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北区の軍事遺跡(2)室町・江戸の紅葉寺 [新宿発ポタリング]

 syakujiigawa1_1.jpg先日、十条台まで走って「東京第一陸軍造兵廠本部」(現・北区文化センター)が遺っていたのに驚いた。父が戦地に行かず「造兵廠」勤めゆえ特別の思いもあった。より周辺を知るべく、再び新宿から十条へペタルをこいだ。今度は「NAVITIME」の「自転車ルート検索」によった。明治通りで池袋を経て、白山通りを越えた先で左折。同造兵廠跡の手前「紅葉橋」へ。

 橋際に「紅葉寺こと金剛寺」あり。源頼朝が安房(あわ)に逃れて上総(かずさ)・下総(しもうさ)の諸将を味方につけて鎌倉を目指す途中、滝野川の「松橋」に陣をとった。「松橋」は金剛寺の寺域地名か、橋の名か。当時のこの辺の石神井川は蛇行して深山幽谷の趣。頼朝は崖下の洞窟の弁財天に太刀を奉納したとか。後、同地に滝野川城が築かれた。

 「紅葉寺」際に石神井川。「江戸名所図会・松橋弁財天窟」の絵(写真)が添えられた案内板あり。それによると江戸っ子が夏に滝で涼み、秋に紅葉を楽しんだ地とあった。昭和五十年(1975)の護岸工事まで弁財天の岩屋が残っていたというから、平安時代からの岩屋をコンクリートで埋めたってことだ。何とも惜しい。かろうじて当時の面影を忍ぶかの川を引き込んだ小池(写真)が出来ていて、オナガガモやキンクロハジロの群れが泳いでいた。

momijibasi1_1.jpg そんな長閑な石神井川を越えて数百㍍先からの一帯が、日露戦争から太平洋戦争にかけて12万坪の巨大な造兵廠が作られた。小銃弾、弾薬、高射砲用双眼鏡、モールス無線機器などを製造。父は通信兵だったから、通信兵器部門で働いていたのか。

 当時の地図を広げると、赤羽辺りに「近衛工兵第一連隊の兵舎」「陸軍被服廠」「赤羽火薬庫」など、王子駅から隅田川までが「東京第二陸軍造兵廠」(二廠)、そしてここは「東京第一陸軍造兵廠」。さらに十条隣接の板橋(加賀藩下屋敷)に「東京第二陸軍造兵廠」の本部と火薬庫など、巨大な軍事施設が広がっていた。

 あぁ、小一時間のポタリングで、あたしは平安・鎌倉時代から江戸時代、さらに日露戦争から太平洋戦争まで一気に巡り抜けたことになる。オナガガモとしばし遊んだ後、造兵廠跡に向ってぺダルをこいだ。(続く)。

(参考:「写真と地図で読む!知られざる軍都東京」(洋泉社MOOK)、飯田則夫「TOKYO軍事遺跡})


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