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夢枕獏「大江戸釣客伝」(2) [読書・言葉備忘録]

hirosigenakasu_1.jpg 前回の続き。・・・其角と朝湖が釣り船ん中で「安宅丸の祟り」を話している。巨大軍船・安宅丸が中洲のちょい上流、「新大橋」東岸辺りに巨船ゆえ無使用のまま50年間も係留。その解体を仕切ったのが大老・堀田正俊。処分で得た大金を懐にした。

 堀田はその2年前、家継の容態悪化で大老・酒井忠清が有栖川宮を将軍に迎えようとしている隙を突き「家継の遺言を聞いたぞぉ~」と主張し、綱吉を将軍に据え、酒井派を追い出して自ら大老になった。その3年後、今度は堀田は殿中で刺殺された。綱吉が堀田をうとんじたらしい。酒井、堀田両大老を滅ぼして綱吉の天下。かくしてこの辺りに幽霊が出る。「安宅丸の祟りじゃぁ~」

 写真は広重「名所江戸百景」より「みつまたのわかれ淵」。三俣=中洲の向こう側に釣り船が描かれている。同小説の風情はおそらくこんな感じだろう。広重が描いたのは安政5、6年で、安宅丸解体から174年後だが、さほど変わっていないだろう。この浮世絵、先日の穴八幡「早稲田古本市」で百円で買った。

 話を戻そう。将軍が綱吉になると「生類憐令」の世となる。最初は犬だが、在位25年間に135の発令。しまいにゃ「釣り禁止令」に及ぶ。元禄2年、江戸で唯一の鮒寿司を食わせる日本橋・大津屋主人らがしょっぴかれた。江戸城の堀や溜池で獲られた鮒を仕入れたらしい。密猟者らと店主9名が打ち首。江戸中震撼。

 津軽采女は吉良上野介の次女・阿久里を娶るが、妻は約1年で病死。義父・吉良はその後も采女を引き立てて綱吉の側小姓にした。元禄5年(1692)、采女は綱吉の堀田を殺害した悪夢乱心で左足を斬られてお役辞退。再び釣りができる自由の身になるも釣り禁止の世だった。

 其角と朝湖はそれでも隠れて舟を出す。其角より順調な朝湖の釣果。錘を光らせ微妙な誘いの竿さばき。いぶかしがる其角に、朝湖は懐から手書きの釣り秘伝書『釣秘伝百箇條』を出す。著したのは「投竿翁」。神田の古書店・大黒屋に大年増が売りにきたとか。同書の噂は釣り仲間にパッと広がった。

 元禄7年(1694)、釣り仲間の観世新九郎(能の小鼓方筆頭)が羽田沖に釣りに出て捕まった。『江戸真砂六十帖』(作者不詳、江戸中期の珍事を記録)にこうあるそうな。・・・伊豆大島へ遠流仰せ付けらるる。船頭も同罪なり。然しながら新九郎は死刑に当たるといへども、名人の家によって御免遊さるるよしにて、五年すぎて召し帰さるるとなり。

 あたしは1週間の大島暮しから帰ってきたばかり。大島通いは20年余。流刑とはいえアッという間の5年だったと思われる。大島の流人生活はどうだったのだろうか。(続く)


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