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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(22)大日本帝国憲法発布 [『ミカドの肖像』]

matuteno1_1.jpg あと数回でこのシリーズを終える。さて明治15年「軍人勅諭」の7年後、明治22年の「紀元節」に「大日本帝国憲法」発布。明治天皇38歳。東京市中に祝砲とどろく祝賀ムードだが、ドイツ医師ベルツさんは「(それなのに)誰も憲法の内容を知らぬ」と日記(未読)に記したとか。然もありなん。

 あたしが当時の下町長屋の熊さんなれば、チンプンカンプン間違いなし。だが戦後教育のあたしは、中学で現・日本国憲法 第一章 天皇 第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。・・・を教わった。

 明治22年の熊さんにはわからなかっただろう「大日本帝国憲法」の第一章/第一條は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」。第三條 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」。第四條「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」。 全17條。天皇は陸海軍を支配し、その編成や人数を決め、勲章授与や大赦・減刑も決め、公務員の給料も決める・・・と、なにもかもが天皇大権。その頃、駿府で自転車乗りに熱中の徳川慶喜は、明治憲法をどう思っていたや。

 この辺をもう少しお勉強する。松本健一著『明治天皇という人』(写真)、笠原英彦著『明治天皇』(中公新書、2006年刊)、無学翁の助けに井上ひさし講座のまとめの岩波ブックレット『二つの憲法』(岩波書店、2011年刊)を教科書に、まずは憲法作成経緯から・・・。

 憲法の基本方針は①主権は国民 ②主権は君主と国民 ③主権は天皇・・・の三点(ドナルド・キーン『明治天皇』)だが、井上ひさしは原口清著『日本近代国家の形成』をひき、①黒田清など薩摩派の「絶対・専制君主制」。②大隈重信ら弱小藩派の「妥協しながら、やがては立憲君主制」。③伊藤博文、山縣有朋、井上毅ら長州派の「立憲君主制の形はとるが内容は絶対君主制」で議論白熱。

 埒明かず、明治15年に伊藤博文が憲法調査に訪欧。「皇帝制度で、かつ行政権力の権限が強いプロシャ型憲法が日本向きとし、ドイツからヘルマン・ロエスエさん(法学者で経済学者)を招いて(お雇い外国人)草案を作らせた。急いで国造りをするには③の天皇に絶対権力を与えつつ、藩閥閣僚の自分たちが一気に国造りをするがいいという判断だろう。(追記:古川隆久著『昭和天皇』14頁に、こんな記述あり。・・・伊藤博文は、民権派の急進論を抑えるために、こうした天皇観・国家観を憲法に採用した。しかし、それは天皇の絶対化、ひいては神格化による弊害をもたらした。

 ちなみに、王政に対する市民革命、フランス革命は18世紀末だった。当時の日本は化政期で市民・下級武士の手で豊かで円熟の文化が開花、いや爛熟した。それゆえの「寛政の改革」で恋川春町が死に、山東京伝が「手鎖50日」、蔦屋重三郎が「財産没収」、大田南畝が狂歌をやめて学問吟味の試験に挑戦。それほど豊かな文化を形成するパワーを持ち、かつその百年後の国民に、なぜに主権を委ねなかったか・・・。次回は内容を吟味してみる。


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春の月ツリーに刺して団子かな [東京スカイツリー]

harunotuki2_1.jpg 朝のトイレで新聞を開いたら、東京スカイツリーとほぼ満月の写真が載っていた。うむ、それならあたしも25日夕方に撮った、と即興句。

 春の月ツリーに刺して団子かな

 目下、猪瀬直樹『ミカドの肖像』シリーズ中でブログアップせぬが、その25日を境に、ベランダに日々通ってきていたメジロらがパタッと姿を見せなくなった。例年のことで、「あぁ、近所の梅が咲いたか、御苑の寒桜が咲いたか」と思うことにしている。実際、近所の梅や、御苑の寒桜を観に行くと何羽ものメジロが群れている。月とスカイツリーが重なる日に、日々通ってくるメジロらが来なくなると覚えておこう。

 スカイツリーと朝陽の絡みは何度か撮った。太陽の行って来い(移動)往復にスカイツリーと朝陽が、年に2度絡む。その理屈を理解すべく、近所(新宿コズミックセンター)のプラネタリウム(300円)に初めて行ったが、星がらみ童話上演がメイン。不覚にも眠ってしまって未だよくわかっていない。

 さて、この月とツリーの絡みの道理は・・・。これまた宿題。この歳になってもわからないことばっかりだ。

 猪瀬直樹『ミカドの肖像』は、「大日本帝国憲法」や「明治天皇」「昭和天皇」をお勉強して、彼の同著が結局は何も言っていない、空虚なまま終わっていることがわかった。『ミカドの肖像』シリーズはあと数回で終われそう。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(21)近衛兵53名銃殺刑 [『ミカドの肖像』]

takebasijiken4_1.jpg 明治11年の近衛兵決起は「竹橋事件」。「軍人勅諭」に影響を与えた事件で、澤地久枝著『火がわが胸中にあり~忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件』(昭和53年に「野生時代」に一挙掲載後、角川書店から単行本後、角川文庫、文春文庫、今は岩波現代文庫)がある。

 同書を開けば、冒頭に青山墓地の「旧近衛鎮台砲兵之墓」顕彰碑・碑文が掲載。「行くしかないでしょ。いつ行く。今でしょう」とCF文句をつぶやきつつ三度の青山墓地へ。絵画館前の銀杏並木を抜け、青山通りを横断して青山墓地へ。左に行くと乃木将軍墓所、西周の墓、西南戦争警視隊墓地あり。今回は右の「外苑西通り」側へ。高台から道路際の窪地に、その墓(「合葬之墓」右の木に寄り添う小さな墓)と顕彰碑(右側)があった。「碑文」は長文ゆえ私流抄訳と同書のデータをひく。

 明治11年(1878)8月23日の「竹橋事件」殉難者鎮魂の碑なり。事件は西南戦争で命を拾った東京・竹橋の近衛砲兵大隊兵士を主力に、東京鎮台予備砲兵第一大隊、近衛歩兵第二連隊の同調者、将校や下士官の連座者を含む300余名が、待遇改善と明治維新後の政治不満を天皇直訴すべく決起した。

 叛乱は鎮圧され、同年10月15日、兵士53名が深川越中島で銃殺刑。青山墓地に埋められた。明治22年(1889)の帝国憲法発布の大赦で、56名の事件殉職者を祀る「旧近衛鎮台砲兵之墓」が埋葬地に建立された。同墓は第二次世界大戦末期の混乱で行方不明になるも、100年忌の昭和22年(1977)に現在地に移されているのが発見された。事件真相は明治政府に抹殺されていたが、今は全国的な研究と調査で、全容が明らかになろうとしている。

 当時の並定食30銭。兵卒の月給は数円。比して陸軍卿・山縣有朋は兼職給与含めて1400円の月給。西南戦争の死者6000千余名のほとんどが平民出身兵。大尉以上は勲章や御下賜金あるも、兵卒には財政圧迫だと僅かな日給や官給品も削られた。いつの世も為政者は保身・強欲で、庶民は命を削っている。

 山縣有朋は自由民権運動を弾圧し、後の大逆事件をおしすすめた。「日本軍閥の父」「官僚の父」となり、その金銭・名誉欲は異常執着とか。彼方此方に豪邸を持ち、あの目白・椿山荘もそのひとつ。国葬に「民」は一人も参列しなかったとか。また藩閥政府官僚らは伊藤博文をはじめ好色漢、実に多し。近衛兵らは彼らが日々花柳界(柳橋では相手にされず、主に新橋)で遊ぶ姿も眼にしていただろう。

tekesibaizoku1_1.jpg 貧しき農家らの惨状に決起した青年将校らの「2・26事件」も根は同じ。近衛兵には後の「秩父困民党」を生む地の出身者もいたりする。彼ら53名銃殺の3日前に「軍人訓戒」発布。「軍人勅諭」は4年後の明治15年1月。

 ドナルド・キーン著『明治天皇』には、同事件の記述は5行ほどで、三条実美の「一時の暴挙のために巡幸延期は朝廷の威光を損なう」で、天皇一行は8月30日に北陸東海両道巡幸に出発とあり。天皇帰京は11月9日。それまでに53名銃殺刑を済ませ、事件を封印したきらいあり。(写真下は碑の反対側にあった「竹橋事件 墓と碑の由来」。クリック拡大で読めます)。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(20)軍人勅諭 [『ミカドの肖像』]

gunjincyokuyu1_1.jpg 「五箇條の御誓文」の翌年、明治5年(1872)に「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」と書き出す福澤諭吉『学問のすゝめ』がベストセラー。9月、新橋~横浜間に鉄道開通で文明開化。明治6年、「徴兵令」。金で逃げられぬ平民・農民が服役。

 次第に世情が騒がしくなる。自由民権運動の盛り上がり。民権運動と兵力が結びつく危さ。明治10年「西南の役」を闘った近衛兵らが、翌年に待遇不満で決起。53名が銃殺刑。これらを踏まえて明治15年1月、「軍人勅諭」発布。

 ここで『お雇い外国人』を著した梅渓昇著『明治前期政治史の研究』(未来社、1963年刊)を読んでみる。・・・(近衛兵反乱に慄いた)政府首脳らは西周(あかね)起稿の「軍人訓戒」を発布(※正確には銃殺刑3日前に発布)。同訓戒は「軍人精神は古来より武士道の精神」と規定し、軍人の守るべき十八ヶ条を記述。しかし武士イデオロギーの中核は封建領主への「忠」ゆえ、天皇制にそぐわぬ。加えて盛り上がる自由民権運動にも対処すべく、明治藩閥首脳陣は日本軍隊を政治、議会から分離させ、天皇統治「プロシャ風君主制」にし、改めて「軍人勅諭」発布に至ったと記す。

 西周の「軍人訓戒」では、天皇は軍隊における「秩序の象徴」だったものが、こうして日本軍隊は「絶対君主制」へ。以下、全2700字の「軍人勅諭」を「原文」に口語文混じりで綴ってみる。

 「我國の軍隊は世々天皇の統治し給ふ所にそある」で始まり、皇位に就いて天下を治めてきたが「凡七百年の間武家の政治とはなりぬ」。わが祖先に背いて嘆かわしい事態だった。徳川幕府が衰えて、仁考天皇や孝明天皇を悩ませたが、朕が皇位継承して15年を経て現・陸海軍になった。「兵馬の大權は朕が統(す)ふる所なれは}(軍の大権は朕が統治するものぞ)、その運用は臣下に任せても「其大網は朕親(みずから)之を攬(と)り」(その大網は朕みずから掌握し)、臣下に委ねるものではない。「朕は汝等軍人の大元帥なるそ」。汝らが職分を守り、朕と心をひとつにするならばわが国の国威は世界に輝こう。そのためにここに訓戒する。

 ちょっと無理で強引な「歴史認識」を押し付け、軍人心得五箇条へ。「一 軍人は忠節を盡(つく)すを本分とすへし」「一 軍人は禮儀を正くすへし」「一 軍人は武勇を尚(とうと)ふへし」「一 軍人は信義を重んすへし」「一 軍人は質素を旨とすへし」。

 以下、私流解釈・・・。軍隊が「軍人勅諭」をもって「絶対君主制」になったことで、明治23年の「教育勅語」、「大日本帝国憲法」に至ったと言えなくもなしや。かくして「明治維新の精神」と評された「五箇條の御誓文」の民主主義はギアチャンジされた。

 それにしても「軍事勅諭」に影響を与えたという「近衛兵らの決起、53名銃殺刑とは?」。あたしはまた青山墓地に走ることになる。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(19)五箇條の御誓文 [『ミカドの肖像』]

meijijingu2_1.jpg 「御真影」浸透経緯を知れば、「大日本帝国憲法」も気になる。告白すれば、東京生まれゆえ薩長らの明治維新は好かん。明治維新へのアプローチは勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟からか。加えて永井荷風好きゆえの薩長嫌い。「あぁ、嫌だ・嫌だ」で、この歳まで明治維新を避けてきた。

 かくして老いぼれた身で、まずは明治神宮参拝。そう、この森でオオタカ育雛、祠に棲まうオオコノハズクを撮ったが、今回は神妙にお参り。本殿を出るとお守り等を扱う長殿脇に「五箇條の御誓文」の絵と説明文あり。説明文は次の通り。

 明治元年(慶応4年)三月十四日、天皇は公卿・諸侯を京都御所の紫宸殿に集め、神前で明治の新しい政治の基本方針五箇條を誓約され、国民に知らせるよう指示されました。御誓文は、簡潔な文章で政治の基本とすべき不朽の方針を述べたもので、明治時代の驚くべき躍進の基となったものです。

gokajyo2_1.jpg 同絵下の配布パンフに「五箇條の御誓文」が掲載(写真左)されていた。長屋の熊さん的あたしにも、まぁ、理解できた。小学校クラス会風に解釈してみた。

 ★皆で議論して公正な意見で決めましょう。★身分に上下なし。心を一つにして考えを整えましょう。★誰もが自分の役割を果たし、希望を失くさないことも肝心。★今までの悪い習慣を捨て、普遍的な道理に基づいて行いましょう。★智識を世界に求め、天皇を中心とするうるわしい国柄や伝統を大切にして、大いに国を発展させましょう。

 おや、小学校で習った民主主義のようではありませんか。松本健一著『明治天皇という人』(毎日新聞社、2010年刊)には、こう記されていた。 ・・・この時、明治天皇は満15歳4ヶ月。作者は横井小楠(しょうなん)で、実際は弟子の三岡八郎が草案を書いた。これぞ明治維新の精神、王政維新の方針、明治維新国家の理念。勝海舟の「おれは今迄に天下で恐ろしいものを二人見た。横井小楠と西郷隆盛」をひき、横井小楠を評価していた。

 松本健一は、同文のまとめに「左派の遠山茂樹、田中彰は批判し、岩波書店の岩波茂雄、戦後民主主義の丸山眞男、竹内好は高く評価。また北一輝も<維新革命の本質は実に民主主義に在り>と評したが、後の憲法は批判したと結んでいた。

 先生が一人では偏ろうから、笠原英彦著『明治天皇』(中公新書、2006年刊)も読む。・・・開かれた政治、新しい体制を希求しており、国際化まで言及している。しかし「過大評価するのは危険だ」と記して、遠山茂樹『明治維新』をひき、(御誓文は)「天皇制絶対主義をこの世に送り出す陣痛剤であったにすぎない」。「天皇親政と公議政治」で矛盾していると記す。

 最後に私流解釈をひとつ。昭和21年元旦の、云うところの昭和天皇の「人間宣言」(新日本建設に関する勅書)で、この「五箇條の御誓文」をわざわざ挿入していることに注目。なんだか「ここまでは民主主義だったんだがなぁ」と言っているような気がしないでもないと・・・。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(18)「御真影」浸透 [『ミカドの肖像』]

gosinei1_1.jpg 前述の多木浩二著『天皇の肖像』(岩波新書)、みすず書房『続・現代史資料(8)教育~御真影と教育勅語』より、「御真影」普及の経緯をお勉強する。まずは、みすず書房の同書より佐藤秀夫「解説」をひく。

 ・・・「御真影」は、幕藩権力に替わる天皇制権力による統治体制成立の表象として、一八七〇年代以後、府県庁など地方長官、及び師団本部・軍艦など軍施設を皮切りに、政府関係諸機関に公布されていった。これは、新政府が天皇を頂点にいただく政府であることの証左を示すとともに、その新統治体制の発足を下僚及び国民に視覚を通じて確認させる「文明」的手段であったと考えられる。

 ちなみに日本のラジオ放送開始は大正14年(1925)。媒体は今の学級新聞的体裁の新聞だけ。その状況でよくもまぁ徹底普及したなぁと感心させられる。多木著では「御真影」は「下付」の形で普及とあり。あたしは下世話ゆえ「下つき」と読んだが、「かふ=上から民間へ下げる」の意。「交付」「下賜」だな。

 明治6年末から内田九一の写真が全府県に「下付」。徴兵制度も同年から。明治15年の「軍人勅諭」と共に軍隊へ「下付」。明治21年にキョッソリーネの絵を丸木利陽が撮影した「御真影」完成。明治22年に「大日本帝国憲法」制定。明治23年発布の「教育勅語」とともに全国の高等小学校へ「下付」。そして教職員および全生徒は学校の「ご本尊=御真影」に向かって拝礼。この「下付」は生徒⇒学校⇒郡⇒県⇒文部省⇒宮内省順の階層化も生んだとか。

 みすず書房の同書には、ミッションスクールの苦渋の「下賜」出願の経緯が紹介されていた。また明治21年には文部省が『紀元節の歌』『天長説歌』を学校唱歌として楽譜送付。

 キョッソリーナの絵は、もう一枚、銅板に刻んだ版画(立ち姿)もあって、彼が印刷寮退職後の明治26年に印刷完成で、これも「下付」。そのうちに天皇や皇后の肖像を描いた錦絵や石版画が多く刷られ、やがては新聞付録になるなどして日本の津々浦々まで普及。かくして日本人は「新統治体制」「天皇の臣民」になっていった。

sazareisi_1.jpg 子供時分の記憶だが、田舎に行くと、どの家にも「御真影」が飾ってあったような。遠い昔のようだが、先日の2月11日は「建国記念の日」。昔の「紀元節」。今も式典では『君が代』と、♪雲に聳ゆる高千穂の高根颪(おろし)に草も木も 靡(なび)き伏しけん大御代(おほみよ)を 仰ぐ今日こそ楽しけれ~ の『紀元節の歌』が斉唱されているとか。

 写真上はみすず書房の資料本口絵の「御真影」。写真下は明治神宮にあった『さざれ石』。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(17)天皇毒殺とすり替り [『ミカドの肖像』]

oyatoi_1.jpg 昨今、新大久保コリアンタウンが騒がしい。日章旗・旭日旗(きょくじつき)のデモあり、「天皇制反対」のデモあり、それら怒号浴びつつ韓流熱中の女性たち。

 さて今回は、猪瀬直樹『ミカドの肖像』の孝明天皇毒殺説に参ろう。彼はこう肯定していた。・・・「明治天皇の父親孝明天皇が三十六歳で突如崩御したのは、慶応二年十二月二十五日のことである。死因は天然痘と発表されたが、岩倉具視ら討幕派により毒殺されたという噂が流布された。(中略)。アーネスト・サトウも、ディープスロートの証言から毒殺説を確信していた」と記し、()括りでこう追記。(筆者注―明治政府が刊行した公式記録<あたし注:『明治天皇紀』だろう>に毒殺説は見られない。そのことをもって毒殺説を否定する向きもあるが、それよりナマの証言のほうを採るべきだ。) そして、「明治天皇は、父親の死因に不信感を抱いていたと思う」。

 笠原英彦著『明治天皇』(中公新書、2006年刊)には、・・・王政復古派による毒殺の可能性も捨てがたいが、現在の史料だけからでは、悪性の天然痘に死因を求めるのが妥当かもしれない。この判断の方がクール。

 『ミカドの肖像』では、イタリア・ジェノバまで訪ねてキョッソーネさんを探る延々の記述があるも、キョッソーネさんの隣のお墓、グイド・フルベッキさんには微塵の言及なし。ここに梅渓昇著『お雇い外国人』(講談社学術文庫、2007年刊)より、「近代日本建設の父、フルベッキ」の概要・・・。

 ・・・オランダ、イギリス、フランス、ドイツ語堪能。安政6年(1859)来日。長崎で布教活動と併せ「斉美館」と「致遠館」で英語、政治、経済、理学を教えた。大隈重信、副島種臣、伊藤博文、大久保利通をはじめ、後に明治政府の高官、指導的人物になる多くの人を輩出。政府顧問になって東京へ。大隈重信に欧米遣外使節の健白書提出。2年後の明治4年に岩倉具視が同建白書に基づいて約50名の岩倉欧米視察団を率いて出発。フルベッキはその後、各専門のお雇い外国人が多数来日で、身をひいて宣教師へ。岩倉欧米使節団メンバーらが帰国後に「教育勅語」「大日本憲法」を発布。

tukurareta1_1.jpg その意では、フルベッキさんもまた『ミカド』に関係した人物なのだ。しかも「フルベッキ」でネット検索すると「フルベッキ写真」なるものが騒がしい。フルベッキ親子を囲む門弟44名の集合写真で、撮ったのは日本写真の開祖・上野種彦。その群像の中の一人が「明治天皇にすり替った大室寅之祐」だと、まことしやかに論じられている。

 孝明天皇が毒殺され、親王睦仁が明治天皇になった(『ミカドの肖像』)だが、江戸に来たのは(親王睦仁も殺害されて)すり替った「大室寅之祐」だと主張する裴富吉著『創られた天皇制』(同時代社、2009年刊、写真))も読んでみた。両著で頭が少々白くなったが、松本健一著『明治天皇という人』には、この辺は微塵の記述なく、あたしは笠原英彦『明治天皇』の説に落ち着くことにした。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(16)多木浩二著『天皇の肖像』 [『ミカドの肖像』]

otatenno3_1.jpg 今回は『ミカドの肖像』と双子題名、多木浩二著『天皇の肖像』(岩波新書)を読んでみる。同著は1986年『思想』2月号掲載論文を、加筆・変更して1988年刊。

 論文では「御真影」に対し、「政府当局者は写真と複製の区別をはっきり付ける感性をもっていなかった」とした見方を、新書版では「彼らは複製技術による記号の性質をかなり正確に認識していたのでは」という見方に変更したとか。同書の第五章「理想の明治天皇像」で、著者はキョッソーネによる明治天皇像を鋭く分析している。以下はその要約・・・

 天皇の肖像は、身体の視覚化である以上、“生きた身体”には変わりないが、それを超えて超歴史的な“身体”、聖性を帯びなくてはならぬ。ゆえに個性表現ではなく、あくまでも肖像表現。ゆれ動く存在の一瞬ではなく、それを超えて概念的、抽象的“身体”を類型的に視覚化、つまり、生きていながら超歴史的な“身体”に図案化、宗教的な図像(イコン)化されなければいけない。比して明治6年の内田九一撮影写真は、椅子に凭れていかにも“生々しい”。

 キョッソーネ原画を撮影の仕上がりを見た宮内大臣・土方久元は「神彩奕々、聖帝の威容儼然として真に迫る」と喜んだとの「明治天皇紀」をひき、・・・そこには、したたかな政治的戦略(無意識にしろ)に基づいたイメージの認識があったのでは、と推測して・・・

 「国王は国権の肖像(シンボル)」。つまり「天皇の肖像写真は独立国家の象徴」ということを明治憲法草案者、とりわけ井上毅(こわし)らは承知していたのではないかと記す。その容貌も「家父長的君主制」にふさわしく、人々に受け入れられるべく、きついまなざしは消え、重厚かつ意志強固、威厳と優しさに満ちた仕上がりになっている。

 猪瀬直樹『ミカドの肖像』は、90頁を要して言いたかったのは、こういうことだったのではと思った次第。さぁ~て、次は「御真影」が「教育勅語」や「明治憲法」と共にいかに国民に浸透して行ったかを読んでみる。おっと、その前に『ミカドの肖像』でも肯定の「孝明天皇毒殺」について・・・。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(15)青山・外人墓地 [『ミカドの肖像』]

oyatoi2_1.jpg 日々、ウォーキングか自転車運動を欠かさぬ。歩きは一時凝った。新宿から上野辺りまで韋駄天のごとく歩き回って、踵を痛めた。今は新宿御苑まで歩き苑内一周するか、小田急デパ地下・鮮魚コーナーへの往復くらい。自転車に乗るようになると、踵を傷めずも徘徊(ポタリング)範囲が都内全域に広がった。

 先日、青山辺りを走っていたら、ひょいと青山霊園「中央通り」に出て驚いた。青山墓地は「外苑西通り」と「外苑東通りから六本木方面に抜ける道」に鋏まれて、まぁ、縁者の墓がない限りは立ち入らぬ。そんなワケで初めての道(車なら青山通りからの一方通行)だった。

 その「中央通り」を走ると中ほどに外人墓地。思わぬ異国情緒に自転車を降りて歩み入れば、目前になにやら記憶ある名。おぉ、猪瀬直樹『ミカドの肖像』第Ⅲ部の「つくられた御真影」に登場のキヨソーネさんのお墓じゃないか。確か同著には写真も載っていた。

 写真右側の古色蒼然ドッシリとした黒っぽいお墓がそれで、新しい石碑板があって、こう書かれていた。・・・エドアルド・キヨッソーネ(1833~1898) イタリア人の紙幣原版彫刻師。1875年にお雇い外国人として大蔵省紙幣寮に雇用され、明治初年の紙幣肖像彫刻などに従事。また肖像画家として優れた銅版画などの制作を行い、日本の印刷技術の進歩発展と両国間の友好促進に貢献した。 なぜか明治天皇「御真影」を描いたの記述はないも、あのキヨソーネさんに間違いない。

 その左隣(四角錐状)は「フルベッキ」さんのお墓。管理事務所で尋ねると、A4版8頁折りカラーの立派なパンフを下さった。それによると「フルベッキ」さんは「遣外使節派遣等を建言」とあり。あの岩倉欧米使節団をお膳立てをしたのが「フルベッキ」さん。使節団は帰国後に「朕惟ふに~」で始まる「教育勅語」を、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」ではじまる「大日本帝国憲法」を発布。まさに『ミカド』国家制定にかかわる人物。猪瀬直樹『ミカドの肖像』には「キヨソーネ」隣のお墓に気づかなかったか一切の言及なし。加えて青山墓地は薩長土肥の明治政府高官らの多くが眠っているが「フルベッキ」さんの門弟多し。さらに乃木大将をはじめの日清・日露戦争の軍人さんらの多くも眠っていて、ここだけで明治が語れそう。

 『ミカドの肖像』では「御真影」が描かれた経緯、イタリアはジェノヴァの「キヨソーネ東洋美術館」まで訪ねるなど90頁ほどを要しているが、例のごとく長々と狙い定まらぬ記述ゆえ、ここからは『ミカドの肖像』と双子のような題名『天皇の肖像』多木浩二著(岩波新書)と、梅渓昇著『お雇い外国人』(講談社学術文庫、2007年刊)を読むことにした。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(14)秩父困民党 [『ミカドの肖像』]

titibu2_1.jpg あたしは池袋のキャバレー楽屋でトニー谷に会ったことがある。それは昭和46年頃。今なら彼に「アーニー・パイル劇場」のこと、『ミカド』ココ役で出演如何を訊きたいが、それは叶わぬ。そのキャバレー・オーナーが秩父小鹿野出身で、小鹿野を訪ね、「秩父困民党」関連書も読んだ記憶がある。さて、喜歌劇『ミカド』舞台が、なぜに「ティティブ」か・・・。

 今度は岩田隆著『ロマン派音楽の多彩な世界』より「ティティブ」についてをひく。・・・『ミカド』初演は1885年3月。その数ヶ月前の1884年10月31日から11月9日にかけて埼玉県秩父郡で、貧困にあえぐ農民たちが大規模な一揆を起こした。(中略)。この事件は「ザ・タイムズ」などにも報道されたことでもあろう。10月~11月は、ギルバートとサリヴァンが次のオペラの題材で相談を重ね、ようやく日本を題材にすることで話がまとまった時期と一致する。(153頁)

 『ミカド』には、英国の1381年の農民一揆「ワット・タイラーの乱」の潜在的恐怖心を呼び醒ます台詞があるとも指摘していた。さて、反乱農民らが貴族を襲ったのはわかったが、その後に鎮圧されただろう彼らは、どんな制裁を受けたのか。今度は井出孫六著『秩父困民党群像』(新装版、新人物往来社刊)、筒井作蔵著『おそれながら天朝様に敵対するから加勢しろ!』(街と暮らし社、2010年刊)を読むことに相成り候。

 両著より「秩父事件」の概要は・・・。明治17年(1884)10月31日~11月9日、秩父を中心に約1万人の農民が武装蜂起。貧農を苦しめる高利貸しへ負債延納を、また行政に雑税軽減などを申請し続けるも埒あかず、ついに我慢の緒が切れて高利貸や窮民弾圧の国家権力に立ち向かった。農民軍は軍紀・組織を有し、悪徳高利貸を打壊し、役場や警察を襲って書類を破棄。つかの間のコミューンを築いた。

 しかし憲兵、鎮台兵(※師団兵)、警察に攻められて解体。裁判は蜂起の目的や動機を問題にせず上告も破棄。「官の暴挙」判決で、埼玉県だけで死刑11名、無期2名を含む重罪296人、軽罪448人、罰金科料2642人。重罪判決者は北海道、樺太監獄に送られて、極寒の地で鎖をつけられたままの道路工事などで多くの方々が亡くなった。

 ロイター通信の長崎、横浜支局が明治4年(1871)開設で、明治20年(1887)前後に本格始動とか。「秩父事件」はロイター通信、ロンドンタイムズ紙によって「ワット・タイラーの乱」を想起させる形で大きく報道されたと推測される。

 かくして喜歌劇『ミカド』の舞台は「ティティブ」になったらしい。なお、筒井作蔵著『おそれながら天朝様に敵対するから加勢しろ!』のタイトルは、現「秩父鉄道」の長瀞駅と寄居駅を直線で結んだ真ん中辺り、風布地区の大野苗吉(22歳、懲役7年6カ月)による農民組織化のスローガン。猪瀬直樹『ミカドの肖像』は「秩父事件」をさらっと数行ゆえ、この辺りを読んでみた、の記。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(13)伊藤道郎 [『ミカドの肖像』]

 まずは猪瀬直樹『ミカドの肖像』の間違いを指摘。同書では長門美保歌劇研究所がアーニー・パイル劇場で『ミカド』を上演し、それが昭和21年8月14日のNHK第一放送でオンエアーと記す。これ、グチャグチャな間違い。何度も記すが長門美保らの『ミカド』初演は同年6月の「東劇」だが、それは著作権問題で「舞台稽古」の形で米兵夫人らに見せただけ。ゆえに8月のNHKオンエアーは、「アーニー・パイル劇場」の本国からオペラ歌手を呼んでの8月上演『ミカド』だろう。長門美保らは2年後の昭和23年1月29・30・31日の日比谷公会堂(当時の朝日新聞に劇評あり)、翌年には大阪でも公演。まっ、そんなことはどうでもいい。

 ここでビッグヒーロー登場! 「東劇」や「アーニー・パイル劇場」上演より19年も前、昭和2年(1927)にブロードウェイは「ロイヤル劇場」で、アメリカのスタッフ・出演者による『ミカド』を総指揮して大喝采を浴びた日本人がいた。それが世界的舞踊家・演出家の伊藤道郎(写真)。若い伊藤は坂本龍一に似て、白髪の伊藤は白洲次郎に似ている。

itoumitio1_1.jpg 彼は大正元年(1912)に19歳でドイツ留学。第一次大戦でロンドンへ。ここでモダンダンスを極め、作曲家ホルスト(あの『ジュピター』作曲者)が伊藤に捧ぐ『日本組曲』を創り、またウィリアム・バトラー・イェーツが伊藤とコラボレーションで戯曲『鷹の井戸』(西洋能)を創作。世界的評価を得て23歳で渡米。カーネギーホールに自分のスタジオを設け4千名余にダンスを教え、名実ともにアメリカ現代舞踊の先駆者の一人に。そして前述のブロードウェイで『ミカド』総指揮。彼のこと、ダンスシーンふんだんの『ミカド』と思われる。

 36歳でNYからハリウッドへ。ロスでも舞踊学校設立。昭和4年(1929)にローズボウルで野外ダンス「光のページェント」、その後にパナマウント映画「ブール―」出演。2万人収容の野外劇場「ハリウッドボール」で100名余のダンサーが踊る「プリンス・イゴール」、「美しく青きドナウ」を成功。しかし昭和16年(1941)12月の真珠湾攻撃の翌日に逮捕されて日系人収容所へ。1年9ヶ月後に捕虜交換船で帰国。この時、52歳。「東京宝塚劇場」接収で「アーニー・パイル劇場」の芸術監督に迎えられた。前回紹介の齋藤憐著には白髪になった伊藤道郎がダンサーに振付している写真が多数掲載されていた。

 ねっ、凄い人でしょ。 これは「アーニー・パイル劇場」をネット調べしていたら、「YouTube」の「宮本亜門が追跡!アメリカに夢を売った男 伊藤道郎」がヒットで、上記は同番組を観てのまとめ。テレビ番組投稿の著作権如何は承知せぬが、平成8年の中京テレビ制作番組。参考資料として齋藤憐の前回紹介本と、藤田富士男『伊藤道郎・世界を舞う』(新風舎文庫)、ヘレン・コールドウェル『伊藤道郎 人と芸術』(早川書房)がクレジットされていた。

 なお伊藤道郎は東京オリンピックの開会式、閉会式の演出をオファーされて張り切っていたが昭和36年(1961)11月に逝った。69歳。舞台美術の伊藤熹朔、俳優座主宰の千田是也の兄で、ジェリー伊藤の父。またジェリー伊藤の妻・花柳若菜は山口瞳の妹。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(12)アーニー・パイル劇場 [『ミカドの肖像』]

ernie1_1.jpg 次は斉藤憐小説『幻の劇場アーニー・パイル劇場』(新潮社、昭和61年刊)を読んでみる。同作は同劇場テーマの「三つの芝居」をもとにしての物語仕立て。フィクション部分カットで、公演記録をひろってみる。・・・昭和20年のクリスマスイブに米軍第8軍が「東京宝塚劇場」を接収し、「アーニー・パイル劇場」と改名。GHQが芸術監督に伊藤道郎を指名。

 第1回公演は昭和21年2月「ファンタジー・ジャポニカ」(構成・演出:伊藤道郎)。3月末に「劇場専属舞踊団員募集」の新聞広告で女性60名、男性10名採用。第2回公演「フェスティバル」。第3回は8月の4日間公演「ジャングル・ドラム」(演出:伊藤道郎)。「ニューヨーク・タイムス」も好評で、日本人向けに同年12月に「日劇」でも上演。

 昭和22年2月公演「タバスコ」(作・演出:伊藤道郎)。3月公演「椰子のそよ風」(演出:宇津秀男・三橋蓮子)で、翌年8月再演。4月公演「さくら」(演出:青山圭男・三橋蓮子)。6月公演「ヴギ・ビーツ」(作・演出:宇津秀男、振付:来日したドロレス・グレゴリー女史、音楽:小口臸)と「ティゴーの樹の下で」(作・演出:三橋蓮子)。7月公演「ヒット・キット・ショー」(作・演出:宇津秀男)。8月公演も2本で「海底」(共同演出:宇津秀男・三橋蓮子)と「ラプソディー・ブルー」(作・演出:伊藤道郎)。

 著者は7月公演から貧窮の日本人救済に劇場従業員千名に増加と記し、新憲法「華族令」による生活苦で三笠宮の父・高木元子爵が7月9日に自殺と追記。猪瀬直樹『ミカドの肖像』第Ⅰ部の、離籍された宮家の土地を堤康次郎が次々買収の時期だろう。

 また同年4月の戦後初の選挙で社会党大躍進。これはGHQの民主化、労働組合育成で、吉田内閣打倒で片山社会党政権誕生。しかし組合運動は東宝にも及び日劇がストライキ闘争本部になり、撮影所籠城の組合員に米軍出動の騒ぎへ。

 GHQは従来の「民主化」から「日本の産業育成」へ、さらにはアジア諸国の共産化を警戒して「反共」、自由主義陣営防衛へと政策変更。朝鮮半島も不穏になって、昭和23年(1948)は劇場公演より10名単位での米軍キャンプまわり(立川。厚木、朝霞、横浜、横須賀)中心へ。同年公演は『ミカド』だけ。昭和25年に朝鮮戦争。

 斉藤憐著には昭和23年の『ミカド』出演者スナップ写真が掲載。そこにトニー谷の顔はなく、「この年、アーニー・パイルで唯一上演された作品は、GHQ向けのショ―の演出家として来日したジョー・スティーブンスが造った『ミカド』(あるいは「ティティブの町」)である」。そして「・・・スティーブンスは、アメリカ文化の高さを証明すべく、本国からオペラ歌手を何人か呼んで、『ミカド』を上演したに違いない。美術は伊藤熹朔、ここでもトニー谷の記述なし。彼より俄然気になる人物が、同劇場芸術監督の「伊藤道郎」。いかなる人物や・・・。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(11)トニー谷 [『ミカドの肖像』]

tonytani1_1.jpg レディース・アンド・ジェントルメン、アンド・おっとっつぁん・おっかさん、グッドモーニング・アンド・おこんばんは。

 昭和のみーちゃん・はーちゃん熱狂のヴォードビリアン・トニー谷が、あの世に召され、早やトゥエンティーシックス。早いざんすチョロリンコ。遥か娑婆を見下ろせば、全共闘出身ながら丸投げ小泉ドン、元青嵐会石原ドンに仕えた後に、畏れ多くも都知事タナバタ、ポタリンコ。自著『ミカドの肖像』を、質問記者に「読んだかぁ」とタカビシャ・バッキュ~ン。同書にかの喜歌劇『ミカド』のうんちく語っているとか。あたしがソロバン片手に説明するざんす。

 ディス・イズ・トニーが、アーニー・パイル劇場の、『ミカド』に出たかどうかのクエスッチョン。そもそも話せば長いでざんす。オーライ・オーケー。あれは昭和17年に出征で、そのまま上海、香港、 シンガポール彷徨で、昭和20年は28歳でオール・ナンニモ・ナッシング、焼け野原ニッポンに帰ってきたざんす。

 ガキ時分熱中の少女歌劇、あぁ懐かしの東宝宝塚劇場に来てみれば、「米軍専用劇場専属舞踊団員募集」のチラシにベッタンコ。「フー・アー・ユー、ナニ出来ますかぁ」にアイアム・ナッシング。そこでスタコラサッサ、進駐軍慰問のショウの事務所に飛び込んで、演出助手に潜り込んだでざんす。

 ここで米軍キャンプにエブリナイト。「便利な男」と重宝がられ、先に断られたアーニー・パイル劇場より、スタッフに来てくれのナイス・オファーにベリーベリーOK。差出人はパーカー少尉。チーフの伊藤道郎さん、とっても可愛がられたざんす。振付の青山圭男さん、タップの萩野さん、日舞の西崎さん、演出の宇津秀男さん。宇津さんは憧れの宝塚の先生で、ボクの胸はドキリンコ。先生方に頭ペコペコ・ペタリンコ。一生懸命勉強すれば、認められての主任助手。演った仕事が『ミカド』でざんす。

zensu1_1.jpg 以上は、村松友視著『トニー谷、ざんす』で引用の昭和29年「オール読物」掲載の、トニー谷の手による「サイザンス人生」を参考に、勝手に書きいじりした次第。で、全編くまなく読んでも、伊藤道郎のもとで『ミカド』をやったとは書かれているも、<「ココ」役出演>の記述はなかった。まぁ、「ちょいと代役で舞台に立つだけでいいから」ってことでもあったのか。もう少し調べてみましょうか。

 写真上はビクターより昭和62年リリースのLP『This is MR.TONY TANI』ジャケ写。『さいざんす・マンボ』から『レディス&ヂェントルメン&おっとさん&おっかさん』まで全12曲収録。ライナーノーツは小林信彦。カヴァー・デザインは平野甲賀。プロデュースは大瀧詠一。写真下は松松友視著『トニー谷、ざんす』(幻冬舎アウトロー文庫、平成11年刊)。


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猪瀬直樹『ミカドの肖像』(10)東京宝塚劇場 [『ミカドの肖像』]

tokyotakataduka_1.jpg ネット検索を続ける。次は岩田隆著「ロマン派音楽の多彩な世界」(朱烏社、2005年刊)の153頁あたりがヒットした。『ミカド』は1885年のサヴォイ劇場初演から2年後、明治20年に横浜居留地で早くも上演とあった。

 ・・・1870年代の半ば過ぎから、横浜居留地では、ゲーテ劇場やパブリック・ホールあたりで、すでにオッフェンバック(※オペレッタ原型を作ったフランスの作曲家)やサリヴァンのオペレッタが、アマチュア劇団やヨーロッパから訪れた歌劇団によって盛んに上演されていた。(中略)。1887年訪日のイギリスのサリンジャー一座が、サリヴァンの『ペンザンスの海賊』『軍艦ピナフォア』『ペイシェンス』そして『ミカド』を上演した。 『ミカド』は日本を刺激せぬよう劇中歌『卒業した三人の乙女』を題名にし、台本も一部変更・削除して上演と記し、トニー谷の『ミカド』出演の記述へ続く。

 ・・・戦後まもなく、『ミカド』は、アーニー・パイル劇場(GHQ接収の東京宝塚劇場、観客はGHQ関係者、総監督は国際的な舞踊家・伊藤道郎)で上演され、その際、ココ役で往年のヴォードビリアンのトニー谷が出演したことはあまり知られていない。

 「ホントかいなぁ」。あたしは彼に池袋のキャバレー楽屋で会ったことがある。トニー谷が演じた「ココ」は、ティティブの町の死刑執行長官。『ミカド』第1幕、2幕ともに舞台はココ公邸の庭。喜歌劇『ミカド』の舞台が、なぜに「ティティブ」になったかは後述するとして、まずはトニー谷の「アーニー・パイル劇場」での『ミカド』ココ役出演を探ってみる。

 長門美保の『ミカド』上演は、昭和22年6月の「東京劇場」(東劇)。 一方、「アーニー・パイル劇場」は有楽町駅日比谷口の「東京宝塚劇場」。昭和9年(1834)開場で、戦争中は「風船爆弾工場」として使われ、昭和21年(1946)よりGHQに10年間接収されて劇場名を変えた。

 さて、その「アーニー・パイル劇場」とは、伊藤道郎とは、そこで上演の『ミカド』とは、トニー谷のココ役出演とは・・・。未知の世界が一気に広がって隠居爺の胸は乙女のようにときめいた。えぇ、猪瀬直樹『ミカドの肖像』をおっ放ったことで得る読書の愉しみ。次はトニー谷を描いた村松友視著『トニー谷、ざんす』(幻冬舎アウトロー文庫)を読んでみることにした。

 写真は現「東京宝塚劇場」。日比谷通り側に「日生劇場」があるも、当時はさら地で「アーニー・パイル劇場」に来る米兵らの駐車場になっていたとか。


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