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夢枕獏「大江戸釣客伝」(6) [読書・言葉備忘録]

iccyouhaka1_1.jpg 前回より続く。・・・長くなったので、この辺で端折る。其角は芭蕉を看取った13年後、宝永4年(1707)に46歳で病死。朝湖が三宅島流刑になってからの深酒で身体を壊したか。また日本初の本格釣り指南書『何羨録』を著した津軽采女は、寛保3年(1743)77歳で没。

 さて、多賀朝湖の三宅島での暮しはどうだったか。前述の小石房子著『江戸の流刑』に「反骨の絵師~英一蝶」の項あり。一蝶は島の水汲み女・お豊と所帯を持って二人の子をもうけた。人が変わったように日々絵を描いて生活の足しにし、酒類販売もした。流人は本土縁者からの見届け物で暮しを支えるのが普通も、彼は逆に本土の母に仕送りを続けたとか。放蕩を続けて流人となり、初めて湧いた母への感謝と愛。

 宝永6年(1709)、綱吉から家宣への将軍代替えによる大赦発布。大島の赤穂浪士遺児、三宅島の朝湖をはじめ多くの生類憐令で服役中の人々が赦免。朝湖は島を去る時に、菊の花房に蝶が舞っているのを見て、母の旧姓「花房」から「英」と「一蝶」で、以後は英一蝶を名乗った。長男を画家、次男を武士に育て上げ、晩年は百両で得た大石灯篭に火を入れ、百両で買い占めたはしりの茄子を肴に酒を飲むほどの大画家に。享保9年(1724)正月12日に73歳で没。

 段木一行著『伊豆諸島の歴史』には御蔵島や新島でも所蔵の朝湖の絵が掲載されていて、他島からも依頼されるほど多くの絵を描いたことが証明されている。同著には八丈島に流された仏師・宮部の生活も詳しく紹介。彼が彫った仏像もまた、伊豆諸島の多数寺院に残されてい、それら仏像写真を掲載。彼は江戸に帰る時は妻と四人の子供、妻の弟も連れ帰ったとか。また村田半兵衛(幇間)を夢枕獏が医師と記しており、ならば彼ら以上に貴重な人材として歓迎され、大活躍したと思われる。その意で流人は江戸の文化を伝える逸材とも言えようか。

hokusoou_1.jpg さて、「大江戸釣客伝」の主人公らが全員亡くなったところで、英一蝶のお墓、港区高輪の「承教寺」へ掃苔と参りましょうか。赤穂浪士のお墓が並ぶ「泉岳寺」崖下の道をまわり込んで「承教寺」の山門をくぐった。住宅が両脇に並ぶ道を経て中門、そして本堂へ。当時は相当に広大な寺院だったことが伺える。その本堂左前に英一蝶のお墓があった。

 墓表に「北窓翁(之墓)」。()内は判読不能。右側面に「享保九年甲辰正月十三日」の命日。裏面に、安政二年の江戸大地震(1855)で毀れ、明治六年の命日に再建した旨の説明が一蝶の孫・一蜻の名で彫られていた。左側面には辞世の歌「まきらハすうき世の業の色どりも有とかや月のうす墨の空」(はっきり読めなかったので、資料によった)が刻まれていた。(続く)


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