉しんだ数々の思い出を振り返りつつ、薪ストーブを諦めた。

 だが島通いの友人はこともなげにこう言ったじゃないか。「その部材を注文入手しておけば、正月休みに島に来た時に繋ぎ直してあげるよ。簡単、簡単」。思わず小踊りした。薪ストーブがまた愉しめるや・・・。

 ひと足早く本土に戻る彼を港に送った後に、あたしが島に来ていることを彼へ伝えてくれた車屋さんに、この件を報告すれば「その修理はSが得意じゃなかったか」。 S氏、颯爽と登場するや、破損部分を次々に継ぎ当て補強して、秋空に向かって煙突をググッと聳え立たせてくれた。

 <中折れもどふにか立つて冬仕度> 戯れ句が口をついた。「都会暮しのやわな隠居じゃ、使いもんになんねぇつぅ意だな」。 Sさんがニヤリと笑った。 


コメント(0) 

永井荷風『来訪者』二青年その後(2) [永井荷風関連]

haruokafu_1.jpg 前回の続き。佐藤春夫『小説永井荷風』より、例の二青年記述の続きをひく。

 ・・・先生の諒解を得てから連れて行こうと思っているうちに、白井は勝手に先生に電話をして、これからカッフェーでお目にかかると言ってきた。(略)。先生は白井が気に入って、そのうち白井は木場貞(猪場)という相棒まで偏奇館へ引っぱり込んだ。二狡児は原稿の整理を名目に荷風の原稿を多く借り出し、また日乗の副本を作って置こうなどと荷風の手蹟を多く見てその筆蹟を学び、果は共謀して先生の偽筆を多く作って諸方に売り出した。

 驚くべき記述は続く。・・・(荷風が)いつぞや気紛れで書いた『四畳半襖の下張』という春本まがいの戯文の出版を企てているものがいるというのである。(略)。・・・日乗の間に挿み込んで置いたあの原稿は、荷風の推測どおり木場(猪場)が白井(平井)に教えずこっそり入手。木場はそのころ『一葉全集』の編集もしてい、一葉の偽書をもたくさん作って売っていた。(木場が作って売ろうとした)『四畳半・・・』は偽筆と見破られて、(今度は)秘密出版社に売り渡すことにした。

 また『濹東奇譚』には私家版「京屋本」と幻の「大洋本」もあるらしいことは多くの荷風関連書が書いている。その「大洋本」も実は木場(猪場)の仕業らしいのだ。

 加藤郁乎『俳人荷風』の<第二章『濹東奇譚』をめぐりて>は、俳句よりこの辺の書誌が主テーマ。『濹東奇譚』の私家本「京屋本」と「大洋本」には荷風撮影の玉ノ井写真と俳句が掲載されていて、両本ではそれが微妙に違っていると解説し「京屋本」の句を解説。私家本にお目にかかれぬ身には、なんとも苛立たしいことよ。

 この辺の加藤翁の記述は小門勝二『荷風本秘話』の引用ゆえ、同書を読みたく思えば、なんとラッキー、10月1日からの「穴八幡・早稲田古本市」で同書を入手。さらにラッキーは続き、「大洋本」の俳句を紹介・解説の伊庭心猿(猪場毅、木場貞)の<『濹東奇譚』 副題~荷風翁の発句>が青空文庫(著作権切れをネット公開)でヒットしたじゃないか。さっそくプリントアウトし、句に添えられた写真も諸書より幾点かを除いてほぼ推測。愉しみは続く・・・。


コメント(0) 

永井荷風『来訪者』二青年その後(1) [永井荷風関連]

 越前堀(霊岸島)調べで、永井荷風『来訪者』再読。同作登場の二青年その後がかなり「注目」ゆえに以下をメモる。『来訪者』は昭和19年2月起稿で同年4月脱稿。昭和21年9月に表題『来訪者』で筑摩書房刊。その内容は・・・

 荷風さん60歳(昭和13年)の時に、34、5歳の二青年がよく訪ねて来た。下谷育ちで漢文雑著に精通の「木場」と、箱崎の商家生まれで英文小説を読む「白井」。荷風は二人に未発表原稿を渡したり、蔵書目録を依頼したりしたが、やがて音沙汰がなくなった。そんな或る日、30年も前に書いた自筆本が偽本として出てきた。彼らの仕業らしい。荷風は白井が蛇屋育ちの未亡人・常子と越前堀に隠れ暮していることを突き止めて訪ねて行く。

hiraiteiiti_1.jpg さて、この二青年のその後。草森紳一『荷風と永代橋』の最後は、こんな記述で終わっている。 ・・・『来訪者』は荷風を裏切った「白井」(平井程一、呈一)、「木場」(猪場毅)をモデルにした小説である。偽作事件で文壇入りの機を失った白井は、女とお岩稲荷の近くの越前堀に住んでいる。(略)。老いて衰えし荷風が「浅草がよい」に妄執する昭和三十三年あたりから、荷風の死んだ翌年にかけて『世界恐怖小説全集』なる異色の翻訳シリーズが東京創元社からつぎつぎに刊行される。世界の「闇」の夜明けである。レ・ファニュの『吸血鬼カーミラ』、ブラックウッドの『幽霊島』、アーサー・マッケンの『怪奇クラブ』等々。そのほとんどが平井程一(呈一)の手になるものばかり。片っ端からわくわくしながら読んだのが忘れられない。その翻訳文には、彼の作家魂がこもっていた。

 これら恐怖・怪奇小説集は多くの青年作家らに影響を与えたらしい。また「小泉八雲作品集12巻」も彼の手によるものらしい。日本文学研究資料叢書「永井荷風」に文学教授蓮執筆のなか、早稲田大学中退の肩書で平井呈一の骨のある格調ある「永井荷風論」が載っていた。

 この二青年は佐藤春夫も絡んでいる。佐藤春夫『小説永井荷風』にこうある。・・・わたくしが偏奇館の木戸ご免になったのをみて、わたくしを通じて偏奇館に近づき、先生を利用しようとする者が書肆や個人でも尠くなかった。白井(平井)も木場(猪場)もひと頃わたくしのところに出入りした文学青年(荷風は佐藤春夫門人と書いている)で、白井は編輯していた「日本橋」という雑誌の原稿を得たいからとわたくしに荷風先生への紹介状を求めた。(続く)


コメント(0) 

秋彼岸くるま見送る辰巳かな [週末大島暮し]

tatumifuto1_1.jpg 伊豆大島、20年余で5台の中古車を乗り継いだ。島から「車検だよぅ」の連絡。車の経費減に別邸主とシェアにしたが、さらに節約すべく「軽」に換えようと思った。「うむ、残念。東日本大震災の影響で軽ボックスの中古車需要が高く、島にまわってこない。自分で探しなさい」。 で、先月中旬に浦安に通って見つけた。「スズキ・エブリィ・バン」。平成13年型で8万キロ。車検諸経費込で30万円。

 かつてゴミの埋立地「夢の島」は辰巳町になって植物園、水族館、公園、スポーツ施設の「緑の島」になった。「夢の島マリーナ」は、テレビで観るマイアミみてぇだ。そして20年前にはなぁ~んもなかった豊洲はお洒落な街に変貌し、そこを追われた「伊豆七島開運」が辰巳埠頭に移転していた。・・・秋彼岸くるま見送る辰巳かな

 20年を経てオンボロになった海小屋、老いた身体だが、車を追って久し振りに島に行ってみようかしらと思った。


コメント(0) 

荷風の中洲(5)「美しい町」 [永井荷風関連]

kawanakasu2_1.jpg 陳奮館主人『江戸の芸者』に書かれた「四季庵」は、窪俊満の浮世絵『中洲の四季庵の酒宴』に描かれている。若旦那と芸者の艶っぽい酒宴図。窪俊満は、ちなみに大田南畝の狂歌仲間。戯号は「南陀伽紫蘭」(なんだかしらん)、狂名は「一節千杖」(ひとふしのちつえ)、雑排名は「塩辛坊」。絵は山東京伝と同じく北尾重政門下。この浮世絵はボストン美術館浮世絵名品展の展示作らしく、題名のネット検索で簡単にお目にかかれる。

 話を今に戻して「新大橋」欄干から当時の中洲を眺めれば、首都高下の埋め立てられた箱崎川を甦らせば中洲だった景色が浮かんでこないでもない。そう云えば佐藤春夫『美しい町』の主人公らが夢見た舞台も、ここ「隅田川の中洲」だった。

 『美しい町』(「美しき町」表記も多い)は、素敵な建物設計に憧れる三人が、そんな家々で理想の町を創ろうと熱中する物語。彼らが選んだ地が司馬江漢の銅版画「東京中州之景」、つまり中洲だった。しかし司馬江漢の銅版画に「東京中州之景」なぁんてぇのは実際にないそうで、佐藤春夫が彼の「中洲夕涼」「三囲之景図」「江戸橋より中洲を望む」などから虚構「東京中州之景」を想い描いたらしい。佐藤春夫は、小説に中洲を図入り(写真下)で説明していた。

 また、どの資料を元にしたのかわからないが川本三郎『大正幻影』(ちくま文庫)の表紙イラスト(森英二郎)は実によく描かれている(写真上)。これは大正時代の中洲か・・・。同書で川村三郎は佐藤春夫『美しい町』、永井荷風『濹東奇譚』について、こんな分析をしている。

satonakazu_1.jpg ともに幻想小説。隅田川を渡って「むこう」と「こちら」。橋は「むこう」でも「こちら」でもない中間。中洲も同じで、しかも「川」でも「陸」でもない。そうした中間性の、不安定性を有したあいまいな領域は「夢見心地になるのが好きな人たちの淡い幻想を見る地点になる」と。

 その意では佐藤春夫の洋館、永井荷風の「偏奇館」もまた夢心地なる人が好きな隠れ家でもあると言及。この「淡い幻想性」は両氏に加え芥川龍之介、谷崎潤一郎も含めた大正作家の特性だと指摘している。しかし今なお隅田川(大川)には幻想に誘う魔力はあって、草森紳一は『荷風と永代橋』を著した(遊んだ)のもそれ故だろう。かくいふ小生も「中洲」を、また越前堀(霊岸島)でしばし楽しく遊ばせてもらった。

 追記:おぉ、これは偶然でしょうか、和歌山・新宮出身の佐藤春夫を除いて他は東京の人で司馬江漢、芥川龍之介、谷崎潤一郎は染井霊園の隣の「慈眼寺」で一緒に眠っている。ウチのバアさんが「巣鴨のお地蔵さんの塩大福が食いたいよぅ」ってんで、自転車で巣鴨へ走った際に「慈眼寺」で掃苔。永井荷風のお墓は雑司ヶ谷霊園で、運動不足の時の自転車散歩コース。


コメント(0) 

荷風の中洲(4)淫らな島 [永井荷風関連]

nakazu1_1.jpg 草森紳一『荷風の永代橋』では昔の中洲をこう説明。・・・江戸のはじめの寛永のころは、この一帯は「ミツマタ」といわれ、月の名所だったが、明和に入って、その一部が埋めたてられ、浜町先に「三俣富永町」なる「夢の島」が、とつじょとして生れる。たちまち舟宿や料亭茶屋が「夢の島」に乱立し、近くの両国の客を奪う。吉原が焼けると、ここにもその仮宅がうまれた。

 説明はさらに続く。・・・当時、もっとも人気を呼んだのは、中洲を舟でひとまわりしながら、その中で売春婦と遊ぶこと、つまり「舟まんじゅう」(お千代舟)という陰売形式である。その栄華の夢も、けっこう続いて十九年。ついにお上によって閉鎖を命じられるに至る。(中略) ・・・もとの川洲に戻され、ふたたび埋めたてられたのが明治十九年。いったん消えていた富永町は「淫らな島」中洲町として甦える。あらたな埋め立ての際、浜町(菖蒲河岸)と地続きにせず、左に男橋女橋を架けて、かつての「夢の島」の感覚と情緒を残そうと工夫した。

 草森文の出典元はわからぬが、金刀比羅宮の碑文が表の歴史なら、これは裏の歴史だろう。こう記してひょいと本棚を見れば陳奮館主人『江戸の芸者』(中公文庫)あり。よくもまぁ、こんな本を持っていたもんだ。

 ・・・江戸の女芸者は、吉原の廓芸者と深川遊里の羽織芸者(辰巳の方向ゆえ辰巳芸者)と、中洲あたりの町芸者の三種類にわけることができる。(中略) そして「町芸者の中洲芸者」の章を読めば・・・安永・天明にかけて江戸の町芸者はふえてきた。その典型は中洲の芸者だろう。中洲芸者の群居した中洲は深川に比較すれば日本橋京橋により近かったので、一時はひどく繁昌した。

nakasukouen_1.jpg ・・・安永元年(1772)に馬込勘解由が埋立を願出で、六年に完成して中洲富永町という新地をつくった。この新地には料理茶屋が大川の眺望や船着の便からして十八軒もでき、四季庵がその規模もっとも大きく、大小それぞれ水辺の粋な茶屋としてよろこばれた。しかし安永の頃に、江戸市中で一ヶ所に料理茶屋が十八軒も集まったところはなく、中州は一躍江戸の狭斜の巷となった。(略)・・・他に船宿が集まり、夏場には出茶屋が九十三軒もできた。中洲は新しいだけに手軽で安直、芸者も転び芸者が多かった。(略) ・・・説明は寛政の改革、天保の改革、吉原全焼などを経て、中州が息を吹き返すまでの長い歴史を説明。

 写真上は明治40年の絵図。男橋、女橋、そして水天宮に続く土州橋がちゃんと描かれている。写真下は現・中洲公園。中洲先端で左が隅田川、右は箱崎川埋め立ての首都高。


コメント(0) 

荷風の中洲(3)真砂座と葭町芸者 [永井荷風関連]

konpira1_1.jpg 中洲病院から中洲の歴史に関心が移った。中洲の金刀比羅宮(写真、ことひらぐう))境内に入ると、昭和61年建立の「中洲築立百周年記念碑」らしきがあり。裏の碑文にこうあった。

 「中洲は特別な歴史を有す。江戸時代の中洲は須磨明石に勝る江戸随一の納涼観月の名所であった。明和年間に築立され三股富永町として繁栄したが寛政年間には埋め戻された(寛政の改革だろう)。明治十九年、中州は再び築立されて旧日本橋中洲町となる。明治・大正・昭和時代を通し、大川端の地として小山内薫等多くの文化人が往来し、その作品の舞台となる。」

 おや、小山内薫が出てきたか。彼は二代目左団次と共に本格翻訳劇の自由劇場をおこし、荷風さんんも「三田文学」に同台本を掲載などで協力。共に左団次のブレーン。さっそく小山内薫「大川端」を近所の図書館より「現代日本文學全集」(筑摩書房)で読んでみた。

konpira2_1.jpg 物語は明治38年末。主人公・正雄は明治座でお酌(半玉)の「君太郎」にひとめ惚れ。学校卒業後に中洲の或芝居(真砂座)へ作家見習いに入った。「芝居の左側には銘酒屋のやうなものが幾軒も列んでゐた。白粉を眞白に塗った女が長火鉢の前に寝そべってゐたり(略)・・・芝居の右側には待合が列んでゐた。(略)・・・夜になると電話が方々でちりんちりんと鳴る。美しい女を載ママ)せた車(人力車)が、好い匂ひを振り撒きながら、頻に出たりはひったりする。」

 そうした「淫らな島・中洲」に山の手から通った。やがて若旦那に好かれて芸者遊び。島の突き当り「新布袋屋」で、念願の「君太郎」に逢う。待合に入り浸って「君太郎」を呼ぶ日々になるが手も握らねぇ。それで好いた腫れたじゃ前に進まぬ。そのうちに君太郎は一本になり旦那の子をはらむ。そんな按配で「小さと」「せつ子」と付き合うが、誰もが旦那持ちになったり自前の看板を出したり・・・。

 明治44年の新聞連載小説(君太郎篇のみ)で、読み進むもまどろっこいが、それでも当時の葭町の芸者、中洲の情緒は味わえた。そういえば、荷風さんは尋常中学時代に大川で泳いで、濡れた水着のまま真砂座を立見をしたと書いてあった。(随筆「夏の町」)

 葭町芸者と云えば「濱田屋」貞奴。某演歌歌手が貞奴テーマの演目を明治座・稽古場で繰り返す光景を幾度か覗いた。そう、男性某演歌歌手の劇場公演の芝居稽古場は築地本願寺だった。熊本出身、福井出身歌手だが芝居稽古はともに隅田川沿いってぇのがうれしい。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。