SSブログ

荷風の中洲(5)「美しい町」 [永井荷風関連]

kawanakasu2_1.jpg 陳奮館主人『江戸の芸者』に書かれた「四季庵」は、窪俊満の浮世絵『中洲の四季庵の酒宴』に描かれている。若旦那と芸者の艶っぽい酒宴図。窪俊満は、ちなみに大田南畝の狂歌仲間。戯号は「南陀伽紫蘭」(なんだかしらん)、狂名は「一節千杖」(ひとふしのちつえ)、雑排名は「塩辛坊」。絵は山東京伝と同じく北尾重政門下。この浮世絵はボストン美術館浮世絵名品展の展示作らしく、題名のネット検索で簡単にお目にかかれる。

 話を今に戻して「新大橋」欄干から当時の中洲を眺めれば、首都高下の埋め立てられた箱崎川を甦らせば中洲だった景色が浮かんでこないでもない。そう云えば佐藤春夫『美しい町』の主人公らが夢見た舞台も、ここ「隅田川の中洲」だった。

 『美しい町』(「美しき町」表記も多い)は、素敵な建物設計に憧れる三人が、そんな家々で理想の町を創ろうと熱中する物語。彼らが選んだ地が司馬江漢の銅版画「東京中州之景」、つまり中洲だった。しかし司馬江漢の銅版画に「東京中州之景」なぁんてぇのは実際にないそうで、佐藤春夫が彼の「中洲夕涼」「三囲之景図」「江戸橋より中洲を望む」などから虚構「東京中州之景」を想い描いたらしい。佐藤春夫は、小説に中洲を図入り(写真下)で説明していた。

 また、どの資料を元にしたのかわからないが川本三郎『大正幻影』(ちくま文庫)の表紙イラスト(森英二郎)は実によく描かれている(写真上)。これは大正時代の中洲か・・・。同書で川村三郎は佐藤春夫『美しい町』、永井荷風『濹東奇譚』について、こんな分析をしている。

satonakazu_1.jpg ともに幻想小説。隅田川を渡って「むこう」と「こちら」。橋は「むこう」でも「こちら」でもない中間。中洲も同じで、しかも「川」でも「陸」でもない。そうした中間性の、不安定性を有したあいまいな領域は「夢見心地になるのが好きな人たちの淡い幻想を見る地点になる」と。

 その意では佐藤春夫の洋館、永井荷風の「偏奇館」もまた夢心地なる人が好きな隠れ家でもあると言及。この「淡い幻想性」は両氏に加え芥川龍之介、谷崎潤一郎も含めた大正作家の特性だと指摘している。しかし今なお隅田川(大川)には幻想に誘う魔力はあって、草森紳一は『荷風と永代橋』を著した(遊んだ)のもそれ故だろう。かくいふ小生も「中洲」を、また越前堀(霊岸島)でしばし楽しく遊ばせてもらった。

 追記:おぉ、これは偶然でしょうか、和歌山・新宮出身の佐藤春夫を除いて他は東京の人で司馬江漢、芥川龍之介、谷崎潤一郎は染井霊園の隣の「慈眼寺」で一緒に眠っている。ウチのバアさんが「巣鴨のお地蔵さんの塩大福が食いたいよぅ」ってんで、自転車で巣鴨へ走った際に「慈眼寺」で掃苔。永井荷風のお墓は雑司ヶ谷霊園で、運動不足の時の自転車散歩コース。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。