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飯島耕一『永井荷風論』 [読書・言葉備忘録]

kafuron.jpg 飯島耕一<『虚栗』の時代~芭蕉と其角と西鶴と~>を読んだので、氏の『永井荷風論』(昭和57年、中央公論社刊)も読む。<『虚栗』の時代>より16年前の刊。『俳人荷風』の「あとがき」を書きつつ亡くなった加藤郁乎との共著『江戸俳諧にしひがし』は平成14年刊。詩人で教授ゆえ難しく書いているんで、私流平易備忘録。

 書き出しは西脇順三郎がボードレール『悪の華』を語るなかで、荷風『地獄の花』が出てきたことに驚き、荷風とボードレール、ヴェルレーヌ、堀口大學へと言及。「荷風は嫌いだった」と記しながら、堀口大學が師の一人とする荷風の日本語に向き合って、その日本語のメロディーに酩酊されたと告白。「荷風の言文一致は、言文一致に疑いを抱きつつの言文一致」と定義し、「散文ながらその文章には音楽がある」という指摘が全編を貫く。

 ヴェルレーヌの詩の題名を現代詩人なら「白い月」と訳そうが、堀口訳は「白き月かげ」で、荷風訳は「ましろの月」。それだけで荷風の日本語の素晴らしさがわかると例にあげる。

 ここから荷風の出発点となった広津柳浪『今戸心中』から読み始めてエミール・ゾラへ。両者の影響からモーパッサン、ヴェルレーヌを経て『あめりか物語』 『ふらんす物語』にいかに脱皮して『すみだ川』に至るかを解いてゆく。

 そのなかにこんな一文あり。「わたしはかつてブラッサイが一九三〇年代のパリの娼家・娼婦の数々を撮った写真集本文を訳したことがあるが(『未知のパリ・深夜のパリ』みすず書房)、荷風読者にはぜひこの写真集も一瞥してもらいたい」。 荷風より先にヘンリー・ミラーの愛読者だったあたしは見たような記憶がある。

 著者は終盤で、これまでの荷風論が言及せぬ昭和21年刊『来訪者』収録の詩篇『偏奇館吟草』の各詩に言及。詩人ならではの荷風論に仕上げている。

 「終章」では、それまでのクールな記述から一変。少年期の荷風との邂逅を熱く語っている。昭和二十年の岡山空襲。荷風は疎開流転で菅原夫妻と岡山着。「此夜小学校講堂にて宅氏洋琴演奏の会あり、雨中皆々と共に行く。帰り来たりて最相氏の家に宿す」。のピアノ発表会に筆者も母親と行ったと記す。宅氏はピアニスト孝宅二氏で、彼は自分の家で何度もピアノ練習に訪れてい、その前夜も指ならしに立ち寄っていた。当時の『断腸亭日乗』岡山の記述に、少年期の思い出を興奮気味に甦らせ、同時に『日乗』をひきながら改めてその流麗な文語体に感心している。

 締めは荷風の「フランスが祖国」であるかのような荷風思想を「醜態」と言い放った三島由紀夫の死もまた「醜悪」だったとし、荷風の美しいフランスの光のきらめき(本物のフランス)、『腕くらべ』の妖精のようにみえる駒代が小走りに走って行く(本物の日本)。われわれの足もとが奇妙な明るさのなかで頼りないだけに、いっそうそれらは暗く美しい。で終わっていた。


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北区の軍事遺跡(1)造兵廠本部 [新宿発ポタリング]

zouheisyo1_1.jpg 新宿から久し振りに北、城北方面にペタルをこいだ。池袋を経て板橋。鴨が飛来の石神井川沿いに新撰組隊長・近藤勇の菩提寺・寿徳寺があった。ここから北区十条台に出た。「おや、こんな所にかくも広大な公園があったとは・・・」。武蔵野にも似た長閑な林。周囲風景と地図を見較べた。ここは北区中央公園。隣接して野球場やテニスコート。東京都障害者総合スポーツセンター、陸上自衛隊十条駐屯地、成徳短期大学・・・。その一画に写真の建物。初冬の澄み切った青空に白亜がそびえていた。「北区中央公園文化センター」。

 三島由紀夫が割腹した、あの市ヶ谷・旧参謀本部に似ているも、玄関や窓がアーチ型で比して優美なり。建物に入れば、なんと昭和5年(1930)建築の「東京第一陸軍造兵廠本部」だったと記されていた。戦後はこの一帯は米軍に接収されて「王子キャンプ」。ここは茶色から白亜に塗り直されて情報局、測量部隊が入ったか? 詳細は分からぬが朝鮮戦争からベトナム戦争(野戦病院にもなった)を経て返還された。

douheisyo2_1_1.jpg 眼を閉じると、幼かった頃に近所の家前で散った桜の花びらを、姉と共に無心に針で刺し連ねていると、ジープに乗った米兵が覗き込んで来たのを思い出した。「あぁ、あの時の米兵らは・・・」と思った。

 返還されたのは昭和46年(1971)で、5年後の昭和51年に北区中央公園として開園。今は生涯学習のホール、教室などに使われている。

 父が通信兵だった頃の野戦訓練の休憩時の、セピア色に変色した写真を見たことがある。その後は戦地に行かず造兵廠勤めだったと聞いた。生家から徒歩圏内。父は戦時中はこの辺りに通っていたのだろうか。あたしは、この建物を前にして動けなくなってしまった。 


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長辻象平『江戸釣魚大全』 [読書・言葉備忘録]

edoturi1_1.jpg 新宿図書館で読みたい郷土資料を探していたら、夢枕獏『大江戸釣客伝』の参考文献筆頭に挙げられていた同書(平凡社、1996年刊)を見つけた。第一章が夢枕獏の同小説テーマと同じ<釣り旗本 津軽采女の『何羨録』>。

 著者は冒頭で1653年のアイザック・ウィルトン『釣魚大全』を紹介し、これにまさるとも劣らぬのが、その70年後の1723年に津軽采女(うねめ)による手書き三巻『何羨録』(かせんろく)だと書き出している。

 同書に分散の采女プロフィールをまとめてみる。津軽采女政兕(まさたけ)は、寛文七年(1667)江戸生まれ。陸奥弘前の大名・津軽家の分家。天和三年に父が三十五歳で他界し、十六歳で家督(三代目)を継ぐ。四千石だが不遇にも御家人・小普請組。暇ゆえに始めた釣りにのめり込んだ。貞享四年(1687)に吉良上野介の次女「あぐり」を迎えるが、若妻は翌年に病死。吉良の推しで元禄三年(1690)、二十三歳で「桐の間番」に登用され、翌年に小姓に出世。

 しかし一年半後に殿中で左足負傷。何故かは書かれていないが、夢枕獏は小説で綱吉の悪夢乱心ゆえとした。元禄六年(1693)に小姓を辞退し、その一週間後に綱吉「釣りと釣り船の禁止令」。采女は拝領の丸の内屋敷返上で、本所三ツ目通りに転居。屋敷北側が「堅川(たてかわ)」。ここから両国橋でも中川経由でも江戸湾に出られるが、じっと我慢で『何羨録』を著した。

 彼はなぜここまで釣りにのめり込んだか・・・。筆者は彼の不幸、悲しみ続きを挙げている。四人兄弟全員が短命。新妻「あぐり」を一年ほどで亡くし、後妻と九人の子を設けるも次々に他界。生涯に五回の火災にも遭った。寛保三年(1743)に七十五歳で没。

 筆者は江戸の釣りブームを第一期・元禄以前(~1687)、第二期・享保(1716~)、第三期・天明から幕末(1781~)と分類。津軽采女は元禄以前期に釣技を育み、享保期に『何羨録』を著した。

 過日読んだ飯島耕一<『虚栗』の時代>は天和元年から数年に芭蕉、其角らが台頭し、井原西鶴の『好色一代男』なども出て、わが国の「詩と小説が同時期に盛り上がった黄金期」と書いていたが、釣りもまた江戸最初のブームで盛り上がっていた。同時期に赤穂浪士の討ち入り、八百屋お七の大火、綱吉の生類憐みの令、西では「おさん・茂兵衛」の密通。夢枕獏でなくとも小説を書きたくなるシシュエーションが揃っていた。

 同書はここから『何羨録』を軸に当時の釣り人気分析、その釣り場、釣竿、錘、釣鉤、天気を読む気象法などについて豊富な資料をひもときつつ調べ書いている。其角の釣り句<ほのぼのと朝飯匂ふ根釣りかな>も紹介。根釣りポイントについて、舟の竃で火をたく朝食の匂いってこと。そして『何羨録』以後の釣り書も次々紹介の労作でした。

 万延元年(1860)には入場料を払っての釣り堀があったの記録、その絵には驚いた。あたしも一時期、へら鮒・箱師(釣り堀)だった時期がある。


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クマバチや飛べる秘を問ふ紅い花 [花と昆虫]

hati2_1.jpg 前回で、芭蕉と其角と露伴の「蝶」の句が出たところで蝶の句をと思ったが「ウラナミシジミ」を詠んだばかり。さてとパソコン内画像を探れば、六月に撮ったクマバチが残されていた。よし、これで駄句遊び・・・。

 ISO1600で、1/2000secの高速シャッター。どうでぇ、これで問題の翅が止まった。丸々とした大きなボディに比し、余りに小さい翅。飛べるはずもない道理を超えて、チェリーセイジの紅い花に蜜を求めて力強いホバリング。なぜこんなに小さな翅で飛べるのか・・・。

 毎年のこと、六月の二週間ほど、どこからか毎日通ってきて、どこかに消える。今頃は羽化した子供バチと共に、どこかの枯れ木ん中で越冬準備をしているのかもしれない。また逢えるのは、来年六月頃。

 ★昨日、新宿御苑ウォーキング。工事中だった「大温室」が完成で見学できた。次回の御苑散歩は望遠レンズではなくマクロレンズ持参です。★「オーマイゴット!」 ボケが始まった。この写真で一句は、すでに(7月5日)アップ済み。戒めに、このままにする。間違いの原因は、古い写真をいつまでもパソコン内に置いたままってこと。撮ったらさっさとCDRに落としましょ。


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幸田露伴『芭蕉と其角』と「きゃたつ釣り」 [読書・言葉備忘録]

 飯島耕一<『虚栗』の時代>で知った『露伴随筆・第一冊』をひもとく。「芭蕉と其角」冒頭にあり。わずか九頁。「口語体」を嫌った幸田露伴ゆえ、旧字・旧仮名に古語混じり文体で、たどたどしく読んだ。芭蕉句の素晴らしさを「稍ゝ(やや)反対の性質の其角を出して、芭蕉の隠れたるところを発揮せんと」、同季語の句を並べ比していた。

 まず芭蕉。<三井寺の門敲かばや今日の月> 故事成語「僧は敲く月下の門」の「推す」と「敲(たた)く」かの迷いから「推敲」。月煌々とした景色に浮かれて僧も三井寺の門を敲く。芭蕉句にはこのような古き詩の「をかしみ」も忍ばせる。比して其角句は、<名月や居酒飲まむと頬かぶり> 月に浮かれて居酒を飲もうとしたが、月光があまりに明るく思わず頬かぶりの意。さて、どちらがいいかと問う。(「飲まむ=飲もう」)。

 もう一例をひこう。一昨日「ウラナミシジミ」を登場させたので蝶の句。芭蕉<蝶の飛ぶばかり野中の日かげ哉> に比し其角句<夕日影町中にとぶ胡蝶かな> 共に春の日ざしのやわらかにして広々とせし野中に蝶を飛ばせ、縦横自在楽しげに蝶の飛ぶところを詠っているが、芭蕉は緻巧にして、其角は快活なりと記す。ならば、ふふっ、露伴の句も挙げよう。<飛ぶ蝶に我が俳諧の重たさよ> 露伴さん、軽みが出ずに反省している。

 芭蕉と其角の句を上記のように次々に挙げて解釈、対照して「其角は句を案ずるに一座の人を眼中に入れず、常に天井を睨みて趣向を捜り出す。そうして一句が成れば、座客はみな驚き感じる。比して芭蕉句は平々淡々及ぶやすきと思われるが、客が各々家に帰りて後、改めて其の句を味はへば大いに芭蕉の妙を悟りて、到底及び難きを知れり」と記す。

 其角を揚ぐるとも又其角の真価を増すこと能(あた)はざる(~は不可能、できない)を知ればなり、と芭蕉の素晴らしさを説いている。無学ゆえ読み方、解釈が間違っていたらごめんなさい。

 なお、同書収録『鼠頭魚釣り』をおもしろく、楽しく読んだ。「鼠頭魚」すなわち「キス」。青キスの、かの「きゃたつ釣り」。夢枕獏『大江戸釣客伝』を読んで、其角つながりで辿り着いた『露伴随筆』だけに、「きゃたつ釣り」の名文に出逢えるとは。読んでい、ニヤリ・ニヤリと共感湧きて、釣りに胸躍らせた日々が甦ってきた。同作は著作権切れで「青空文庫」で公開されている。釣り好きの方にぜひ一読をおすすめです。


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裏波といふシジミ識る老いの庭 [花と昆虫]

uranamisijimi1_1.jpg 隠居7Fの小さなベランダに、秋だというのに蝶が飛んで来た。ヤマトシジミより一回り大きい。マクロレンズで撮った。可愛い尻尾がある。ウラナミシジミ(裏波小灰蝶)。南方系種で、秋になって北、関東にも飛んで来て、やがて寒さに死ぬそうな。死を承知の秋の飛翔。

 「裏波」ってことは、翅を閉じた側が裏で、そこに波模様の意。薄茶色の波模様がある。「裏波小灰蝶」を識り、蝶の裏と表も初めて識った。

 こんなことも識らず、今まで何を生きて来たか。若い時分は遊びに夢中で、それから仕事に夢中で、なんだか今になって、やっとまともに生きている感が無きにしも非ず。とは云へ身体は「老いの波」に晒され、こんな新たな知識を食って、どうにか生きている。写真下が「蝶の表」。

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飯島耕一『虚栗』の時代~芭蕉と其角と西鶴と(2) [読書・言葉備忘録]

iijima1_1.jpg (1)に続くが、長くなるので私的解釈メモ。 ④京の俳人は『虚栗』刊前後にしばしば江戸に下って、芭蕉や其角と交わっていた。⑤幸田露伴『井原西鶴』と『芭蕉と其角』について。⑥今泉準一『元禄俳人宝井其角』、加藤郁乎『江戸の風流人』、柴田宵曲『蕉門の人々』、「日本古典文学全集」の『井原西鶴』の暉峻康隆校注に言及。

 ⑦「早稲田文学」での自身と加藤郁乎との対談をひき、乾裕幸『井原西鶴~全句集』へ。⑧著者が名付けた「虚栗の時代」(天保元年、二年、三年、貞享元年あたりの世情と事件調べ。

 ⑨西鶴『好色五人女』 『好色一代男』考察。 ⑩は旅がテーマ。『好色一代男』は色道修行の旅。世之介の寺泊の廓の物語から、『おくのほそ道』も旅で<一家に遊女もねたり萩と月>を並べひく。芭蕉と西鶴は水と油だが、色と情では合うのではと結ぶ。

 ⑪『虚栗』の其角句を紹介。⑫大阪天王寺の西鶴の墓へ。著者は感傷的になって亡くなった友を次々に記し、其角の芭蕉三回忌の句<しぐるゝや此も舟路を墓参り> ⑬『虚栗』の芭蕉と其角の歌仙全句。

 同署はみすず書房、1998年刊。併せて飯島耕一『詩の両岸をそぞろ歩きする』(清流出版、2004年刊)を読む。其角関連エッセイは「笑顔・種村季弘素描~其角は西鶴より二十の年下だったが」、「芭蕉と其角とは本当にどんな師弟だったのか」、「其角と芭蕉の深い因縁」があった。


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飯島耕一『虚栗』の時代~芭蕉と其角と西鶴と(1) [読書・言葉備忘録]

minasiguri2_1.jpg 其角、英一蝶、芭蕉登場の小説『大江戸釣客伝』を読んだので、飯島耕一の表題書を読んだ。幸田露伴『芭蕉と其角』、今泉準一『其角と芭蕉と』を意識し、副題を『芭蕉と其角と西鶴と』。芭蕉と其角に井原西鶴を加えたところがミソ。以下私流解釈メモ。

 ①『虚栗』(天和三年、1683年刊の其角撰集)周辺の芭蕉と其角のあれこれ。まず『虚栗』以前の二人。其角は14歳で芭蕉の門を叩き<十五から酒をのみ出てけふの月>と詠んだ。十七歳からの号は螺舎(らしゃ)。二十歳の螺舎と三十七歳桃青(芭蕉)の句の比較。そして其角五十句(ねりまの農夫VSかさいの野人)を芭蕉が判定・判詞を書いた『田舎の句合』。仲のいい師弟ならではの句遊び。よぅやるねぇ。

 其角二十一歳、天和二年の歌仙「むさしふり」「花にうき世」「我や来ぬ」などを紹介。同年に井原西鶴『好色一代男』刊。同年は綱吉・生類憐令の五年前で、この国の詩と小説が同時期に盛り上がった黄金時と記す。西鶴の若き日の俳諧と放蕩を探り、同年の歌仙「錦どる」参加の暁雲(多賀朝湖、英一蝶)の句にも言及。

 ②天和元年に戻って桃青、其角などによる歌仙「次韻」の桃青<はしたなりける女房の声更て> 発情情景に其角<血摺のねまき夜や忍ふらん> 今日の俳句とは別種の句の光景が展開で、それが当時の新風胎動だと解説。

 ここで改めて井原西鶴の出自から青年期を森銑三『井原西鶴』からひく。西鶴は芭蕉と同世代。其角と同じ十五歳から俳諧を始めた。『好色一代男』は放蕩、俳諧、一日一夜独吟千六百句などの矢数俳諧で鍛えた文体、味の誌的小説だと解説。

 ③再び「錦どる」で「英一蝶」に言及。「荷風の小説にも出てくるこの画家は」とあるが「はて、どの小説か」。再び西鶴に戻る。彼は延宝三年(1675)34歳で25歳の妻を亡くし、名跡を手代にゆずって剃髪して江戸に下った。『好色一代男』の深川、築地、本所など各巻に江戸岡場所が出てくるのを解説。著者の其角らしき幻が出てくる短編現代小説『神田滅多町の女』は同巻三に江戸滅多町が出てくる故とネタを明かしている。(続く)


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行秋やブルーシャドーの鴨が舞ひ [新宿御苑の野鳥]

aokarugamo1_1.jpg 「オジさん、あのカモ、他と違ってブルーシャドーのメイクじゃん。チョーかわいい。あれ、撮りなよ」。 

 歌舞伎町か二丁目で夜通し遊んだか、化粧崩れのギャルに言われて「カルガモ」を撮った。頭部がグリーンっぽいマガモとの「交雑個体」はまま見るも、鮮やかなブルーは珍しい。

 「オジさん、鳥なんか撮って愉しいん」 「あぁ、いま皇居のお濠も、御苑の池にも冬鳥がどっと入ってきた。鳥を撮るってぇのは季節巡りの確認かな」 「ははっ、そこには、あと何年生きられるかっちゅう気持ちがある」 「まぁ、そんなとこさ。いろんな遊びをいっぱいやって、夢もいっぱいみて、飽きるほど生きて・・・」 「今は巡る季節の愛しさよ」 「そんなとこだ」 「ふぅ~ん、あたしはまだ遊び始めたばっかり。あれもこれもしたい・・」 「あぁ、飽きるほど遊んだらいいさ」と言った。


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芝浦の昭和探し [新宿発ポタリング]

sibaura3_1.jpg ポタリングは運動ゆえ、どこを走ってもいいが、ちょっとした目的があると走りやすい。東京湾汽船の芝浦移転を記したので「そうだ、芝浦を・・・」走ってみることにした。

 新宿基点に走るは★城北方向(文京、豊島、板橋、北) ★城東方向(千代田、台東、江東、墨田、江戸川、足立、葛飾) ★城西方向(中野、練馬、杉並、世田谷、渋谷、武蔵野、西東京) ★城南方向(港、目黒、品川、大田)に大別される。

 芝浦は城南方向。すでに品川から旧東海道で大森辺りまで走った。先日は高輪・承教寺へ「英一蝶」墓を掃苔。城南へのルートは★「外苑西通り」で麻布~白金~第一京浜へ ★「外苑東通り」で六本木~芝公園 ★「新宿通り」で皇居沿いに日比谷通りの3ルートあり。

 今回は皇居沿いに日比谷通りで増上寺から浜松町~竹芝~日の出~芝浦~田町界隈を走った。東京湾汽船が昭和11年に越前堀(霊岸島)から移転した芝浦埠頭は、現・東海汽船芝浦支店辺りか。ジェットフォイル艇が休泊するレトロな桟橋(写真上)は、ひょっとして当時の鉄筋コンクリート浮桟橋か? それにしてもこの辺のレインボーブリッジ、ループ道を真下から見上げる港は、ちょっと目を見張る光景なり。

sibaura2_1.jpg 次は東京湾汽船が芝浦移転披露に「芝浦芸者」が余興を・・・から芝浦花街の名残り探し。田町駅東口前に鹿島神社。ってことは、この辺り、昔々は「芝浜」じゃないか。熊公がカミさんに叱られて真っ暗んなかの芝・魚河岸へ行くってぇと未だ暗い。眼を覚まそうってんで浜んなかにへぇると足に財布の紐がひっかかって五十両拾った。(志ん朝)。

 その埋立地に、立派な木造建築の芸妓検番(写真下)が残っていた。施主は芝浦三業地(料理屋・芸妓置屋・待合茶屋)組合長で目黒雅叙園主の細川力蔵。雅叙園設計の酒井久五郎による近代和風建築。一階は芸妓の取次や清算の事務所。二階は舞台付き踊り稽古場の大広間。

 昭和11年建築だそうで、東京湾汽船移転と同時期。共に最も盛り上がっていた頃だろう。戦争が激しくなるに従って、検番は港湾労働者の宿泊所に。ってことは健さん・藤純子「侠骨一代」の港湾労働者もここに泊まっていたか。戦後の埠頭は接収され、検番は「協働会館」へ。大広間は地元住民の集会などに貸し出されたそうな。平成12年閉鎖。平成21年に港区の有形文化財になって、修復保存を待つ状態。

 その一画に往時の建物が数軒残ってい、築80年余の元芸妓置屋を改築して昭和45年頃に料理屋を始めとかの「芝浦料亭・い奈本」でランチのマグロ丼を食った。同夜、運動疲労で実に心地よく爆睡・・・。


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東京湾汽船・霊岸島発着場(3) [週末大島暮し]

sibaura2_1.jpg 東京湾汽船・霊岸島発着場は(2)で終えたが(3)の追記。これは夢枕獏『大江戸釣客伝』を読んでいて、英一蝶の三宅島流刑が描かれていて、大島流刑も調べてみようと昔の『島の新聞』をひもといたんです。すると別件だが「東京湾汽船、芝浦新築移転披露」特集の昭和11年11月8日号を見つけた。東京湾汽船の発着場が霊岸島から芝浦埠頭に移った記録。以下、同記事を紹介・・・。

 一面(写真)は新社屋、桟橋、橘丸と葵丸の写真。二面記事に施設概要あり。社屋は白色の建物で、ところどころに緑色タイル。正面から見ると瀟洒な汽船を模した流線型。階下に百坪ほどの船客待合室、食堂、切符売場。階上は社長室、事務所。長さ十二㍍の鉄筋コンクリート桟橋は、従来の固定式ではなく、潮の干満に合せた危険のない自慢施設。

 披露式典は十月廿九日。芝浦八号地に新設された社屋内船客待合室で行われ、林社長の挨拶、来賓祝辞の後、芝浦芸妓総出演の芝浦音頭や芝浦囃子などの余興。新桟橋に横付けされた橘丸、葵丸が開放されて模擬店をもって主客歓を尽す。新聞社飛行機が社屋上空を旋回して祝意を表し、夜十時に大島行きの橘丸が千人余の観光客を乗せて万歳の声に送られて歴史的な初出航をした。

 東京湾汽船・林社長の挨拶が全文掲載。概要は・・・前身会社より経営を引き継ぎ、従来の貨物重視から船客主の経営に変え、一年で百万人ほどを送迎をするに至った。従来の「越前堀」は明治大正ならいざ知らず、昭和も11年になると大帝都(六百万人)の海の玄関口・芝浦へ移転すべく念願がついに実現した。 続いて東京府知事・横山助成、東京市長・牛塚虎太郎などの祝辞全文が掲載。芝浦移転で東京~大島が約一時間短縮とか。

 さて、この芝浦桟橋がどこにあったのだろうか。新聞には「芝浦八号(埋立)地」とあり。現地図を見るとレインボーブリッジのループ脇辺りに東海汽船・芝浦支店があるからここかなぁ。その並びのループ際に「山田倉庫」あり。余談だが、この倉庫5・6Fが「芝浦スタジオ」。倉庫改造の広いスタジオを生かしてミュージシャン(歌手)らがコンサートリハをよくやっている。何度も取材に駆け付けたことあり。

 「島の新聞」に「芝浦芸者」とあり。調べれば当時の芝浦に花柳界あり。明治43年に芸妓屋28軒、大芸妓70名、小芸妓11名、待合茶屋20軒とか。今も当時の木造検番が保存されているとか。駅反対側には勝海舟と西郷の会談の地なる石碑がある。

 もうひとつ芝浦と云えば、東映ヤクザ映画の高倉健・藤純子主演「侠骨一代」(原作は芥川賞作家の富沢有為男)が思い浮かぶ。昭和初期の芝浦埠頭の組同士の抗争。観ている筈だが記憶はおぼろ。改めて映画ビデオを観れば、当時の芝浦埠頭の感じが描かれているかも知れぬ。なお芝浦桟橋は昭和28年に現在の竹芝桟橋が完成するまで使われた。


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ビックロも色褪せるるや翡翠鳥 [新宿御苑の野鳥]

akikawasemi1_1.jpg 若い時分から本は紀伊国屋書店だった。新宿三越に「ジュンク堂書店」が入って同店びいきになった。その三越全館が突然「ビックロ」になった。

 「売らんかな」臭プンプンのヤマダ電機「LABI」っつぅ店はどうも好かん。カメラや家電はいつの間に新宿西口「ビッグカメラ」に決まった。地下の魚売り場もお気に入り。ユニクロはフリースが流行った10年ほど前に、ウチから数分のところに開店し、買い食いならぬ“買い着”感覚で重宝している。

 「ビックロ」開店日にウォーキングの足が同店に向かった。トレパンとCD-Rを買った。一ヶ月後、街はいきなり冬の陽気でネオンが恋しくなった。

akikawasemi_1.jpg 盛り場から数分の新宿御苑へ。ユニクロを着て、ビッグカメラで購ったカメラをもってカワセミを撮った。

 街のネオンや流行り物に比し、カワセミの美しいことよ。この日、カワセミ♂が各池を低空飛行で矢のように飛び交っていた。


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夢枕獏「大江戸釣客伝」(7) [読書・言葉備忘録]

jyoukyouji_1.jpg 前回の続き。多賀朝湖(英一蝶)のお墓・承教寺を出て海側に下ると東海大高輪キャンパスがある。建物前に「足もとに眠る近世寺院」と題された史跡案内有り。同キャンパスの校舎建て替えにともなう発掘調査で、失われた近世寺院の全貌が明らかになったと記されていた。

 『江戸切絵図』の「芝三田 二本榎 高輪辺絵図」にかぶせて現在の同大キャンパスの敷地が太線枠で示されている。(写真)。承教寺と證誠寺の半分、そして国昌寺がすっぽり収まっている。この発掘で国昌寺の本堂などの遺構が発見されたそうな。(写真)。なお承教寺の墓地は昭和33年に隣接する小学校の拡張で、現在は池上本門寺・承教寺墓域に移転。英一蝶の本当の墓もそっちに移されているとか。

 この絵図をよくよく見ていると、同大高輪キャンパスの左上辺りに、なんと、宝井其角の菩提寺「上行寺」を見つけてしまった。★永井荷風は最晩年の昭和31年11月29日に其角墓に詣でているが、同寺は昭和38年に伊勢原市に移転。現在はそこに其角と父で医師だった東順のお墓、そして「宝井」と呼ばれたこんこんと湧いていたという井戸の石組も移されているとか。

 余談★同大キャンパス右下に赤穂浪士が眠る「泉岳寺」がある。元禄時代の各寺の位置関係がよくわかる。「上行寺」のサイトを拝見したら、赤穂浪士が吉良上野介の首を持ち、まず立ち寄ったのが「上行寺」だが、同寺は徳川幕府とつながりが強かったので立ち寄りを強く拒んだために「泉岳寺」へ行った・・・の口伝えがあると記されていた。★同大キャンパス右上に広大な「細川越中守」がある。ここは今「都営高輪アパート」で、アパート奥に「大石良雄外十六人忠烈の跡」がある。元禄十六年(1703)二月四日、大石内蔵助ら十七人が十七人の介錯人によって切腹した場所。

 其角の「上行寺」、朝湖(英一蝶)の「承教寺」。二人は菩提寺も隣同士。加えて共に医師の子。二人の縁の深さを改めて思った。(このシリーズおわり)

 ★夢枕獏「大江戸釣客伝」は江戸前の釣り、江戸俳諧、其角、朝湖(英一蝶)、芭蕉、生類憐令、忠臣蔵、流刑、伊豆諸島の歴史へと波状マルチ的に興味が広がって面白かった。★最後に・・・本当に其角と朝湖は釣り好きだったのだろうか。大嘘だろうなぁ。★なお「大江戸」なる言葉は、江戸後期の化政期(文化・文政期/1804~1829)に百万人都市になって生まれた言葉と承知している。元禄に「大江戸」なる言葉はなかったのでは・・・。

 ★このシリーズ参考書:今泉準一「其角と芭蕉と」、小石房子「江戸の流刑」、嵐山光三郎「悪党芭蕉」、段木一行「伊豆諸島の歴史」、飯島耕一「『虚栗』の時代」、来栖良夫「波浮の平六」、今川徳三「八丈島犯科帳」、「大島町史」、「伊豆諸島東京移管百年史」など。


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夢枕獏「大江戸釣客伝」(6) [読書・言葉備忘録]

iccyouhaka1_1.jpg 前回より続く。・・・長くなったので、この辺で端折る。其角は芭蕉を看取った13年後、宝永4年(1707)に46歳で病死。朝湖が三宅島流刑になってからの深酒で身体を壊したか。また日本初の本格釣り指南書『何羨録』を著した津軽采女は、寛保3年(1743)77歳で没。

 さて、多賀朝湖の三宅島での暮しはどうだったか。前述の小石房子著『江戸の流刑』に「反骨の絵師~英一蝶」の項あり。一蝶は島の水汲み女・お豊と所帯を持って二人の子をもうけた。人が変わったように日々絵を描いて生活の足しにし、酒類販売もした。流人は本土縁者からの見届け物で暮しを支えるのが普通も、彼は逆に本土の母に仕送りを続けたとか。放蕩を続けて流人となり、初めて湧いた母への感謝と愛。

 宝永6年(1709)、綱吉から家宣への将軍代替えによる大赦発布。大島の赤穂浪士遺児、三宅島の朝湖をはじめ多くの生類憐令で服役中の人々が赦免。朝湖は島を去る時に、菊の花房に蝶が舞っているのを見て、母の旧姓「花房」から「英」と「一蝶」で、以後は英一蝶を名乗った。長男を画家、次男を武士に育て上げ、晩年は百両で得た大石灯篭に火を入れ、百両で買い占めたはしりの茄子を肴に酒を飲むほどの大画家に。享保9年(1724)正月12日に73歳で没。

 段木一行著『伊豆諸島の歴史』には御蔵島や新島でも所蔵の朝湖の絵が掲載されていて、他島からも依頼されるほど多くの絵を描いたことが証明されている。同著には八丈島に流された仏師・宮部の生活も詳しく紹介。彼が彫った仏像もまた、伊豆諸島の多数寺院に残されてい、それら仏像写真を掲載。彼は江戸に帰る時は妻と四人の子供、妻の弟も連れ帰ったとか。また村田半兵衛(幇間)を夢枕獏が医師と記しており、ならば彼ら以上に貴重な人材として歓迎され、大活躍したと思われる。その意で流人は江戸の文化を伝える逸材とも言えようか。

hokusoou_1.jpg さて、「大江戸釣客伝」の主人公らが全員亡くなったところで、英一蝶のお墓、港区高輪の「承教寺」へ掃苔と参りましょうか。赤穂浪士のお墓が並ぶ「泉岳寺」崖下の道をまわり込んで「承教寺」の山門をくぐった。住宅が両脇に並ぶ道を経て中門、そして本堂へ。当時は相当に広大な寺院だったことが伺える。その本堂左前に英一蝶のお墓があった。

 墓表に「北窓翁(之墓)」。()内は判読不能。右側面に「享保九年甲辰正月十三日」の命日。裏面に、安政二年の江戸大地震(1855)で毀れ、明治六年の命日に再建した旨の説明が一蝶の孫・一蜻の名で彫られていた。左側面には辞世の歌「まきらハすうき世の業の色どりも有とかや月のうす墨の空」(はっきり読めなかったので、資料によった)が刻まれていた。(続く)


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夢枕獏「大江戸釣客伝」(5) [読書・言葉備忘録]

hanabusakanban_1_1.jpg 前回の続き。・・・其角と朝湖の会話は続く。其角はしみじみとこう言った。「人間ってぇのは、所詮、糞袋じゃねぇのか。口からおまんま食って、尻から糞をひる。将軍も遊女も同じ。人の肝んなかぁ、糞と欲とが詰まっている。そのなかに“狂”もある」

 糞より欲が詰まっていると自嘲する朝湖は二ヶ月の入牢に懲りず、放蕩と反抗心が治まらぬ。綱吉生母の桂昌院・甥に遊女を身請けさせた後、今度は桂昌院の姪の孫に遊女を身請けさせた。さらに彼が描いた「朝妻船」の遊女は、見る人が見れば綱吉寵愛の「お伝の方」とわかる。(小石房子『江戸の流刑』には板橋区立美術館蔵「朝妻船」掲載)。かくして彼らは元禄11年(1698)に再び捕まって、今度は宮部と半兵衛は八丈島、朝湖は三宅島に流刑。

 嵐山光三郎『悪党芭蕉』はこんな文章で結ばれている。・・・芭蕉の周辺には危険な人物が多く、其角もそのひとりである。其角一派(朝湖ら)の放蕩は、綱吉の母である桂昌院の縁筋にあたる本庄氏や六角氏に及びスキャンダルとなった。(略)。俳諧は俗文学なのである。罪人すれすれのところに成立する。(略)。芭蕉は危険領域の頂に君臨する宗匠であって、旅するだけの風雅人ではない。

 さて、朝湖がいなくなった江戸で其角はどうしていたか。その前に再び其角の住所調べ。飯島耕一<『虚栗』の時代>に収められた小説「神田滅多町の女」にこんな文章がある。「わたしは神田お玉が池で育ったのさ。『虚栗』を出版したあと照降町に引越し、元禄になると芝神明町、のちに萩生徂徠の住む茅場町に移った」。ってことはこの頃はもう茅場町に移っていたか。

 そして元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り。其角は隣の俳諧仲間・土屋主税の屋敷に服部嵐雪(共に照降町にいた)、杉風と年忘れの「雪見の会」で泊まり込んでいた。赤穂浪士は翌年2月に切腹。同小説では義父・上野介を失った津軽采女の悲しみが描かれているが、意外に知られていないのが赤穂浪士遺児4名の大島流刑。

 彼らにはそれまで仕えていた各藩主より各20両、米20俵が支給。松村喜兵衛次男・政右衛門は貧乏旗本・小笠原長門守の家臣で米二俵と金四両。彼らはそれらをひとつにして相暮したとか。それが尽きると莚を打って生活の足しにした。しかし間瀬久太夫二男・定八は在島2年で病没。大島元町の墓地に眠っている。(「大島町史」「伊豆諸島東京移管百年史」)

 赤穂の遺児らが大島に流された9ヶ月後、元禄16年(1703)11月22日深夜に元禄大地震。地震から6日後の29日に本郷の出火で上野から深川・本所まで下町一帯が類焼。 ちなみにこの地震で大島の火口湖・波浮池が、津波で決壊して海とつながった。これを機に他の島々の江戸行きの船がここで日和待ち。これを見て秋廣平六による波浮築港が行われた。

 ★「神田滅多町」は神田多町のこと。★「照降町」は現在の「江戸橋」北側の小舟町交差点辺り。下駄、傘、雪駄を売る店が並んでいて、雨が降れば下駄、傘が売れて、晴れれば雪駄が売れるんで、これら店の人たちは「照れ、降れ」と挨拶していたそうな。二代目団十郎「老のたのしみ」のなかに、其角が嵐雪と共に「てれふれ町足駄屋の裏」に侘び住いをしているの記述があるそうな。


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