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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(9)GHQと忠臣蔵 [『ミカドの肖像』]

syono1_1.jpg 大逆事件については、すでに「佐藤春夫関連」や「読書備忘録」で記した。ここでは猪瀬直樹『ミカドの肖像』をもおっ放って、自前<日本の喜歌劇『ミカド』>を記す。調べるたって、小一時間ほど。隠居の早起き“朝飯前”の遊び。

 庄野潤三『サヴォイ・オペラ』の「あとがき」に、・・・(『ミカド』は有名な作品だが)日本では戦前に上演されなかった。また、昔は日本の皇族が英国を訪問している間は、一切上演はまかりならぬという習慣があり、どんなに反対の声が上ろうがイギリス政府は態度を変えなかったといわれる。戦後、長門美保歌劇団がこれを取り上げ、十八番の演目として連続上演していたから、ご覧になった方もいるかもしれない。

 「ゲゲッ」。長門美保といえば『愛馬進軍歌』や『出征兵士を送る歌』など大政翼賛会系大ヒット歌手。その彼女がなぜ『ミカド』を? それは何処で?

syonimikado1_1.jpg 次はネット調べ。大澤吉博著『言語のあいだを読む:日・英・韓の比較文学』(思文閣出版、2010年刊、定価9450円)の336頁、<我見と離見~杉村楚人冠の英国旅行記と「ミカド」>の章がヒットした。なんと、長門美保歌劇団の『ミカド』上演はGHQ、歌舞伎上演の許可がらみとあった。

 ・・・戦後、松竹(株)が『忠臣蔵』を上演したかったがGHQが禁止していた。徐々に歌舞伎への理解が得られて、ならば『ミカド』と抱き合わせなら『忠臣蔵』を上演してもいいと許可した。そこで松竹(株)は長門美保歌劇研究所に『ミカド』上演を依頼。昭和22年6月、東京劇場での上演は著作権の問題から舞台稽古という形で米軍夫人たちが目にしただけで、昭和23年1月29日の日比谷公会堂公演も、進駐軍の兵士及びその夫人に見せるためのものだった。

 筆者は続いて、・・・タブーとされていた『ミカド』だが、その内容は国辱的なものではなく、当時の英国への風刺だと内容を説明。また「東京劇場」初演五ヶ月後には、念願の『仮名手忠臣蔵』通し上演が許可されたと記していた。

 「東京劇場」(東劇)は、築地は万世橋際。歌舞伎座が東京大空襲で焼失し、1951年(昭和26年)の再建まで東劇が歌舞伎の拠点になっていた。一方、有楽町駅前「東京宝塚劇場」でも『ミカド』上演の記述がヒット。こっちはなんと、トニー谷がココ役で出演とあり、腰が抜けるほど驚いたでざんす。

 ※写真は庄野潤三著『サヴォイ・オペラ』。開いた頁左上に・・・癇癪持ちだが根は人情家のギルバート(左)と恋愛はするが一生結婚しなかったサリヴァン・・・の似顔絵が掲載されていた。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(8)宮さん宮さん [『ミカドの肖像』]

m_arisunomiya_1[1].jpg 昨年12月20日頃から、弊ブログ記事「宮さん宮さんお馬の前に~」にポツリポツリと閲覧記録がでた。自分で言っちゃナンだが、小生ブログを、しかもそんな記事をば誰も見ん。

 それは一昨年秋「幕末もの」読書中のこと。薩長兵らが東征にトンヤレ節で気勢上げつつの行進。馬上にいたは、和宮を取られて徳川に憎悪たぎらす東征大総監・有栖川宮熾仁(たるひと)親王。その宮さんの騎馬銅像を有栖川公園で撮っての(写真)記事だった。

 誰も見向きせん記事を閲覧とは、「憂き世」に何かがあったらしい。それは新都知事が就任記者会見で質問者に横柄な口ききで逆質<『ミカドの肖像』を読んだか。オーケー>とやった頃からに符合する。

 英国の「喜歌劇ミカド」は脚本:ギルバート/作曲:サリヴァン/サヴォイ劇場:ドイリー・カートによって、1885年に初演。578回を超えるロングラン。序曲は日本衣装の群像が日本語で歌う「宮さん宮さん~」。

 庄野潤三『サヴォイ・オペラ』(河出書房新社、昭和61年刊)に脚本家、作曲家、劇場主のプロフィール、時代背景、出逢い、各作品が詳細紹介。猪瀬直樹は1982年版のLD『ミカド』を入手と記すが、あたしは新宿図書館で1973年レコーディング、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団のロンドンレコード『サリヴァン喜歌劇「ミカド」全曲』(二枚組LP)を借りた。保柳健によるライナーノーツが、アーティスト紹介、「ミカド」あらすじ、全曲対訳で詳細解説していた。

 さて、ミカド=処刑イメージはどこから来たか。同喜歌劇初演は1885年(明治18年)。薩長兵らの東征行進曲『宮さん宮さん』は1868年。江戸城は西郷・海舟によって無血開城。その半年後に明治天皇が江戸へ。御旗をもって幕府勢は「朝敵・賊軍」となり上野戦争(彰義隊)、東北戦争(白虎隊)、函館戦争(五稜郭)他で多くの血が流された。だが、この戊辰戦争が「ミカド」イメージになって英国に届いたとは思えぬ。

 「ミカド」の怖さと言えば、やはり「大逆事件」だろう。1882年(明治15年)に刑法「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」が施行。1910・11年(明治43・44年)の「大逆事件」(幸徳事件)で多数の社会主義者、無政府主義者が逮捕・検挙され12名が処刑、12名が無期刑で多く方が獄死した。

 都庁眼下の西新宿・正春寺に「管野スガここにねむる」の慰霊碑あり。同じく新宿は余丁町に「東京監獄 刑死者慰霊塔」がひっそり建っている。しかし「大逆事件」が喜歌劇「ミカド」にヒントになるには、年代が合わぬ。

 『ミカドの肖像』は「大逆事件」に言及せぬまま、相変わらず焦点定まらぬ記述を延々続けるゆえ、この辺を自分なりに考えてみることにした。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(7)論理破綻 [『ミカドの肖像』]

mikado1_1.jpg 第Ⅱ部は「歌劇ミカドをめぐる旅」。まずは第六章「ミシガン州ミカド町へ」。著者は同地を訪ねて町名由来を探る。・・・汽車開通で駅名を申請。似た名が他にあり、当局担当者の頭にあった「オペレッタ・ミカド」から「ミカドにしたら」。バッカみたい。

 第七章「ミカドゲームと残酷日本」。著者はミカドゲーム前身が、金属製ゲーム「ジャックスロート」と推測。英和辞書サイトに「プレーヤーが、ジャックスロートの山から、他を動かすことなく、それぞれのジャックスロートを取っていくゲーム」の例文あり。

 「ジャック・スロート」は英国1381年の農民一揆の首謀者ワット・タイラーの仲間のひとり。彼らは貴族の首を刎ね、裕福な商人の倉庫を略奪。そこからゲーム名になったと解く。金属製が「竹ひご」になって大普及。その際に「竹ひご=日本」、「ワット・タイラーの乱=首を刎ねる=日本の天皇」でゲーム名が「ミカド」に。その「ミカド」は喜歌劇サヴァイ・オペラ「ミカド」からと推測を重ねる。

 第八章「西洋人の日本観と歌劇ミカド」。ここでは「ミカド」は恐怖イメージからではなく「ジャポニスム」の影響と記す。

 「あれは何だ」と探れば、どうってこたぁねぇ。「あれは山か」と推測して山の記述を延々と続け、「いや、川かもしれない」。今度は川調べ。「捨象されることのない記述」に加え、論理・推測の破綻も構わずの紆余曲折を延々と書き連ね、いたずらに長編に仕上げている感が否めぬ。

 あたしは改めて論理とは、「演繹法・帰納法」とは、を考えてしまった。いまは佐野眞一『巨怪伝』読書中だが、例えば50頁に正力松太郎をめぐる30名の男が登場で、彼らの人柄、時代背景、出逢いの意味などが小気味よくまとめられてスリリングに展開していく。「捨象」することは「知力」に通じる。なんだか鼻が詰まっているような『ミカドの肖像』とは雲泥の差だなぁと思った。

 ちなみに『巨怪伝』を検索してみれば「松岡正剛の千夜千冊」がヒット。同書は「主張、構成、調査、表現力、説得力、訴求力、歴史観、分量、資料性など、どこをとっても申し分なかった」との書き出しで、これ以上ない書評は、こう〆られていた。「ぼくなら(『旅する巨人』に大宅荘一賞が贈られたけれども)『巨怪伝』にあげていた」。その授賞を妨害した人物がいるとの流布あり。それが誰かはおいておき、上記各要素ともに不十分が、『ミカドの肖像』と言えようか。

 写真は図書館で借りた1973年レコーディング、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団のロンドンレコード『サリヴァン 喜歌劇「ミカド」全曲』(二枚組LP)。庄野潤三著『サヴォイ・オペラ』にも、このジャケ写の舞台写真が掲載されていた。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(6)本田靖春 [『ミカドの肖像』]

honda_1.jpg 第Ⅱ部に入る前に、(1)で記した佐高信引用の、本田靖春の遺著『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社、2005年刊)を読んだので、同書の猪瀬批判をひいておく。氏は読売新聞社会部記者で、正力松太郎の「新聞は読売グループ諸事業の宣伝媒体」的考えに反対して辞職。以後、フリーのルポライターへ。(もう死語か)。

 第一部は「由緒正しい貧乏人」に「おんぼろアパートが終の棲家」の章あり。そして終盤に再び記している。「自分はアパート暮しで生涯を過ごそうと決めた」が、「全共闘世代は汚濁の世をすいすい泳ぐのが上手だ」。続けて余談と記し、猪瀬直樹について書いていた。

 「いまを時めく猪瀬直樹氏がフリー仲間の佐野眞一氏と連れ立って、拙宅にやって来たことがある」。面識ない無名の二人が、原稿料値上げ運動を起こしたいが、若手だけでは心細いゆえ、「この私に一枚噛んでくれ、というものであった」。

 やはり猪瀬、佐野はむかし盟友だった。それが、いつから、どうして仲違いしたのだろう。本田氏記述は続く。「本田が猪瀬の師匠だ、と一部でいわれたことがあったが、その事実はない。だいたい、生き方のまるで違う彼が、(生涯アパート暮しの)私に学ぶことなんてありはしないではないか」。

 「猪瀬氏は西麻布に事務所ビル(地下一階、地上三階)を所有し、郊外に持家を構えている」に続き、「猪瀬氏は勉強家だし、仕事熱心だし、世渡りも上手だと思うのだが、なぜか、人に好かれない。それは、単に、威張り過ぎるから、といったような表面的理由だけによるものではなさそうである」。※上記二か所の()はあたし。

 絶筆「拗ね者の誇り」の章に、「私には世俗的な成功より、内なる言論の自由を守り切ることの方が重要であった。でも、私は気の弱い人間である。いささかでも強くなるために、このとき自分に課した禁止事項がある。それは、欲を持つな、ということであった。欲の第一に挙げられるのが、金銭欲であろう、それに次ぐのが出世欲ということになろうか、それと背中合わせに名誉欲というものがある」。

 それが誰を指しているかは記さぬも充分に頷けよう。「それらの欲を持つとき、人間はおかしくなる」で結ばれていた。平成16年、享年71。天国の本田さんに、猪瀬直樹が東京都知事になったのを教えていけない。

 昨夜、風呂に佐野眞一『巨怪伝』(正力松太郎と影武者たちの一世紀)を持って入ったら、かかぁが「あんた、生きてるぅ」。夢中で読んで時を忘れていた。比して『ミカドの肖像』の頁をひらけば眠くなる。差は歴然。これで「大宅荘一ノンフィクション賞」とか。もう同賞受賞作は読むまい。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(5)メジロの来る庭 [『ミカドの肖像』]

meji1_1.jpg 『ミカドの肖像』第Ⅰ部は、昭和天皇のゴルフから第四章「避暑地軽井沢と八瀬童子」、第五章「修羅としての大衆」で終わる。

 かつて阿久悠は・・・♪上野発 夜行列車/おりた時から/青森駅は 雪の中~ で「僕はたった22字で、上野から津軽海峡の冬景色まで誘った」と自慢していた。『ミカドの肖像』は捨象されることなくダラダラと長い記述が続く。時に論理(推測)が破綻するも、お構いなしに次の事象へ移って行く。(笑い)。

 第四章・・・村が時代に乗れるか否かはリーダー次第。東長倉村は軽井沢村に変え、堤康次郎と組んで避暑地、レジャー地へ発展した。比して天皇の棺を担ぐ京都八瀬村の八瀬童子は、天皇が京都を去った後も明治天皇、大正天皇崩御に棺を担ぐことを執着し、同村は西武の「宝ヶ池プリンスホテル」に呑み込まれた。

 第五章・・・再び堤康次郎の軽井沢開発の逸話に戻って、「まずは土地」の信条から、プリンスの名を冠した諸事業が、皇太子・美智子妃のテニス、そしてゴルフブームなどと相乗的に発展し、西武は大衆消費、レジャー時代の帝王になった。著者は何を言いたかったのか。約6千字を、250字でまとめた。飽きてきたので、余談・・・

mejirocup2_1.jpg 余談1) 第Ⅱ部「歌劇ミカドをめぐる旅」に併読すべく庄野潤三『サヴォイ・オペラ』を入手。するってぇと同氏著に『メジロの来る庭』あり。実は大久保の我が家(7階)ベランダに、今年もメジロが来た。一昨年が1月18日から、去年が2月7日、今年は1月10日。気象状況も毎年違う。かつ昨今はメジロが殖えているようにも思われる。本を読みつつ、ベランダに集うメジロを愉しむ毎日で御座候。(追記:メジロは例年、東京マラソンの頃、新宿御苑の梅が咲き、寒桜が咲くころに来なくなる。)

 余談2) 昭和天皇の新宿御苑ゴルフコースを記したので、御苑がらみ・・・。長く工事中だった新宿御苑の温室が完成した。大期待していたが外観・室内共にすっきりモダンで、なんとも味気ない。例えば今までの温室は「ドン.キホーテ」みたいに溢れるほどの商品(植物)を迷路廻りで探し見るかの楽しみがあった。今はスッと通り過ぎるだけ。新しくなって、つまらなくなるものも多い。新しくなった都政、国政ともに観察を怠ってはいけない。

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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(4)新宿御苑9ホール [『ミカドの肖像』]

gyoengolf2_1.jpg 以下、田代靖尚著『昭和天皇のゴルフ』備忘メモ。

 昭和天皇が初めてクラブを握ったのは大正6年。場所は高輪の東宮仮御所。頑強とは言えぬゆえ心身鍛錬として勧められた。(当ブログ「戸山ヶ原伝説」登場の「戸山アパッチゴルファー」の鳥羽老人も健康のために明治末よりゴルフを開始。これまたゴルフ史の貴重な一コマ。)

 日本最初のコースは明治36年に六甲に造られた「神戸ゴルフ倶楽部」。(小生、縁あって今は亡き夏坂健さん、児玉清さんとまわった)。関東最初のコースは大正3年開場の現・駒沢オリンピック公園の「東京ゴルフ倶楽部」。

 昭和天皇の初ラウンドは「箱根仙石原コース」で、同年に沼津御用邸近く、田子の浦に砂浜リンクスを造って練習。大正10年に外遊。パリ郊外のコースでプレイ。帰国後の大正11年に新宿御苑に皇室専用の9ホール(1736ヤード、パー32)が完成。田代著には新宿御苑のガイドマップ上に当時のコースが書き込まれていたので、あたしも真似をした。(写真) 追記★2013年5月29日の東京新聞「東京トリビア」では、上記ホールとは別の、新宿門まで伸びる9ホールが紹介されていた。皇室自前の庭なら好きなように変更できようゆえ、さまざまとコース・アレンジされたと推測してもよさそうです。

 同年、英国エドワード皇太子がお召艦「レナウン」、供奉艦「ダーバン」で来日。駒沢ゴルフ倶楽部で日英皇太子が「フォーボール・ベスト」を楽しまれた。裕仁皇太子の第1打はトップでチョロ、は余りに有名。猪瀬直樹『ミカドの肖像』には、裕仁皇太子組に高木秀寛が、英国皇太子組に西園寺公一が(キャディに)付いた、との記述があるが、おやおや、他の二人は自分でバッグを持ったのか。そりゃ、間違いだろう。

 「フォアボール」は4名プレイゆえキャディは4名。裕仁皇太子に高木秀寛が、大谷光明に西園寺公一が付き、英国側には英国随行員の二人が付くが正しい。田代著にもそう書かれている。『昭和天皇のゴルフ』表紙写真(3に掲載)は、その時の昭和天皇ショット姿。

 新宿御苑コース完成後の大正14年に赤坂離宮(現・迎賓館)に6コース、那須御用邸に9ホール、皇居吹上御所に9ホールと次々に造成。昭和天皇がいかにゴルフ好きだったかが伺える。(大谷光明もお寺に隠しショートコースを造っていたと、何かで読んだ。本願寺派の坊さんに大谷光明の日英皇太子ゴルフの話をすると、皆、狐につままれたような顔をするから面白い。)

 大正12年12月16日、新宿御苑で午前、午後のプレイを楽しまれた11日後に、難波大助によるステッキ銃の昭和天皇狙撃の「虎の門事件」。(大逆罪適用で死刑判決二日後に処刑/田中伸尚著『大逆事件』より)。それでもゴルフを止めぬ昭和天皇だったが、昭和12年7月の蘆溝橋事件勃発に怒りを込めて「ゴルフは止める」。吹上御所コースの手入れも止めさせて、趣味を植物に変えたとか。

 なお、「虎の門事件」当時の警視庁警務部長が正力松太郎。免官された彼は、36年後の長嶋ホームランの天覧試合で、この汚辱を晴らす。このシーンから書き出すのが佐野眞一『巨怪伝』。猪瀬直樹には遥か及ばぬ筆力、取材力でグイグイを引き込み読ませてくれる。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(3)プリンスとゴルフ [『ミカドの肖像』]

seibuhoukai_1.jpg 第Ⅰ部「プリンスホテルの謎」第一章は「ブランドとしての皇族」。国土計画本社の社長応接室での堤義明インタビュー場面から始まるも、肝心のインタビューは一向に始まらぬ。

 同社の軽井沢の土地取得・開発の経緯説明が延々と続く。読んでいれば、怪物的人物・堤康次郎の自伝、評伝を読みたくなる。各種事業へ挑戦も失敗続きで、大正7年、30歳で軽井沢に乗り込む。金がないのに秘策をもって土地取得から開発への展開はまさにドラマだろう。

 昭和22年、GHQにより皇族11宮家が離籍。生活成り立たぬ彼らの土地を次々に買収。朝香宮家の軽井沢別荘が皇室向け「千ヶ滝プリンスホテル」になり、目黒のアール・デコ建築の本邸が「吉田茂首相公邸」から「白金迎賓館」へ。この間に西武が買収して「白金プリンス迎賓館」。ここにホテル建設を計画するも住民反対運動。都に売却の利益をもって旧白川宮邸跡地に「高輪プリンスホテル」を建築。

 この要約は『ミカドの肖像』からではなく、共同通信社経済部編著『「西武王国」崩壊』(東洋経済新報社刊)他から。(1)で「文は人なり」と書き出したが、「書も人なり」。読書は著者が誘う次の展開へ胸おどり、併せて著者にも惹かれて行くものだが、同書にはそれがないゆえに関連書への浮気と相成り候。

tennogolf_1.jpg 朝香宮家に関する記述も然り。目下は改修工事で閉館中だが「東京都庭園美術館」サイトの「旧朝香宮家の歴史を訪ねて」が、写真多数で同家・同邸の歴史41回連載が一挙掲載されて、こっちの方が面白く楽しい。

 西武(国土)の土地買収と開発の詳細は第二章も続くが、第三章でいきなり「天皇裕仁のゴルフコース」になる。ここでやっと堤義明インタビューが始まるが短文8コメントほど。特別な内容でもなく、あのもったいぶった書き出しは何だったのか。

 昭和天皇のゴルフについても、かつて日本のゴルフ史を読み漁った身には承知のことばかり。ここでは従来のゴルフ史の間違いの数々を訂正して昨年刊の田代靖尚著『昭和天皇のゴルフ』(主婦の友社)がお勧め。

 つまり、こういうことなんだ。 『ミカドの肖像』には求心力ある芯がない、あっても芯に磁力なし。希薄、空虚ゆえに、集めた諸相などが拡散ベクトルを発して、読む者を他著へ誘うってこと。読者を引き込む力がないんだなぁ。(続く)


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(2)皇居前百尺ビル群 [『ミカドの肖像』]

hibiyatori1_1.jpg 猪瀬直樹に関する書を読み、テレビで新都知事の顔を拝見するってぇと、「あぁ、金と、名誉欲、権力欲の塊なんだぁ」と思うようになってしまった。『ミカドの肖像』にも触れるのがイヤになったが、皆が選んだ都知事の代表作。我慢して読み進めることにしましょ。

 「同時代ノンフィクション選書・第8巻」に書かれた柳田邦男の解説通り、同著は・・・あらゆる大小のエピソード、データ、さして意味のなさそうないくつかの出来事を『捨象されることなく~』で、焦点定まらぬ記述が延々と続く。

 書き出しテーマは「東京海上ビル」。日比谷通りの皇居前、日比谷濠前から第一生命、帝国劇場、東京会館、郵便局丸の内分室、明治生命館と高さ百尺(約30㍍)に揃った建物で統一感ある景観(写真上)をつくっている。しかし「行幸通り」(皇居から東京駅に抜ける道)の和田倉濠前の「東京海上ビル」(写真下の右奥の赤茶色建物)から、その景観が崩れる。

hibiyatori2_1.jpg 同書では同ビルの昭和41年末の建築申請から、昭和49年完成までの、姿を現さぬ数々の障害がレポートされていた。「そういえば、同ビルが高さ制限・美観問題でマスコミを賑わせたこともあったなぁ」との記憶も甦る。併せて、昭和41年といえば6月にビートルズ武道館公演だが、あたしは風月堂でモダンジャズに首振りつつヘンリー・ミラーなんか読んでいて、夜になって酒場に入れば、哀しく虚ろな眼をしたベトナムからの若い休暇兵らがいて、時に浅草のストリップ小屋を覗きつつ、「はたして俺は社会人になれるのだろうか」と不安だったことも思い出した。

 同ビルの建築申請から完成までの8年は激動の時代だ。学生運動、新宿騒乱罪、フーテン、シンナー、ケネディやキング牧師暗殺、よど号、三島由紀夫の割腹、万博・・・。それら横目に、あたしは何とか広告制作会社にデザイナーで就職し、2年後にPR会社に2年在籍。そして早々とフリーになって数年後のこと。自分にも激変の8年。

 昭和49年には、同ビル近くの丸の内・三菱重工ビルの爆破事件もあった。同社は最初の勤め先のスポンサーで、パンフや広告の打ち合わせで毎日のように通っていたことも思い出した。

 話を同書に戻す。「東京海上ビル」完成までの記述が終わって、そこから<天皇制への言及>があるやと期待していたが、<同ビルから眼下をみれば天皇の住まい、日本の「空虚な中心」が見える。>で終わっていた。そして次の逸話「原宿の宮廷ホーム」へ。お召列車運行の、まぁ薀蓄(うんちく)の域の「捨象」されぬ記述がまた延々と続く。以上が長い長いプロローグ。第Ⅰ部「プリンスホテルの謎」がやっと始まります。(続く)


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(1)捨象されぬ記述 [『ミカドの肖像』]

mikado1_1.jpg 「文は人なり」。人間に魅力がないと文章もつまらん。何頁か読むと欠伸が出た。その都度、関連書を読むなどして仕切り直し、再び読み始めた。そんな繰り返しで、なんとか読了。

 まず佐高信『自分を売る男、猪瀬直樹』冒頭の『ミカドの肖像』についての記述をひく。・・・猪瀬は大宅壮一ノンフィクション賞がほしかった。ほしくて仕方がなかった。そこで同賞の選考委員だった本田靖春に接近した。そして見事に籠絡することに成功したのである。その結果、猪瀬の『ミカドの肖像』を受賞作に推してしまう。

 私は『ミカドの肖像』を「皇居のまわりをジョギングしているだけ」と批判したのだが、立花隆も「この作品の中心は空虚である」と批判している。(中略)。本田は後年、遺作となった『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)にも猪瀬批判を書いた。そして、猪瀬の作品を大宅賞に推したことを恥じて、間違いだった、とも言っていた。(同書未読。本当にそんな事が書かれているのだろうか。読んでみる必要がありそうだ。★『ミカドの肖像』(6)で紹介。

 佐高信は自著『現代を読む~一〇〇冊のノンフィクション』(岩波新書)にも同書を入れていない。もう少し公平な書評が他にないかしらと見わたせば、「同時代ノンフィクション選書」第8巻「現代史の死角」(文藝春秋、平成5年刊)の柳田邦男の解説があった。

nonfic_1.jpg ・・・ルポルタージュでもない。あらゆる大小のエピソード、データ、さして意味のなさそうないくつかの出来事のシンクロニシティ(共時性)、人物紹介、場所や建築物のいわく因縁、文化文芸の説明、ビジネスの収支決算、等々、捨象されることなく、一千枚のなかに放り込まれている。そのこと自体がミカドの国のパロディなのかもしれない。

 この文章を吟味すれば、<捨象されぬことなく>とは、「書こうとする概念に焦点が定まらぬ曖昧さのまま」、つまりミカドの存在と同じく曖昧、空虚な書、という痛烈な批判を含んで、佐高や立花評と同じ指摘のようでもある。あたしがもっと正しく言えば「一千枚のなかに」ではなく、「捨象されぬままの記述をだらだらと一千枚も書き連ねて」だろう。「読めば欠伸」は誰もの感想だろう。

 あたしの結論から先に記す。「第Ⅲ部 心象風景のなかの天皇」の最終章「複製技術革命の時代」から「エピローグ」を読めば充分で、あとはあたしのように隠居のボケ防止と、暇つぶす他にすることがなくなったら、残る11/12を拾い読めばいいように思った。(続く)。


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佐高信『自分を売る男、猪瀬直樹』 [『ミカドの肖像』]

satakainose_1.jpg 副題は「小泉純一郎に取り入り、石原慎太郎にも・・・」。帯コピーは「石原慎太郎の小役人にはまかせられない」。(七つ森書館、2012年12月10日刊)

 正月読書用に年末に文庫本・新書をまとめ買い。新宿「ベローチェ」でコーヒー飲みつつ同書を開いたら、そのまま一気読了。全編、猪瀬直樹の正体を暴くかの、腹に何やら含んだ告発書。猪瀬批判を書けば、彼から内容証明郵便が届き、ペンの議論を司法へ持ち込むかの恫喝、さらに上司や企業トップに「あいつには書かせないでよぅ」の電話をいれるのが彼の常套手段とか。おぉ、怖い・怖い。ゆえにここでは同書の目次のみを紹介。目次から内容を察していただこう。

 <第一章 自分を売る男、猪瀬直樹> 「自分」を売るジャーナリスト/棄てる程度の思想しか持ち合わせていない/子分にしかなれない人間/石原以上に「暴」に走る/言葉の力を棄てている/自己顕示欲の塊/苦労人が成り上がると・・・/出発点のない人

 <第二章 目立ちたがり屋のエセ改革者> 背伸びしたゴマスリ小僧/ベスト・ノンフィクションには入れられない/自慢話以外の話を聞いたことがない/せめてミミズから人間に昇格してほしい/死ななきゃなおらないシアワセ者/自分に都合の悪いことは答えない/人間の七面鳥性を教えてくれる/あなたはエライんだよと言ってあげようか/ミョウバン直樹という筆名を進呈しよう/持ち上げればどこまでも登っていく俗物/猪瀬と小泉の二人はエセ改革者にすぎない/「コイズミカイカクバンザーイ」がただ一つのお題目/権力に対してイエスという“石原ヒットラー”の手下/虚名と無責任のマグマ/「禁忌」に挑むジャーナリストではない

 まぁ、エラい本、トンでもない本を読んでしまったと後悔しきり。あぁ、これが今後の都政をお任せする都知事様のお姿とは。ホントかいなぁ。猪瀬直樹は新知事就任記者会見で、記者に逆質問、「『ミカドの肖像』を読んだか?」そして諒解の口癖「オーケー」と言ったそうな。(「YAHOO!」や「産経ニュース」サイトより)。あたしは都知事担当記者じゃないが、今後の都政を託すゆえに『ミカドの肖像』を拝読することにした。

 『ミカドの肖像』を読み進むに従って、猪瀬新知事が記者らに同著を読んだかと逆質の際に、記者らは「佐高信の『自分を売る男、猪瀬直樹』を、本田靖春の遺著『我、拗ね者として生涯を閉ず』を、櫻井よしこ著『改革の虚像~裏切りの道路公団民営化』(※新潮文庫『権力の道化』を改題)を読みました」と応えるべきじゃないかと思った。


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佐野眞一『てっぺん野郎』(2) [読書・言葉備忘録]

 前回の続き。引用が多いとまずかろうゆえ、以下おもしろい所のみの概要・・・。★慎太郎結婚は芥川賞受賞後の一橋大在学中の23歳で、妻・典子は高校生。典子の母・政子が世界救世教・逗子支部長で、慎太郎の母・光子が「手かざしの除霊」を受けるなどの交流から。慎太郎も、この除霊を信じていたらしく「肺炎が三日で治った」と。宗教がらみ結婚に、裕次郎がコップを叩き割るほど反対。

 ★妻・典子の従兄弟の子と、小泉純一郎の秘書で実弟が結婚。慎太郎夫妻が仲人をした。妻の縁で小泉純一郎とつながった。★あの野郎はAB型の典型でね、とにかく飽きっぽい。ものは早見えするけれど、すぐに行き詰まる。そして、たちまち投げ出す。(一橋大の同級生・高橋宏) そう云えばお台場カジノ構想、カラスのミートパイ、横田基地問題、新銀行、銀行やホテルの外形標準課税などいろいろあり。★自己顕示欲が強く、君子豹変する方だよ。実利的な男。(松野頼三) ★強烈な自信、逆にいえば驚くべき自己省察の欠如。無意識過剰。(江藤淳。湘南中の同級だが、それまでは新大久保在住)。

 三島由紀夫の自意識過剰に比し、「無意識過剰」。ゆえに天衣無縫の稚気。うちのかかぁなんか、あの笑顔でコロッと参っちまう。★読んでいて大笑いは・・・、立川談志の毒蝮を乗せた選挙カーとすれ違った慎太郎が「おめぇの選挙応援には、ろくなのがこねぇな」に、談志が応酬。「おめぇんとこだって、開高健とか安岡章太郎なんて小説家は一人も応援に来ねぇじゃなぇか」。

 同書の最後は・・・、彼は俗受けする、というより俗受けすることしか腐心しない二流の人物だったからこそ、大衆の人気を獲得しつづけたともいえる。

 小泉純一郎・石原伸晃・猪瀬直樹による「裏切りの道路公団民営化」と、それを書いた櫻井よしこ。小泉純一郎の次に猪瀬直樹を部下にした石原慎太郎。そんな猪瀬を「背伸びしたゴマスリ小僧」と評す佐高信。橋下徹を義経から頼朝へと叫ぶと同時に、橋下徹を書き始めた佐野眞一を卑劣な奴と言い放った石原慎太郎。彼の知事辞任による棚ボタで都知事になった猪瀬直樹。

 ・・・彼らそれぞれの出自、それぞれの異性スキャンダルをも盛り込みつつ、昭和から平成の政治模様を描けば、それは超おもしろノンフィクションに仕上がりそう。それを書けるのは佐野眞一の他にはいないだろうなぁと思いつつの読書でした。ははっ、最後は佐野眞一へのエールになったところでエンド。 


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佐野眞一『てっぺん野郎』(1) [読書・言葉備忘録]

teppenyaro_1.jpg 今年最初の「読書備忘録」は、「日本維新の会」代表の暴走老人の評伝、佐野眞一『てっぺん野郎~本人も知らなかった石原慎太郎』(講談社・平成15年刊)。都知事2期目再選後の出版か。

 昨年10月、石原知事は4期目任期を残し、知事辞職表明直前の定例記者会見(「YouTube」を見た)で、橋下徹の出自を記した佐野眞一「週刊朝日」連載に対し「佐野は卑劣で許し難い男だ。僕も被害にあった」と語り、おそらく猪瀬直樹メモだろうを見ながら、文章の盗用例を次々にあげていた。その取材被害というのが、この書だろう。

 佐野眞一は、いつもながら出自調べから入る。以下、その概要。慎太郎の父・潔は愛媛県八幡浜隣接の長浜(現・大洲市)生まれ。郷里に立志伝的出世の海運王・山下亀三郎がいた。山下汽船は大学出と丁稚上がりを育成で、潔は14歳で「店童」(=丁稚)入社。2年間無給で掃除や使い走り。門司や台湾支店、2年兵役、神戸本店、東京支店と転勤出世。ここでの不祥事で、大正13年(1924)に小樽支店へ飛ばされた。小樽から樺太の木材集積・海運に従事。

 当時の小樽は、小林多喜二『蟹工船』と同じく劣悪な環境で働く労働者と彼らに身体を売る女たちで支えられていた。佐野眞一は名もなき荷役労働殉職者、女郎らの慰霊碑を訪ねるなど、当時の小樽状況を入念に取材。潔はそれら労働者を率いて、樺太での木材積込みの現場監督をしていたらしい。

 ちなみに当時の樺太には王子製紙パルプ工場が幾つもあった。これは原敬配下の官僚・三島由紀夫の祖父・平岡定太郎が明治41年に樺太庁長官となり、彼の勧めで三井物産・藤井銀次郎が王子製紙社長になって興した事業。その辺を詳細レポートしたのが猪瀬直樹著『ペルソナ』で、彼は平岡定太郎の足跡を求めて樺太を訪ねている。そして佐野眞一もまた石原慎太郎の父・潔の足跡、当時の木材積出しの痕跡を求めて樺太に渡っている。

  両者の樺太取材を読み比べてみると、まぁ、双子のように似た記述だが、猪瀬直樹と佐野眞一はいつからこんなに仲違いしちゃったんだろう。昨年10月の猪瀬ツイッターの執拗な佐野攻撃はちょっと病的なものさえ感じる。猪瀬がそこまで佐野嫌いになった原因、経緯はなんだったのか。一方、猪瀬好きの人はと見渡せば、彼を「道路公団民営化」で使った小泉純一郎と、東京都副知事に起用した石原慎太郎くらいで、逆に猪瀬嫌いは佐高信、櫻井よしこをはじめとても多そう。気になるところです。

 話しは慎太郎の父・潔に戻る。彼は昭和3年に神戸に戻って結婚。一子をもうけるも妻死別。加藤光子と再婚して慎太郎、裕次郎を産み、昭和11年に一家で再び小樽赴任。慎太郎4歳、裕次郎1歳だった。潔最初の赴任時は、本州のパルプ100%が樺太材も、昭和18年に3%に落ち込み、石原一家も小樽を去った。

 潔は山下汽船東京支店副長となって、一家は山下亀三郎の葉山別荘で暮す。それも束の間、東京空襲で避難の東大教授に別荘を明け渡し、山下家女中頭の家に移転。ここで慎太郎、裕次郎の湘南ボーイの青春が始まる。以後は裕次郎がらみ逸話の数々で周知のこと多く割愛・・・。(続く)


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ウソの群れ鷽替えできぬ糊塗晒し [私の探鳥記]

uso3_1.jpg 大晦日に自宅前公園で見た「ウソ」。鳥撮りだった血が騒いで、元旦朝「ウソ」を撮った。ウソは群れていた。大雪の影響か。上が♂。

 「鳥撮り」はやめた。160種ほど撮ったが、その先は珍鳥の部類。季節巡りへ心寄せるには、かけ離れた種だろう。だが珍鳥・稀少種には惹かれる。撮った人が羨ましい。秘密の場所が気になる。現場に行けば鳥を留める餌付けがされ、いい写真を撮ろうと喧嘩も始まる。撮影機材への欲も湧く。心が卑しくなりそうで、それ以上の鳥撮りはやめた。

 しかし160種ほどの野鳥は、四季の移ろいに心を寄せる拠りどころ。人の営みに寄り添っている。「いまは山茶花にメジロが群れ、その混成にシジュウカラ、エナガ、コゲラ、キクイタダキが混じっていようか。蕾や残り実に集う野鳥らは・・・」と思う。「ウソ」はソメイヨシノの蕾を好むが、写真の木の粟粒のような実を啄んでいた。なんという木だろう。(紅葉のプロペラ状の真ん中の種を食べていた)。風流領域だな。

 「ウソ」の群れを撮って、季重ね承知、世相詠む新年川柳・・・。<ウソの群れ鷽替えできぬ糊塗晒し> 原発事故は「鷽替え」では到底拭えぬ汚染が人々を苦しめる。安全神話の糊塗がバレた。進まぬ復興、領土や基地問題、日中韓外交、政治家の利権・保身、格差問題、膨大な借金、老後不安、子を産めぬ環境、過疎の村々、孤独死、教育現場、シャッター商店街・・・。歳時、風流の「鷽替え」では収まりきらぬ段階に入って「日本、正念場」。


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あけましておめでとうございます。 [暮らしの手帖]

asahis_1.jpg 大晦日のこと。かかぁが正月料理にちょいと飾る葉っぱが欲しいってんで、戸山公園を歩きました。そしたら「ウソの番」を見ました。「ウソ」は富士山の五合目・奥庭荘で撮ったことがありますが、新宿の自宅前公園で見て、ちょっと興奮しました。「ウソ」はソメイヨシノの蕾を食っていました。

 いつもブログで嘘を記しています。「ウソ」は「鷽替え」です。「ウソ」を見て、嘘や嫌なことをチャラにして、心新たなスタートです。

 年末に一年を振り返る記をと思っていましたが、読書三昧で逸しました。昨年は25期続いた法人会社を清算しました。若い時分に勢いで作った会社ですが、老いて微塵も残らぬ最後のパワーを絞って税理士、司法書士探しからの尻拭い作業。これで帳簿の嘘とも決算期の煩わしさからも解放。名実ともに隠居です。身をきれいにし、家族に迷惑をかけぬよう「死に仕度」でもあります。

 パソコン奥の壁に貼った昨年の図書館貸出票を剥がし数えれば、ちょうど百冊でした。まぁ、よく読んだなぁと思います。隠居して暇ゆえの読書ですが、今年はどんな本(世界)に夢中になれましょうや。本を読めば、その舞台に自転車を駆りました。耄碌したが自転車用筋力だけは逞しくなっています。

 今年も本を読み、自転車を駆るブログになりそうです。月平均のページビュー25,000ほどで累計81万。無視されるでもなく、人気があるでもなく、この「ほどほど」がいいと思っています。当初は野鳥写真中心で始まったブログですが、次第に変化して、どうなって行くかは成り行き任せ。今年もよろしくお願い致します。


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