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年の瀬に暗殺碑見んすていしよん [新宿発ポタリング]

haraminamiguti_1.jpg 医者が「運動しましょうね」ってんで、ウォーキングか自転車乗りをほぼ毎日している。猪瀬直樹の『ペルソナ』に、東京駅での「原敬暗殺」の謎を探る章ありて、その暗殺地の☆印と碑を見んと自転車を駆った。

 大正10年11月4日午後7時25分。原敬首相、東京駅で暗殺さる。現行犯逮捕されたのは紺絣に鳥打帽の18歳、中西艮一(こんいち)。大塚駅の転轍手。短刀で胸を刺した。「政治に私利私欲を入れた。政友会の悪事を新聞報道で知り義憤を感じて犯行に至った」と供述。以下、『ペルソナ』の同章概略。

 政治絡みゆえ真相追及せず「背後関係なし」で無期懲役。三度の恩赦で、13年で出所。長文蓮著『原首相暗殺』(1973)が真相を探った。猪瀬が新資料追加でさらに迫った。原の日記に暗殺の危険を忠告した男が二人いて、その一人が三島由紀夫の祖父・定岡定太郎だった。

 彼はどこで情報を得たか? 大隈首相が戦争ビジネス「死の商人」の大倉喜八に満蒙独立運動推進の軍資金提供を頼んだ。大倉は満州・鴨緑江の森林伐採採取権をもつ鴨緑江採木公司を百万円(現在の百億円)で払い下げるならと条件を付け、大熊は同意した。

haraansatu2_1.jpg だが払い下げに至る前に大隈内閣が倒れた。次の寺内内閣は我関せず。「政友会」の原敬内閣になって十九回も足を運ぶが拒否。原らはすでに三井系・王子製紙と癒着済。原系官僚・定太郎の樺太長官時代に始まってい、王子製紙は樺太から満州へパルプ事業の手を伸ばしていた。大倉喜八がキレた。

 大倉には右翼系大物らがいて、「政友会」を憎む議員らもいた。定太郎は原系官僚ながら、右翼系との裏金工作もしていて双方の情報に通じていた。(三島由紀夫が終戦直前の出版統制厳しいなかで処女作『花ざかりの森』を出せたのは、祖父の製紙事業コネで用紙調達を約束。出版社もそのコネに乗った)。

hamaguti2_1.jpg そんな裏事情が秘められた暗殺現場は新東京駅「丸の内南口」の伽藍下(写真上)、改札口左の自動切符売り場左の壁面に碑が(写真中)、その下に暗殺地を印す小さな☆が埋め込まれていた。また改札を入って中央通路の東北・上越新幹線改札手前の柱には昭和5年11月14日の浜口首相暗殺の碑(写真下)あり。

 華やかな新東京駅だが、時代の暗部が息をひそめている。


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野坂昭如 『赫奕たる逆行』 [読書・言葉備忘録]

misimahon_1.jpg 猪瀬直樹『ペルソナ』の次は、野坂昭如の『赫奕たる逆行~私説・三島由紀夫』(文藝春秋、昭和62年刊)。「三島の少年時代とは似ても似つかぬ」ながら、共通項を挙げて自身を見つめ直している。

 ゆえに三島の文学、憂国への言及はなし。野坂の実父購入の家が新宿愛住町で、三島の生まれは四谷区永住町(現・四谷4丁目)で150mの至近。ともに終戦年に妹を亡くした。野坂の実父に愛人がいて、彼を産んだ母は数ヶ月で亡くなった。実母の妹が嫁ぐ「張満谷」家の養子へ。養父も養子だが「張満谷」の祖は、三島祖父の生家・兵庫県古川市と同じ。これまた6キロと至近。三島が徴兵試験を受けた本籍地でもあり。

 三島の祖父・父は官僚で、野坂の実父も官僚で新潟県副知事。三島家は三代ともに夫婦仲芳しくなく、野坂の実父、養父も同じようなもの。男は道楽者で、女は耐えた後に羽根を伸ばす。三島は祖母「なつ」のお婆さん子。野坂も養祖母「こと」のお婆さん子。祖母ともに同い年で、母・養母も同い年。

 野坂は21歳で雑誌社に履歴書を用意するも長蛇の列で、電柱のチラシのバーテン見習いで入った店が同性愛の溜まり場で、三島が客で来て、彼の煙草にマッチの火を差し出した。33歳の『エロ事師』を三島が評価し、英訳海外出版にも尽力したが、野坂が三島に語れるのはマスターベーションや春本のレベルで、三島は「ハハハッ」と高笑いするのみで、会話成り立たず。

 三島と自身の先祖調べがスリリングな展開だが、幕末・明治・大正・昭和へと辿れば誰の家にも成功した男、放蕩で財産を食い潰した男、奔放な女もいて、それぞれの家族歴史あり。三島・野坂に絡もうと思えば、永住町と愛住町は大木戸北側で、あたしは幼児の頃に新宿御苑の池に落ち、泣きつつ向かったのが大木戸の親戚の家で、あたしの父も母も養子で祖母の姉妹がそこに住んでいた~、と「似ても似つかぬ」共通項に絡んで行くこともできる。さらに云えば、女房の若い頃の友達がピアノ教師で野坂家に教えに行っていてと、絡むネタは他にもある。まぁ、そんな気持ちにさせる書だった。

 野坂は「中年御三家」「酔狂連」「焼跡闇市派」など徒党を組むのが好きだったが、今は病気療養中らしい。先日「中年御三家」の小沢昭一が亡くなった。あたしの年代は焼跡派でも団塊世代でも安保世代でもビートルズ世代でもなく、徒党を組むこともできぬ。


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老が身にはらはらはらや落葉風 [散歩日和]

icyou_1.jpg きのふ、銀杏並木を歩いてゐたら、微風にもかかわらず、一本の銀杏だけが「ハラハラハラ」と吹雪のやうに舞つてゐた。

 他の銀杏を見れば、既に枯木あり、黄色の葉を茂らせた木あり。「ははぁ~ん、銀杏つて奴は、一本づつ一気落葉の日ってぇのが決まつてゐるのかも知れぬ」と思つた。

 木はいい。春になれば生命を讃歌するかの瑞々しい葉を吹き出す。人は死んだら、おしめぇだ。

 テレビで知る著名人訃報に接すると、あゝ、俺より年下だ、年上だと思つてしまふ。60余年めぇには輝くやうな幼子だつたのだが・・・。


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北区の軍事遺跡(8)康子と三島と野坂と慎太郎 [新宿発ポタリング]

 tutamomiji1_1.jpg8月15日、終戦。三島由紀夫は終戦より『岬にての物語』執筆に夢中。康子は戦勝国となった台湾の「梁」に広島への切符を取ってもらって、原爆で即死の父の遺骨と、重症の母の看病に向った。献身の看護虚しく母も死去。東京に戻った康子は原爆二次被爆で昭和20年11月、19歳で逝った。

 野坂昭如は神戸空襲で養父と家を失い、妹も餓死。養母生家を訪ねて上京するも、ここで窃盗。多摩少年院収監2ヶ月。戸籍謄本にあった実父(新潟県副知事)の名を申告し、昭和22年12月に父の秘書に伴われて出所。「野坂」姓になった。17歳の彼を、35歳の美しい継母が迎えた。

 三島は終戦間際に刊の『花ざかりの森』が不評。東京帝大卒業を控えて高等文官試験の勉強に集中した。12月に大蔵省に入った。そんな折に長編小説の依頼。太宰治『人間失格』ベストセラーをヒントに、性的懺悔の私小説『仮面の告白』を執筆。

 野坂書には、こう書かれていた。 ・・・三島は役所から戻って徹夜の執筆。通勤駅で立ち眩んで線路に落ちた。泥まみれで自宅に着替えに戻る。思わず泣く姿を見た父は、それほど小説を書きたいのなら役所を辞めて「作家に専念してもよし」と、やっと認めた。

 かくして三島は大蔵省を9ヶ月で辞職。同性愛の話題性狙い『仮面の告白』から『愛の渇き』 『禁色』などで一躍人気作家に。それでも母を「お母ちゃま」で薄気味悪い。

 その後の野坂は、大学卒業の気も失せて雑誌社の求人に履歴書を用意するも長蛇の列。諦めて電柱のチラシ「バーテン見習い」に応募。入ったのがケリーの店「ブランズウィック」。同性愛の店で、三島が男装の女連れで来店。彼は三島の煙草にマッチの火を差し出した。

 長くなったのでこの辺で止める。『康子十九歳 戦禍の日記』は、康子の日記を中心に関係者への取材を交えた構成で、戦争の無残さを訴えていた。比して自衛隊員に憲法改憲を訴えて自決した三島由紀夫の、ボディビルの肉体と憂国を否定した石原慎太郎が今、暴走老人となって「一緒に改憲しようぜ」と呼びかける先が、佐藤栄作の孫、岸信介の外孫・安部晋三で、彼は自衛隊を軍隊にと目論んでいる。そんな「自民党」が予想では単独過半数とか。気にくわねぇ衆院選だな。

 あたしの父は康子と同じ十条の造兵所で働いていた。康子らが造兵廠で働いていた時分に、あたしは同廠より徒歩30分ほどの北区寄り板橋区で生まれた。あたしはどちらかと云えば「小沢昭一的」とでも云うか、「お上」がでぇ~嫌い。庶民の意地を通したいクチだ。 写真は造兵廠近くで撮った蔦紅葉。散る間際の美しさよ。(このシリーズ終わり)

※参考は『康子十九歳 戦禍の日記』に加え『ペルソナ』、『赫奕たる逆光・私説三島由紀夫』、『三島由紀夫の日蝕』など。


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北区の軍事遺跡(7)康子と三島由紀夫と [新宿発ポタリング]

kitakurenga_1.jpg 『康子十九歳 戦禍の日記』を横に置き、同世代・三島由紀夫の同時期を探ってみる。彼は昭和20年2月、勤労動員の群馬県太田市の中島飛行機製造所(ひ弱ゆえ事務方)から渋谷の自宅に戻った時に召集令状を受け取った。

 父・梓に付き添われて、本籍地の兵庫県印南郡志方町で徴兵検査を受けた。農村若者らが砂十貫の米俵を軽々と持ち上げる。『仮面の告白』で「胸まで持ち上げられず」と書くも、目撃者はビクとも動かせなかったと証言。加えて風邪気味。「肺浸潤」と誤診されて「第二乙種」不合格をもらって父と三島は逃げるように駅に走った。(猪瀬直樹『ペルソナ』より)。

 父・梓による、ひ弱さ強調で兵役罷免を狙った郷里での徴兵検査と思われているが、野坂昭如の『赫奕(かくやく)たる逆光~私設・三島由紀夫』では、こう書かれていた。・・・(それは)梓の徴兵忌避の配慮とは受けとりがたい。すでに『花ざかりの森』が上梓され、倅の文章志向、貴族趣味はあらわであった。それは「なつ」(祖母)により培われたことは明らか。三島に嫉妬めいた気持をいだき「俺やお前が血をひく祖父の生地はここなのだ」と確認させるため。その王朝風作品は所詮、付焼刃だと悟らせる悪意。下心がうかがえる。さて、真実は・・・。

 昭和20年3月10日、東京大空襲。下町を中心に10万人焼死。永井荷風の麻布・偏奇館も9日の空襲で炎上。三島は9日に、学習院高等科の先輩「草野」(仮名)の前橋・陸軍予備士官学校面会日に、草野の母、妹・園子に同行。翌日の帰りに大宮駅で東京から逃げてくる罹災者の群れと遭遇。三島は腕に怯えしがみつく園子に恋心を抱く。

 4月に帝大法学部の講義が始まるも5月に閉鎖。今度は神奈川県の海軍工廠で図書係と穴掘りに従事。5月24.25日に再び東京空襲。渋谷一帯も焼けるが、大山町(現・松濤)三島家周辺だけ焼け残って家族全員無事。 東京第一陸軍造兵廠に勤労動員されていた中大予科生は精工舎に動員替えで、康子らは動員解除で新潟に集団疎開。

 一方、三島より5歳下の野坂昭如は悲惨だった。14歳で昭和20年6月5日の神戸大空襲で家と養父を失った。「二番目の妹は疎開というより、生命からがら落ちのびた福井県の、戦争のほとんどかげのささぬ、静かな村で餓死した。」

 8月6日の広島原爆投下。広島市長として赴任していた康子の父は即死し、母重体・・・。(続く)

 ※写真は現・十条中学と十条駅手前線路との境界に保存の造兵廠赤煉瓦。煉瓦は葛飾の金町煉瓦製造所製。


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北区の軍事遺跡(6)『康子十九歳戦禍の日記』 [新宿発ポタリング]

 『康子十九歳 戦禍の日記』(文藝春秋、2009年刊)は、北区中央図書館の建設現場から書き出されている。~工事現場には、不似合いな古めかしい赤煉瓦建物がポツンと建っている。正確にいえば、その赤煉瓦の建物の外壁だけが、取り壊されることなくそのまま残されて(中略)。その中に近代的な図書館を建てようとしているのである。(中略)。(このかつての造兵廠は)巨大な兵器工場としてフル稼働し、工員だけでは清算が追いつかず、昭和十九年からは勤労動員によって、多くの学生たちがこの仕事に従事した。

 同書は「東京第一陸軍造兵廠」に勤労動員された東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)付属高等女学校専攻科三年在席中の粟屋康子(十九歳、常に首席)の、当時の日記を中心に構成されたノンフィクション。康子の配属先は同造兵廠の第三製造所・第四区隊。康子と同級・増枝がコンビを組むのは、中央大予科の高木(後に三菱地所社長~会長)、長瀬(空手部)、梁(台湾からの留学生)ら。彼らは黄銅を旋盤でまわして砲弾の信管を作り、彼女らはその信管を検査し、油で洗浄する仕事。

 康子の自宅は目黒区下馬。東京急行東横線「第一師範駅」(現・学芸大学駅)から十条駅に通った。父は大阪府警察部長から大分県知事を経て昭和18年に広島市長の粟屋仙吉。すでに長姉は嫁いでい、目黒区の小学校在席の二人の兄は甲府近郊へ、世田谷区の小学校に通う妹は松本に集団疎開。一家はバラバラになった。

 康子は少尉に憧れ、梁は康子に恋した。昭和20年2月、少尉は十条駅で「万歳」の声に送られて戦地へ。特攻志願の梁は康子に髪の毛を求めた。中大予科生にも次々に赤紙が来る。一浪して年長の藤江英輔が召集令状を配る係。彼は島崎藤村『若菜集』より「高楼」の詩・・・「かなしむなかれ わが<あね>よ/たびのころもを ととのへよ」を、「わが<とも>よ」に変えて作曲。戦地へ赴く友を送る歌になった。造兵廠体験を有する女高師生らが、後に全国の先生となって同歌を普及。昭和20年代後半に中央大の合唱団が録音。昭和36年に小林旭『惜別の歌』として大ヒット。

 話は時代を戻る。ここで同書にはない同世代・三島由紀夫の同時期を挿入してみる。三島は昭和19年11月に処女作『花ざかりの森』を出版。敬愛する詩人・伊藤静雄に序文を乞うも「背伸びした無理な文章」「俗人」と一瞥もされず。出版統制厳しいなか、祖父のコネを使っての強引な出版。昭和20年2月、そんな三島にも赤紙、召集令礼状が来た。(続く)


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北区の軍事遺跡(5)~市ヶ谷自衛隊を思ふ [新宿発ポタリング]

 北区の「東京第一陸軍造兵廠本部」(現・北区文化センター)の建物は、かつての自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛庁)一号館に似ている。造兵所の赤煉瓦を保存した北区中央図書館に蔵書・絵画を寄贈した怒鳴門鬼韻(ドナルド・キーン)さん。併せて三島由紀夫が浮かんでくる。

boueisyo_1.jpg かくして関心は自衛隊市ヶ谷駐屯地へ飛ぶ。昭和12年に「陸軍士官学校本部」として建てられ、戦後に米軍が接収。「極東国際軍事裁判」法廷になり、昭和27年4月に日比谷・第一生命からGHQが移転してきて、米軍将校宿舎やアメリカン・スクールになったりして(未確認)、昭和34年に返還。以後陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地になり、昭和45年11月25日に三島由紀夫が乱入・割腹。

 (その18年後、小生は市ヶ谷左内坂を登り切ったマンション4階に事務所を持って、窓西側に広がる市ヶ谷駐屯地を見ながら仕事をしていた時期がある。なお、あの一号館は平成12年に防衛庁が移転してきた際に、玄関・講堂のみ保存で西に位置を移して「市ヶ谷記念館」になっているとか。この記のカテゴリーは「新宿発ポタリング」ゆえ、馬場の新宿中央図書館から市ヶ谷まで走った。写真上は防衛庁。写真下は防衛庁裏側の昔と変わらぬ「自衛隊東京地方協力本部」出入り口と小生が事務所にしていたマンション)

sanaizaka_1_1.jpg あの日、三島由紀夫は玄関上(バルコニー?)から自衛隊員に向かって、・・・諸君が武士ならば軍隊であることを否定し、自分を否定する「憲法」をどうして変えようとせぬか。政治は矛盾の糊塗、自己保身、権力欲、偽善に満ち、日本人の魂は腐敗、道義は頽廃している。われわれの愛する歴史と伝統の国・日本を甦すべく真の武士として立ち上がれ・・・という趣旨の檄文を叫んで割腹した。

 三島の憲法論は別にして、今は彼が憂いたより政治はさらに「矛盾の糊塗、自己保全、権力欲、偽善に満ち」、「日本人の魂は腐敗し、道義は頽廃」している。加えて云えば三島家がそうだった官僚らの保身・欲の暗躍も醜い。三島が逝って40余年、その醜態を晒すかの選挙運動が展開中。三島由紀夫評伝『ペルソナ』を書いた某が都知事選に出て、『三島由紀夫の日蝕』を書いた某が衆議院選挙に立候補。

 過日、飯島耕一『永井荷風論』備忘録で、・・・三島が荷風を「醜態」と言い、三島の死もまた「醜態」と記した飯島の文をひいたばかり。三島の祖母・夏子は永井家で、確か荷風と遠い親戚ではなかったか。45歳で逝った三島由紀夫の面長の顔を79歳に老けさせたら永井荷風の顔になった。(猪瀬直樹は『ペルソナ』のなかで三島5歳の顔は、祖父定太郎と母倭文重から引き継いだ顔と記しているが・・・)。

 再び『永井荷風論』最後の六行目をひく。・・・結論はない。荷風のむざんな死骸も、三島のむざんな死骸もまだ片づけるわけには行かないのである。われわれはいまなお彼らの死臭を嗅ぎながら、核時代のニヒリズムの進んだ現在、「生きる」というのではなく、宙吊りに「たまたま生かされている」気分の中で、黒とも白ともつかぬ時代の灰色の霧の中をさまよっている心地がする。 30年前の記述だが、霧は晴れず深さを増している。「東京砲兵工廠銃砲製造所275棟」の赤煉瓦外壁を残しつつ平成20年(2008)に北区中央図書館が完成。 


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北区の軍事遺跡(4)北区と新宿区図書館 [新宿発ポタリング]

 小樽の煉瓦倉庫を改造した巨大カフェのような素敵な北区中央図書館。制服姿の女性スタッフ。羨ましくなって越境「利用者カード」を作った。家に戻って北区図書館の「Web OPAC」(Online Public Access Catalog=図書館のネット検索できる蔵書目録。オパック)で、陸軍造兵廠関連本を探したが、それほどのヒットなし。「なぁ~んだ、素敵なのは格好だけか」。

sinjyukutosyo3_1.jpg 試みにキーワード「幸田露伴」で検索。北区は51件で、新宿図書館では170件がヒットした(その画面が左写真)。新宿では同キーワードで『露伴全集』も『露伴随筆』もヒットするが、北区は「露伴全集」と打ち込まなければ『露伴全集』は出て来ぬ。OPACのシステム、見易さも未熟。なお『露伴随筆』は北区ゼロで、新宿では全五冊蔵書。

 これで評価するは早計と、過日のテレビで観た「井上安治」を検索してみた。これまた北区ゼロ。新宿では「色刷り明治東京名所」を2館が蔵書。さっそく借りたが北区中央図書館最寄りの「滝野川紅葉」(紅葉寺こと金剛寺の紅葉行楽を描いた絵)があった。明治初期の石神井川(この辺りから滝野川と名を変える)の閑寂華麗な秋の風情なり。新宿図書館の蔵書充実なり。

 だが如何せん新宿中央図書館は老朽化甚だしく、近々(来年五月)に廃校の旧戸山中学校へ移転とか。それもボロ舎なり。同地に「新中央図書館」建築(スケジュール未定)までの仮舎とか。果たしてあたしが生きているうちに、新しくお洒落な施設・内容になるや。

 なお北区中央図書館に蔵書と絵画を寄贈のドナルド・キーンさんだが、目下「東京新聞」で月一回「ドナルド・キーンの東京下町日記」連載中。12月2日はタイトル「三島への戯れ 癒えぬ痛みに」。三島由紀夫との交流を述懐し、こう結んでいた。・・・三島はある時から手紙に「怒鳴門鬼韻様」と当て字で書いてきた。そこで、私は仕返しに「魅死魔幽鬼夫様」と書いた。三島が自決した翌日消印の航空便をニューヨークで受け取った。「小生たうたう名前どおり魅死魔幽鬼夫になりました」と書かれていた。

 北区中央図書館近くに、三島が割腹した市ヶ谷・陸軍自衛隊駐屯地一号館によく似た「東京第一陸軍造兵廠本部」(現・北区文化センター)が遺されている。怒鳴門鬼韻さんは、この建物を観てどう思っただろうか・・・。(続く)


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北区の軍事遺跡(3)赤レンガ図書館 [新宿発ポタリング]

kitakutosyokan1_1.jpg 石神井川「紅葉橋」の辺りは、室町・鎌倉から江戸・・・ずっと深山幽谷の趣だった。同橋を渡ると、その先が十条台。かつてここに12万坪の「東京第一陸軍造兵廠」が広がっていた。今は「北区中央公園」「都営住宅」「自衛隊十条駐屯地」「東京成徳短大」他多数学校になっている。周辺には造兵廠の建物名残りの赤レンガが軍事遺跡として散在。

 前回ポタリングは「造兵廠本部」(北区文化センター)だったので、陸上自衛隊十条駐屯地沿いの「北区中央図書館」に入ってみた。大正8年築の赤レンガ「旧・東京砲兵工廠銃砲製造所275棟」の外壁を残し、抱き込むような設計で4年前の平成20年(2008)に図書館が完成。

 まぁ、小樽の赤レンガ倉庫改築の巨大カフェかのよう。吹き抜けのように屋根が高く、制服姿の女性図書館スタッフが歩き回っている。あたしは新宿中央図書館(高田馬場)を含む新宿区内の全九館を自転車で巡りまわって本を借りるのが常だが、中央図書館をはじめ区内図書館は概ね古い建物で、私服のオバさんオジさんらがカウンターに座っている。それらに比し、図書館の概念を変えるかの斬新さ。「カフェ」併設で、オープンエアのテラス、広々とした芝生公園もある。緑地を眺めつつの閲覧コーナーも素敵だ。

 こんな所で本に親しめたらどんなに素晴らしいか。通うは無理と承知ながら「越境利用者カード」を作ってしまった。図書館内の一画に「ドナルド・キーン・コレクションコーナー」が準備中。氏は北区西ヶ原に永年在住で、600冊の蔵書と絵画6点を寄贈とか。

 お洒落な図書館やドナルド・キーン寄贈本。北区は文化的に充実していていいなぁ~と思った。家に戻って「WebOPAC」を検索したら、なんだ!羨ましがるほどではないとわかった。(続く)


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北区の軍事遺跡(2)室町・江戸の紅葉寺 [新宿発ポタリング]

 syakujiigawa1_1.jpg先日、十条台まで走って「東京第一陸軍造兵廠本部」(現・北区文化センター)が遺っていたのに驚いた。父が戦地に行かず「造兵廠」勤めゆえ特別の思いもあった。より周辺を知るべく、再び新宿から十条へペタルをこいだ。今度は「NAVITIME」の「自転車ルート検索」によった。明治通りで池袋を経て、白山通りを越えた先で左折。同造兵廠跡の手前「紅葉橋」へ。

 橋際に「紅葉寺こと金剛寺」あり。源頼朝が安房(あわ)に逃れて上総(かずさ)・下総(しもうさ)の諸将を味方につけて鎌倉を目指す途中、滝野川の「松橋」に陣をとった。「松橋」は金剛寺の寺域地名か、橋の名か。当時のこの辺の石神井川は蛇行して深山幽谷の趣。頼朝は崖下の洞窟の弁財天に太刀を奉納したとか。後、同地に滝野川城が築かれた。

 「紅葉寺」際に石神井川。「江戸名所図会・松橋弁財天窟」の絵(写真)が添えられた案内板あり。それによると江戸っ子が夏に滝で涼み、秋に紅葉を楽しんだ地とあった。昭和五十年(1975)の護岸工事まで弁財天の岩屋が残っていたというから、平安時代からの岩屋をコンクリートで埋めたってことだ。何とも惜しい。かろうじて当時の面影を忍ぶかの川を引き込んだ小池(写真)が出来ていて、オナガガモやキンクロハジロの群れが泳いでいた。

momijibasi1_1.jpg そんな長閑な石神井川を越えて数百㍍先からの一帯が、日露戦争から太平洋戦争にかけて12万坪の巨大な造兵廠が作られた。小銃弾、弾薬、高射砲用双眼鏡、モールス無線機器などを製造。父は通信兵だったから、通信兵器部門で働いていたのか。

 当時の地図を広げると、赤羽辺りに「近衛工兵第一連隊の兵舎」「陸軍被服廠」「赤羽火薬庫」など、王子駅から隅田川までが「東京第二陸軍造兵廠」(二廠)、そしてここは「東京第一陸軍造兵廠」。さらに十条隣接の板橋(加賀藩下屋敷)に「東京第二陸軍造兵廠」の本部と火薬庫など、巨大な軍事施設が広がっていた。

 あぁ、小一時間のポタリングで、あたしは平安・鎌倉時代から江戸時代、さらに日露戦争から太平洋戦争まで一気に巡り抜けたことになる。オナガガモとしばし遊んだ後、造兵廠跡に向ってぺダルをこいだ。(続く)。

(参考:「写真と地図で読む!知られざる軍都東京」(洋泉社MOOK)、飯田則夫「TOKYO軍事遺跡})


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